2017年12月22日金曜日

20171221 継続的なブログ記事が為される背景とそこから思ったこと・・

昨日投稿分記事も思いのほか多くの方々(60以上)に読んで頂けました。また、以前にも述べたことではありますが、継続的にブログ記事を作成していますと、直近に投稿した記事と関連性があると思われる記事が読まれていることがしばしばあるのですが、それが誰により為されいるかは分かりませんが、その選択のセンスとは、概しておそらく記事の作成者より優れているのではないかと思われます・・(苦笑)。

また、そうした優れた(と思われる)反応が為されていることを認識することにより、記事作成に対してもまた一層身を入れることが出来るのではないかと思われます。

とはいえ、ブログ記事であれ、その作成とは面倒である時はなかなか面倒なものであり、イヤイヤ書き始め、最後までそうした心境のままにて書き終え、そしてどうにか『本日のノルマは終えた・・』といった心境に至り、どうにか落ち着くといった日も少なからずあるというのが実状と云えます。

それでも、そうした作成・投稿された記事であっても、それらが(自身としては)比較的多くの方々に読んで頂いていることを認識しますと、さきに述べたような心境とは案外とキレイに払拭され、再度その記事を読み直し、必要と思われる加筆修正が為されることになります・・(笑)。

それ故、自身の場合、このブログという一種の相互作用的な文章発信様式が、思いのほか適していたのではないかと思われるのです・・(笑)。

また、そうしたことから、今後たとえ900記事あるいは1000記事の投稿に到達した場合においても、それはどちらかというと自身の努力というよりも、さまざまな事情・状況が自身の性質に適していたことによるのではないかとも思われるのです。

そしておそらく我々とは、本来そのようにして自身の得意とするものを(ある程度長期的な視野にて)模索していくのが良いのではないかと思われるところですが、しかし一方で実際の人生・生活にて重要とされることとは、より実際に即したことであることから、さまざまな悩みなどが生じるのではないかと思われます・・。

また自身においてもまた、今現在、そうした悩みの中にあると認識しており、これはこれでなかなか(自身にとっては)深刻であると思うところではあるのですが、しかし、そうしたこともまた、文章として著してみますと、多少は、そして有意に気分が晴れるようであり、さらに加えて次に行うべきこと、企図する方向などもまた示されるようであり、そうしたことからも、こうした文章作成とは、表層においてはあくまでも面倒と思われるものの、それが習慣化することにより生じる効果とは、少なくとも現在の自身にとっては欠くことの出来ないものであるとも云えるのです。

また、我々がさまざまな勉強、研究を行う根本の意味とは、そういった行為そのものの中に何らかの深い・不可知な意味あいが認められてきたからではないかと思われるのですが、他方、昨今の御時世における傾向とは、どうもそうした意味あいのことを閑却し、多くの勉強・研究的要素自体を本質的に面倒なことであるとして外部化しようと試みているのではないかとも思われることが多々あるのですが、それもまた一つの反知性主義の顕れと認識しても良いものでしょうか・・?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。













2017年12月20日水曜日

20171220 18世紀半ばイングランドにて生じた産業革命が齎す波が我が国に至ると・・

18世紀中期イングランドにて発生した産業革命は、その後ヨーロッパのみならず世界の様相を一変させた。

産業革命における蒸気機関の普及により大量の製品が製造され、それが蒸気機関車にて運ばれ、さらに蒸気船により国外に輸出されるといった流通経路・形態が常態化すると、当然の如く、それら輸出先地域の伝統的な在来文化が変形もしくは破壊され、そして結果的にその地域とは産業革命が為された欧米諸国の植民地とならざるを得ない状態へと至る。

極東の中国・朝鮮・日本などは独自の伝統的な在来文化を保持していたことから、当初、武装された蒸気船による欧米文化の来航に対して激しく抵抗したが、そうしたいわば国粋的な勢力・行為とは、優れた武器を広汎に装備した欧米列強により排除され・圧迫を受け、とりわけ国土が広大である中国(当時は清王朝)は沿岸部複数地域が半ば植民地のような状態へと陥るに至った。

そうした中、日本のみは当時のアジア世界において例外的に、来航する欧米文化を摂取・順応することにより、その民族的な独立は保持しつつ新たな政体への変化を遂げることが出来た。

また、我が国の歴史においてはこの時代より近代化が為されたと一般的に云われる。

しかしながら、なぜこの時期に日本のみが独立を保ちつつ曲がりなりにも近代化を遂げることが出来たのであろうか?

このことは、現代に至るまでさまざまな国々から指摘される我が国に対する興味・疑問であり、またそこで得られたことを手掛かりとして東アジア全体の歴史・文化を認識を試みるといった傾向もまた少なからずあった(ある)とも云える。

とはいえ、全ての歴史的出来事がそうであるように、一つの歴史上の出来事が生じるに至るまでには無数の原因があり、そしてそれぞれの原因にもまた同様に無数の結果が生じているのである。

それ故、歴史上にて良いとされる出来事とは、その発現に至るためには数多くの小さな良い(とされる)出来事があり、それらが相互作用することによりはじめて発現されると云えるのである。

無論、逆においても然りであると云える。

ともあれ、そうした原因・結果として考えられるものが多い場合においても、それらの歴史の流れにおける重要性の比重とは、さまざまな史料・資料に基づいて考えてみると概ね理解することが出来るのではないかと考える。

さて、この時期の我が国において良い効果を齎したものとして、先ずはじめに17世紀初頭から19世紀半ばに至るまでの約250年間、凍結した軍事体制とは評されるものの徳川幕藩体制下の国内にて大規模な争乱もなく、概ね平和裏にさまざまな文化・事業の進化発展が為されたことが挙げられる。

そして二つ目に当時の欧米列強の東アジアをはじめとした世界各地における帝国主義的(権益の伸長)な行為態度に基づく互いの(権益伸長への)牽制が為されていた、あるいは国よっては内戦が生じていたといった外部的要因もまた挙げられる。

しかし、たとえそうであったとしても、それら我が国にとって有利に働く外部的な諸事情は、あくまでも恒常的なものではなく、我が国はそれに適切に応対するため早期の変革が為されなければならないことを、当時の心ある・世界規模の知識を有する人々は痛感していた・・。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
















2017年12月19日火曜日

20171219 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.226-228より抜粋引用

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.226-228より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『貴金属の一定の重さが、やがて硬貨の誕生につながった。
史上初の硬貨は、アナトリア西部のリュディアの王アリュアッテスが紀元前640年ごろ造った。
それらの硬貨は、一定の重さを持つ金や銀で、識別記号が刻印されていた。記号は二つのことを保証していた。
第一に、その硬貨にはどれだけの貴金属が含まれているかを示していた。
第二に、その硬貨を発行し、中身を保証した権威を明らかにしていた。
今日使われている硬貨のほとんどは、リュディアの硬貨の子孫だ。
硬貨は二つの重要な点で、何の印もない金属塊に優る。
まず、金属塊は取引のたびに重さを量らなければならない。第二に、塊の重さを量るだけでは足りない。私が長靴の代金として支払った銀塊が、鉛を薄い銀で覆ったものではなく純銀製であることは、靴職人には知りようがない。
硬貨はこうした問題の解決を助けてくれる。
刻印された記号が厳密な価値を保証しているので、靴職人はレジの上に秤を置いておく必要はない。
さらに重要なのだが、硬貨の記号は、その硬貨の価値を保証する何らかの政治的権威の署名なのだ。

記号の形と大きさは歴史を通してはなはだ異なるが、そのメッセージはつねに同じで、「偉大なる王〇〇である予は、この金属円板がきっかり五グラムの金を含むことをじきじきに保証する。

この硬貨を偽造する者がいたら、その者は予の署名を偽造しているに等しく、それは予の名声に汚点を残すこととなる。

そのような罪を犯す者を、予は厳罰に処すであろう」というものだ。だからこそ、貨幣の偽造は他の詐欺行為よりもはるかに重大な犯罪であるとつねに見なされてきたのだ。

貨幣の偽造はたんなるごまかしではなく、君主の支配権の侵害であり、王の権力と特権と人格に盾突く行為なのだ。

法律用語では「大逆罪」で、通常、罰として拷問され、死刑に処せられた。
人々は、王の権力と誠実さを信じているかぎり、王の貨幣も信頼した。見ず知らずの人どうしも、ローマのデナリウス銀貨の価値については、何の疑問もなく同意できた。それは彼らがローマ皇帝の権力と誠実さを信頼していたからで、皇帝の名前と肖像がこの銀貨を飾っていた。

そして、皇帝の権力は逆に、デナリウス銀貨にかかっていた。硬貨なしでローマ帝国を維持するとしたら、それがどれほど困難だったか創造してほしい。

もし皇帝が大麦と小麦で税を集め、給料を支払わなければならなかったとしたら、どうだろう。

シリアで税として大麦を集め、ローマの中央金庫に運び。
さらにイギリスに持っていって、そこに派遣している軍団に給料として支払うのは、不可能だっただろう。

ローマの町の住民が金貨の価値を信頼していても、従属民たちがその信頼を退け、代わりにタカラガイの貝殻や、象牙の珠、布などの価値を信頼していた場合も、帝国を維持するのは、同じくらい難しかっただろう。』


夏目漱石著「三四郎」岩波書店刊PP.169-170より抜粋

『広田さんは髭の下から歯を出して笑った。割合に綺麗な歯を持っている。三四郎はその時急になつかしい気持がした。けれどもそのなつかしさは美禰子を離れている。野々宮を離れている。三四郎眼前の利害には超越したなつかしさであった。三四郎はこれで、野々宮などの事を聞くのが恥ずかしい気がし出して、質問をやめてしまった。すると広田先生がまた話し出した。―

「お母さんのいう事はなるべく聞いて上げるがよい。近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それをひと口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り出せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展してしまった。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。―君、露悪家という言葉を聞いた事がありますか」

「いいえ」

「今僕が即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人―だかどうだか、まあ多分そうだろう。与次郎の如きに至るとその最たるものだ。
あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれもまた、あれなりに露悪家だから面白い。
昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各々同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切っている。形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。甚だ痛快である。天醜爛漫(てんしゅうらんまん)としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じて来る。その不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らして行くものと思えば差し支えない。そうして行くうちに進歩する。
英国を見給え。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって、化石しかかっている。・・』
三四郎 (岩波文庫)
ISBN-10: 4003101065
ISBN-13: 978-4003101063



Natsume-Soseki 1908-9 Sanshiro translated by Jay-Rubin 
Penguin classics pp.130-131 
 
『Hirota’s teeth appeared below his mustache in a broad smile. They were rather nice teeth. Sanshiro suddenly felt very close to Hirota. The feeling had nothing to do with Mineko, nothing to do with Nonomiya. It was a closeness that transcended any immediate advantage to him and made him ashamed to go on asking these questions.

‘‘ You ought listen to your mother, ’’ professor Hirota began. ‘‘ Young men nowadays are too self-aware, their egos are too strong-unlike the young men of my own day. When I was a student, there wasn’t a thing we did that was unrelated to others. It was all for the Emperor, or parents, or the country, or society. Everything was other-centered, which means that all educated men were hypocrites.
When society changed, hypocrisy stopped working, as a result of which we started importing self-centeredness into thought and action, and egoism, now all we have are hyper villains. Have you ever heard the word ‘hyper villains’ before?’’

‘‘No, I haven’t.’’

‘‘That’s because I just made it up. Even you are-maybe not-yes, you probably are a hyper villain. Yojiro, of course, is an extreme example. And you know Satomi Mineko. She’s a kind of hyper villain. Then there’s Nonomiya’s sister, an interesting variation in her own way.
The only hyper villains we needed in the old days were feudal lords and fathers. Now, with equal rights, everybody wants to be one. Not that it’s a bad thing, of course. We all-take the lid off something that stinks and you find a manure bucket. Tear away the pretty formalities and the bad is out in the open. Formalities are just a bother, so everyone economizes and makes do with the plain stuff. It’s actually quite exhilarating-natural ugliness in all its glory.
Of course, when there’s too much glory, the hyper villains get a little annoyed with each other. When their discomfort reaches a peak, altruism is resurrected. And when that becomes a mere formality and turns sour, egoism comes back. And so on, ad infinitum.
That’s how we go on living, you might say. That’s how we progress. Look at England. Egoism and altruism have been in perfect balance there for centuries. That’s why she doesn’t move. That’s why she doesn’t progress.
The English are pitiful lot-they have no Ibsen, no Nietzsche. They’re all puffed up like that, but look at them the outside and you can see them hardening, turning into fossils.  』

Sanshiro (Penguin Classics)

ISBN-10: 0140455620
ISBN-13: 978-0140455625


夏目漱石 現代日本の開化1~5 






Yukio Mishima Speaking In English




    

2017年12月18日月曜日

20171218 『言語の限界が世界の限界であるとすれば、その他は一体何なのか?』

本日の首都圏は日中も気温があまり上がらず、足の方から冷え込むような寒い一日でした。

またブログ記事に関しては、これまでの総投稿記事数が843記事であり、あと7記事の投稿により年内の達成目標である850記事に到達することが出来ます。

一方、年内余すところ12日程度であり既に2週間を切り、そして残りの7記事もまた出来るだけ早めに作成・投稿したいと考えていますので、今後も出来るだけ記事を作成出来る時は作成・投稿していきます。

また、そうしたいわば粗製乱造的とも見做し得るスタンスではあっても、どうした原因によるものか、多くの方々に読んで頂ける記事とは時折は作成されるようであり、そこから、こうした状況もまたそこまで悪くないとも思われる次第です・・(苦笑)。

さて、本日明け方の暗い頃に一度目が覚めた際、何やら面白い歴史についての大きな意見・仮説が脳裏をよぎったのですが、こうしたワクワクするような仮説とはここ最近ご無沙汰であり、昨今はどちらかというと電車内・就寝前に書籍を読みつつ既知の知見から少しずつ新たな知見を加えていくといった、どちらかというと地味な作業に近いものが多いと云えます。

それ故、本日朝に一瞬脳裏をよぎった意見・仮説とは多少惜しく思われ『その場にて即座に録音できるような機器さえあれば・・』とすら思われました。

とはいえ、そうしたものは往々にして『逃した魚は大きい』とも捉えられがちではありますが、本日早朝のそれに関しては、再度それが脳裏をよぎったならば、その尻尾を捉え、そしてその姿を言語にて著すことが出来ると何故であるか分かりませんが確信出来るのです・・(笑)。

おそらく、こうしたところにある程度の期間ブログ記事を作成してきたことが精神の内奥にまで達していることが示されているのかもしれません・・(本当か?)。

そしてそこでヴィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』にて述べた『言語の限界とは世界の限界である。』といった意味合いのコトバが想起されるわけですが、言語を洗練させる・鍛錬するといった行為とは、おそらく人により多少の偏差があるのかもしれませんが、あまり早急に知覚・認識出来るようなものではなく、概してかなり緩慢なる発育過程を辿るのではないかと思われるのです。

それ故、あまり個々人の性質・特性に基づいた能動性に裏打ちされているとは云えず、単に社会における功利性・有用性に基づいたとも見做し得るネガティブ・ケイパビリティー(処理能力)の促成的な発達のみを企図する傾向があると云える我が国の教育とは、ゼロからの出発といった状況である場合(敗戦後のような)は都合が良いのかもしれませんが、そうした社会基盤・制度に基づく社会とは一度繁栄に至った後の経時的な劣化が著しく、あるいは発展持続性が乏しいのかもしれません【社会主義に基づく社会にもまたそうした性質があるのかもしれません・・】。

加えて我が国の場合、古来よりの普遍的な道徳観念などもまたありませんので・・。

それらに関してはまさしく見かけ倒し(ハロウィーンにしろクリスマスにしろオリジナルの国々から見れば結局そうであるように思われる。外国の方々が神社らしきものを即席に拵え参拝するような様子を見たとしても、彼らが神道に帰依しているとは到底思えないのと同じ。)であり、また我が国においては、実のところ見掛け倒しであることの方が諸事都合が良く好まれるのかもしれない・・(苦笑)。
【そうした背景にある重い思想・観念などは絶対にイラナイ!理解したフリでただ楽しければそれで充分!といったところが本音ではないでしょうか?】

そして、その意味からも我が国の特性とも云える即物性・此岸的性質を(抽象的・彼岸的方向へ多少なりとも)昇華させるためにも先ず当初においては言語とその指し示す実体的対象が明瞭である諸学問分野への更なる注力・人員の再配分等が為されるのが適当ではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。























2017年12月17日日曜日

20171217 創造性・進化発展に寄与する要素とは【脱抑制・リラックスした状態】

本日は休日ということもあってか、当ブログの閲覧者数も比較的多く、また昨日投稿分の「『無双感』と『脱抑制』について・・」は投稿翌日にしては比較的多くの方々(70程度)に読んで頂けました。

そしてまた、そこで述べた主張とは端的に『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』といったところでした。

あるいは、このことをさらに考えていきますと、我が国の性質のかなり深いところにまで達する何かがあるようにも思われます。

また、こうしたことは、特に我が国の場合、昨今のコンピューター技術の進化発展によって以前と比べて明瞭に認識され得るようになったのかもしれません。

これを異言すると、コンピューターの能力向上により、機械的な要素にて為し得る要素と本質的に人間の精神によってのみ為し得る要素との相違点が明らかになりつつあるといったことであると云えます【それは今後もコンピューターが精神を持つに至るまで継続するのかもしれない・・】。

その意味において我々日本人とは、これまで人間が行ってきた各種労働を機械に担当させるさまざまな仕組みの開発、洗練によって、その経済的優位性を獲得してきたと云い得ます。

無論、こうした開発・洗練への努力もまた我が国の場合、特有のある種ストイックな性質に基づくものであったと考えますが、しかし本質的にそうした方向(人間が行う労働の軽減→無化)への進化発展とは、既存のそうした労働・作業が成立以来よりおそらく長い時間をかけて獲得・保持してきたさまざまな精神性・文化を根底から覆すようなものでもあり、また同時にそれは奇しくも19世紀半ば過ぎより科学・技術をも含む各種西欧文化の理解・吸収・実装に明け暮れていた我が国のいわば習い性的な行動様式・傾向と一致するものであるとも云い得ます。

そして、こうした我が国にて各種西欧文化の理解・吸収・実装が為される過程において、実用の見地からのいくらかの改良が加えられることがいわば我が国能力の真骨頂であるようにも思われます。

しかしながら、それは本質的な創造であるよりも付加的な要素、あるいはオリジナルを真似する際の一種の追加的な工夫といったものであるように思われるのです。

そのように考えますと、ハナシは記事冒頭に戻り『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』と、あるいは何らかの関連性があるのではないかと考えさせられます・・。

コンピューターの能力向上により、人間的な要素と機械的な要素の判別が比較的明瞭に為し得るようになり、人間の精神によってのみ駆動する要素すなわち『本質的な創造とは何か?』といったことがある程度客観的に認識され得るようになると、おそらく国毎、地域毎のそうした傾向といったものも同様に認識され得るようになると思われます。

そうした場合、我が国日本及び日本人とは一体どのような評価を得ることになるのでしょうか・・?


今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被害を被った諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今から再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。




















20171216 『無双感』と『脱抑制』について・・

議論や学術会議などの質疑応答の場にて、質問に対してかなり鮮やかな受け答え、先の先を読んだような見事な返答をたて続けにされている様子を時折見受けることがあります。

こうした状況は文章にて書いてもあまり伝わらないと思われますが、実際にそうした状況に遭遇してみますと、自然と身体が前のめりになったり、あるいは目が見開いていくような感覚を得るのではないでしょうか?

また自身の場合、そうした場において見事な受け答えをされている方に対して最近の若者コトバでもありますが『無双』といったコトバが不図浮かんできます・・(笑)。

とはいえ、実際そうした場面に遭遇することは多くはなく、それ故、あくまでも感覚的ではありますが、そうした場面・人とは、ある程度(精確に)判断することが出来るのではないかと思われるのです。

あるいは『ヒトは見かけによらない』といわれ、またそれは事実であると考えますが、しかし、その語るところを、ヒトと話しているところを、あまり意識はしないでも、しばらく見ていますと、やはりそうした方々には、さきに書いたような動物的な感覚を通じ感知され得る『何か』があるのではないかとも思われます。

しかし、その感知される『何か』とは具体的には分からず、現段階においてはあくまでも感覚的なものであるため視点を変え、そういった方々が共通して持つ特徴について以降少し述べます。

さて、自身がこれまでに見受けた、さきほどのいわゆる『無双感』のある方々の共通する大きな特徴として『脱抑制』のスタンスが挙げられます。

つまり態度、話し言葉が特に硬くなく、専門用語なども必要に応じて話され、おそらくあまり意識されていないのかもしれませんが聞き手に分かり易く話され、さらには多少早口気味のやや高音であり、また英語にて話される場合においても、同様に早口気味である割には聞き取り易くコトバが明瞭であるといった傾向が共通してあると思われます。

とはいえ、これら全ては表層的な傾向であり、その本質にある真髄とは、あくまでもその方御自身が話される内容にあると云えますが・・。

それ故、こうした傾向・性質とは、おそらく真似・演技をすることが困難ではないかと思われるのです・・。

また、昨今テレビ番組の視聴率が概してあまり芳しくない一つの要因とは、さきに述べたことがインターネットの普及により、ある程度社会において自明のことになりつつあるからではないかとも考えられます。

また、この脱抑制に関連して思い出されたことはやはり自身の師匠であり、おそらくこれらの方々もまた、少なからずこの共通する特徴である『脱抑制』が当て嵌まるのではないかと思われます。

くわえて、さらに思い出されるのはトーマス・マン著の長編小説『魔の山』の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏であり、この人物にもある種の『無双感』があると思われます・・(笑)。

ともあれ、そうしますと、さきに述べたように、こうした人物像とは、ある程度の最大公約数的な何かしらの傾向といったものがあるのかもしれないと思い至るのですが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年から現在に至るまで列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された
諸地域のインフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。