これは記事の前半・後半(書籍からの抜粋引用部)の何れが良かった、共感を呼んだのであるか分かりかねるところではありますが、後半の書籍からの抜粋引用部内容と多少関連があると思われる別の書籍の記述を思い出しましたので、この記述をあとで抜粋引用してみますので、よろしければ読んでみてください。
さて、昨今報道されるさまざまな出来事から、現在、政権を担当されている勢力に、ある種の混乱、錯乱らしきものが生じている、広がっているのではないかとも思われます。
そして、もしも、こうした見立て・観測がある程度妥当であるならば、我々は少なくとも(余程の事態が生じない限り)その勢力に国政をいましばらく委ね続けなければならない事態であると(意に反しながらも)認識することになるわけですが、そうした状況(政権担当勢力に対しての国民の絶望が広汎に生じた状況)においては国民は政権に対し、また政権は国民に対し如何なる態度にて臨むことになるのでしょうか・・?
また、こうした状況とは多少注意深く我が国の社会状況を観察し続け、且つ何かしら攻勢的な活動を画策・企図している他の国・組織にとって好機と認識することが多いのではないでしょうか?
また、他面において、そうした状況とは皮肉なことに政権担当勢力にとっても好機であり、そうした状況を国民に喧伝し、社会において危機感を惹起、自己勢力の正当化を為し、武断的に事態の収拾を行い、そして支持率の向上を狙うといったことも考えられます・・。
そして、それ故に特に政権担当勢力とは、あらゆる状況において国民からの信頼を損なうことは避けた方が良いと思われるのです・・。
また、こうした考えられる事態において『戦闘』をその主要な・本質的な目的とする武力組織・軍隊の政治的発言力が強い、あるいは政権担当勢力と結託した国家とは、より、そうした事態の収拾に際し防衛・国防と称して武力を用いる蓋然性が高くなると考えられます。
ともあれ、ここまで書いておりましたら、冒頭に書きました昨日投稿分記事にて用いた書籍とは別の関連があると思われる書籍からの記述を抜粋引用し易い流れ・文脈になってきたと思われますので、以下にそれを示します。
筑摩書房刊 丸山眞男著 『忠誠と反逆』転形期日本の精神的位相 pp.241-243より抜粋引用
『国家の行動がよって以って則るべき国家特有の準則は何か。この古くしてかつ新たな問題がいわゆる国家理性(raison d'etat ; Staatsrason)と呼ばれている観念をめぐって展開されて来たことは周知の通りである。
それは歴史的個体としての国家の行動目的を示すと同時に、そうした目的を実現するための技術(Staatskunst)をも示す。
国家理性の問題は政治権力の把握者が被支配層を支配し操縦する場合にも、他の国家に対する行動の場合にも表れる。
しかし国家理性の問題が最高度に白熱化し、もっとも喧しい論議の対象となるのはいうまでもなく、後の場合、すなわち国家の対外行動である。
国家的必要とか「国是」とかいわれるとき、それはおおむね国際関係についてである。
権力とモラルとの交錯と矛盾のデリケートな関係は国際関係における国家の行動にもっともよく発現される。
*国家理性という訳語は、raisonという言葉の意味を十分に伝えていないのであまり適当とは思われないが、ほかにピッタリした言葉が見当たらず、一般にもそういう訳で通っているのでそれに従った。
一方において国際平和の理想と戦争の罪悪ということが国際社会におけるほど昔から喧しく叫ばれるところはないが、またまさにここにおけるほど力は正義なり(マイト・イズ・ライト)という恥知らずな命題が大手をふって通用してきた社会もない。
そうして屡々露骨な国家権力の発動がきらびやかな道徳的衣装をまとって現れ、そうした行動の真の目的を隠蔽する。
しかも他方権力政治(power politics)ということがいわれる場合、その場合の権力とは単純な自然力ではなく一つの社会力である限り、そこに不可避的に心理的なモメントを包含する。
権力行動への「大義名分」を、たとえミニマムにせよ伴わない政治権力というものは存在しえない。
その限りではモラルとか、理想とか、総じてイデオロギーは、けっしてたんに「力」の反射ないしはその外的粉飾にすぎない、として片付けることは出来ないのである。
ここに政治権力の逆説的な性格がある。
「力は正義なり」がきわめて危険な憎むべき命題であること、いうに俟たない。
しかしその逆に「正義は力なり」という原理に安心して手放しで安住して居られないところに政治社会の、とくに国際政治の悲しい現実がある。
だから正義を国際社会に妥当させようと志す国家は少なくも「力を伴った正義」(right with might)を原理とすることを余儀なくされる。
しかしその場合でも、はたして「力」のなかにひそむデモーニッシュな要素はつねに忠実に正義の僕としてとどまるであろうか。
かくして問題は限りなく複雑である。
そうしてこれはけっしてたんなる抽象的思弁の問題でなない。
「宇内に大義を布く」のを使命としたはずのわが「大日本帝国」の支配者は国際社会において償い難い罪過を冒して、われわれの眼前で世界の厳粛な法廷に立っているではないか。しかも悪夢のような第二次世界大戦が過ぎ去っていくばくもない現在、世界は「冷たい戦争」という新しい夢魔に悩まされている。
この冷静な現実から眼をそらして、ユートピアの世界に逃避することも、あるいは、どうせ国際関係などというものは、いつでも、どこでも力づくめだ、といったシニシズムに居座ることも、ともに容易である。
しかしその両者いずれの態度にも甘んじない者はここで近代国家と近代国際社会の今日まで発展して来た過程をもう一度ふりかえって、現在の世界の歴史的境位を誤りなく見定めることの必要を痛切に感じるであろう。
そうした場合、近代国家の国際行動が担って来た国家理性の理念を省みることは、近代国際社会の社会的基盤の分析とともに不可欠ではないかと思われる。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日より九州北部にて大雨とのことです、これによる被害が出来る限り少ないことを願います。
また、昨年より現在に至るまでに生じた一連の熊本、山陰東部、福島県周辺での地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。」
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