さきに述べた歯科医療分野にて多用されるロストワックス鋳造法に用いる鋳型材(埋没材)とは、当初は主に耐熱性のみが重視されていた。
その一方においてアメリカ合衆国のコールマンによる合金の鋳造収縮理論の発表および同フェンナーによる石英の高温結晶形であるクリストバライトが加熱により膨張する性質が発表された。
そして歯科補綴物の作成において、これら材料の性質(収縮・膨張)が互いに補完し合いワックス等の樹脂系材料により作成された鋳造体模型の寸法を変えることなく合金に移し替えることが企図された。
しかしながら、この鋳型材(埋没材)の加熱時における膨張のみでは合金の鋳造収縮を十分に補完することは困難であることから、順次鋳型材(埋没材)の膨張を試みる工夫が為され、硬化時膨張・水和膨張・吸水膨張といった更なる鋳型材膨張の発現もまた企図された。
こうした鋳造精度向上の工夫により、歯科精密鋳造とは徐々に理論・体系化され、くわえて新たな知見も随時追加され、歯科医療における精密な補綴物を得る技術・理論体系とは確立していった。
これらはほぼ全て20世紀代に為された進化発展であることから、歯科補綴物製作の視点にてこの世紀を概括すると『歯科精密鋳造確立の歴史』と評することも可能であると云える。
現在、歯科用合金を材料とする精密鋳造により製作された補綴物が口腔内にて広汎に装着されているが、その歴史的背景とは20世紀以降において急激な進化発展を遂げたものであり、それは、その他多くの(画期的効果を持つ)工業製品とも同様であることには、やはり何らかの大きな歴史の流れにおける有意な変化がこの時代の前後にあったのではないかと考えられる。
そして昨今、歯科用合金に多く用いられる貴金属の価格が上昇し続けていることから、その広汎な使用の継続とは疑問視され、何らかの代替技術・材料が求められているのであるが、そこで注目を集めているのが、さきにも少し触れたコンピューター技術の進化発展に伴い汎用化されつつあるCAD/CAM技術である。
そして、これを用い材料が比較的安価であり、今後もその材料の安定的供給が見込まれるコンポジットレジン、各種セラミックス材料などを用い各種歯科補綴物を製作するといった傾向が強くなってきている。
これを大きな歴史的視点にて捉えてみると、さきに述べたように20世紀とは歯科精密鋳造の時代であり、それに対して今世紀とはCAD/CAM技術による歯科補綴物製作の時代となるのではないかとも思われる・・。
ともあれ、そうすると既存の歯科技工が大きな変革を余儀なうされ、あるいはその業界全体のあり方自体もまた必然的に大きく変わっていかざるを得ないと云える。
歯科治療を受ける患者さん側からの視点であれば、何れであれ、より良い歯科医療を手頃な価格にて受けることが重要であることから、こうした歯科医療における技術体系の(大規模な)変化とは、あまり考慮すべきことではないのかもしれない。
しかし一方、それにより歯科医療を行う側に何らかの憂慮すべき不利益・不都合が恒常的に生じる事態が惹起されるのであれば、それは結果的に歯科医療そのものをジリ貧の状態とし、昨今、いくつかの業種において過労働がさまざまな事故に結び付く可能性が指摘されたことと類似するような事態が招来されるのではないかとも考えられる・・。
そして、それはやはり憂慮すべきことではないかと思われるのだが、さて如何であろうか?
ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を受けた諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
2017年12月23日土曜日
2017年12月22日金曜日
20171222 明治維新から日清・日露の役に至るまでの一視点
明治維新以降の我が国における文明化とは専ら西欧化のことであり、この西欧化とは、本来それとは異なった歴史文化を育んできた我が国からすれば、それまでの過去に対する訣別の意味合いが強かったと云える。
また、当時我が国にさまざまな学問・技術の指導の為来日していた外国人の記録を見ると、当時、西欧化の担い手として彼らから教育を受けていた多くの我が国の若者には、自らの歴史文化を恥じ、これを否定するといった側面があったと記されている。
ともあれ、その一方で当時の我が国とは、産業を興し国を富ませ、軍備を増強しなければ西欧列強の植民地となってしまう可能性も十分にあったことから、少なくとも、当時においては自身オリジナルの歴史文化の価値について論じる余地などはあまりなかったのではないかとも思われる。
如何せん当時は帝国主義真っ只中の国際情勢であり、また同時に我が国とは概ねコーカソイドにより構成される西欧列強諸国とは人種的に異なるモンゴロイドにより構成される国であった。
現今の国際社会においても人種問題とはなお多く耳にするが19世紀・20世紀初頭においては西欧列強の帝国主義を肯定・是認する社会進化論といった思想が最新の科学的知見として広く受け入れられていたことから、当時、西欧列強の中で我が国が味わったであろう苦痛・不合理とは現今の基準にて考えれば並大抵のものではなかったと思われる・・。
ともあれ、それでも我が国は独立を保持するため、西欧列強に伍して闘い続けなかればならなかった。
あるいは、当時はそれだけが独立国として生き残る有効な選択肢であったとも云える。
そして、当時の我が国とは正しく身命を賭して、こうした世界的風潮(西欧列強による帝国主義・世界規模の権益の伸長)と自身を同化させることにより戦ってきたことについては、もう少し世界的に評価されても良いのではないかと思われるところであるが、こうしたことは西欧諸国・アジア諸国双方にとって、あまり認めたくない、あるいは注視の必要がない歴史の一部分であるのかもしれない・・。
いや、モンゴロイドの国であるにも関わらず、西欧列強の帝国主義を真似して参加し、その末端のお先棒を担いだといった、あまり名誉ある扱いには値しない国とされているのではないだろうか・・。
また、さきにも少し触れたが明治維新以降、西欧的な文明化を国策とし、その実績をあげつつあった頃、隣国の中国(清王朝)、(李氏)朝鮮とは未だ旧態依然として低迷の状態にあり、それに対し我が国とは、その事態につけ入り、侵略政策を取ったと考えられやすいが、そうした見方とは当時の我が国を見誤っていると云える。
当時の我が国とは、現在における国際感覚とは異なり、未だ江戸期以来の文化伝統が色濃く残る社会でもあった。
その意味から当時、隣国の中国、朝鮮とは、古来からの文化的交流にて耳慣れた国々であり、それらに対して我が国が強く望んだことは一日も早く近代化の道を歩んでくれることであったが、こうしたことは少数の理解者、賛同者を得たものの、全体的な流れとはならず、その結果我が国は我が国で独自の道を歩むようになっていった・・。
また、当時の思想家・教育者である福沢諭吉が1885年に時事新報にて『脱亜論』を発表したが、それを述べた同じ人物が当時の(李氏)朝鮮における改革派勢力を支援していたことは一体どのような歴史的文脈に基づくものであるのかとは、なかなか興味深いことではないかと思われる。
ともあれ、その独自の道を歩んだ我が国の先にある山場が日清・日露の役であった・・。
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
また、当時我が国にさまざまな学問・技術の指導の為来日していた外国人の記録を見ると、当時、西欧化の担い手として彼らから教育を受けていた多くの我が国の若者には、自らの歴史文化を恥じ、これを否定するといった側面があったと記されている。
ともあれ、その一方で当時の我が国とは、産業を興し国を富ませ、軍備を増強しなければ西欧列強の植民地となってしまう可能性も十分にあったことから、少なくとも、当時においては自身オリジナルの歴史文化の価値について論じる余地などはあまりなかったのではないかとも思われる。
如何せん当時は帝国主義真っ只中の国際情勢であり、また同時に我が国とは概ねコーカソイドにより構成される西欧列強諸国とは人種的に異なるモンゴロイドにより構成される国であった。
現今の国際社会においても人種問題とはなお多く耳にするが19世紀・20世紀初頭においては西欧列強の帝国主義を肯定・是認する社会進化論といった思想が最新の科学的知見として広く受け入れられていたことから、当時、西欧列強の中で我が国が味わったであろう苦痛・不合理とは現今の基準にて考えれば並大抵のものではなかったと思われる・・。
ともあれ、それでも我が国は独立を保持するため、西欧列強に伍して闘い続けなかればならなかった。
あるいは、当時はそれだけが独立国として生き残る有効な選択肢であったとも云える。
そして、当時の我が国とは正しく身命を賭して、こうした世界的風潮(西欧列強による帝国主義・世界規模の権益の伸長)と自身を同化させることにより戦ってきたことについては、もう少し世界的に評価されても良いのではないかと思われるところであるが、こうしたことは西欧諸国・アジア諸国双方にとって、あまり認めたくない、あるいは注視の必要がない歴史の一部分であるのかもしれない・・。
いや、モンゴロイドの国であるにも関わらず、西欧列強の帝国主義を真似して参加し、その末端のお先棒を担いだといった、あまり名誉ある扱いには値しない国とされているのではないだろうか・・。
また、さきにも少し触れたが明治維新以降、西欧的な文明化を国策とし、その実績をあげつつあった頃、隣国の中国(清王朝)、(李氏)朝鮮とは未だ旧態依然として低迷の状態にあり、それに対し我が国とは、その事態につけ入り、侵略政策を取ったと考えられやすいが、そうした見方とは当時の我が国を見誤っていると云える。
当時の我が国とは、現在における国際感覚とは異なり、未だ江戸期以来の文化伝統が色濃く残る社会でもあった。
その意味から当時、隣国の中国、朝鮮とは、古来からの文化的交流にて耳慣れた国々であり、それらに対して我が国が強く望んだことは一日も早く近代化の道を歩んでくれることであったが、こうしたことは少数の理解者、賛同者を得たものの、全体的な流れとはならず、その結果我が国は我が国で独自の道を歩むようになっていった・・。
また、当時の思想家・教育者である福沢諭吉が1885年に時事新報にて『脱亜論』を発表したが、それを述べた同じ人物が当時の(李氏)朝鮮における改革派勢力を支援していたことは一体どのような歴史的文脈に基づくものであるのかとは、なかなか興味深いことではないかと思われる。
ともあれ、その独自の道を歩んだ我が国の先にある山場が日清・日露の役であった・・。
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
20171221 継続的なブログ記事が為される背景とそこから思ったこと・・
昨日投稿分記事も思いのほか多くの方々(60以上)に読んで頂けました。また、以前にも述べたことではありますが、継続的にブログ記事を作成していますと、直近に投稿した記事と関連性があると思われる記事が読まれていることがしばしばあるのですが、それが誰により為されいるかは分かりませんが、その選択のセンスとは、概しておそらく記事の作成者より優れているのではないかと思われます・・(苦笑)。
また、そうした優れた(と思われる)反応が為されていることを認識することにより、記事作成に対してもまた一層身を入れることが出来るのではないかと思われます。
とはいえ、ブログ記事であれ、その作成とは面倒である時はなかなか面倒なものであり、イヤイヤ書き始め、最後までそうした心境のままにて書き終え、そしてどうにか『本日のノルマは終えた・・』といった心境に至り、どうにか落ち着くといった日も少なからずあるというのが実状と云えます。
それでも、そうした作成・投稿された記事であっても、それらが(自身としては)比較的多くの方々に読んで頂いていることを認識しますと、さきに述べたような心境とは案外とキレイに払拭され、再度その記事を読み直し、必要と思われる加筆修正が為されることになります・・(笑)。
それ故、自身の場合、このブログという一種の相互作用的な文章発信様式が、思いのほか適していたのではないかと思われるのです・・(笑)。
また、そうしたことから、今後たとえ900記事あるいは1000記事の投稿に到達した場合においても、それはどちらかというと自身の努力というよりも、さまざまな事情・状況が自身の性質に適していたことによるのではないかとも思われるのです。
そしておそらく我々とは、本来そのようにして自身の得意とするものを(ある程度長期的な視野にて)模索していくのが良いのではないかと思われるところですが、しかし一方で実際の人生・生活にて重要とされることとは、より実際に即したことであることから、さまざまな悩みなどが生じるのではないかと思われます・・。
また自身においてもまた、今現在、そうした悩みの中にあると認識しており、これはこれでなかなか(自身にとっては)深刻であると思うところではあるのですが、しかし、そうしたこともまた、文章として著してみますと、多少は、そして有意に気分が晴れるようであり、さらに加えて次に行うべきこと、企図する方向などもまた示されるようであり、そうしたことからも、こうした文章作成とは、表層においてはあくまでも面倒と思われるものの、それが習慣化することにより生じる効果とは、少なくとも現在の自身にとっては欠くことの出来ないものであるとも云えるのです。
また、我々がさまざまな勉強、研究を行う根本の意味とは、そういった行為そのものの中に何らかの深い・不可知な意味あいが認められてきたからではないかと思われるのですが、他方、昨今の御時世における傾向とは、どうもそうした意味あいのことを閑却し、多くの勉強・研究的要素自体を本質的に面倒なことであるとして外部化しようと試みているのではないかとも思われることが多々あるのですが、それもまた一つの反知性主義の顕れと認識しても良いものでしょうか・・?
ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
また、そうした優れた(と思われる)反応が為されていることを認識することにより、記事作成に対してもまた一層身を入れることが出来るのではないかと思われます。
とはいえ、ブログ記事であれ、その作成とは面倒である時はなかなか面倒なものであり、イヤイヤ書き始め、最後までそうした心境のままにて書き終え、そしてどうにか『本日のノルマは終えた・・』といった心境に至り、どうにか落ち着くといった日も少なからずあるというのが実状と云えます。
それでも、そうした作成・投稿された記事であっても、それらが(自身としては)比較的多くの方々に読んで頂いていることを認識しますと、さきに述べたような心境とは案外とキレイに払拭され、再度その記事を読み直し、必要と思われる加筆修正が為されることになります・・(笑)。
それ故、自身の場合、このブログという一種の相互作用的な文章発信様式が、思いのほか適していたのではないかと思われるのです・・(笑)。
また、そうしたことから、今後たとえ900記事あるいは1000記事の投稿に到達した場合においても、それはどちらかというと自身の努力というよりも、さまざまな事情・状況が自身の性質に適していたことによるのではないかとも思われるのです。
そしておそらく我々とは、本来そのようにして自身の得意とするものを(ある程度長期的な視野にて)模索していくのが良いのではないかと思われるところですが、しかし一方で実際の人生・生活にて重要とされることとは、より実際に即したことであることから、さまざまな悩みなどが生じるのではないかと思われます・・。
また自身においてもまた、今現在、そうした悩みの中にあると認識しており、これはこれでなかなか(自身にとっては)深刻であると思うところではあるのですが、しかし、そうしたこともまた、文章として著してみますと、多少は、そして有意に気分が晴れるようであり、さらに加えて次に行うべきこと、企図する方向などもまた示されるようであり、そうしたことからも、こうした文章作成とは、表層においてはあくまでも面倒と思われるものの、それが習慣化することにより生じる効果とは、少なくとも現在の自身にとっては欠くことの出来ないものであるとも云えるのです。
また、我々がさまざまな勉強、研究を行う根本の意味とは、そういった行為そのものの中に何らかの深い・不可知な意味あいが認められてきたからではないかと思われるのですが、他方、昨今の御時世における傾向とは、どうもそうした意味あいのことを閑却し、多くの勉強・研究的要素自体を本質的に面倒なことであるとして外部化しようと試みているのではないかとも思われることが多々あるのですが、それもまた一つの反知性主義の顕れと認識しても良いものでしょうか・・?
ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
2017年12月20日水曜日
20171220 18世紀半ばイングランドにて生じた産業革命が齎す波が我が国に至ると・・
18世紀中期イングランドにて発生した産業革命は、その後ヨーロッパのみならず世界の様相を一変させた。
産業革命における蒸気機関の普及により大量の製品が製造され、それが蒸気機関車にて運ばれ、さらに蒸気船により国外に輸出されるといった流通経路・形態が常態化すると、当然の如く、それら輸出先地域の伝統的な在来文化が変形もしくは破壊され、そして結果的にその地域とは産業革命が為された欧米諸国の植民地とならざるを得ない状態へと至る。
極東の中国・朝鮮・日本などは独自の伝統的な在来文化を保持していたことから、当初、武装された蒸気船による欧米文化の来航に対して激しく抵抗したが、そうしたいわば国粋的な勢力・行為とは、優れた武器を広汎に装備した欧米列強により排除され・圧迫を受け、とりわけ国土が広大である中国(当時は清王朝)は沿岸部複数地域が半ば植民地のような状態へと陥るに至った。
そうした中、日本のみは当時のアジア世界において例外的に、来航する欧米文化を摂取・順応することにより、その民族的な独立は保持しつつ新たな政体への変化を遂げることが出来た。
また、我が国の歴史においてはこの時代より近代化が為されたと一般的に云われる。
しかしながら、なぜこの時期に日本のみが独立を保ちつつ曲がりなりにも近代化を遂げることが出来たのであろうか?
このことは、現代に至るまでさまざまな国々から指摘される我が国に対する興味・疑問であり、またそこで得られたことを手掛かりとして東アジア全体の歴史・文化を認識を試みるといった傾向もまた少なからずあった(ある)とも云える。
とはいえ、全ての歴史的出来事がそうであるように、一つの歴史上の出来事が生じるに至るまでには無数の原因があり、そしてそれぞれの原因にもまた同様に無数の結果が生じているのである。
それ故、歴史上にて良いとされる出来事とは、その発現に至るためには数多くの小さな良い(とされる)出来事があり、それらが相互作用することによりはじめて発現されると云えるのである。
無論、逆においても然りであると云える。
ともあれ、そうした原因・結果として考えられるものが多い場合においても、それらの歴史の流れにおける重要性の比重とは、さまざまな史料・資料に基づいて考えてみると概ね理解することが出来るのではないかと考える。
さて、この時期の我が国において良い効果を齎したものとして、先ずはじめに17世紀初頭から19世紀半ばに至るまでの約250年間、凍結した軍事体制とは評されるものの徳川幕藩体制下の国内にて大規模な争乱もなく、概ね平和裏にさまざまな文化・事業の進化発展が為されたことが挙げられる。
そして二つ目に当時の欧米列強の東アジアをはじめとした世界各地における帝国主義的(権益の伸長)な行為態度に基づく互いの(権益伸長への)牽制が為されていた、あるいは国よっては内戦が生じていたといった外部的要因もまた挙げられる。
しかし、たとえそうであったとしても、それら我が国にとって有利に働く外部的な諸事情は、あくまでも恒常的なものではなく、我が国はそれに適切に応対するため早期の変革が為されなければならないことを、当時の心ある・世界規模の知識を有する人々は痛感していた・・。
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
産業革命における蒸気機関の普及により大量の製品が製造され、それが蒸気機関車にて運ばれ、さらに蒸気船により国外に輸出されるといった流通経路・形態が常態化すると、当然の如く、それら輸出先地域の伝統的な在来文化が変形もしくは破壊され、そして結果的にその地域とは産業革命が為された欧米諸国の植民地とならざるを得ない状態へと至る。
極東の中国・朝鮮・日本などは独自の伝統的な在来文化を保持していたことから、当初、武装された蒸気船による欧米文化の来航に対して激しく抵抗したが、そうしたいわば国粋的な勢力・行為とは、優れた武器を広汎に装備した欧米列強により排除され・圧迫を受け、とりわけ国土が広大である中国(当時は清王朝)は沿岸部複数地域が半ば植民地のような状態へと陥るに至った。
そうした中、日本のみは当時のアジア世界において例外的に、来航する欧米文化を摂取・順応することにより、その民族的な独立は保持しつつ新たな政体への変化を遂げることが出来た。
また、我が国の歴史においてはこの時代より近代化が為されたと一般的に云われる。
しかしながら、なぜこの時期に日本のみが独立を保ちつつ曲がりなりにも近代化を遂げることが出来たのであろうか?
このことは、現代に至るまでさまざまな国々から指摘される我が国に対する興味・疑問であり、またそこで得られたことを手掛かりとして東アジア全体の歴史・文化を認識を試みるといった傾向もまた少なからずあった(ある)とも云える。
とはいえ、全ての歴史的出来事がそうであるように、一つの歴史上の出来事が生じるに至るまでには無数の原因があり、そしてそれぞれの原因にもまた同様に無数の結果が生じているのである。
それ故、歴史上にて良いとされる出来事とは、その発現に至るためには数多くの小さな良い(とされる)出来事があり、それらが相互作用することによりはじめて発現されると云えるのである。
無論、逆においても然りであると云える。
ともあれ、そうした原因・結果として考えられるものが多い場合においても、それらの歴史の流れにおける重要性の比重とは、さまざまな史料・資料に基づいて考えてみると概ね理解することが出来るのではないかと考える。
さて、この時期の我が国において良い効果を齎したものとして、先ずはじめに17世紀初頭から19世紀半ばに至るまでの約250年間、凍結した軍事体制とは評されるものの徳川幕藩体制下の国内にて大規模な争乱もなく、概ね平和裏にさまざまな文化・事業の進化発展が為されたことが挙げられる。
そして二つ目に当時の欧米列強の東アジアをはじめとした世界各地における帝国主義的(権益の伸長)な行為態度に基づく互いの(権益伸長への)牽制が為されていた、あるいは国よっては内戦が生じていたといった外部的要因もまた挙げられる。
しかし、たとえそうであったとしても、それら我が国にとって有利に働く外部的な諸事情は、あくまでも恒常的なものではなく、我が国はそれに適切に応対するため早期の変革が為されなければならないことを、当時の心ある・世界規模の知識を有する人々は痛感していた・・。
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
2017年12月19日火曜日
20171219 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.226-228より抜粋引用
河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.226-228より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『貴金属の一定の重さが、やがて硬貨の誕生につながった。
史上初の硬貨は、アナトリア西部のリュディアの王アリュアッテスが紀元前640年ごろ造った。
それらの硬貨は、一定の重さを持つ金や銀で、識別記号が刻印されていた。記号は二つのことを保証していた。
第一に、その硬貨にはどれだけの貴金属が含まれているかを示していた。
第二に、その硬貨を発行し、中身を保証した権威を明らかにしていた。
今日使われている硬貨のほとんどは、リュディアの硬貨の子孫だ。
硬貨は二つの重要な点で、何の印もない金属塊に優る。
まず、金属塊は取引のたびに重さを量らなければならない。第二に、塊の重さを量るだけでは足りない。私が長靴の代金として支払った銀塊が、鉛を薄い銀で覆ったものではなく純銀製であることは、靴職人には知りようがない。
硬貨はこうした問題の解決を助けてくれる。
刻印された記号が厳密な価値を保証しているので、靴職人はレジの上に秤を置いておく必要はない。
さらに重要なのだが、硬貨の記号は、その硬貨の価値を保証する何らかの政治的権威の署名なのだ。
記号の形と大きさは歴史を通してはなはだ異なるが、そのメッセージはつねに同じで、「偉大なる王〇〇である予は、この金属円板がきっかり五グラムの金を含むことをじきじきに保証する。
この硬貨を偽造する者がいたら、その者は予の署名を偽造しているに等しく、それは予の名声に汚点を残すこととなる。
そのような罪を犯す者を、予は厳罰に処すであろう」というものだ。だからこそ、貨幣の偽造は他の詐欺行為よりもはるかに重大な犯罪であるとつねに見なされてきたのだ。
貨幣の偽造はたんなるごまかしではなく、君主の支配権の侵害であり、王の権力と特権と人格に盾突く行為なのだ。
法律用語では「大逆罪」で、通常、罰として拷問され、死刑に処せられた。
人々は、王の権力と誠実さを信じているかぎり、王の貨幣も信頼した。見ず知らずの人どうしも、ローマのデナリウス銀貨の価値については、何の疑問もなく同意できた。それは彼らがローマ皇帝の権力と誠実さを信頼していたからで、皇帝の名前と肖像がこの銀貨を飾っていた。
そして、皇帝の権力は逆に、デナリウス銀貨にかかっていた。硬貨なしでローマ帝国を維持するとしたら、それがどれほど困難だったか創造してほしい。
もし皇帝が大麦と小麦で税を集め、給料を支払わなければならなかったとしたら、どうだろう。
シリアで税として大麦を集め、ローマの中央金庫に運び。
さらにイギリスに持っていって、そこに派遣している軍団に給料として支払うのは、不可能だっただろう。
ローマの町の住民が金貨の価値を信頼していても、従属民たちがその信頼を退け、代わりにタカラガイの貝殻や、象牙の珠、布などの価値を信頼していた場合も、帝国を維持するのは、同じくらい難しかっただろう。』
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『貴金属の一定の重さが、やがて硬貨の誕生につながった。
史上初の硬貨は、アナトリア西部のリュディアの王アリュアッテスが紀元前640年ごろ造った。
それらの硬貨は、一定の重さを持つ金や銀で、識別記号が刻印されていた。記号は二つのことを保証していた。
第一に、その硬貨にはどれだけの貴金属が含まれているかを示していた。
第二に、その硬貨を発行し、中身を保証した権威を明らかにしていた。
今日使われている硬貨のほとんどは、リュディアの硬貨の子孫だ。
硬貨は二つの重要な点で、何の印もない金属塊に優る。
まず、金属塊は取引のたびに重さを量らなければならない。第二に、塊の重さを量るだけでは足りない。私が長靴の代金として支払った銀塊が、鉛を薄い銀で覆ったものではなく純銀製であることは、靴職人には知りようがない。
硬貨はこうした問題の解決を助けてくれる。
刻印された記号が厳密な価値を保証しているので、靴職人はレジの上に秤を置いておく必要はない。
さらに重要なのだが、硬貨の記号は、その硬貨の価値を保証する何らかの政治的権威の署名なのだ。
記号の形と大きさは歴史を通してはなはだ異なるが、そのメッセージはつねに同じで、「偉大なる王〇〇である予は、この金属円板がきっかり五グラムの金を含むことをじきじきに保証する。
この硬貨を偽造する者がいたら、その者は予の署名を偽造しているに等しく、それは予の名声に汚点を残すこととなる。
そのような罪を犯す者を、予は厳罰に処すであろう」というものだ。だからこそ、貨幣の偽造は他の詐欺行為よりもはるかに重大な犯罪であるとつねに見なされてきたのだ。
貨幣の偽造はたんなるごまかしではなく、君主の支配権の侵害であり、王の権力と特権と人格に盾突く行為なのだ。
法律用語では「大逆罪」で、通常、罰として拷問され、死刑に処せられた。
人々は、王の権力と誠実さを信じているかぎり、王の貨幣も信頼した。見ず知らずの人どうしも、ローマのデナリウス銀貨の価値については、何の疑問もなく同意できた。それは彼らがローマ皇帝の権力と誠実さを信頼していたからで、皇帝の名前と肖像がこの銀貨を飾っていた。
そして、皇帝の権力は逆に、デナリウス銀貨にかかっていた。硬貨なしでローマ帝国を維持するとしたら、それがどれほど困難だったか創造してほしい。
もし皇帝が大麦と小麦で税を集め、給料を支払わなければならなかったとしたら、どうだろう。
シリアで税として大麦を集め、ローマの中央金庫に運び。
さらにイギリスに持っていって、そこに派遣している軍団に給料として支払うのは、不可能だっただろう。
ローマの町の住民が金貨の価値を信頼していても、従属民たちがその信頼を退け、代わりにタカラガイの貝殻や、象牙の珠、布などの価値を信頼していた場合も、帝国を維持するのは、同じくらい難しかっただろう。』
夏目漱石著「三四郎」岩波書店刊PP.169-170より抜粋
『広田さんは髭の下から歯を出して笑った。割合に綺麗な歯を持っている。三四郎はその時急になつかしい気持がした。けれどもそのなつかしさは美禰子を離れている。野々宮を離れている。三四郎眼前の利害には超越したなつかしさであった。三四郎はこれで、野々宮などの事を聞くのが恥ずかしい気がし出して、質問をやめてしまった。すると広田先生がまた話し出した。―
Natsume-Soseki 1908-9 Sanshiro translated by Jay-Rubin
Penguin classics pp.130-131
『Hirota’s teeth appeared below his mustache in a broad smile. They were rather nice teeth. Sanshiro suddenly felt very close to Hirota. The feeling had nothing to do with Mineko, nothing to do with Nonomiya. It was a closeness that transcended any immediate advantage to him and made him ashamed to go on asking these questions.
‘‘That’s because I just made it up. Even you are-maybe not-yes, you probably are a hyper villain. Yojiro, of course, is an extreme example. And you know Satomi Mineko. She’s a kind of hyper villain. Then there’s Nonomiya’s sister, an interesting variation in her own way.
The only hyper villains we needed in the old days were feudal lords and fathers. Now, with equal rights, everybody wants to be one. Not that it’s a bad thing, of course. We all-take the lid off something that stinks and you find a manure bucket. Tear away the pretty formalities and the bad is out in the open. Formalities are just a bother, so everyone economizes and makes do with the plain stuff. It’s actually quite exhilarating-natural ugliness in all its glory.
Of course, when there’s too much glory, the hyper villains get a little annoyed with each other. When their discomfort reaches a peak, altruism is resurrected. And when that becomes a mere formality and turns sour, egoism comes back. And so on, ad infinitum.
That’s how we go on living, you might say. That’s how we progress. Look at England. Egoism and altruism have been in perfect balance there for centuries. That’s why she doesn’t move. That’s why she doesn’t progress.
The English are pitiful lot-they have no Ibsen, no Nietzsche. They’re all puffed up like that, but look at them the outside and you can see them hardening, turning into fossils. 』
Sanshiro (Penguin Classics)
ISBN-10: 0140455620
ISBN-13: 978-0140455625
「お母さんのいう事はなるべく聞いて上げるがよい。近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それをひと口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り出せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展してしまった。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。―君、露悪家という言葉を聞いた事がありますか」
「いいえ」
「今僕が即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人―だかどうだか、まあ多分そうだろう。与次郎の如きに至るとその最たるものだ。
あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれもまた、あれなりに露悪家だから面白い。
昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各々同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切っている。形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。甚だ痛快である。天醜爛漫(てんしゅうらんまん)としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じて来る。その不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らして行くものと思えば差し支えない。そうして行くうちに進歩する。
英国を見給え。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって、化石しかかっている。・・』
三四郎 (岩波文庫)
ISBN-10: 4003101065
ISBN-13: 978-4003101063
あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれもまた、あれなりに露悪家だから面白い。
昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各々同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切っている。形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。甚だ痛快である。天醜爛漫(てんしゅうらんまん)としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じて来る。その不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らして行くものと思えば差し支えない。そうして行くうちに進歩する。
英国を見給え。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって、化石しかかっている。・・』
三四郎 (岩波文庫)
ISBN-10: 4003101065
ISBN-13: 978-4003101063
Natsume-Soseki 1908-9 Sanshiro translated by Jay-Rubin
Penguin classics pp.130-131
『Hirota’s teeth appeared below his mustache in a broad smile. They were rather nice teeth. Sanshiro suddenly felt very close to Hirota. The feeling had nothing to do with Mineko, nothing to do with Nonomiya. It was a closeness that transcended any immediate advantage to him and made him ashamed to go on asking these questions.
‘‘ You ought listen to your mother, ’’
professor Hirota began. ‘‘ Young men nowadays are too self-aware, their egos
are too strong-unlike the young men of my own day. When I was a student, there wasn’t
a thing we did that was unrelated to others. It was all for the Emperor, or
parents, or the country, or society. Everything was other-centered, which means
that all educated men were hypocrites.
When society changed, hypocrisy stopped working, as a result of which we started importing self-centeredness into thought and action, and egoism, now all we have are hyper villains. Have you ever heard the word ‘hyper villains’ before?’’
When society changed, hypocrisy stopped working, as a result of which we started importing self-centeredness into thought and action, and egoism, now all we have are hyper villains. Have you ever heard the word ‘hyper villains’ before?’’
‘‘No, I haven’t.’’
‘‘That’s because I just made it up. Even you are-maybe not-yes, you probably are a hyper villain. Yojiro, of course, is an extreme example. And you know Satomi Mineko. She’s a kind of hyper villain. Then there’s Nonomiya’s sister, an interesting variation in her own way.
The only hyper villains we needed in the old days were feudal lords and fathers. Now, with equal rights, everybody wants to be one. Not that it’s a bad thing, of course. We all-take the lid off something that stinks and you find a manure bucket. Tear away the pretty formalities and the bad is out in the open. Formalities are just a bother, so everyone economizes and makes do with the plain stuff. It’s actually quite exhilarating-natural ugliness in all its glory.
Of course, when there’s too much glory, the hyper villains get a little annoyed with each other. When their discomfort reaches a peak, altruism is resurrected. And when that becomes a mere formality and turns sour, egoism comes back. And so on, ad infinitum.
That’s how we go on living, you might say. That’s how we progress. Look at England. Egoism and altruism have been in perfect balance there for centuries. That’s why she doesn’t move. That’s why she doesn’t progress.
The English are pitiful lot-they have no Ibsen, no Nietzsche. They’re all puffed up like that, but look at them the outside and you can see them hardening, turning into fossils. 』
Sanshiro (Penguin Classics)
ISBN-10: 0140455620
ISBN-13: 978-0140455625
夏目漱石 現代日本の開化1~5
Yukio Mishima Speaking In English
2017年12月18日月曜日
20171218 『言語の限界が世界の限界であるとすれば、その他は一体何なのか?』
本日の首都圏は日中も気温があまり上がらず、足の方から冷え込むような寒い一日でした。
またブログ記事に関しては、これまでの総投稿記事数が843記事であり、あと7記事の投稿により年内の達成目標である850記事に到達することが出来ます。
一方、年内余すところ12日程度であり既に2週間を切り、そして残りの7記事もまた出来るだけ早めに作成・投稿したいと考えていますので、今後も出来るだけ記事を作成出来る時は作成・投稿していきます。
また、そうしたいわば粗製乱造的とも見做し得るスタンスではあっても、どうした原因によるものか、多くの方々に読んで頂ける記事とは時折は作成されるようであり、そこから、こうした状況もまたそこまで悪くないとも思われる次第です・・(苦笑)。
さて、本日明け方の暗い頃に一度目が覚めた際、何やら面白い歴史についての大きな意見・仮説が脳裏をよぎったのですが、こうしたワクワクするような仮説とはここ最近ご無沙汰であり、昨今はどちらかというと電車内・就寝前に書籍を読みつつ既知の知見から少しずつ新たな知見を加えていくといった、どちらかというと地味な作業に近いものが多いと云えます。
それ故、本日朝に一瞬脳裏をよぎった意見・仮説とは多少惜しく思われ『その場にて即座に録音できるような機器さえあれば・・』とすら思われました。
とはいえ、そうしたものは往々にして『逃した魚は大きい』とも捉えられがちではありますが、本日早朝のそれに関しては、再度それが脳裏をよぎったならば、その尻尾を捉え、そしてその姿を言語にて著すことが出来ると何故であるか分かりませんが確信出来るのです・・(笑)。
おそらく、こうしたところにある程度の期間ブログ記事を作成してきたことが精神の内奥にまで達していることが示されているのかもしれません・・(本当か?)。
そしてそこでヴィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』にて述べた『言語の限界とは世界の限界である。』といった意味合いのコトバが想起されるわけですが、言語を洗練させる・鍛錬するといった行為とは、おそらく人により多少の偏差があるのかもしれませんが、あまり早急に知覚・認識出来るようなものではなく、概してかなり緩慢なる発育過程を辿るのではないかと思われるのです。
それ故、あまり個々人の性質・特性に基づいた能動性に裏打ちされているとは云えず、単に社会における功利性・有用性に基づいたとも見做し得るネガティブ・ケイパビリティー(処理能力)の促成的な発達のみを企図する傾向があると云える我が国の教育とは、ゼロからの出発といった状況である場合(敗戦後のような)は都合が良いのかもしれませんが、そうした社会基盤・制度に基づく社会とは一度繁栄に至った後の経時的な劣化が著しく、あるいは発展持続性が乏しいのかもしれません【社会主義に基づく社会にもまたそうした性質があるのかもしれません・・】。
加えて我が国の場合、古来よりの普遍的な道徳観念などもまたありませんので・・。
それらに関してはまさしく見かけ倒し(ハロウィーンにしろクリスマスにしろオリジナルの国々から見れば結局そうであるように思われる。外国の方々が神社らしきものを即席に拵え参拝するような様子を見たとしても、彼らが神道に帰依しているとは到底思えないのと同じ。)であり、また我が国においては、実のところ見掛け倒しであることの方が諸事都合が良く好まれるのかもしれない・・(苦笑)。
【そうした背景にある重い思想・観念などは絶対にイラナイ!理解したフリでただ楽しければそれで充分!といったところが本音ではないでしょうか?】
そして、その意味からも我が国の特性とも云える即物性・此岸的性質を(抽象的・彼岸的方向へ多少なりとも)昇華させるためにも先ず当初においては言語とその指し示す実体的対象が明瞭である諸学問分野への更なる注力・人員の再配分等が為されるのが適当ではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
またブログ記事に関しては、これまでの総投稿記事数が843記事であり、あと7記事の投稿により年内の達成目標である850記事に到達することが出来ます。
一方、年内余すところ12日程度であり既に2週間を切り、そして残りの7記事もまた出来るだけ早めに作成・投稿したいと考えていますので、今後も出来るだけ記事を作成出来る時は作成・投稿していきます。
また、そうしたいわば粗製乱造的とも見做し得るスタンスではあっても、どうした原因によるものか、多くの方々に読んで頂ける記事とは時折は作成されるようであり、そこから、こうした状況もまたそこまで悪くないとも思われる次第です・・(苦笑)。
さて、本日明け方の暗い頃に一度目が覚めた際、何やら面白い歴史についての大きな意見・仮説が脳裏をよぎったのですが、こうしたワクワクするような仮説とはここ最近ご無沙汰であり、昨今はどちらかというと電車内・就寝前に書籍を読みつつ既知の知見から少しずつ新たな知見を加えていくといった、どちらかというと地味な作業に近いものが多いと云えます。
それ故、本日朝に一瞬脳裏をよぎった意見・仮説とは多少惜しく思われ『その場にて即座に録音できるような機器さえあれば・・』とすら思われました。
とはいえ、そうしたものは往々にして『逃した魚は大きい』とも捉えられがちではありますが、本日早朝のそれに関しては、再度それが脳裏をよぎったならば、その尻尾を捉え、そしてその姿を言語にて著すことが出来ると何故であるか分かりませんが確信出来るのです・・(笑)。
おそらく、こうしたところにある程度の期間ブログ記事を作成してきたことが精神の内奥にまで達していることが示されているのかもしれません・・(本当か?)。
そしてそこでヴィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』にて述べた『言語の限界とは世界の限界である。』といった意味合いのコトバが想起されるわけですが、言語を洗練させる・鍛錬するといった行為とは、おそらく人により多少の偏差があるのかもしれませんが、あまり早急に知覚・認識出来るようなものではなく、概してかなり緩慢なる発育過程を辿るのではないかと思われるのです。
それ故、あまり個々人の性質・特性に基づいた能動性に裏打ちされているとは云えず、単に社会における功利性・有用性に基づいたとも見做し得るネガティブ・ケイパビリティー(処理能力)の促成的な発達のみを企図する傾向があると云える我が国の教育とは、ゼロからの出発といった状況である場合(敗戦後のような)は都合が良いのかもしれませんが、そうした社会基盤・制度に基づく社会とは一度繁栄に至った後の経時的な劣化が著しく、あるいは発展持続性が乏しいのかもしれません【社会主義に基づく社会にもまたそうした性質があるのかもしれません・・】。
加えて我が国の場合、古来よりの普遍的な道徳観念などもまたありませんので・・。
それらに関してはまさしく見かけ倒し(ハロウィーンにしろクリスマスにしろオリジナルの国々から見れば結局そうであるように思われる。外国の方々が神社らしきものを即席に拵え参拝するような様子を見たとしても、彼らが神道に帰依しているとは到底思えないのと同じ。)であり、また我が国においては、実のところ見掛け倒しであることの方が諸事都合が良く好まれるのかもしれない・・(苦笑)。
【そうした背景にある重い思想・観念などは絶対にイラナイ!理解したフリでただ楽しければそれで充分!といったところが本音ではないでしょうか?】
そして、その意味からも我が国の特性とも云える即物性・此岸的性質を(抽象的・彼岸的方向へ多少なりとも)昇華させるためにも先ず当初においては言語とその指し示す実体的対象が明瞭である諸学問分野への更なる注力・人員の再配分等が為されるのが適当ではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
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