昨日投稿分の記事は思いのほかに多くの方々(31)に読んで頂いておりました。
これまでほぼ毎日ブログ記事を作成、投稿しておりますが、やはり読んでみて面白いと感じられる記事は、より多くの読者を得ることが出来ているのかもしれません。
とはいえ、作成している本人からすれば、一体どのような記事が面白いのかとは、今現在に至るまであまりよく分かっておりません(苦笑)。
それでも、ある程度実証的であり、且つ新しいと思われる知見を平明な文章にて書き得たと自身でも感じられる記事とは、やはり、それなりに多くの方々に、そして継続的に読んで頂けている傾向があるように見受けられます。
しかし、そうした記事を読み返してみますと、不思議なことに『どのようにして、その記事内容を着想し得たのか?』がよく分からないことが多いのです・・(苦笑)。
それらは、おそらく当初、どちらかというと漫然と書いていたのでしょうが、興が乗るにつれて徐々に考え・思い付きが増幅していき、面白い先の展開の着想に至ったのではないかと思われます。
そして、こうした状態に至った自身とは、やはりそれなりに文章作成に没頭しており、以前のブログ記事にも書いたとおり『自身の客観視を許さない状況』にあるのではないかと考えます・・(笑)。
言い回し・表現によれば、こうした状態とは『自分になりきっている』・『忘我』・『集中している』などと称されるのかもしれませんが、しかし、こうした状態とは『他者の視線を気にしていない』という意味では、決して良いものとは評し難く、何かしら動物的、原初的と評しても良い状態ではないかと考えます・・(苦笑)。
また、そのようなことを考えてみますとニーチェがその著書『悲劇の誕生』にて述べている創造の源泉たる原初的な混沌の要素(ディオニュソス的)とそれに秩序を与える理知的な要素(アポロン的)との葛藤のことを思い起こさせます。
また、そこから次いで『創造的要素・創造力が疲弊・枯渇した社会とは、一見全てのものが衆目に適い、こぎれいになったともいえる社会なのではないだろうか?』とも考えさせられるのですが、しかし、実はこうしたことは現在の主に都市において理想的とも云える要素が兼ね備えられた状態をも示しているのではないかとも思われるのです・・。
おそらくこうした状態とは、さまざまな人間の為す行動・行事が形式化され、外見としては華やかでもあり、あるいは立派であるのかもしれませんが、徐々にそれらの背景・基層にある理念・思想といったものが忘却・形骸化され、そして、それに伴い『文明そのものの力』もまた経時的に損なわれていくのではないかと思われるのです・・。
また、それは昨今の科学技術の進化発展により、より多く見出すことが出来るようになった定量化による相対化といった一見科学的ともいえる視座を軸としてもまた、生じ得るのではないかと考えます。
それ故、特に現代の我が国においては、原初的と評されようが、衆目に適わなくとも、外見的なスマートさなどをあまり重要視しない創造に適した『場』が自然に発生するような社会全般における鷹揚さ・寛容さを取り戻した方が良いのではないかとも思われます・・。
そしてまた、こうしたことには社会における男性的要素と女性的要素の葛藤といったものが少なからず影響しているのではないかと考えますが如何でしょうか・・?
一方、こうしたことは、さまざまな地方においては、また多少事情が異なっているのかもしれませんが・・。
ともあれ、今回もまたここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨といった自然災害により被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。
2017年7月12日水曜日
2017年7月11日火曜日
20170711 観察された事実・知識の集積からより大きな思想へ至る方法とは・・?【書籍からの抜粋引用あり】
当たり前のことであるのかもしれませんが、我々日本人と欧米あるいは中東などの所謂一神教を奉じる人々との間の『宗教』あるいは『神』に対しての概念とは大きく異なるといえます。
我々日本人は古来より草木から川、山、動物、人間に至るまで、何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物に対して『迦微・神』(カミ)の字をあててきました。
地方に行きますと御神体が山であったり瀧であったりすることは割合一般的であることは周知のことと思います。
そして、現代の我々もまた、あまりそうした状況を不思議に思うことなく受け入れて過ごしていると云えます。
こうした神に対する考え方とは『汎霊説』(Animism)と称されるものであり、平たく云えば『すべてのものは神(霊)である』といったものであり、さらにこれを我が国特有の言い回しにしますと『八百万の神』となります。
そして、この『八百万の神』とは、冒頭に書いた『何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物』とも結び付くのですが、こうした神々に対する観念とは、欧米人に云わせると『原始的な宗教ともいえる自然崇拝に近い』となるのでしょうが、原始的であるかどうかはさておき(原始的なものが同時に(時代を通じ)普遍的であれば、それは決して原始的ばかりとはいえない)たしかに自然崇拝に近い感情を我々日本人は今なお保持しているといえます。
そして、そうした感情に基づいた思想とは決して閉鎖的ではなく、外来の事物の摂取に対して積極的でさえあるといえます。
また、おそらく我々はそうした(外来の事物の摂取)対象の一環として12月25日の神の御子の生誕祭もまた、ほぼ無意識ながら受け取っているのではないかとも思われます。
それが、起源の地でのそれとは異なる思想背景となっても、それはあまり考慮すべきことではなく、大事なことは、ただ『その神の御子の生誕を祝っている』といった『感情』あるいは『行い』そのものといったことになるのではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって、それは決して否定されるべきものではなく、良い悪いを抜きにして、単に『そうした性質も持っている』ということであると考えます。
また、そうした文化土壌において培った性質とは(極めて)高度な観察力を要する視覚的・即物的な学問・研究においては有効であり、それが『理系立国としての我が国の近現代の基礎となる性質』であると云えるのではないでしょうか・・?
そして、そうしたことを念頭に置きつつ、あるいは応用しつつ、観察現象に対して精確にコトバを当て嵌めていき、何かしら普遍的な思想・考えといったものの構築を試みれば価値があるのではないかと考えるところなのですが、自身も含めて我々日本人とは、この段階がどうも苦手なのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。
そして、ここまで書いていて不図思い起こされた書籍の記述を以下に抜粋引用しようと思います・・。
岩波書店刊 J.S ミル著 竹内一誠訳 『大学教育について』ISBN-10: 4003910117
ISBN-13: 978-4003910115
『科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのです。
事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具です。
そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、すでに知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するよりずっと簡単なのです。
一生を通じて人間の知性がもっとも活発に働き続けるのは、真理を探究するときです。
われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。
われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。
しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでしょう。
とにかく、われわれすべては、重要な真理として提示されていて相対立する見解について正しい判断を下せる能力を身につけなければなりません。』
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震、大雨といった自然災害によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。
我々日本人は古来より草木から川、山、動物、人間に至るまで、何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物に対して『迦微・神』(カミ)の字をあててきました。
地方に行きますと御神体が山であったり瀧であったりすることは割合一般的であることは周知のことと思います。
そして、現代の我々もまた、あまりそうした状況を不思議に思うことなく受け入れて過ごしていると云えます。
こうした神に対する考え方とは『汎霊説』(Animism)と称されるものであり、平たく云えば『すべてのものは神(霊)である』といったものであり、さらにこれを我が国特有の言い回しにしますと『八百万の神』となります。
そして、この『八百万の神』とは、冒頭に書いた『何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物』とも結び付くのですが、こうした神々に対する観念とは、欧米人に云わせると『原始的な宗教ともいえる自然崇拝に近い』となるのでしょうが、原始的であるかどうかはさておき(原始的なものが同時に(時代を通じ)普遍的であれば、それは決して原始的ばかりとはいえない)たしかに自然崇拝に近い感情を我々日本人は今なお保持しているといえます。
そして、そうした感情に基づいた思想とは決して閉鎖的ではなく、外来の事物の摂取に対して積極的でさえあるといえます。
また、おそらく我々はそうした(外来の事物の摂取)対象の一環として12月25日の神の御子の生誕祭もまた、ほぼ無意識ながら受け取っているのではないかとも思われます。
それが、起源の地でのそれとは異なる思想背景となっても、それはあまり考慮すべきことではなく、大事なことは、ただ『その神の御子の生誕を祝っている』といった『感情』あるいは『行い』そのものといったことになるのではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって、それは決して否定されるべきものではなく、良い悪いを抜きにして、単に『そうした性質も持っている』ということであると考えます。
また、そうした文化土壌において培った性質とは(極めて)高度な観察力を要する視覚的・即物的な学問・研究においては有効であり、それが『理系立国としての我が国の近現代の基礎となる性質』であると云えるのではないでしょうか・・?
そして、そうしたことを念頭に置きつつ、あるいは応用しつつ、観察現象に対して精確にコトバを当て嵌めていき、何かしら普遍的な思想・考えといったものの構築を試みれば価値があるのではないかと考えるところなのですが、自身も含めて我々日本人とは、この段階がどうも苦手なのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。
そして、ここまで書いていて不図思い起こされた書籍の記述を以下に抜粋引用しようと思います・・。
岩波書店刊 J.S ミル著 竹内一誠訳 『大学教育について』ISBN-10: 4003910117
ISBN-13: 978-4003910115
『科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのです。
事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具です。
そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、すでに知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するよりずっと簡単なのです。
一生を通じて人間の知性がもっとも活発に働き続けるのは、真理を探究するときです。
われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。
われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。
しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでしょう。
とにかく、われわれすべては、重要な真理として提示されていて相対立する見解について正しい判断を下せる能力を身につけなければなりません。』
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震、大雨といった自然災害によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。
20170710 ネガティブなことがらの大きさが創造に与える影響について・・
昨日投稿分の記事もまた、これまでに作成した記事の中では平均的な閲覧者数でした。また、そのことから、自身は一種の安堵感らしきものを感じます・・。
それはつまり、こうしたネガティブなことがらを記事として書いても、あまり変な受け取られ方はしていないということであり、またそこから『この先も、もうしばらくは記事作成を継続しようといった』気持ちを生じさせてくれます。
とはいえ、昨日の記事を投稿して以来、今現在に至るまで著しく元気になったというわけでもありませんが同時に、以上のことから、その心境とは幾分かはマシになったのではないかとも思われます・・。
そして、それが継続し、ある程度の改善が為されたと感じられたら、今週中にでも応募書類の作成を再開したいと考えております・・。
さて、そういえば昨日投稿分の記事後半部において『継続的な文章の作成を行うためには、その前提として、ある程度の知識・思想の蓄積がなければ難しいのではないか?』といった意味のことを書きましたが、これはたしかに一理あるのではないかと考えます。
しかし、であるからといって、知識・思想さえ有していれば継続的な文章作成が出来るというわけでもなく、それに加えて何と言いますか、一種の感情・精神の【継続的な】発動あるいは気合いのようなものがなければ難しいのではないかとも考えます・・。
そして、この要素において、ネガティブなことがらより生じる精神の停滞、落ち込みといったものは文章の【継続的な】作成を妨げるものなのです・・。
そして、それは文章の作成のみならず創造的な活動全てに対しても当て嵌まり、そのことから、こうした要素【精神活性の程度・状態】とは、さまざまな『時代精神』あるいは『地域性』に対しても大きな影響を与えているといえ、さらには、こうした要素を抜きにして国、地域の歴史を生き生きと『物語る』ことは不可能ではなかろうかと考えます・・。
一方、『ネガティブなことがらを糧として創造の原動力にしているといった場合もあるのではないか?』といった意見もまたありますが、たしかにそうした要素【ネガティブなことがらと精神の発動・気合い】の内面での葛藤により創造的な行為を為されるということは、創造活動の一つの王道ではあると考えますが、そうしますと、ここで問題となるのはネガティブなことがらの『大きさ・程度』であり、それが感情・精神にとって大きすぎる、耐え難いものであれば創造の妨げとなり、一方慣れ得る程度のものであれば、それは内面での葛藤をひいては創造を駆動させる一つの要素ともなるということです。
その意味で昨今受け取った一連の公募での『選考もれ』の通知とは、自身のブログ記事作成を断念させるほどに大きなものではなかったものの、ある種自身を精神的にジリ貧、無気力な状態に追い込んでいたと評することが出来るのではないかと思われます。
そして、そうした状況を改善・打破するため、そうした状況自体を書こうとする試みとは、あるいは愚かではあるのかもしれませんが、同時にそうした試みとは、行ってみる価値はあるのではないかとも思われます・・。
現にそのことによって、一つのブログ記事は作成することが出来たようですし・・(笑)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださったみなさま、繰り返しになるかもしれませんが、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨といった自然災害によって被災された地域での出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。
それはつまり、こうしたネガティブなことがらを記事として書いても、あまり変な受け取られ方はしていないということであり、またそこから『この先も、もうしばらくは記事作成を継続しようといった』気持ちを生じさせてくれます。
とはいえ、昨日の記事を投稿して以来、今現在に至るまで著しく元気になったというわけでもありませんが同時に、以上のことから、その心境とは幾分かはマシになったのではないかとも思われます・・。
そして、それが継続し、ある程度の改善が為されたと感じられたら、今週中にでも応募書類の作成を再開したいと考えております・・。
さて、そういえば昨日投稿分の記事後半部において『継続的な文章の作成を行うためには、その前提として、ある程度の知識・思想の蓄積がなければ難しいのではないか?』といった意味のことを書きましたが、これはたしかに一理あるのではないかと考えます。
しかし、であるからといって、知識・思想さえ有していれば継続的な文章作成が出来るというわけでもなく、それに加えて何と言いますか、一種の感情・精神の【継続的な】発動あるいは気合いのようなものがなければ難しいのではないかとも考えます・・。
そして、この要素において、ネガティブなことがらより生じる精神の停滞、落ち込みといったものは文章の【継続的な】作成を妨げるものなのです・・。
そして、それは文章の作成のみならず創造的な活動全てに対しても当て嵌まり、そのことから、こうした要素【精神活性の程度・状態】とは、さまざまな『時代精神』あるいは『地域性』に対しても大きな影響を与えているといえ、さらには、こうした要素を抜きにして国、地域の歴史を生き生きと『物語る』ことは不可能ではなかろうかと考えます・・。
一方、『ネガティブなことがらを糧として創造の原動力にしているといった場合もあるのではないか?』といった意見もまたありますが、たしかにそうした要素【ネガティブなことがらと精神の発動・気合い】の内面での葛藤により創造的な行為を為されるということは、創造活動の一つの王道ではあると考えますが、そうしますと、ここで問題となるのはネガティブなことがらの『大きさ・程度』であり、それが感情・精神にとって大きすぎる、耐え難いものであれば創造の妨げとなり、一方慣れ得る程度のものであれば、それは内面での葛藤をひいては創造を駆動させる一つの要素ともなるということです。
その意味で昨今受け取った一連の公募での『選考もれ』の通知とは、自身のブログ記事作成を断念させるほどに大きなものではなかったものの、ある種自身を精神的にジリ貧、無気力な状態に追い込んでいたと評することが出来るのではないかと思われます。
そして、そうした状況を改善・打破するため、そうした状況自体を書こうとする試みとは、あるいは愚かではあるのかもしれませんが、同時にそうした試みとは、行ってみる価値はあるのではないかとも思われます・・。
現にそのことによって、一つのブログ記事は作成することが出来たようですし・・(笑)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださったみなさま、繰り返しになるかもしれませんが、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨といった自然災害によって被災された地域での出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。
2017年7月10日月曜日
20170709 最近生じた自身に生じたネガティブな事柄について・・思想とは・・
A「昨日分の投稿記事も比較的多くの方々に読んで頂けたようです。
読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
とはいえ、本日はまた別の主題、題材にて記事作成を行います。
昨今作成投稿した記事においては、あまり自身に関するネガティブなことがらは書きませんでしたが、ここ最近(一か月程)数件の公募に応募し、それら全てがダメであったことを報告します・・。
とはいえ、こうした公募への応募とは、おそらく大抵の就職活動と同様、一件内定を頂ければ良いわけなのですが、それでも、このダメであった時のショックとは自身にとってはなかなかのものであり以前も当ブログ記事にて書きましたようにガックリと膝の力が抜けるような感覚に陥るのです・・。
その後しばらくの間、無気力な状態となってしまうのですが、その一方で同じ日にブログ記事の作成を行うことは、これまでの継続的な記事作成により、ほぼ習慣となっていることからか、どうにか書くことが出来るようにはなっていました・・。
そして現状はというと、さきに書いた、ここ最近に受け取った数件の『選考もれ通知』により生じた無気力・停滞感を打破するために、こうした状況を敢えてブログ記事の主題として書いている次第といえます。
他方、そうした状況にて面白いと思うことは、数年前の自身であれば、こうした状況においても現在ほどは落ち込むことはなく、比較的速やかに立ち直り、次の応募すべき公募職種を探していたことです。
こうした変化(落ち込みやすくなった)が何故生じたのかと考えてはみたところ、以前は相対的に他に行うことが少なかったが故にではないかと思われます。
しかし、そうであっても、やはり現在、こうした状況からの立ち直りが早くなりたいとも考えておりますので、さきに書いたように、その状況を文章化【客体化】し、ブログ記事としているわけではあるのですが、しかし『そこに果たしてある程度の効果があるのか?』とは、もう少し今後の自身内面の経過観察を行わないと分からないように思われます・・。
また、それと同時に思い出すことは、以前に比べ、ある公募職種に対して応募に至るまでの経過が以前(数年前)と比較して慎重になったのではないかということです。
以前は公募要項を読み、かなり気軽に応募に踏み切っていた感がありますが、現在では、その応募要項、職務内容などをある程度読み、そしてしばらく考えてから応募の是非を判断するようになったといえます。
これはある意味、進歩【慎重になった】ではあるのかもしれませんが、しかしそのような精選とも云える過程を経て応募した公募職種が『選考もれ』であった場合、やはりその落ち込む割合もまたさきに書いたように大きくなるものであるのかもしれません・・(苦笑)。
その一方で、仕事において以前の自身では決して出来なかったと思われることが出来るようになったと実感することもいくつかありますので、こうした面においても、いくらかは進歩しているのかもしれません・・(笑)。
また、こうした進歩とも取れることは、あるいはこれまでの継続的なブログ記事作成ともある程度は関連があるのではないかとも思われます・・。
とはいえ、その具体的な関連とは、未だ文章化することは出来ず、今現在、あくまでも漠然とした感覚的なものではありますが、これもまた、今後しばらく記事作成を継続することにより、もう少し視野が明瞭となり、分かってくるのかもしれません・・。
そして、ここまで書いており、不図思ったことは、実際目に見える事物の現象を観察し、それを適切に文章化することが大変重要であることは、無論のこと認めますが、その一方において、文章を書く主体の内面についてを文章化し『物語る』こともまた、それに劣らず重要ではないかということです・・。
おそらく、そうしたものが蓄積され文章的な意味での最大公約数化されたものが、さまざまなレベルにおける『思想』といったものではないかと思われます。
私は『思想』を過大評価するつもりはありませんが、しかし現今の我が国あるいは諸外国においても同様であるかもしれませんが、著しく軽視あるいは欠けているのが『思想』およびそれを用いた議論・対話ではないかと思われます。
『思想』とは、おそらく現今都市を中心として流行している『さまざまなマニュアル化された頭の使い方』だけではおそらく生れ出てこないのではないかと思うのです・・。
それ故、私はもうしばらく文章を書き続けます・・(笑)。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震、大雨といった自然災害により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。」
読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
とはいえ、本日はまた別の主題、題材にて記事作成を行います。
昨今作成投稿した記事においては、あまり自身に関するネガティブなことがらは書きませんでしたが、ここ最近(一か月程)数件の公募に応募し、それら全てがダメであったことを報告します・・。
とはいえ、こうした公募への応募とは、おそらく大抵の就職活動と同様、一件内定を頂ければ良いわけなのですが、それでも、このダメであった時のショックとは自身にとってはなかなかのものであり以前も当ブログ記事にて書きましたようにガックリと膝の力が抜けるような感覚に陥るのです・・。
その後しばらくの間、無気力な状態となってしまうのですが、その一方で同じ日にブログ記事の作成を行うことは、これまでの継続的な記事作成により、ほぼ習慣となっていることからか、どうにか書くことが出来るようにはなっていました・・。
そして現状はというと、さきに書いた、ここ最近に受け取った数件の『選考もれ通知』により生じた無気力・停滞感を打破するために、こうした状況を敢えてブログ記事の主題として書いている次第といえます。
他方、そうした状況にて面白いと思うことは、数年前の自身であれば、こうした状況においても現在ほどは落ち込むことはなく、比較的速やかに立ち直り、次の応募すべき公募職種を探していたことです。
こうした変化(落ち込みやすくなった)が何故生じたのかと考えてはみたところ、以前は相対的に他に行うことが少なかったが故にではないかと思われます。
しかし、そうであっても、やはり現在、こうした状況からの立ち直りが早くなりたいとも考えておりますので、さきに書いたように、その状況を文章化【客体化】し、ブログ記事としているわけではあるのですが、しかし『そこに果たしてある程度の効果があるのか?』とは、もう少し今後の自身内面の経過観察を行わないと分からないように思われます・・。
また、それと同時に思い出すことは、以前に比べ、ある公募職種に対して応募に至るまでの経過が以前(数年前)と比較して慎重になったのではないかということです。
以前は公募要項を読み、かなり気軽に応募に踏み切っていた感がありますが、現在では、その応募要項、職務内容などをある程度読み、そしてしばらく考えてから応募の是非を判断するようになったといえます。
これはある意味、進歩【慎重になった】ではあるのかもしれませんが、しかしそのような精選とも云える過程を経て応募した公募職種が『選考もれ』であった場合、やはりその落ち込む割合もまたさきに書いたように大きくなるものであるのかもしれません・・(苦笑)。
その一方で、仕事において以前の自身では決して出来なかったと思われることが出来るようになったと実感することもいくつかありますので、こうした面においても、いくらかは進歩しているのかもしれません・・(笑)。
また、こうした進歩とも取れることは、あるいはこれまでの継続的なブログ記事作成ともある程度は関連があるのではないかとも思われます・・。
とはいえ、その具体的な関連とは、未だ文章化することは出来ず、今現在、あくまでも漠然とした感覚的なものではありますが、これもまた、今後しばらく記事作成を継続することにより、もう少し視野が明瞭となり、分かってくるのかもしれません・・。
そして、ここまで書いており、不図思ったことは、実際目に見える事物の現象を観察し、それを適切に文章化することが大変重要であることは、無論のこと認めますが、その一方において、文章を書く主体の内面についてを文章化し『物語る』こともまた、それに劣らず重要ではないかということです・・。
おそらく、そうしたものが蓄積され文章的な意味での最大公約数化されたものが、さまざまなレベルにおける『思想』といったものではないかと思われます。
私は『思想』を過大評価するつもりはありませんが、しかし現今の我が国あるいは諸外国においても同様であるかもしれませんが、著しく軽視あるいは欠けているのが『思想』およびそれを用いた議論・対話ではないかと思われます。
『思想』とは、おそらく現今都市を中心として流行している『さまざまなマニュアル化された頭の使い方』だけではおそらく生れ出てこないのではないかと思うのです・・。
それ故、私はもうしばらく文章を書き続けます・・(笑)。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震、大雨といった自然災害により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。」
2017年7月9日日曜日
20170708 昨日投稿記事への追加的な内容・もう少し具体的に・・。
本日は帰宅が遅くなり、新たなブログ記事の作成は止めておこうと考えておりましたが、ブログ記事の閲覧者数をチェックしてみますと、昨日投稿分の記事が思いのほか多く読んで頂いていたことから、つい先ほど新たな記事作成に踏み切り、現在このように書いている次第です・・(苦笑)。
また、ここまで書いていて気が付いたことですが、今回の記事投稿により総投稿記事数が680となります。
これはあまりキリの良い数字ではありませんが、同時に現時点におけるこの投稿記事数とは、この調子にて記事作成を継続することにより、今月(7月)中に総投稿記事700に到達することが十分可能であることをも示唆します。
それ故、あまり肩に力は入れないものの、そのことを頭の片隅に置きつつ今後も記事作成を継続していこうと思います。
さて、昨日投稿分の記事にて書いたことは、昨今我が国の大学工学部においては修士課程に進むことが一般的な流れになってきたことから着想を得たことです。
また、異論があるかもしれませんが、工学部においては基本的に男性が占める割合が高いと云われ、それに対して、女性が占める割合が高いとされる学部、学科とは看護、口腔保健、介護系ではないかと思われます。
加えて、我が国の高度経済成長期においては、さまざまな工業製品の製造、輸出がその発展・成長の基礎となったことは周知のことであると考えます。
そして現在、我が国における工業製品とは、未だかつての【世界規模での】優位性を保持した分野もあるとは思われますが、全般的には、周辺各国の工業技術の進化・発展により、かつてほどの優位性を保持することが困難な状態であると云い得ます。
無論、今後も我が国はこうした状態の克服に努めるものと考えますが・・。
また同時に、我が国社会における世代構成とは、今後、益々高齢者の占める割合が高くなることもまた周知のことであると考えます。
そして、それらの諸状況を鑑み、これからの社会の在り方を考えた際の一つの案として、昨日投稿記事のような内容となった次第です。
加えて、その詳細においては更なる熟考の余地がありますが、概括としては高等教育機関の活性化をもはかることが出来、少なくとも、そこまで悪い考えではないと思われるのですが、さて如何でしょうか・・?
また、もう一つ考えたことは六年制の大学にて看護師・歯科衛生士・社会福祉士の中から【履修科目によって】二つの国家試験受験資格を得ることが出来る学部、学科が新たに新設されれば、それはそれで社会・個人にとっても有益ではないだろうかとも考えましたが、如何でしょうか?
また、そうした場合、大学院への進学は修士課程を経ることなく、医歯薬獣医学部・学科と同様、直接博士課程への進学が可能となり、既存の医歯薬看護系の大学にて修士課程を増設することを要せず対応することが可能となるではないかと思われます・・。
とはいえ、こうした場合においても重要なことは、その教員の育成・確保、適切な教育カリキュラムの作成ではないかと思われます・・。
私見として、こうした新たな大学を新設するのであれば、先ずは半官半民【地域も等分に責任を持つ】にて比較的辺縁とされる地域【地域活性化も望める】に二つ程度【異なる地域に】設けてみるというのはどうかと思うのですが、如何でしょうか?
先日からの九州北部での大雨による被害が出来る限り少ないことを願います。
また、昨年より現在に至るまでに発生した一連の熊本、山陰東部、福島県周辺での地震により被害を被った地域の出来るかぎり早期の諸インフラの復旧、そしてその後の速やかな復興を祈念しています。
また、ここまで書いていて気が付いたことですが、今回の記事投稿により総投稿記事数が680となります。
これはあまりキリの良い数字ではありませんが、同時に現時点におけるこの投稿記事数とは、この調子にて記事作成を継続することにより、今月(7月)中に総投稿記事700に到達することが十分可能であることをも示唆します。
それ故、あまり肩に力は入れないものの、そのことを頭の片隅に置きつつ今後も記事作成を継続していこうと思います。
さて、昨日投稿分の記事にて書いたことは、昨今我が国の大学工学部においては修士課程に進むことが一般的な流れになってきたことから着想を得たことです。
また、異論があるかもしれませんが、工学部においては基本的に男性が占める割合が高いと云われ、それに対して、女性が占める割合が高いとされる学部、学科とは看護、口腔保健、介護系ではないかと思われます。
加えて、我が国の高度経済成長期においては、さまざまな工業製品の製造、輸出がその発展・成長の基礎となったことは周知のことであると考えます。
そして現在、我が国における工業製品とは、未だかつての【世界規模での】優位性を保持した分野もあるとは思われますが、全般的には、周辺各国の工業技術の進化・発展により、かつてほどの優位性を保持することが困難な状態であると云い得ます。
無論、今後も我が国はこうした状態の克服に努めるものと考えますが・・。
また同時に、我が国社会における世代構成とは、今後、益々高齢者の占める割合が高くなることもまた周知のことであると考えます。
そして、それらの諸状況を鑑み、これからの社会の在り方を考えた際の一つの案として、昨日投稿記事のような内容となった次第です。
加えて、その詳細においては更なる熟考の余地がありますが、概括としては高等教育機関の活性化をもはかることが出来、少なくとも、そこまで悪い考えではないと思われるのですが、さて如何でしょうか・・?
また、もう一つ考えたことは六年制の大学にて看護師・歯科衛生士・社会福祉士の中から【履修科目によって】二つの国家試験受験資格を得ることが出来る学部、学科が新たに新設されれば、それはそれで社会・個人にとっても有益ではないだろうかとも考えましたが、如何でしょうか?
また、そうした場合、大学院への進学は修士課程を経ることなく、医歯薬獣医学部・学科と同様、直接博士課程への進学が可能となり、既存の医歯薬看護系の大学にて修士課程を増設することを要せず対応することが可能となるではないかと思われます・・。
とはいえ、こうした場合においても重要なことは、その教員の育成・確保、適切な教育カリキュラムの作成ではないかと思われます・・。
私見として、こうした新たな大学を新設するのであれば、先ずは半官半民【地域も等分に責任を持つ】にて比較的辺縁とされる地域【地域活性化も望める】に二つ程度【異なる地域に】設けてみるというのはどうかと思うのですが、如何でしょうか?
先日からの九州北部での大雨による被害が出来る限り少ないことを願います。
また、昨年より現在に至るまでに発生した一連の熊本、山陰東部、福島県周辺での地震により被害を被った地域の出来るかぎり早期の諸インフラの復旧、そしてその後の速やかな復興を祈念しています。
2017年7月8日土曜日
20170707 学術・職種連携の新たな可能性について・・
いくつかの研究分野において時折ダブル・ドクターといった方々に出くわすことがあります。
これは医療分野においては概ね、医師・歯科医師双方の免許を保持しているということになり、さらにトリプルとなると医師・歯科医師・獣医師の三つの免許を保持しているということになりますが、残念ながら自身はこれまでにそうした方にはお目に掛かった、聞いたことがありません・・(笑)。
また医療分野以外でのダブル・ドクターとは概ね、博士号を二つ取得されていることを意味し、これは数少ないながらもこれまでにお目に掛かったことがあります。
加えて、博士号を三つ取得されたトリプル・ドクターとは、さらに稀ではあるものの、世の中におられるようであり、実際に一度だけお目に掛かったことがあります。
一方、世の中には修士号を二つ取得されたダブル・マスターといった方々もおられるようであり、聞いたハナシによりますと、税理士国家試験の科目免除のため、これら(法学・経営学修士)を取得された方々が少なからずおられるとのことです。
そうしますと、この税理士国家試験の科目免除を目的としたダブル・マスターとは、資格取得といった実務的な意味合いが強いことから、冒頭に書いた医療分野におけるダブル・ドクターに幾分近いのではないかと思われます・・。
一方、そうではなくて、あまり関連性がないと思われる研究分野もしくは実務的意味合いを見出すことが困難なダブル・マスターそしてダブル・ドクターもまた、一体どのような経緯にてそのように至ったのか、少なからず興味を抱かせます・・(笑)。
また他方、今後、在宅での医療の需要、必要性が高まりつつある我が国社会の中で特に増加するのではないかと思われるのが看護学・社会福祉学あるいは口腔衛生学・社会福祉学といった組み合わせでのダブル・マスターあるいはダブル・ドクターを取得された看護師・歯科衛生士・社会福祉士もしくは介護支援専門員(ケア・マネージャー)ではないかと考えます。
こうした方々が社会にて増加し、活躍できる場がより多くなることにより、我が国の医療・介護分野とは現場・臨床レベルから充実し、より一層緊密な医療・介護の連携が可能になるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?
あるいはこれを別言すると、一般的に女性が多いとされるこれら職種間における(女性特有の)自然発生的な連携とは、学際性を望みながらも、タコツボ状態をなかなか解消できないでいる我が国の男性に対し、新たな学際領域および、そこでの具体的な活動(連携)の在り方が提示される可能性があるのではないかということになります。
そしてまた、その在り方(多職種連携の仕組み・パッケージ)が、高齢化先進国と称される我が国が、新たに世界に対し誇ることが出来る文化となることを願う次第です。
ともあれ今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日より九州北部にて大雨が降ったと聞いております。
そして、これによる被害が出来る限り少ないことを願います。
また、昨年から現在に至るまでに生じた一連の熊本、山陰東部、福島県周辺での地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。
これは医療分野においては概ね、医師・歯科医師双方の免許を保持しているということになり、さらにトリプルとなると医師・歯科医師・獣医師の三つの免許を保持しているということになりますが、残念ながら自身はこれまでにそうした方にはお目に掛かった、聞いたことがありません・・(笑)。
また医療分野以外でのダブル・ドクターとは概ね、博士号を二つ取得されていることを意味し、これは数少ないながらもこれまでにお目に掛かったことがあります。
加えて、博士号を三つ取得されたトリプル・ドクターとは、さらに稀ではあるものの、世の中におられるようであり、実際に一度だけお目に掛かったことがあります。
一方、世の中には修士号を二つ取得されたダブル・マスターといった方々もおられるようであり、聞いたハナシによりますと、税理士国家試験の科目免除のため、これら(法学・経営学修士)を取得された方々が少なからずおられるとのことです。
そうしますと、この税理士国家試験の科目免除を目的としたダブル・マスターとは、資格取得といった実務的な意味合いが強いことから、冒頭に書いた医療分野におけるダブル・ドクターに幾分近いのではないかと思われます・・。
一方、そうではなくて、あまり関連性がないと思われる研究分野もしくは実務的意味合いを見出すことが困難なダブル・マスターそしてダブル・ドクターもまた、一体どのような経緯にてそのように至ったのか、少なからず興味を抱かせます・・(笑)。
また他方、今後、在宅での医療の需要、必要性が高まりつつある我が国社会の中で特に増加するのではないかと思われるのが看護学・社会福祉学あるいは口腔衛生学・社会福祉学といった組み合わせでのダブル・マスターあるいはダブル・ドクターを取得された看護師・歯科衛生士・社会福祉士もしくは介護支援専門員(ケア・マネージャー)ではないかと考えます。
こうした方々が社会にて増加し、活躍できる場がより多くなることにより、我が国の医療・介護分野とは現場・臨床レベルから充実し、より一層緊密な医療・介護の連携が可能になるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?
あるいはこれを別言すると、一般的に女性が多いとされるこれら職種間における(女性特有の)自然発生的な連携とは、学際性を望みながらも、タコツボ状態をなかなか解消できないでいる我が国の男性に対し、新たな学際領域および、そこでの具体的な活動(連携)の在り方が提示される可能性があるのではないかということになります。
そしてまた、その在り方(多職種連携の仕組み・パッケージ)が、高齢化先進国と称される我が国が、新たに世界に対し誇ることが出来る文化となることを願う次第です。
ともあれ今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日より九州北部にて大雨が降ったと聞いております。
そして、これによる被害が出来る限り少ないことを願います。
また、昨年から現在に至るまでに生じた一連の熊本、山陰東部、福島県周辺での地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。
2017年7月6日木曜日
20170706 昨日投稿記事から思ったこと、別の書籍からの抜粋引用(『忠誠と反逆』より)
A「昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの閲覧者数(26)を得ることが出来ました。
これは記事の前半・後半(書籍からの抜粋引用部)の何れが良かった、共感を呼んだのであるか分かりかねるところではありますが、後半の書籍からの抜粋引用部内容と多少関連があると思われる別の書籍の記述を思い出しましたので、この記述をあとで抜粋引用してみますので、よろしければ読んでみてください。
さて、昨今報道されるさまざまな出来事から、現在、政権を担当されている勢力に、ある種の混乱、錯乱らしきものが生じている、広がっているのではないかとも思われます。
そして、もしも、こうした見立て・観測がある程度妥当であるならば、我々は少なくとも(余程の事態が生じない限り)その勢力に国政をいましばらく委ね続けなければならない事態であると(意に反しながらも)認識することになるわけですが、そうした状況(政権担当勢力に対しての国民の絶望が広汎に生じた状況)においては国民は政権に対し、また政権は国民に対し如何なる態度にて臨むことになるのでしょうか・・?
また、こうした状況とは多少注意深く我が国の社会状況を観察し続け、且つ何かしら攻勢的な活動を画策・企図している他の国・組織にとって好機と認識することが多いのではないでしょうか?
また、他面において、そうした状況とは皮肉なことに政権担当勢力にとっても好機であり、そうした状況を国民に喧伝し、社会において危機感を惹起、自己勢力の正当化を為し、武断的に事態の収拾を行い、そして支持率の向上を狙うといったことも考えられます・・。
そして、それ故に特に政権担当勢力とは、あらゆる状況において国民からの信頼を損なうことは避けた方が良いと思われるのです・・。
また、こうした考えられる事態において『戦闘』をその主要な・本質的な目的とする武力組織・軍隊の政治的発言力が強い、あるいは政権担当勢力と結託した国家とは、より、そうした事態の収拾に際し防衛・国防と称して武力を用いる蓋然性が高くなると考えられます。
ともあれ、ここまで書いておりましたら、冒頭に書きました昨日投稿分記事にて用いた書籍とは別の関連があると思われる書籍からの記述を抜粋引用し易い流れ・文脈になってきたと思われますので、以下にそれを示します。
筑摩書房刊 丸山眞男著 『忠誠と反逆』転形期日本の精神的位相 pp.241-243より抜粋引用
ISBN-10: 4480083987
ISBN-13: 978-4480083982
『国家の行動がよって以って則るべき国家特有の準則は何か。この古くしてかつ新たな問題がいわゆる国家理性(raison d'etat ; Staatsrason)と呼ばれている観念をめぐって展開されて来たことは周知の通りである。
それは歴史的個体としての国家の行動目的を示すと同時に、そうした目的を実現するための技術(Staatskunst)をも示す。
国家理性の問題は政治権力の把握者が被支配層を支配し操縦する場合にも、他の国家に対する行動の場合にも表れる。
しかし国家理性の問題が最高度に白熱化し、もっとも喧しい論議の対象となるのはいうまでもなく、後の場合、すなわち国家の対外行動である。
国家的必要とか「国是」とかいわれるとき、それはおおむね国際関係についてである。
権力とモラルとの交錯と矛盾のデリケートな関係は国際関係における国家の行動にもっともよく発現される。
*国家理性という訳語は、raisonという言葉の意味を十分に伝えていないのであまり適当とは思われないが、ほかにピッタリした言葉が見当たらず、一般にもそういう訳で通っているのでそれに従った。
一方において国際平和の理想と戦争の罪悪ということが国際社会におけるほど昔から喧しく叫ばれるところはないが、またまさにここにおけるほど力は正義なり(マイト・イズ・ライト)という恥知らずな命題が大手をふって通用してきた社会もない。
そうして屡々露骨な国家権力の発動がきらびやかな道徳的衣装をまとって現れ、そうした行動の真の目的を隠蔽する。
しかも他方権力政治(power politics)ということがいわれる場合、その場合の権力とは単純な自然力ではなく一つの社会力である限り、そこに不可避的に心理的なモメントを包含する。
権力行動への「大義名分」を、たとえミニマムにせよ伴わない政治権力というものは存在しえない。
その限りではモラルとか、理想とか、総じてイデオロギーは、けっしてたんに「力」の反射ないしはその外的粉飾にすぎない、として片付けることは出来ないのである。
ここに政治権力の逆説的な性格がある。
「力は正義なり」がきわめて危険な憎むべき命題であること、いうに俟たない。
しかしその逆に「正義は力なり」という原理に安心して手放しで安住して居られないところに政治社会の、とくに国際政治の悲しい現実がある。
だから正義を国際社会に妥当させようと志す国家は少なくも「力を伴った正義」(right with might)を原理とすることを余儀なくされる。
しかしその場合でも、はたして「力」のなかにひそむデモーニッシュな要素はつねに忠実に正義の僕としてとどまるであろうか。
かくして問題は限りなく複雑である。
そうしてこれはけっしてたんなる抽象的思弁の問題でなない。
「宇内に大義を布く」のを使命としたはずのわが「大日本帝国」の支配者は国際社会において償い難い罪過を冒して、われわれの眼前で世界の厳粛な法廷に立っているではないか。しかも悪夢のような第二次世界大戦が過ぎ去っていくばくもない現在、世界は「冷たい戦争」という新しい夢魔に悩まされている。
この冷静な現実から眼をそらして、ユートピアの世界に逃避することも、あるいは、どうせ国際関係などというものは、いつでも、どこでも力づくめだ、といったシニシズムに居座ることも、ともに容易である。
しかしその両者いずれの態度にも甘んじない者はここで近代国家と近代国際社会の今日まで発展して来た過程をもう一度ふりかえって、現在の世界の歴史的境位を誤りなく見定めることの必要を痛切に感じるであろう。
そうした場合、近代国家の国際行動が担って来た国家理性の理念を省みることは、近代国際社会の社会的基盤の分析とともに不可欠ではないかと思われる。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日より九州北部にて大雨とのことです、これによる被害が出来る限り少ないことを願います。
また、昨年より現在に至るまでに生じた一連の熊本、山陰東部、福島県周辺での地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。」
これは記事の前半・後半(書籍からの抜粋引用部)の何れが良かった、共感を呼んだのであるか分かりかねるところではありますが、後半の書籍からの抜粋引用部内容と多少関連があると思われる別の書籍の記述を思い出しましたので、この記述をあとで抜粋引用してみますので、よろしければ読んでみてください。
さて、昨今報道されるさまざまな出来事から、現在、政権を担当されている勢力に、ある種の混乱、錯乱らしきものが生じている、広がっているのではないかとも思われます。
そして、もしも、こうした見立て・観測がある程度妥当であるならば、我々は少なくとも(余程の事態が生じない限り)その勢力に国政をいましばらく委ね続けなければならない事態であると(意に反しながらも)認識することになるわけですが、そうした状況(政権担当勢力に対しての国民の絶望が広汎に生じた状況)においては国民は政権に対し、また政権は国民に対し如何なる態度にて臨むことになるのでしょうか・・?
また、こうした状況とは多少注意深く我が国の社会状況を観察し続け、且つ何かしら攻勢的な活動を画策・企図している他の国・組織にとって好機と認識することが多いのではないでしょうか?
また、他面において、そうした状況とは皮肉なことに政権担当勢力にとっても好機であり、そうした状況を国民に喧伝し、社会において危機感を惹起、自己勢力の正当化を為し、武断的に事態の収拾を行い、そして支持率の向上を狙うといったことも考えられます・・。
そして、それ故に特に政権担当勢力とは、あらゆる状況において国民からの信頼を損なうことは避けた方が良いと思われるのです・・。
また、こうした考えられる事態において『戦闘』をその主要な・本質的な目的とする武力組織・軍隊の政治的発言力が強い、あるいは政権担当勢力と結託した国家とは、より、そうした事態の収拾に際し防衛・国防と称して武力を用いる蓋然性が高くなると考えられます。
ともあれ、ここまで書いておりましたら、冒頭に書きました昨日投稿分記事にて用いた書籍とは別の関連があると思われる書籍からの記述を抜粋引用し易い流れ・文脈になってきたと思われますので、以下にそれを示します。
筑摩書房刊 丸山眞男著 『忠誠と反逆』転形期日本の精神的位相 pp.241-243より抜粋引用
『国家の行動がよって以って則るべき国家特有の準則は何か。この古くしてかつ新たな問題がいわゆる国家理性(raison d'etat ; Staatsrason)と呼ばれている観念をめぐって展開されて来たことは周知の通りである。
それは歴史的個体としての国家の行動目的を示すと同時に、そうした目的を実現するための技術(Staatskunst)をも示す。
国家理性の問題は政治権力の把握者が被支配層を支配し操縦する場合にも、他の国家に対する行動の場合にも表れる。
しかし国家理性の問題が最高度に白熱化し、もっとも喧しい論議の対象となるのはいうまでもなく、後の場合、すなわち国家の対外行動である。
国家的必要とか「国是」とかいわれるとき、それはおおむね国際関係についてである。
権力とモラルとの交錯と矛盾のデリケートな関係は国際関係における国家の行動にもっともよく発現される。
*国家理性という訳語は、raisonという言葉の意味を十分に伝えていないのであまり適当とは思われないが、ほかにピッタリした言葉が見当たらず、一般にもそういう訳で通っているのでそれに従った。
一方において国際平和の理想と戦争の罪悪ということが国際社会におけるほど昔から喧しく叫ばれるところはないが、またまさにここにおけるほど力は正義なり(マイト・イズ・ライト)という恥知らずな命題が大手をふって通用してきた社会もない。
そうして屡々露骨な国家権力の発動がきらびやかな道徳的衣装をまとって現れ、そうした行動の真の目的を隠蔽する。
しかも他方権力政治(power politics)ということがいわれる場合、その場合の権力とは単純な自然力ではなく一つの社会力である限り、そこに不可避的に心理的なモメントを包含する。
権力行動への「大義名分」を、たとえミニマムにせよ伴わない政治権力というものは存在しえない。
その限りではモラルとか、理想とか、総じてイデオロギーは、けっしてたんに「力」の反射ないしはその外的粉飾にすぎない、として片付けることは出来ないのである。
ここに政治権力の逆説的な性格がある。
「力は正義なり」がきわめて危険な憎むべき命題であること、いうに俟たない。
しかしその逆に「正義は力なり」という原理に安心して手放しで安住して居られないところに政治社会の、とくに国際政治の悲しい現実がある。
だから正義を国際社会に妥当させようと志す国家は少なくも「力を伴った正義」(right with might)を原理とすることを余儀なくされる。
しかしその場合でも、はたして「力」のなかにひそむデモーニッシュな要素はつねに忠実に正義の僕としてとどまるであろうか。
かくして問題は限りなく複雑である。
そうしてこれはけっしてたんなる抽象的思弁の問題でなない。
「宇内に大義を布く」のを使命としたはずのわが「大日本帝国」の支配者は国際社会において償い難い罪過を冒して、われわれの眼前で世界の厳粛な法廷に立っているではないか。しかも悪夢のような第二次世界大戦が過ぎ去っていくばくもない現在、世界は「冷たい戦争」という新しい夢魔に悩まされている。
この冷静な現実から眼をそらして、ユートピアの世界に逃避することも、あるいは、どうせ国際関係などというものは、いつでも、どこでも力づくめだ、といったシニシズムに居座ることも、ともに容易である。
しかしその両者いずれの態度にも甘んじない者はここで近代国家と近代国際社会の今日まで発展して来た過程をもう一度ふりかえって、現在の世界の歴史的境位を誤りなく見定めることの必要を痛切に感じるであろう。
そうした場合、近代国家の国際行動が担って来た国家理性の理念を省みることは、近代国際社会の社会的基盤の分析とともに不可欠ではないかと思われる。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日より九州北部にて大雨とのことです、これによる被害が出来る限り少ないことを願います。
また、昨年より現在に至るまでに生じた一連の熊本、山陰東部、福島県周辺での地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。」
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