A「600記事到達まで残り5記事未満の投稿となりましたが、これまでと同様、心境の変化などは特に認められません・・。
また、おそらくこうした心境の方が平穏のうちに600記事に到達することが出来るのではないかと思われますが、その反面において、もう少し何かしらの変化が内面に認められれば面白いのですが・・(苦笑)。
どうやら、こうしたことは自身の意識上ではどうにもならないものであるようです・・(苦笑)。
またさらに、現在継続しているブログ記事の作成なども、おそらく自身の意識(の力)だけでは叶わなかったのではないかと思われます・・。
これには、もう少し意識の深いところの『何か』が変化、駆動しなければ、どうにもならないような気がするのです・・。
とはいえ、この深層の意識とは、一体如何なる外界からの影響、効果により変化、駆動するのかとは、今もって自身のことながら、よく分からないところです・・(苦笑)。
さらにこうした深層意識の変化、駆動を齎す影響、効果とは個々人のそれまでの経験により異なる(食べ物の好き嫌いなどと同様に)と考えられるため、科学的な分析そして普遍化することは困難ではないかと思われます・・(ある程度までは出来るのかもしれないが)。
それ故、こうしたことは結局のところ時間をかけ、苦労をしてでも自分自身で探し求める以外ないのではないかと思うのです・・。
つまり、そこにはマニュアルといったものはないのです・・。
そして、その代わりに、さまざまな過去の事例である歴史、あるいはそうした歴史を抽象化したものとしての思想、哲学といったものがあるのではないかと考えます・・。
そうしたことから、上記のような歴史、思想、哲学といったものは本質的に個々人が能動的に取り扱う、取り組むことによってのみ、はじめて何かを開示してくれるのではないかと思われるのです・・(時によってはとんでもないことが分かると聞きますが、その内容の価値とは個々人で大きく異なるため、あまり明言されることは少ない、しかし示唆的に語られることはある・・)。
いや、こうした本質的とも云えることに関して、本来は文系も理系も関係ないのかもしれませんが、理系学問とは概ね、その知識を能動、受動であれ、とりあえず保持していれば、職業に結び付き易く、ひいては生活がし易くなるといった性質があるため、さきに述べた『時間をかけ、苦労をしてでも』といった意味合いが若干異なってくるのではないかと思われるのです・・。
こうしたことは、一見些細且つ微妙ではありながら、実際にそれぞれの分野にて研究に従事されている方々をある程度広く比較してみると、それなりに大きな類型(ステレオタイプ)の相違といったものに結び付くのではないかと思われるのです・・。
また、こうしたことは、地域間、国際的な比較を通じ、更に大きな類型の相違といったものが看取されるのではないかとも思われますが、そこまではとりあえず、現在の自身では手に余るものがあります・・。
とはいえ、そこでまた大事であるのが、さきに述べた各々地域、国々の持つ土着の歴史、思想、哲学といったものではないかと考える次第です・・。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に発生した熊本、山陰東部そして福島県周辺における地震によって被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月16日日曜日
2017年4月15日土曜日
20170414 コスプレ化する社会と権威について・・
本日の首都圏は気温も上昇し、日中は特に寒さを感じることはないようでしたが、こうした季節の変わり目になりますと、体調もまた多少変化するようであり、本日はどうしたわけか一日を通し頭痛に悩まされました・・。
そのことから、本日はブログ記事の更新を断念しようかと考えた次第ですが、目標とする600記事到達まであとわずかのところで、何も書かないというのも、多少口惜しいところですので、とりあえず何かしら書いておこうと考え、まだ頭の重さも残るなか記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
そういえば、昨日投稿した記事に多少関連することであるのかもしれませんが、先日知人から聞いたところによりますと『最近の我が国の社会とは何でもコスプレの対象にする傾向がある』とのことであり、これは云われてみますと、たしかに思い当たることが少なからずあります・・。
とはいえ、我が国とは古来よりその物真似の巧みさこそが優れた国民性の一つであると考えますので、それだけでは特に非難されることはないものと考えます・・。
しかし一方において現今におけるそうした傾向(何でもコスプレの対象にする)が目に余るといったさきの意見にも少なからず理があるのではないかとも思われるのです・・。
そしてその理とは、おそらく我々の社会において一般的に『権威』あるいは『禁忌』とされるものに対し、あまりにも手軽、身近(その背景の文脈を考えず)に、それをファッションの一つのように扱い、真似るという昨今のコスプレの傾向に対して感じる『危うさ』のようなものではないかと考えます・・。
また、そうした傾向の背景には、一つ目に、さきに述べた我が国古来からの物真似の巧みさ、そして二つ目には、インターネットの普及により、さまざまな視覚情報もまた容易に入手することが出来るようになったという道具立て、環境といったもの、さらに三つ目として、我が国の国民性である『権威』をバカにしながらも、一方においてそれを極めて重視するといったambivalent、二律背反的な性質が挙げられるのではないかと考えます・・。
また、こうした傾向が以前に比べ非難される程に顕著になりつつあるのであれば、それは端的に現在の我が国のあらゆる『権威』の価値が揺らいでいることを示しているのではないかとも思われます・・。
私見としては重苦しい『権威』といったものは出来るだけない、少ない方が良いのではないかと思う一方、『権威』といった社会、文化における『重石』のようなものがなければ、ものごとの価値とは有耶無耶となり、特に明晰化を求められるあらゆる行為においては『権威』の欠如とは障害になるのではないかとも思われるのです・・(これも二律背反です・・(苦笑))。
また、こうしたもの(『権威』)とは、通常、経時的な文化、伝統の蓄積によって成立しているものであると云えますので、現今『権威』の価値が揺らいでいるのであれば、もしかすると、それはさまざまな『権威』の外側にいる人々によるものであると同時にそれら『権威』の内側にいる人々による部分もまた、少なからずあるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか・・?
『権威。権威がなくては、人間は存在し得ない。しかし、権威は真理と同様に誤りを伴うものである。それは個々のものとして消滅すべきものを永遠に伝え、固く把持さるべきものを拒み消滅させる。こうして権威は往々人類をして一歩も先へ歩かせぬようにする原因となる。』
ゲーテ 「格言と反省」から
(これも二律背反のようです・・。)
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年の4月14日に発生した熊本での大地震から丁度一年が経過しました。また、その後の2016年内に山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の諸インフラおよび家屋等の出来るだけ早期の復旧、その後の復興を祈念しております。」
そのことから、本日はブログ記事の更新を断念しようかと考えた次第ですが、目標とする600記事到達まであとわずかのところで、何も書かないというのも、多少口惜しいところですので、とりあえず何かしら書いておこうと考え、まだ頭の重さも残るなか記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
そういえば、昨日投稿した記事に多少関連することであるのかもしれませんが、先日知人から聞いたところによりますと『最近の我が国の社会とは何でもコスプレの対象にする傾向がある』とのことであり、これは云われてみますと、たしかに思い当たることが少なからずあります・・。
とはいえ、我が国とは古来よりその物真似の巧みさこそが優れた国民性の一つであると考えますので、それだけでは特に非難されることはないものと考えます・・。
しかし一方において現今におけるそうした傾向(何でもコスプレの対象にする)が目に余るといったさきの意見にも少なからず理があるのではないかとも思われるのです・・。
そしてその理とは、おそらく我々の社会において一般的に『権威』あるいは『禁忌』とされるものに対し、あまりにも手軽、身近(その背景の文脈を考えず)に、それをファッションの一つのように扱い、真似るという昨今のコスプレの傾向に対して感じる『危うさ』のようなものではないかと考えます・・。
また、そうした傾向の背景には、一つ目に、さきに述べた我が国古来からの物真似の巧みさ、そして二つ目には、インターネットの普及により、さまざまな視覚情報もまた容易に入手することが出来るようになったという道具立て、環境といったもの、さらに三つ目として、我が国の国民性である『権威』をバカにしながらも、一方においてそれを極めて重視するといったambivalent、二律背反的な性質が挙げられるのではないかと考えます・・。
また、こうした傾向が以前に比べ非難される程に顕著になりつつあるのであれば、それは端的に現在の我が国のあらゆる『権威』の価値が揺らいでいることを示しているのではないかとも思われます・・。
私見としては重苦しい『権威』といったものは出来るだけない、少ない方が良いのではないかと思う一方、『権威』といった社会、文化における『重石』のようなものがなければ、ものごとの価値とは有耶無耶となり、特に明晰化を求められるあらゆる行為においては『権威』の欠如とは障害になるのではないかとも思われるのです・・(これも二律背反です・・(苦笑))。
また、こうしたもの(『権威』)とは、通常、経時的な文化、伝統の蓄積によって成立しているものであると云えますので、現今『権威』の価値が揺らいでいるのであれば、もしかすると、それはさまざまな『権威』の外側にいる人々によるものであると同時にそれら『権威』の内側にいる人々による部分もまた、少なからずあるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか・・?
『権威。権威がなくては、人間は存在し得ない。しかし、権威は真理と同様に誤りを伴うものである。それは個々のものとして消滅すべきものを永遠に伝え、固く把持さるべきものを拒み消滅させる。こうして権威は往々人類をして一歩も先へ歩かせぬようにする原因となる。』
ゲーテ 「格言と反省」から
(これも二律背反のようです・・。)
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年の4月14日に発生した熊本での大地震から丁度一年が経過しました。また、その後の2016年内に山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の諸インフラおよび家屋等の出来るだけ早期の復旧、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月13日木曜日
20170413 最近おかしいと思うことについて・・
本日の首都圏は天気も良く、日中は気温も上がり過ごし易い一日でした。
さて、これは最近の首都圏だけの現象であるかは分かりかねますが、やけに『日本が良い、素晴らしい国である』と言い立てる、主張するような言説が目立つように思われます・・。
また、これはインターネットでの言説においても同様ではないかとも思われます・・。
それに加え、特に首都圏においては、誰に対してそのように主張しているのかはよく分かりませんが、さきに述べた日本に対してと同様の調子にて『東京の良さ、素晴らしさ』といったものを主張しているようにも思われます・・。
おそらくこれらは2020年に開催される東京オリンピックに向けた雰囲気作りのための言説、プロパガンダではないかと考えますが、インターネットの普及により、さまざまな言説の凝集、活性化そして沈静化、離散が促進、高速化されている現在の状況においては、実際にそれらの言説、プロパガンダが当初に企図された効果を齎し、そしてそれが(2020年まで)維持されるのかと考えてみますと、なかなか難しいのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、このようなことを書くからといって自身は『反日』であるとは考えませんし、否、どちらかといえば自身の祖国、母国そしてその歴史、文化などは割合好きな方であると認識しております・・(笑)。
また、実際に祖国、母国が好きであれば、現在の状況をそのように認識することもまた特段おかしいことではないと考えるのです。
むしろ、現在の酒に酔ったかのようにも見える変に扇情的、熱心な自国、自地域の称揚とは、何と云いますか、端的に、どこかおかしいのではないかと思われるのです・・(笑)。
しかしながら、そのようなことを書いたからといって、上記のような全体の傾向が変化することもないと思われますので、とりあえず書くことは書いて静観するのが適当ではないかと考える次第です・・(笑)。
また、そのようなことを書いておりますと不図想起されるのは、以前読んだ野上彌生子著「迷路」であり、この著作の舞台となった時代と現代とは、案外似ている部分も多いのではないかもと思われます。
加えて、現在世の中を賑わわせております方々の行動、言動などは、大岡昇平著「俘虜記」内に描かれている収容所内での人々のそれとも重なる部分が少なからずあるのではないかとも思われます・・。
こうした著作とは、おそらく後世に残るものとはされながら、同時に現在の世間の動向には大きな影響を及ぼさないものであろうことは、一体どのような(我が国の)世の中のメカニズム、構造が関与しているのかとは、なかなか興味深いところです・・。
あるいはそうした微妙とも云えるところに文学などの価値は存する、立脚している(し得る)のかもしれません・・。
とはいえ、そうであれば、せめて竹山道雄著「ビルマの竪琴」のような童話とも云える作品の意味が現在もう少し考えられても良いのではないかとも思われるのですが・・(嘆)。
また、それに関連して、先日知人から聞いたところによりますと、昨今(今年初旬)アメリカ合衆国ではジョージ・オーウェル著「1984」がベストセラーになったとのことです・・。
そういえば、この出来事(2017年)の数年前に我が国が世界に誇るノーベル文学賞候補ともなる作家が、この小説を構想の一つの土台とした著作を発表(2009~2010年)しましたが、これらの間にも何か関連があるのかもしれません・・。
あるいは考えようによっては、なかなか興味深いことであると云えます・・。
ともあれ、以下に今回の記事に関連すると思われる格言を二つ抜粋引用します。
『一体、祖国を愛するとは、どういうことか。愛国的に活動するとは、どういうことか。ある詩人が、有害な偏見と戦い、偏狭な見解を除き、国民の精神を啓発し、その趣味を浄化し、心の持ちようと考え方を高尚にするために終生努力したとすると、それ以上のことがどうしてできよう?これ以上愛国的な行為がどこにあろう。・・
私は拙劣を罪悪のように憎む。特に政治に関することの拙劣を憎む。それは数千、数百万の人にただ禍をもたらすだけだからである。』
エッカーマン「ゲーテとの対話」1832年3月、から
『愛国的芸術とか愛国的学問とかいうものは存在しない。すべて高尚な善いものはそうであるが、芸術や学問は世界全体のものである。そして一切の同時代の人々の一般的な自由な相互作用により、過去からわれわれに伝えられているものを絶えず顧みることによって初めて、両者は促進され得る。』
ゲーテ「格言と反省」から
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に発生した熊本、山陰東部そして福島県周辺における地震によって被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
さて、これは最近の首都圏だけの現象であるかは分かりかねますが、やけに『日本が良い、素晴らしい国である』と言い立てる、主張するような言説が目立つように思われます・・。
また、これはインターネットでの言説においても同様ではないかとも思われます・・。
それに加え、特に首都圏においては、誰に対してそのように主張しているのかはよく分かりませんが、さきに述べた日本に対してと同様の調子にて『東京の良さ、素晴らしさ』といったものを主張しているようにも思われます・・。
おそらくこれらは2020年に開催される東京オリンピックに向けた雰囲気作りのための言説、プロパガンダではないかと考えますが、インターネットの普及により、さまざまな言説の凝集、活性化そして沈静化、離散が促進、高速化されている現在の状況においては、実際にそれらの言説、プロパガンダが当初に企図された効果を齎し、そしてそれが(2020年まで)維持されるのかと考えてみますと、なかなか難しいのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、このようなことを書くからといって自身は『反日』であるとは考えませんし、否、どちらかといえば自身の祖国、母国そしてその歴史、文化などは割合好きな方であると認識しております・・(笑)。
また、実際に祖国、母国が好きであれば、現在の状況をそのように認識することもまた特段おかしいことではないと考えるのです。
むしろ、現在の酒に酔ったかのようにも見える変に扇情的、熱心な自国、自地域の称揚とは、何と云いますか、端的に、どこかおかしいのではないかと思われるのです・・(笑)。
しかしながら、そのようなことを書いたからといって、上記のような全体の傾向が変化することもないと思われますので、とりあえず書くことは書いて静観するのが適当ではないかと考える次第です・・(笑)。
また、そのようなことを書いておりますと不図想起されるのは、以前読んだ野上彌生子著「迷路」であり、この著作の舞台となった時代と現代とは、案外似ている部分も多いのではないかもと思われます。
加えて、現在世の中を賑わわせております方々の行動、言動などは、大岡昇平著「俘虜記」内に描かれている収容所内での人々のそれとも重なる部分が少なからずあるのではないかとも思われます・・。
こうした著作とは、おそらく後世に残るものとはされながら、同時に現在の世間の動向には大きな影響を及ぼさないものであろうことは、一体どのような(我が国の)世の中のメカニズム、構造が関与しているのかとは、なかなか興味深いところです・・。
あるいはそうした微妙とも云えるところに文学などの価値は存する、立脚している(し得る)のかもしれません・・。
とはいえ、そうであれば、せめて竹山道雄著「ビルマの竪琴」のような童話とも云える作品の意味が現在もう少し考えられても良いのではないかとも思われるのですが・・(嘆)。
また、それに関連して、先日知人から聞いたところによりますと、昨今(今年初旬)アメリカ合衆国ではジョージ・オーウェル著「1984」がベストセラーになったとのことです・・。
そういえば、この出来事(2017年)の数年前に我が国が世界に誇るノーベル文学賞候補ともなる作家が、この小説を構想の一つの土台とした著作を発表(2009~2010年)しましたが、これらの間にも何か関連があるのかもしれません・・。
あるいは考えようによっては、なかなか興味深いことであると云えます・・。
ともあれ、以下に今回の記事に関連すると思われる格言を二つ抜粋引用します。
『一体、祖国を愛するとは、どういうことか。愛国的に活動するとは、どういうことか。ある詩人が、有害な偏見と戦い、偏狭な見解を除き、国民の精神を啓発し、その趣味を浄化し、心の持ちようと考え方を高尚にするために終生努力したとすると、それ以上のことがどうしてできよう?これ以上愛国的な行為がどこにあろう。・・
私は拙劣を罪悪のように憎む。特に政治に関することの拙劣を憎む。それは数千、数百万の人にただ禍をもたらすだけだからである。』
エッカーマン「ゲーテとの対話」1832年3月、から
『愛国的芸術とか愛国的学問とかいうものは存在しない。すべて高尚な善いものはそうであるが、芸術や学問は世界全体のものである。そして一切の同時代の人々の一般的な自由な相互作用により、過去からわれわれに伝えられているものを絶えず顧みることによって初めて、両者は促進され得る。』
ゲーテ「格言と反省」から
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に発生した熊本、山陰東部そして福島県周辺における地震によって被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月12日水曜日
20170412 国際間で共有され得る認識に至る方法とは・・
A「本日の首都圏は日中は天気も良く、気温も上昇しましたが、夕刻より降雨となり、今現在では日中に比べ気温も大分下がり、幾分か肌寒く感じます・・。
さて、昨日投稿の記事は、あまり良い出来ではないと感じつつも思いのほか多くの方々に読んで頂けたようです・・。
また、昨今のように多少疲労を感じる時期とは、自身の記憶に頼り、想起に基づいた記事を作成するのが良いのではないかと考えるのですが、しかし、そうした時期に限り、記事の主題となり得るような記憶が甦ってこないのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、であるからといって本日分の記事作成を断念するのは悔しいため、現在まさにそのことを題材として書いている次第といえます・・(苦笑)。
また、本日これまでの段階においては、昨日の投稿記事に関連する大分以前に投稿した記事が割合多く読まれていることから、こうした指摘、反応とは、どなたにより為されているのかは分かりませんが、少なくとも現今のような、新たな記事の作成を行っている状態においては、大変刺激になるものであり、また、そうした直近に投稿された記事に対する読みの深さ、あるいは的確とも云える指摘が為し得る感性およびその背景知識に敬意を表します・・。
そして、こうした指摘、反応が為されることがなければ、これまで継続してブログ記事を作成することが出来たかどうかとは、大変疑問に思うところです・・。
そういえば、本日になり気が付いたことですが、昨日の投稿記事内容を抽象しますと『温故知新』というコトバに集約されるのではないかと思われます・・。
また、おそらく現在の我が国の社会いや、世界情勢こそ、まさにこのコトバをキレイに忘却しているのではないでしょうか・・?
とはいえ、こうした情勢もまた、これまでの多くの経緯の蓄積およびそれらの反応により成立しているのですが、一体こうしたことは、どこにその原因の起点を求めれば良いのでしょうか・・?
その意味で現今の世界で見られる多くの不安定な状況もまた、少なくとも共通の落とし所、妥協点を見出せるところまでは時間を遡って考える必要があるのでしょうが、そうしますと、今度はその遡った時点での状況の認識が互いに異なり、そこからの調整、すり合わせがさらに困難を極めるのではないかと思われます・・。
また、そうした過去の状況に対する認識とは、往々にして現在の利害損得に基づいて為されていることから、そうした認識とは時代によって変化するのではないかと思われます・・。
具体例として我が国の場合、戦前と戦後における自国の歴史(過去)に対する認識とは大きく変化したのではないでしょうか?
そしてまた、自然と、そこで登場する人物たちの評価もまた異なってくると云えます・・。
しかしながら、あくまでもたとえ複数の国にまたがった出来事の歴史であろうと、あくまでもその歴史の出来事とは一つであり、パラレルワールドのものではありません・・。
それ故、理屈(のみ)で考えれば、存在するのはただ表現する言語のみの違いであることから、共通の落とし所、妥協点を見出せると思われるのですが、おそらくは、さきに述べた事情により、国際間にて共有される認識が得られることが妨げられているのではないかと思われます・・。
そして、こういったところが歴史をはじめ人文社会科学の学問が同じ科学ではあっても理系学問と大きく異なると思われるところではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって歴史という人文社会科学を科学(普遍的)ではないと考えるのは、それこそ本末転倒な見解であり、そうした面倒をも踏まえて史実といえるものを考え続けること(ポーズ、格好だけではない)こそ、どの時代においても重要なことではないかと思われます・・。
これは特に面白い、刺激的なことではありませんが、一方、そうしたことを継続していると、さきとは異なる次元の面白い、刺激的なことをも見出すことが出来るようになるのかもしれません・・。
そして、それを望むかどうかとは一種の自身に対する賭けではないでしょうか・・(笑)?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
さて、昨日投稿の記事は、あまり良い出来ではないと感じつつも思いのほか多くの方々に読んで頂けたようです・・。
また、昨今のように多少疲労を感じる時期とは、自身の記憶に頼り、想起に基づいた記事を作成するのが良いのではないかと考えるのですが、しかし、そうした時期に限り、記事の主題となり得るような記憶が甦ってこないのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、であるからといって本日分の記事作成を断念するのは悔しいため、現在まさにそのことを題材として書いている次第といえます・・(苦笑)。
また、本日これまでの段階においては、昨日の投稿記事に関連する大分以前に投稿した記事が割合多く読まれていることから、こうした指摘、反応とは、どなたにより為されているのかは分かりませんが、少なくとも現今のような、新たな記事の作成を行っている状態においては、大変刺激になるものであり、また、そうした直近に投稿された記事に対する読みの深さ、あるいは的確とも云える指摘が為し得る感性およびその背景知識に敬意を表します・・。
そして、こうした指摘、反応が為されることがなければ、これまで継続してブログ記事を作成することが出来たかどうかとは、大変疑問に思うところです・・。
そういえば、本日になり気が付いたことですが、昨日の投稿記事内容を抽象しますと『温故知新』というコトバに集約されるのではないかと思われます・・。
また、おそらく現在の我が国の社会いや、世界情勢こそ、まさにこのコトバをキレイに忘却しているのではないでしょうか・・?
とはいえ、こうした情勢もまた、これまでの多くの経緯の蓄積およびそれらの反応により成立しているのですが、一体こうしたことは、どこにその原因の起点を求めれば良いのでしょうか・・?
その意味で現今の世界で見られる多くの不安定な状況もまた、少なくとも共通の落とし所、妥協点を見出せるところまでは時間を遡って考える必要があるのでしょうが、そうしますと、今度はその遡った時点での状況の認識が互いに異なり、そこからの調整、すり合わせがさらに困難を極めるのではないかと思われます・・。
また、そうした過去の状況に対する認識とは、往々にして現在の利害損得に基づいて為されていることから、そうした認識とは時代によって変化するのではないかと思われます・・。
具体例として我が国の場合、戦前と戦後における自国の歴史(過去)に対する認識とは大きく変化したのではないでしょうか?
そしてまた、自然と、そこで登場する人物たちの評価もまた異なってくると云えます・・。
しかしながら、あくまでもたとえ複数の国にまたがった出来事の歴史であろうと、あくまでもその歴史の出来事とは一つであり、パラレルワールドのものではありません・・。
それ故、理屈(のみ)で考えれば、存在するのはただ表現する言語のみの違いであることから、共通の落とし所、妥協点を見出せると思われるのですが、おそらくは、さきに述べた事情により、国際間にて共有される認識が得られることが妨げられているのではないかと思われます・・。
そして、こういったところが歴史をはじめ人文社会科学の学問が同じ科学ではあっても理系学問と大きく異なると思われるところではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって歴史という人文社会科学を科学(普遍的)ではないと考えるのは、それこそ本末転倒な見解であり、そうした面倒をも踏まえて史実といえるものを考え続けること(ポーズ、格好だけではない)こそ、どの時代においても重要なことではないかと思われます・・。
これは特に面白い、刺激的なことではありませんが、一方、そうしたことを継続していると、さきとは異なる次元の面白い、刺激的なことをも見出すことが出来るようになるのかもしれません・・。
そして、それを望むかどうかとは一種の自身に対する賭けではないでしょうか・・(笑)?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
20170411 蓄積した疲労と能動的、創造的行為について・・(温故知新?)
本日の首都圏は終日の降雨であり、また気温も上がらず肌寒い一日でした・・。
そして、こうした日とはあまり活性が上がらず、記事作成を開始しても、イマイチ滑らかに行きません・・(苦笑)。
また、それに加え600記事到達が現実のものとして認識されるようになった現在、これまでの蓄積している疲労もまた、あらわれ易くなっているようです・・。
具体的には、気が抜ける時間が少し続くと、すぐに睡魔が襲ってくるという現象であり、これは昨今に至るまで認められなかった現象です・・(苦笑)。
それ故、今後600記事に到達しましたら、再度ある程度の期間、断筆を行い、これまでにブログ記事作成に充ててきた時間を読書や早寝あるいは応募書類の作成に充てようと思います・・。
そしてまた、ほとぼりが冷めてきましたら、能動的に文章が書きたくなり、再度何かを書き始めるのではないかと思われます・・。
そして、こういったことを考えてみますと、文章作成などを含む能動的、創造的な行為全般とは、熱中し取り組んでいる最中には特に感じることはないのですが、やはり生命、活力を消耗、削りつつ行っているのではないかと思われるのです・・。
また、我々の行うさまざまなこうした(能動的、創造的)行為とは、一面においては概ねそうした性質を持っているのではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって何もしない方が良い、生命、活力を保持出来るというわけでもなく、能動的、創造的な行為とは、たしかに一面において生命、活力を消耗するといった性質を有しながららも、他面において、まさにそのこと(生命、活力を消耗する行為)によって、新たな生命、活力を吸収、得ているのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、こうしたことを上記のように文章にて著してみますと平凡、陳腐なことのように捉えられがちですが、それでもなお、我々の生きている社会には、そうしたことまで思い至らずか、いたずらに生命、活力の保持のため活動を躊躇していると見られることも少なからず認められるのでないでしょうか・・?
実はそうしたことは、本末転倒であるにも関わらず・・。
また、そうしたこと(能動的、創造的行為)は、さまざまな時代の事物を観察することによっても認識することが出来るのではないでしょうか・・?
具体的なそうした事例として弥生時代につくられた銅鐸、そして古墳時代に造営された巨大古墳などを想起してみても理解することが出来るのではないかと思います・・。
弥生時代につくられた銅鐸とは、現在においても同様の原理にてつくられる鋳造によるものであるのであるのですが、弥生時代の銅鐸の身の金属(青銅)の薄さ(2㎜程度)とは、現在の鋳造技術においても、その身の金属の薄さとは、再現が困難であると云われております・・。
また、古墳時代に造営された巨大古墳も、重機など存在しない古代において、一体如何なる手法によって造営されたものであるかとは、完全には理解されておりません・・。
しかし、それらはいずれも間違いなく、我々の遠い先祖のつくったものであり、また、それを為さしめた要因とは、当時の技術であると共に端的に当時の人々つまり我々の遠い先祖の生命、活力であるのです・・。
こうしたことはあまり考えられることはありませんが、そこには何か大変深いものがあるのではないかと思われるのです・・。
そして、歴史などを知る、考えるうえでの面白さ、興味深さとは、一つに、これら目に見える遺物から、当時の人々の生命、活力つまり心、魂を(内面から)理解しようとすることではないかとも思われるのです・・(温故知新とはまさにそういった意味ではなかろうか?)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
そして、こうした日とはあまり活性が上がらず、記事作成を開始しても、イマイチ滑らかに行きません・・(苦笑)。
また、それに加え600記事到達が現実のものとして認識されるようになった現在、これまでの蓄積している疲労もまた、あらわれ易くなっているようです・・。
具体的には、気が抜ける時間が少し続くと、すぐに睡魔が襲ってくるという現象であり、これは昨今に至るまで認められなかった現象です・・(苦笑)。
それ故、今後600記事に到達しましたら、再度ある程度の期間、断筆を行い、これまでにブログ記事作成に充ててきた時間を読書や早寝あるいは応募書類の作成に充てようと思います・・。
そしてまた、ほとぼりが冷めてきましたら、能動的に文章が書きたくなり、再度何かを書き始めるのではないかと思われます・・。
そして、こういったことを考えてみますと、文章作成などを含む能動的、創造的な行為全般とは、熱中し取り組んでいる最中には特に感じることはないのですが、やはり生命、活力を消耗、削りつつ行っているのではないかと思われるのです・・。
また、我々の行うさまざまなこうした(能動的、創造的)行為とは、一面においては概ねそうした性質を持っているのではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって何もしない方が良い、生命、活力を保持出来るというわけでもなく、能動的、創造的な行為とは、たしかに一面において生命、活力を消耗するといった性質を有しながららも、他面において、まさにそのこと(生命、活力を消耗する行為)によって、新たな生命、活力を吸収、得ているのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、こうしたことを上記のように文章にて著してみますと平凡、陳腐なことのように捉えられがちですが、それでもなお、我々の生きている社会には、そうしたことまで思い至らずか、いたずらに生命、活力の保持のため活動を躊躇していると見られることも少なからず認められるのでないでしょうか・・?
実はそうしたことは、本末転倒であるにも関わらず・・。
また、そうしたこと(能動的、創造的行為)は、さまざまな時代の事物を観察することによっても認識することが出来るのではないでしょうか・・?
具体的なそうした事例として弥生時代につくられた銅鐸、そして古墳時代に造営された巨大古墳などを想起してみても理解することが出来るのではないかと思います・・。
弥生時代につくられた銅鐸とは、現在においても同様の原理にてつくられる鋳造によるものであるのであるのですが、弥生時代の銅鐸の身の金属(青銅)の薄さ(2㎜程度)とは、現在の鋳造技術においても、その身の金属の薄さとは、再現が困難であると云われております・・。
また、古墳時代に造営された巨大古墳も、重機など存在しない古代において、一体如何なる手法によって造営されたものであるかとは、完全には理解されておりません・・。
しかし、それらはいずれも間違いなく、我々の遠い先祖のつくったものであり、また、それを為さしめた要因とは、当時の技術であると共に端的に当時の人々つまり我々の遠い先祖の生命、活力であるのです・・。
こうしたことはあまり考えられることはありませんが、そこには何か大変深いものがあるのではないかと思われるのです・・。
そして、歴史などを知る、考えるうえでの面白さ、興味深さとは、一つに、これら目に見える遺物から、当時の人々の生命、活力つまり心、魂を(内面から)理解しようとすることではないかとも思われるのです・・(温故知新とはまさにそういった意味ではなかろうか?)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月11日火曜日
20170410 自身の文体が認識出来るようになるには・・
A「本日の首都圏は先週末に比べ若干気温が低く、肌寒く感じられました・・。
また、明日に関しても、あまり気温は上がらないとのことでした。
おそらく三寒四温と一言で云っても、幾つかの段階において、そうした現象(数日レベルでの気温の上下)を繰り返し、徐徐に平均気温が上昇していき、そして季節が変わっていくのかもしれません・・。
また、たしかに急激な数日レベルでの平均気温の上下とは、身体に対する負担も大きいことから、上記の緩徐的な季節の移り変わりとは、我々の身体にとって上手い具合に出来ているのかもしれません・・。
とはいえ、春も盛んな五月頃になりますと、五月病といったものが見受けられますが、これもその多くの場合、冬から本格的な春に移行した際の一種の体調の変化に因るものではないかと自身の経験からも思うところがあります・・(苦笑)。
また、こうしたことも、あるいは、このように事前にそうした危惧を文章化することによって、ある程度未然に防ぐことが出来るのではないかとも思われるのですが、この検証とは実際その時期になってから改めて行うことにします・・(笑)。
さて、昨日は休日ということもあってか、思いのほか、作成記事に対する閲覧者も増加しました。
しかしながら、自身は昨日投稿の記事を含め、これまでに作成した記事ほぼ全てに対し、どうも『自信』といったものを持ち得ることが出来ません・・(苦笑)。
どちらかというと書籍抜粋引用の記事の方がより『センスが良い』『面白い』のではないかと未だに思われるのですが、一方、それでも自身の文章にて記事を作成した方が良いと思われるのです。
そしてそれは、これまでに書いた記事に対し『御自分で作成された記事の方が**さんらしさが出ていて読んでいて面白いですよ。』といったご意見を頂戴することも時折あり、そのことから、ある時点(おそらく200記事あたり)から、ここに至るまで概ね自身の作成文章にてブログ記事を継続して作成することが出来ているのではないかとも考えます・・(笑)。
(この点、自身とは至極都合が良く出来ているようです・・)
また、それに加えて面白いと思うことは、そうしたご意見の中で『作成者(自身)の文体が認められる』という指摘であり、これをさらに問うたところ『上手く表現することは出来ませんが**さんの文体はありますよ・・』といった曖昧な返答ではありましたが、こうしたもの(文体)とは、作成者自身では明瞭に認識出来ないこともあるものの(ある程度そうした経験を持つ)他者が読むことにより認識出来るような性質であるのかもしれません・・(苦笑)。
また、そのことから想起されたことは、先日お目に掛かった文系師匠との会話にて出た『ある作曲家が楽曲作成の途中にて亡くなり、その後の未作成の楽章を他者が作成し楽曲完成に至った場合、その二者による作成部分とは完成された楽曲全体を聴くことにより明瞭に区別することが出来る』というハナシであり、このことは、あるいは前述のことに多少なりとも関連があるのではないかとも思われましたが如何でしょうか・・?
ちなみに自身はこの会話にて、それに適応する事例としてモーツアルトのレクイエムを想起し、そのことを師匠に話しましたが、この楽曲も、その作風の相違とは分かるものであるらしいです・・。
また、その会話の続きとして、そうした故事(ジュスマイヤーによる補作)から、後年(20世紀後半!)よりオリジナルの作曲者であるモーツアルトの作風様式に近いものが改訂版として複数出版(楽譜)されたとのことです・・。
こうしたハナシを聞きますと、欧州人のクラシック楽曲に対する情熱を感じると共に、我々日本人にはあまり見受けられない一種のリゴリズム(厳格主義)らしきものを感じさせます・・。
加えて双方文化の相違にも気が付かされます・・(笑)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に生じた熊本、山陰東部そして福島県周辺における地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
また、明日に関しても、あまり気温は上がらないとのことでした。
おそらく三寒四温と一言で云っても、幾つかの段階において、そうした現象(数日レベルでの気温の上下)を繰り返し、徐徐に平均気温が上昇していき、そして季節が変わっていくのかもしれません・・。
また、たしかに急激な数日レベルでの平均気温の上下とは、身体に対する負担も大きいことから、上記の緩徐的な季節の移り変わりとは、我々の身体にとって上手い具合に出来ているのかもしれません・・。
とはいえ、春も盛んな五月頃になりますと、五月病といったものが見受けられますが、これもその多くの場合、冬から本格的な春に移行した際の一種の体調の変化に因るものではないかと自身の経験からも思うところがあります・・(苦笑)。
また、こうしたことも、あるいは、このように事前にそうした危惧を文章化することによって、ある程度未然に防ぐことが出来るのではないかとも思われるのですが、この検証とは実際その時期になってから改めて行うことにします・・(笑)。
さて、昨日は休日ということもあってか、思いのほか、作成記事に対する閲覧者も増加しました。
しかしながら、自身は昨日投稿の記事を含め、これまでに作成した記事ほぼ全てに対し、どうも『自信』といったものを持ち得ることが出来ません・・(苦笑)。
どちらかというと書籍抜粋引用の記事の方がより『センスが良い』『面白い』のではないかと未だに思われるのですが、一方、それでも自身の文章にて記事を作成した方が良いと思われるのです。
そしてそれは、これまでに書いた記事に対し『御自分で作成された記事の方が**さんらしさが出ていて読んでいて面白いですよ。』といったご意見を頂戴することも時折あり、そのことから、ある時点(おそらく200記事あたり)から、ここに至るまで概ね自身の作成文章にてブログ記事を継続して作成することが出来ているのではないかとも考えます・・(笑)。
(この点、自身とは至極都合が良く出来ているようです・・)
また、それに加えて面白いと思うことは、そうしたご意見の中で『作成者(自身)の文体が認められる』という指摘であり、これをさらに問うたところ『上手く表現することは出来ませんが**さんの文体はありますよ・・』といった曖昧な返答ではありましたが、こうしたもの(文体)とは、作成者自身では明瞭に認識出来ないこともあるものの(ある程度そうした経験を持つ)他者が読むことにより認識出来るような性質であるのかもしれません・・(苦笑)。
また、そのことから想起されたことは、先日お目に掛かった文系師匠との会話にて出た『ある作曲家が楽曲作成の途中にて亡くなり、その後の未作成の楽章を他者が作成し楽曲完成に至った場合、その二者による作成部分とは完成された楽曲全体を聴くことにより明瞭に区別することが出来る』というハナシであり、このことは、あるいは前述のことに多少なりとも関連があるのではないかとも思われましたが如何でしょうか・・?
ちなみに自身はこの会話にて、それに適応する事例としてモーツアルトのレクイエムを想起し、そのことを師匠に話しましたが、この楽曲も、その作風の相違とは分かるものであるらしいです・・。
また、その会話の続きとして、そうした故事(ジュスマイヤーによる補作)から、後年(20世紀後半!)よりオリジナルの作曲者であるモーツアルトの作風様式に近いものが改訂版として複数出版(楽譜)されたとのことです・・。
こうしたハナシを聞きますと、欧州人のクラシック楽曲に対する情熱を感じると共に、我々日本人にはあまり見受けられない一種のリゴリズム(厳格主義)らしきものを感じさせます・・。
加えて双方文化の相違にも気が付かされます・・(笑)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に生じた熊本、山陰東部そして福島県周辺における地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月10日月曜日
20170409 文章の作成により分かってくること・・
昨日投稿の記事は投稿翌日の割りには多くの方々に読んで頂いたようです。
こうしてみますと、同じ自身が作成した記事ではあるものの、それらを読んでみた際の面白さとは、自身が感じる以上に違うものであるのかもしれません・・。
とはいえ、自身が作成した記事間における面白さの相違とは自身ではイマイチよく分かりません・・(苦笑)。
これがもう少し分かるようになれば、より多くの方々に読んで頂ける記事が作成出来るのかもしれませんが、一方そこで変な欲心を出すようになるのもまた如何なものかと思われますので、とりあえずは、そうしたことをあまり考えず、今後も記事作成を継続しようと考えています。
さて、昨日投稿記事は主に学問分野毎に認められる服装、格好の特徴、傾向について書きましたが、これに関しては、その後、さらに地域性などを加味して考えてみますと、もう少し面白いことが分かるかもしれないと思われましたが、こうしたことも、今後折を見て観察し、考えていこうと思います・・(笑)。
また、ここまで書いて不図気が付いたことは、現在私は首都圏に在住し、仕事は概ね東京でありながら、そこで多く目にする、いわゆる先端的あるいは凝った格好、服装の方々に対し、あまり以前程の興味を示さなくなったことです・・(むしろ全体的な傾向などについては興味を持つようになったといえます)。
そのことから「これは一種の精神的な老化現象ではあるまいか?」と続いて思いましたが、その他の書籍についての興味などは、微妙にその嗜好などは変化はしているものの、特段減衰はしていないと自覚しておりますので、これは格好、服装に対しての興味に限局しているのではないかと思われる次第です。
そして、それがどのような原因により、何時頃生じた変化であるかとは、さきに述べたブログ記事間の面白さの相違のようにイマイチよく分かっていません・・(苦笑)。
(これも今後追々考えてみます・・。)
このように、あくまでも自身のことであり恐縮ではあるのですが、文章の作成を通じ、これまで、あまり意識していなかったことが意識上に顕れ、明示され、何と云いますか疑問、問題意識といったものを持たせてくれるところが文章作成ひいては創造全般の持つ面白い要素の一つではないかと思われます・・。
そして、それは試料作製からはじまる、さまざまな実験においても同様、類似の過程、経路を有しているのではないかとも思われるのです・・。
また、それに加え、そうであればこそ、そうした創造の際の視座を得、またそれを吟味、洗練させるため、過去の歴史、思想といったものを外部の道具ではあるものの、同時に血肉化された自家嚢中の道具として用いることが出来るようにする意味があるのではないかとも考えられます・・。
とはいえ、これらは本来上記のような目的意識に始原を持つものではないのですが・・(苦笑)。
むしろそれは、どちらかと云うと、内発的、能動的な、ある種の内奥より発する、やむにやまれぬ欲求といったものに基づくものであると思われるのです・・(笑)。
また、それはまさしく自身がこれまでに作成している一連のブログ記事について云えることでもあるのですが・・(笑)。
しかしながら、そうは書きましても、現在に至るまで『自身の文体を得た』という実感はありませんが・・(苦笑)。
ともあれ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
人工知能による加筆修正☟
昨日投稿した記事は、投稿翌日としては比較的多くの方々に読んで頂けたようです。こうして振り返ってみますと、同じ自身が作成した記事であっても、その「面白さ」の感じ方には、どうやら自分が思っている以上の差異があるのかもしれません。しかし、その違いがどこから生じているのかについては、正直なところ、自分自身でも明確には把握できていないのが現状です。もしこの点がもう少し見通せるようになれば、より多くの方に読まれる文章を書くことも可能になるのでしょうが、一方で、そうした意図が前面に出過ぎることにも、どこか違和感を覚えます。したがって当面は、過度に意識することなく、書き続けていくことが適当であろうと考えています。さて、昨日の記事では、学問分野ごとに見られる服装や身なりの傾向について触れましたが、この点については、地域性といった要素を加味することで、さらに興味深い示唆が得られる可能性があります。この点も、今後の観察の対象としておきたいところです。また、ここまで書いていて一つ気づいたのですが、現在、首都圏に居住し、日常的に東京で仕事をしているにもかかわらず、かつて関心を持っていたような、いわゆる先端的あるいは凝った服装に対する興味が、以前ほど強くなくなっていることに思い至りました。一瞬、それを精神的な老化の兆候ではないかとも考えましたが、書籍への関心などは依然として維持されていることを踏まえると、この変化は服装という対象に限局したものと考えるのが自然でしょう。もっとも、その変化がいつ、どのような契機によって生じたのかについては、これもまた明確には分かっていません。このように振り返ってみますと、文章を書くという行為は、自身の内側にありながら、これまで意識されていなかった事柄を浮かび上がらせ、それを問いとして提示する働きを持っているように思われます。言い換えれば、書くことそれ自体が、一種の認識の生成過程であるとも言えるでしょう。そして、この過程は、試料作製から始まる各種の実験においても、ある種の類似性を持っているのではないかと感じられます。さらに言えば、こうした創造的営為においては、過去の歴史や思想といった蓄積を、単なる外部の知識としてではなく、自身の内に取り込まれた「道具」として活用できるかどうかが重要になるのではないかとも考えられます。もっとも、これらの営為は、当初から明確な目的意識に基づいて始まるものではありません。むしろ、それは内発的で、どこか抗いがたい衝動に近いものに導かれているように思われます。そしてそれは、これまで書いてきた一連のブログ記事についても同様です。とはいえ、現在に至るまで、いまだに「自身の文体を得た」という実感はありません。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
こうしてみますと、同じ自身が作成した記事ではあるものの、それらを読んでみた際の面白さとは、自身が感じる以上に違うものであるのかもしれません・・。
とはいえ、自身が作成した記事間における面白さの相違とは自身ではイマイチよく分かりません・・(苦笑)。
これがもう少し分かるようになれば、より多くの方々に読んで頂ける記事が作成出来るのかもしれませんが、一方そこで変な欲心を出すようになるのもまた如何なものかと思われますので、とりあえずは、そうしたことをあまり考えず、今後も記事作成を継続しようと考えています。
さて、昨日投稿記事は主に学問分野毎に認められる服装、格好の特徴、傾向について書きましたが、これに関しては、その後、さらに地域性などを加味して考えてみますと、もう少し面白いことが分かるかもしれないと思われましたが、こうしたことも、今後折を見て観察し、考えていこうと思います・・(笑)。
また、ここまで書いて不図気が付いたことは、現在私は首都圏に在住し、仕事は概ね東京でありながら、そこで多く目にする、いわゆる先端的あるいは凝った格好、服装の方々に対し、あまり以前程の興味を示さなくなったことです・・(むしろ全体的な傾向などについては興味を持つようになったといえます)。
そのことから「これは一種の精神的な老化現象ではあるまいか?」と続いて思いましたが、その他の書籍についての興味などは、微妙にその嗜好などは変化はしているものの、特段減衰はしていないと自覚しておりますので、これは格好、服装に対しての興味に限局しているのではないかと思われる次第です。
そして、それがどのような原因により、何時頃生じた変化であるかとは、さきに述べたブログ記事間の面白さの相違のようにイマイチよく分かっていません・・(苦笑)。
(これも今後追々考えてみます・・。)
このように、あくまでも自身のことであり恐縮ではあるのですが、文章の作成を通じ、これまで、あまり意識していなかったことが意識上に顕れ、明示され、何と云いますか疑問、問題意識といったものを持たせてくれるところが文章作成ひいては創造全般の持つ面白い要素の一つではないかと思われます・・。
そして、それは試料作製からはじまる、さまざまな実験においても同様、類似の過程、経路を有しているのではないかとも思われるのです・・。
また、それに加え、そうであればこそ、そうした創造の際の視座を得、またそれを吟味、洗練させるため、過去の歴史、思想といったものを外部の道具ではあるものの、同時に血肉化された自家嚢中の道具として用いることが出来るようにする意味があるのではないかとも考えられます・・。
とはいえ、これらは本来上記のような目的意識に始原を持つものではないのですが・・(苦笑)。
むしろそれは、どちらかと云うと、内発的、能動的な、ある種の内奥より発する、やむにやまれぬ欲求といったものに基づくものであると思われるのです・・(笑)。
また、それはまさしく自身がこれまでに作成している一連のブログ記事について云えることでもあるのですが・・(笑)。
しかしながら、そうは書きましても、現在に至るまで『自身の文体を得た』という実感はありませんが・・(苦笑)。
ともあれ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
人工知能による加筆修正☟
昨日投稿した記事は、投稿翌日としては比較的多くの方々に読んで頂けたようです。こうして振り返ってみますと、同じ自身が作成した記事であっても、その「面白さ」の感じ方には、どうやら自分が思っている以上の差異があるのかもしれません。しかし、その違いがどこから生じているのかについては、正直なところ、自分自身でも明確には把握できていないのが現状です。もしこの点がもう少し見通せるようになれば、より多くの方に読まれる文章を書くことも可能になるのでしょうが、一方で、そうした意図が前面に出過ぎることにも、どこか違和感を覚えます。したがって当面は、過度に意識することなく、書き続けていくことが適当であろうと考えています。さて、昨日の記事では、学問分野ごとに見られる服装や身なりの傾向について触れましたが、この点については、地域性といった要素を加味することで、さらに興味深い示唆が得られる可能性があります。この点も、今後の観察の対象としておきたいところです。また、ここまで書いていて一つ気づいたのですが、現在、首都圏に居住し、日常的に東京で仕事をしているにもかかわらず、かつて関心を持っていたような、いわゆる先端的あるいは凝った服装に対する興味が、以前ほど強くなくなっていることに思い至りました。一瞬、それを精神的な老化の兆候ではないかとも考えましたが、書籍への関心などは依然として維持されていることを踏まえると、この変化は服装という対象に限局したものと考えるのが自然でしょう。もっとも、その変化がいつ、どのような契機によって生じたのかについては、これもまた明確には分かっていません。このように振り返ってみますと、文章を書くという行為は、自身の内側にありながら、これまで意識されていなかった事柄を浮かび上がらせ、それを問いとして提示する働きを持っているように思われます。言い換えれば、書くことそれ自体が、一種の認識の生成過程であるとも言えるでしょう。そして、この過程は、試料作製から始まる各種の実験においても、ある種の類似性を持っているのではないかと感じられます。さらに言えば、こうした創造的営為においては、過去の歴史や思想といった蓄積を、単なる外部の知識としてではなく、自身の内に取り込まれた「道具」として活用できるかどうかが重要になるのではないかとも考えられます。もっとも、これらの営為は、当初から明確な目的意識に基づいて始まるものではありません。むしろ、それは内発的で、どこか抗いがたい衝動に近いものに導かれているように思われます。そしてそれは、これまで書いてきた一連のブログ記事についても同様です。とはいえ、現在に至るまで、いまだに「自身の文体を得た」という実感はありません。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
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