本日は帰宅の際にレンタルCD・DVD点に立ち寄ったところ『シン・ゴジラ』がレンタルに出ておりました。
これは人気の最新作ということで、レンタル料も高く、立ち寄った時点にてわずか数本がレンタル可能な状態であり、迷わずその中から一本を一泊にてレンタルしました・・(笑)。
もちろん未だ現在これを観ておらず、おそらく当ブログ記事を書き終えた後に観ることになると思われます。
とはいえ、かなり久しぶりに映画作品のDVDソフトのレンタルにて高揚しました・・(笑)。
しかし思い起こしてみますと、自身はかつて、かなりの映画(レンタルを含め)好きでありましたが、どうしたわけか鹿児島在住時の後半、2012年あたりから以前ほど、それらを楽しむことが出来なくなりました・・。
この原因は未だ自身でもよくわかりませんが、おそらく何かしらの変化が内面に生じたのではないかと思われます・・。
また一方で面白いと思うことは、それまでどちらかというと批判的であった某アニメスタジオ(和製)一連の作品を2013年の春過ぎあたりから突如面白いと感じ、また感激するさえするようになったことです・・(笑)。
まさか、こうした心境、趣味の変化が30半ばで訪れることは、自身でもいささか驚きました・・(笑)。
それに加え、同アニメスタジオ作品ではありませんが、上記の変化を更に実感すべく?この時期偶然にレンタルした昭和30年代の瀬戸内西部を舞台としたアニメ作品では図らずも泣いてしまいました・・(笑)。
おそらくこうした心境・趣味の変化が一旦内面にて生じると、その効果、影響とは広く速やかに精神、内面全体にまで波及するのではないかと思われます・・(脱然貫通)。
また、上記経験から抽出された実感について考えてみますと、以前、当ブログにて二回に亘り抜粋引用した岩波書店刊 井筒俊彦著『意識と本質 精神的東洋を索めて』記述内容に、あるいは関連があるのではないかと思われるのです・・。
また、そのように考えてみますと、我々の精神、内面の構造とは12世紀、20世紀の中国、日本の思想家間においても(少なくともそうした面においては)あまり大きく違わないのではないかとも思われるのです・・。
そしてまた、それらの方々の考えを(現在)読み、そして理解しようとすること、あるいは理解出来たと実感できることこそが、一面における文系諸学問の大きな存在意義であるのではないかと思われるのです・・。
また、かつてそうした考え、思想があったということを各個人の経験、実感を通じて認識、理解出来ることは昨今よく取り上げられる人工知能(AI)でも不可能なことであり、同時に、たとえ多少、的はずれであったとしても、そうしたことを述べる、書くこと(こそ)が、我々の持つあらゆる考え、思想を『血の通ったものとして』進化、創造していく際の極めて重要、不可欠な過程ではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年3月25日土曜日
2017年3月23日木曜日
20170323 『脳裏を流れる文章』と『著す文章』あるいは『口語』と『文語』との相違から・・
ここ数日は比較的温暖な日が続き、このブログも600記事到達まで残り30記事を切りました・・。
しかしながら、本日に関しても特に記事題材となるものは未だ脳裏に浮かばないまま、つい先ほど記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
こうした状況にて作成した記事とは、これまでの数多くあり、またそれらを後になって読んでみますと、それなりに面白いものとそうでないものがあります。
そこから『こうした違いとはどこで生じるのであろうか?』とも考えてみるのですが、それぞれの書かれた状況とは、大きく見ればあまり変わりないですし、一方細かく考えてみますと、それこそ日々の記事を書く際の内面の状況とは大きく異なっているといえます・・(苦笑)。
とはいえ、内面の状況が何といいますか『ノッていれば、ハイであれば良い、面白い記事が書けのるか?』と考えてみますと、必ずしもそうではないようであり、むしろ、そういった状況とは『気分の高揚』と『文章の作成』双方の歯車が上手く嚙み合わずあまり文章作成が捗らないことが多いように思われます・・。
しかし、こうした内面の状況においても脳裏にコトバ、文章らしきものは流れているのです。
そうしますと脳裏のコトバ、文章の流れを上手く掴み、実際の文章として著すことが大事であるのですが、実はこれがなかなか難しいのではないかと思われます・・。
そして、これを効果的に行うことが出来るようになれば、ブログなどの場合、ある程度の記事数を作成することなどは特に難しいことではないのかもしれません・・(笑)。
しかし、そこで同時に重要であると思われることは『洗練され、流れ込むようにその内容が頭の中に入ってくるような文章(だけ)が良いのか?』ということであり、このことは先ほどの『脳裏を流れる文章』と『著す文章』との関係性に密接に関与しているのではないかと思われます・・。
あるいは、この関係性とは『口語』と『文語』との間に見られるものを異なった言い回しにて表現しているだけであるのかもしれません・・。
とはいえ、私見ではありますが、まさしくここに、全ての『学ぶ』という行為の意味が凝縮されているのではないかと考えます。
また、その発露の様式が短歌、誌、散文、論文あるいは数式であっても本質的には全て同じではないかと自身は考えます・・。
そして、そのように考えてみますと思い起こされるのは『古事記』と『日本書紀』の相違であり、たしか前者は712年、後者は720年に編纂されたものです。
また、その内容とは、双方共に基本的には神話からはじまる皇室を基軸とした年代記です。
おそらく、それ以前の時代における、こうしたいわば『歴史』とは、口承により代々語り継がれていたのですが、平城京への遷都を機に、こうした『(口承された)歴史を文章化して遺す』試みが国家的プロジェクトとして為されたのではないかと考えられています(7世紀末頃より企図されてはいたが)。
さて、『古事記』と『日本書紀』の編纂年代はおよそ8年異なります。
そして、この8年の間にその記述される文章(漢文)は洗練され、後者(『日本書紀』)の書かれた漢文とは大陸でも記述内容が概ね理解出来るものであると評価されております。
一方、前者(『古事記』)の書かれた漢文とは、和文の音に漢字を置く一方、通常の漢文的表現も見られたりと混淆しており、おそらく6世紀あたりの古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文のような感じであったのではないかと思われます・・。
それ故、後代になり、徐徐に話される言語(口語)が変化してきますと、その内容を理解することは困難になり、後世、ようやく18世紀半ば過ぎに本居宣長によってその内容が註釈、翻訳されたとのことです・・。
18世紀後半とは、いくつかの学問分野にて、そうした註釈、翻訳作業が熱を帯びた時代であったのかもしれません・・。
ともあれ、これら記紀双方にて、より口承された内容に近いものはおそらく『古事記』であり、それをさらに、漢文としての文語の方向に洗練させたものが『日本書記』であると云い得るのですが、双方の微妙な内容、表現の相違が、前述の『脳裏を流れる文章』と『著す文章』あるいは『口語』と『文語』との相違に何かしら関連、相似するのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
しかしながら、本日に関しても特に記事題材となるものは未だ脳裏に浮かばないまま、つい先ほど記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
こうした状況にて作成した記事とは、これまでの数多くあり、またそれらを後になって読んでみますと、それなりに面白いものとそうでないものがあります。
そこから『こうした違いとはどこで生じるのであろうか?』とも考えてみるのですが、それぞれの書かれた状況とは、大きく見ればあまり変わりないですし、一方細かく考えてみますと、それこそ日々の記事を書く際の内面の状況とは大きく異なっているといえます・・(苦笑)。
とはいえ、内面の状況が何といいますか『ノッていれば、ハイであれば良い、面白い記事が書けのるか?』と考えてみますと、必ずしもそうではないようであり、むしろ、そういった状況とは『気分の高揚』と『文章の作成』双方の歯車が上手く嚙み合わずあまり文章作成が捗らないことが多いように思われます・・。
しかし、こうした内面の状況においても脳裏にコトバ、文章らしきものは流れているのです。
そうしますと脳裏のコトバ、文章の流れを上手く掴み、実際の文章として著すことが大事であるのですが、実はこれがなかなか難しいのではないかと思われます・・。
そして、これを効果的に行うことが出来るようになれば、ブログなどの場合、ある程度の記事数を作成することなどは特に難しいことではないのかもしれません・・(笑)。
しかし、そこで同時に重要であると思われることは『洗練され、流れ込むようにその内容が頭の中に入ってくるような文章(だけ)が良いのか?』ということであり、このことは先ほどの『脳裏を流れる文章』と『著す文章』との関係性に密接に関与しているのではないかと思われます・・。
あるいは、この関係性とは『口語』と『文語』との間に見られるものを異なった言い回しにて表現しているだけであるのかもしれません・・。
とはいえ、私見ではありますが、まさしくここに、全ての『学ぶ』という行為の意味が凝縮されているのではないかと考えます。
また、その発露の様式が短歌、誌、散文、論文あるいは数式であっても本質的には全て同じではないかと自身は考えます・・。
そして、そのように考えてみますと思い起こされるのは『古事記』と『日本書紀』の相違であり、たしか前者は712年、後者は720年に編纂されたものです。
また、その内容とは、双方共に基本的には神話からはじまる皇室を基軸とした年代記です。
おそらく、それ以前の時代における、こうしたいわば『歴史』とは、口承により代々語り継がれていたのですが、平城京への遷都を機に、こうした『(口承された)歴史を文章化して遺す』試みが国家的プロジェクトとして為されたのではないかと考えられています(7世紀末頃より企図されてはいたが)。
さて、『古事記』と『日本書紀』の編纂年代はおよそ8年異なります。
そして、この8年の間にその記述される文章(漢文)は洗練され、後者(『日本書紀』)の書かれた漢文とは大陸でも記述内容が概ね理解出来るものであると評価されております。
一方、前者(『古事記』)の書かれた漢文とは、和文の音に漢字を置く一方、通常の漢文的表現も見られたりと混淆しており、おそらく6世紀あたりの古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文のような感じであったのではないかと思われます・・。
それ故、後代になり、徐徐に話される言語(口語)が変化してきますと、その内容を理解することは困難になり、後世、ようやく18世紀半ば過ぎに本居宣長によってその内容が註釈、翻訳されたとのことです・・。
18世紀後半とは、いくつかの学問分野にて、そうした註釈、翻訳作業が熱を帯びた時代であったのかもしれません・・。
ともあれ、これら記紀双方にて、より口承された内容に近いものはおそらく『古事記』であり、それをさらに、漢文としての文語の方向に洗練させたものが『日本書記』であると云い得るのですが、双方の微妙な内容、表現の相違が、前述の『脳裏を流れる文章』と『著す文章』あるいは『口語』と『文語』との相違に何かしら関連、相似するのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年3月22日水曜日
20170322 外部・既存の考え・思想と『能動的に考える』について・・
A「総投稿記事数も570に達し、あと30記事未満の投稿にて600記事へ到達することになりますが、そういった自覚といったものは、実際のところあまり感じることはありません・・。
しかし、思い返してみますと、記事作成を開始した当初とは『公にする文章を作成する』というプレッシャーを強く感じ、あれこれと考えた結果、順調な記事作成が困難な状況となっていました・・。
そこで自分なりに試行錯誤し対話形式の記事、書籍からの抜粋引用を行うことによってどうにか記事数を増やしていました・・(苦笑)。
そして300記事あたりから徐徐に自身の作成記事割合が増加していき、おそらく現段階においては全体の70%程度は自身の作成した記事であると思われます・・。
とはいえ、現段階においても作成記事に対して『ワキが甘い』といった指摘を知人から受けることも時折ありますので、今後も自身の内心に正直に且つ必要以上に周囲を刺激しないよう心がけ記事作成を継続していこうと考えております・・。
しかし一方、面白いことに自身は作成記事の内容によって思想的に左右両方の傾向を示すようであり、人によって『**君の考えは少し左寄りではないかね?』と云われたり、一方『全体的に見て**さんの考えは、その地金は右寄り、あるいは保守的ではないかと思います・・。』といったご意見を頂戴することがあります・・。
自身としては何れであれ結構であり、また記事題材が変わることにより、得られる考え、思想も変化するのであれば、それは、それこそが『自身の考え』ではないかと思われるのです・・。
無論、(既存の)思想とは大事であり、それにより扱う題材に対する視座、軸が得られ、そしてまた文章を書くことが出来るのですが、しかし、あくまでも(既存の)思想とは、我々の外部に存在するものであり、機に応じてそれらを発し、用いることが出来ることこそが、我々生きている人間の為す創造的な行為と云えるのではないでしょうか・・?
また、昨今は特に自身のコトバにて記事を書くことを大事にしておりますので、ここに既存の思想からの援用、運用が必要以上に多く(過多)なりますと、自然、自身の考えといったものを書くことが困難になってくるのではないかとも思われるのです・・。
これは以前、書籍からの抜粋引用を多用していた時期に考えたことです・・。
また、それに慣れてしまいますと、今後は更に一層、自身の文章を書くことが困難になるのです・・。
そのことから『自身の文体を持つ』ということが大きな意味を持ってくるのではないかと考えます。
とはいえ、以前よりブログ記事に書いている通り、開始当初に比べた場合、自身の文体とは、ある程度明瞭にはなっているとは考えますが、それでも未だ『自身の文体を得た』という自覚、実感は得ておりませんので、それが今後如何なる経緯を辿り文体を得るのかとは興味深い事柄です・・。
そういえば、先日岩波新書刊 竹内洋著『丸山眞男の時代』を再読しましたが、そこで述べられている昭和初期の思想家である蓑田胸喜に関しての部分とは、昨今のさまざなな社会での出来事を考えるうえで参考になるのではないかと思われました。
果たして我々とは、その時代(昭和初期)から、如何なる進化が為されたのでしょうか?
あるいは如何なる経験を経ることにより思想、考え方の進化、深化とは為され(定着す)るのでしょうか?
とはいえ、こうしたことは物理化学(理系諸学問)のように普遍化することは困難であるのかもしれません・・。
しかしながら、それでも各々我々が能動的に考えていくこと以外、その善処の方法とはないのではないかとも思われます・・。
そしてその際に既存の思想とは極めて有用であると考いえます・・。
しかし、であるからといって既存の考え方、思想に徹頭徹尾、現実の出来事、事象を適合させていくといった考えは一見『能動的に考える』に見えるのかもしれませんが、そこで微妙な齟齬が生じ続け、結句、帳尻において『間違い』ともいえる結論に至ってしまうことも少なからずあるのではないかとも思われます・・。
こうしたことは思いのほか、我が国の近現代史を考える上で示唆するものがあるのではないでしょうか?
それでも、こうした抽象論とは、どんなに書き続けてもあまり意味はないのかもしれませんが・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年に生じた熊本、山陰東部、福島県周辺における地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の復興を祈念しております。」
しかし、思い返してみますと、記事作成を開始した当初とは『公にする文章を作成する』というプレッシャーを強く感じ、あれこれと考えた結果、順調な記事作成が困難な状況となっていました・・。
そこで自分なりに試行錯誤し対話形式の記事、書籍からの抜粋引用を行うことによってどうにか記事数を増やしていました・・(苦笑)。
そして300記事あたりから徐徐に自身の作成記事割合が増加していき、おそらく現段階においては全体の70%程度は自身の作成した記事であると思われます・・。
とはいえ、現段階においても作成記事に対して『ワキが甘い』といった指摘を知人から受けることも時折ありますので、今後も自身の内心に正直に且つ必要以上に周囲を刺激しないよう心がけ記事作成を継続していこうと考えております・・。
しかし一方、面白いことに自身は作成記事の内容によって思想的に左右両方の傾向を示すようであり、人によって『**君の考えは少し左寄りではないかね?』と云われたり、一方『全体的に見て**さんの考えは、その地金は右寄り、あるいは保守的ではないかと思います・・。』といったご意見を頂戴することがあります・・。
自身としては何れであれ結構であり、また記事題材が変わることにより、得られる考え、思想も変化するのであれば、それは、それこそが『自身の考え』ではないかと思われるのです・・。
無論、(既存の)思想とは大事であり、それにより扱う題材に対する視座、軸が得られ、そしてまた文章を書くことが出来るのですが、しかし、あくまでも(既存の)思想とは、我々の外部に存在するものであり、機に応じてそれらを発し、用いることが出来ることこそが、我々生きている人間の為す創造的な行為と云えるのではないでしょうか・・?
また、昨今は特に自身のコトバにて記事を書くことを大事にしておりますので、ここに既存の思想からの援用、運用が必要以上に多く(過多)なりますと、自然、自身の考えといったものを書くことが困難になってくるのではないかとも思われるのです・・。
これは以前、書籍からの抜粋引用を多用していた時期に考えたことです・・。
また、それに慣れてしまいますと、今後は更に一層、自身の文章を書くことが困難になるのです・・。
そのことから『自身の文体を持つ』ということが大きな意味を持ってくるのではないかと考えます。
とはいえ、以前よりブログ記事に書いている通り、開始当初に比べた場合、自身の文体とは、ある程度明瞭にはなっているとは考えますが、それでも未だ『自身の文体を得た』という自覚、実感は得ておりませんので、それが今後如何なる経緯を辿り文体を得るのかとは興味深い事柄です・・。
そういえば、先日岩波新書刊 竹内洋著『丸山眞男の時代』を再読しましたが、そこで述べられている昭和初期の思想家である蓑田胸喜に関しての部分とは、昨今のさまざなな社会での出来事を考えるうえで参考になるのではないかと思われました。
果たして我々とは、その時代(昭和初期)から、如何なる進化が為されたのでしょうか?
あるいは如何なる経験を経ることにより思想、考え方の進化、深化とは為され(定着す)るのでしょうか?
とはいえ、こうしたことは物理化学(理系諸学問)のように普遍化することは困難であるのかもしれません・・。
しかしながら、それでも各々我々が能動的に考えていくこと以外、その善処の方法とはないのではないかとも思われます・・。
そしてその際に既存の思想とは極めて有用であると考いえます・・。
しかし、であるからといって既存の考え方、思想に徹頭徹尾、現実の出来事、事象を適合させていくといった考えは一見『能動的に考える』に見えるのかもしれませんが、そこで微妙な齟齬が生じ続け、結句、帳尻において『間違い』ともいえる結論に至ってしまうことも少なからずあるのではないかとも思われます・・。
こうしたことは思いのほか、我が国の近現代史を考える上で示唆するものがあるのではないでしょうか?
それでも、こうした抽象論とは、どんなに書き続けてもあまり意味はないのかもしれませんが・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年に生じた熊本、山陰東部、福島県周辺における地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の復興を祈念しております。」
2017年3月21日火曜日
20170321 570記事到達 ブログ記事の継続的な作成の効果とは・・
一昨日の記事投稿により総投稿記事数が570に到達しました。これにより目標とする600記事まで残り30記事となりました。
また、現在のペースにて記事作成を継続することにより、おそらく来月中には600記事まで到達することが出来る可能性がある程度示唆されました。
とはいえ600記事とは、相対的に見てどの程度のものであるのか分からず、また特に分かろうとも思いませんが、到達の場合、とりあえず『やったぞ!』といった程度の感慨は生じるのではないかと思います・・(笑)。
そして、その後、当ブログ記事を継続するか否かに関しては、これまた何も考えておりません・・(笑)。
また、これを継続する場合、次の目標は700記事ということになりますが、その場合も自身が『やる気』さえ持てば、どうにか達成可能ではないかと、以前ほど背伸びをせずに割合気楽に考えられるようにはなりましたが、一方『果たしてブログ形式にて書き続けるのが良いのか?』とも考えるようになりました・・。
しかし、その場合『では他の如何なる形式に依って書き続けるのか?』と考えてみますと、あまり良い案も浮かばないことから『まあ、良い案が浮かぶまで、少しブログ記事およびこうした文章の作成を休んでみるのも悪くない・・』とも考える次第です・・(笑)。
しかし、こうしたことが慢心につながることも往々にしてあると考えますので、とりあえずは目先の目標である600記事到達を目指すことに専念することにします・・(笑)。
そういえば、ここ数日の間に久しぶりに文系、理系双方のお師匠との何らかのカタチでの接触の機会がありました。
こうしたことは、大変珍しく、また、今月頭に参加した文系院時代の勉強会も加味して考慮してみますと、それらは自身が企図したものではないため、何だか面白い偶然が重なっているようにも思われた次第です・・(笑)。
そして、以前こうしたことを強く感じた時期を想起してみますと、それは2012年春~冬にかけてであったように思われます。
また、その時期とは、かねてより当ブログ記事にて書いている通り『D2病』の最も勢いのある時期であったのではないかと考えます・・(苦笑)。
当時の自身とは『多分にその勢いに任せていた』と思われ、その反動が翌年晩春頃に生じた危機の直接的な原因となったのではないかと思われるのです・・(苦笑)。
それ以後もまた、さまざまな失敗を続け、また同時にこうした危機も経験はしてきましたが、果たして自身はそこから多少は学んでいるのでしょうか・・(苦笑)?
しかし同時に、思うことは、これまでのそうした時期においてはブログ記事をも含め公表を前提とする文章を継続的に作成していなかったことです・・。
これは自身としては大きな違いであり、また、これ(継続的な文章の作成)が無ければ、自身はその自意識に押し潰されていたのではないかと思われるのです・・。
そして、自身のそれとは案外大したものではないのかもしれませんが、何れにせよ、こうしたものは実際に味わってみないと分からないのではないかと思われます・・(書いても決して伝わるものではない・・)。
あるいは、それ(自意識に押し潰される)を味わうことが無いように常時他者を貶め続ける行為とは、短期的に見れば大変効果的であるのかもしれませんが、そうした行為を続けることが出来なくなるほど気力・体力の衰えが訪れた場合(早晩そうした時期は訪れる)の反動とは、かなり大きなものではないかと思われます・・。
また、さまざまな現世的な処世訓あるいは宗教などもまた、そうしたある程度人類に普遍的に生じている現象を見抜いて、その善処、良い解決のため考えだされたのではないかと思われることがあります・・。
ともかくも、ハナシを戻し、そうした意味からも文章作成を勧めてくださった方々は感謝に値するものと考えております・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
おけげさまで570記事に到達することが出来ました。
昨年(2016年)に熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
また、現在のペースにて記事作成を継続することにより、おそらく来月中には600記事まで到達することが出来る可能性がある程度示唆されました。
とはいえ600記事とは、相対的に見てどの程度のものであるのか分からず、また特に分かろうとも思いませんが、到達の場合、とりあえず『やったぞ!』といった程度の感慨は生じるのではないかと思います・・(笑)。
そして、その後、当ブログ記事を継続するか否かに関しては、これまた何も考えておりません・・(笑)。
また、これを継続する場合、次の目標は700記事ということになりますが、その場合も自身が『やる気』さえ持てば、どうにか達成可能ではないかと、以前ほど背伸びをせずに割合気楽に考えられるようにはなりましたが、一方『果たしてブログ形式にて書き続けるのが良いのか?』とも考えるようになりました・・。
しかし、その場合『では他の如何なる形式に依って書き続けるのか?』と考えてみますと、あまり良い案も浮かばないことから『まあ、良い案が浮かぶまで、少しブログ記事およびこうした文章の作成を休んでみるのも悪くない・・』とも考える次第です・・(笑)。
しかし、こうしたことが慢心につながることも往々にしてあると考えますので、とりあえずは目先の目標である600記事到達を目指すことに専念することにします・・(笑)。
そういえば、ここ数日の間に久しぶりに文系、理系双方のお師匠との何らかのカタチでの接触の機会がありました。
こうしたことは、大変珍しく、また、今月頭に参加した文系院時代の勉強会も加味して考慮してみますと、それらは自身が企図したものではないため、何だか面白い偶然が重なっているようにも思われた次第です・・(笑)。
そして、以前こうしたことを強く感じた時期を想起してみますと、それは2012年春~冬にかけてであったように思われます。
また、その時期とは、かねてより当ブログ記事にて書いている通り『D2病』の最も勢いのある時期であったのではないかと考えます・・(苦笑)。
当時の自身とは『多分にその勢いに任せていた』と思われ、その反動が翌年晩春頃に生じた危機の直接的な原因となったのではないかと思われるのです・・(苦笑)。
それ以後もまた、さまざまな失敗を続け、また同時にこうした危機も経験はしてきましたが、果たして自身はそこから多少は学んでいるのでしょうか・・(苦笑)?
しかし同時に、思うことは、これまでのそうした時期においてはブログ記事をも含め公表を前提とする文章を継続的に作成していなかったことです・・。
これは自身としては大きな違いであり、また、これ(継続的な文章の作成)が無ければ、自身はその自意識に押し潰されていたのではないかと思われるのです・・。
そして、自身のそれとは案外大したものではないのかもしれませんが、何れにせよ、こうしたものは実際に味わってみないと分からないのではないかと思われます・・(書いても決して伝わるものではない・・)。
あるいは、それ(自意識に押し潰される)を味わうことが無いように常時他者を貶め続ける行為とは、短期的に見れば大変効果的であるのかもしれませんが、そうした行為を続けることが出来なくなるほど気力・体力の衰えが訪れた場合(早晩そうした時期は訪れる)の反動とは、かなり大きなものではないかと思われます・・。
また、さまざまな現世的な処世訓あるいは宗教などもまた、そうしたある程度人類に普遍的に生じている現象を見抜いて、その善処、良い解決のため考えだされたのではないかと思われることがあります・・。
ともかくも、ハナシを戻し、そうした意味からも文章作成を勧めてくださった方々は感謝に値するものと考えております・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
おけげさまで570記事に到達することが出来ました。
昨年(2016年)に熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
2017年3月20日月曜日
20170319 サムライについて『ところ変われば・・』
日本の男性に対する美称として『サムライ』というコトバが国際的にも認知されているようです。
もっとも、このコトバは戦前の特に太平洋戦争期の旧帝国陸海軍士官に対しても用いられていたとが、いくつかの書籍からうかがうことが出来ます・・。
時代によっても『サムライ』の示す意味とは微妙に異なっているのかもしれません。
とはいえ、国内に限定して考えてみますと語義的に『サムライ』とは、主に江戸時代の武士階級を示すものでありながら、国内地域によっても、これまた示す意味が微妙に異なっているのではないかと思われるのです・・。
これは自身が幾つかの地域に在住した実感に基づくものであり、特に学術的な見地によるものではありませんが、自身はそのように考えます。
中でも大阪南部、和歌山といった地域に関しては、江戸期、幕藩体制以前においては、複数の地侍(国人)集団(党)が協同合議して統治を行っていた傾向が見受けられ、その中には律令制以前より土着していた国造家といった豪族が含まれていることもあります。
また、そうした地域における統治の構造・形態の淵源を考えてみますと弥生・古墳時代までに遡ることが出来るのかもしれません・・。
そして同時に、こうした構造は、古代大和朝廷の基盤となった勢力の統治構造を考える際において示唆する要素が少なからずあるのではないかとも考えられます。
さて、ハナシを戻し、さらにこうしたことを考えてみますと、古くから在来の統治構造が保持されてきた地域に、新たな幕藩体制による統治組織(藩)が封じられた場合、当然、在来の統治構造と新たな統治組織の間で緊張関係が生じることが多いと云えます。
そこでの地域統治が上手く行かないことから改易、取り潰しになった藩も複数存在します。
それに関連して司馬遼太郎著『功名が辻』、『竜馬がゆく』などの小説にも書かれていますが、土佐藩の場合、新たな幕藩体制下の統治者として山内家と共に入国した家臣団が上士、それに対し在来であり滅ぼされた長曾我部家の遺臣団が概ね郷士という扱いになったハナシは割合有名です。
もっとも、こうした経緯も全て平和裏に行われたものではなく、相当の流血があっのだという・・。
それ故、幕末期に土佐藩の郷士(幕藩体制以前の長宗我部家の家臣)から多くの勤王(倒幕)の志士が現れたことは、ある意味歴史の必然であるとも云えます。
他方、紀州徳川家の場合、重臣の中にも在地特有の苗字が複数見受けられること、地侍(国人)集団(党)の軸となった古来から続く寺社が幕藩体制下においても尊崇を受けていたことから、新規、在来間の統治組織のすり合わせ、癒合は割合上手くいったのではないかと思われます。
その点において薩摩、大隅(鹿児島)は珍しく、鎌倉期にこの地に守護職として補任された島津氏が鎌倉期、南北朝、足利期、織豊期そして江戸期を通じ、一貫して、この地域を統治してきました。
無論、その間には幾度もの他国との抗争、国内での内乱があったが、それでもなお、この薩摩、大隅における島津氏の統治は崩されませんでした。
おそらく徳川幕藩体制としては、それまでの経緯からも、こうした統治の類例は認めたくなかったのではないかと思われるが、この僻遠の地(関東、東海から見て)に派兵し、無理にでも支配下に置き、そして改易とした場合に生じる危険性の方が大きかったのではないかと思われます。
ともあれ、それ故、薩摩・大隅(鹿児島)には、良い悪いは抜きとして古来からのさまざまな文化と共に『サムライ』と称するものも原初に近いカタチにて存続してきたのではないかと思われます。
そして、この原初からの『サムライ』が保持された薩摩、大隅(鹿児島)の勢力が、幕末期における時代変革の主要な推進力の一つとなり、同時に、それにより誕生した明治政府に対する最大の叛乱を起こした地域勢力でもあったことは、この『地域』(鹿児島)そして『サムライ』というものを考える上で何かしら示唆するものがあるのではないでしょうか?
また、以上のことから、あまり『サムライ』というコトバを安易に氾濫させること、それに加え、来たる2018年の大河ドラマの題材を西郷南洲翁(隆盛)とすることには、どうも漠然とした危惧をおぼえてしまうのですが、如何でしょうか・・?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年、熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念します。
もっとも、このコトバは戦前の特に太平洋戦争期の旧帝国陸海軍士官に対しても用いられていたとが、いくつかの書籍からうかがうことが出来ます・・。
時代によっても『サムライ』の示す意味とは微妙に異なっているのかもしれません。
とはいえ、国内に限定して考えてみますと語義的に『サムライ』とは、主に江戸時代の武士階級を示すものでありながら、国内地域によっても、これまた示す意味が微妙に異なっているのではないかと思われるのです・・。
これは自身が幾つかの地域に在住した実感に基づくものであり、特に学術的な見地によるものではありませんが、自身はそのように考えます。
中でも大阪南部、和歌山といった地域に関しては、江戸期、幕藩体制以前においては、複数の地侍(国人)集団(党)が協同合議して統治を行っていた傾向が見受けられ、その中には律令制以前より土着していた国造家といった豪族が含まれていることもあります。
また、そうした地域における統治の構造・形態の淵源を考えてみますと弥生・古墳時代までに遡ることが出来るのかもしれません・・。
そして同時に、こうした構造は、古代大和朝廷の基盤となった勢力の統治構造を考える際において示唆する要素が少なからずあるのではないかとも考えられます。
さて、ハナシを戻し、さらにこうしたことを考えてみますと、古くから在来の統治構造が保持されてきた地域に、新たな幕藩体制による統治組織(藩)が封じられた場合、当然、在来の統治構造と新たな統治組織の間で緊張関係が生じることが多いと云えます。
そこでの地域統治が上手く行かないことから改易、取り潰しになった藩も複数存在します。
それに関連して司馬遼太郎著『功名が辻』、『竜馬がゆく』などの小説にも書かれていますが、土佐藩の場合、新たな幕藩体制下の統治者として山内家と共に入国した家臣団が上士、それに対し在来であり滅ぼされた長曾我部家の遺臣団が概ね郷士という扱いになったハナシは割合有名です。
もっとも、こうした経緯も全て平和裏に行われたものではなく、相当の流血があっのだという・・。
それ故、幕末期に土佐藩の郷士(幕藩体制以前の長宗我部家の家臣)から多くの勤王(倒幕)の志士が現れたことは、ある意味歴史の必然であるとも云えます。
他方、紀州徳川家の場合、重臣の中にも在地特有の苗字が複数見受けられること、地侍(国人)集団(党)の軸となった古来から続く寺社が幕藩体制下においても尊崇を受けていたことから、新規、在来間の統治組織のすり合わせ、癒合は割合上手くいったのではないかと思われます。
その点において薩摩、大隅(鹿児島)は珍しく、鎌倉期にこの地に守護職として補任された島津氏が鎌倉期、南北朝、足利期、織豊期そして江戸期を通じ、一貫して、この地域を統治してきました。
無論、その間には幾度もの他国との抗争、国内での内乱があったが、それでもなお、この薩摩、大隅における島津氏の統治は崩されませんでした。
おそらく徳川幕藩体制としては、それまでの経緯からも、こうした統治の類例は認めたくなかったのではないかと思われるが、この僻遠の地(関東、東海から見て)に派兵し、無理にでも支配下に置き、そして改易とした場合に生じる危険性の方が大きかったのではないかと思われます。
ともあれ、それ故、薩摩・大隅(鹿児島)には、良い悪いは抜きとして古来からのさまざまな文化と共に『サムライ』と称するものも原初に近いカタチにて存続してきたのではないかと思われます。
そして、この原初からの『サムライ』が保持された薩摩、大隅(鹿児島)の勢力が、幕末期における時代変革の主要な推進力の一つとなり、同時に、それにより誕生した明治政府に対する最大の叛乱を起こした地域勢力でもあったことは、この『地域』(鹿児島)そして『サムライ』というものを考える上で何かしら示唆するものがあるのではないでしょうか?
また、以上のことから、あまり『サムライ』というコトバを安易に氾濫させること、それに加え、来たる2018年の大河ドラマの題材を西郷南洲翁(隆盛)とすることには、どうも漠然とした危惧をおぼえてしまうのですが、如何でしょうか・・?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年、熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念します。
2017年3月19日日曜日
20170318 書店にて思ったこと(装置と芸術の違い・・?)
A「気がついてみましたら、投稿記事数も570に近づいておりました・・。
この調子にて記事作成を行っていきますと、来月中には以前に書いた目標通り600記事に到達することが出来るのではないかと思われます・・。
とはいえ、これは未だ先のハナシですので、この先もただ、出来るだけ毎日何かしら書いていこうと思います・・。
そういえば、本日久しぶりにある程度の時間を書店にて過ごしました。
大型の書店に行きますと、いつものことですが、知らないこと、読んでいない書籍、知らない分野の多さに愕然とします・・(苦笑)。
さて、本日赴いた某書店内に掲示されていたポスターから再認識したことであり、また同時に自身は視聴していませんので、そのストーリーは分かりませんが、今年の大河ドラマは織豊・江戸初期の井伊家が題材となっているようです。
そして、そこから以前に投稿した昨年の大河ドラマ『真田丸』を扱ったブログ記事内において、偶然にも、わずかながら井伊家のこと(井伊の赤備え)を書いていたことを思い出しました・・(笑)。
また、それに加えて、これまでに投稿したブログ記事にて数度取り上げている野上彌生子著『迷路』に明治以降、華族となった井伊家当主兄弟をモデルとした人物が重要な役柄で登場することも思い出されました。
この登場人物については、加藤周一著『日本文学史序説』下巻においても解説されており、その部分はブログ記事として抜粋引用を行った記憶があります・・。
考えようによれば、これらもなかなか面白い偶然であるのかもしれません・・(笑)。
ともあれ、ここまで書いていて不図思ったことは、この野上彌生子著『迷路』を大河ドラマに限らず映像化してみるというのは、なかなか面白く、且つ、これまで為されていない試みではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
また、以前には山本薩夫監督『戦争と人間』という、部分的には多少史実と異なるものの重厚な長編映画がありましたので、同じ戦後期、現代とはいえ、数十年程度の単位にて文化水準といったものは大きく変化する性質のものであるとも考えられます・・。
その意味で、おそらく自身を含め現在の我々とは、小説も映画もドラマも『手軽に感激することを目的とした装置』のように認識しているのではないかと思われます・・。
一面においてそうした認識は間違っていないとは考えますが、しかし、本来それらが、芸術である所以とは『そこから有無を云わせない何かを提示され、考えさせられること』ではないかと考えます。
異言すると、そうした芸術作品とは、感激は残さずとも、不可解ではあれ『何かしら強い印象』を心に残すものであると思われます。
そして現在、そうした意味での重厚な作品とは、かつてに比べ少なくなっているのではないでしょうか?
そして、たしかにそうした作品がかつてに比べ少なくなっているのであれば、その大きな理由とは、小説、映画、ドラマといった、モノガタリを人に提示する様式全てが『マンガ』を基準とすることが最も効果的な集客、販売につながると考えられるようになったからではないかと思われるのですが、如何でしょうか?
(何でも分かり易ければ良いというものでもないらしいです・・。)
そしてそこから『(経済的な意味での)有用性の限界』および『文化水準とは何であろうか?』と考えさせられます・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した大地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
この調子にて記事作成を行っていきますと、来月中には以前に書いた目標通り600記事に到達することが出来るのではないかと思われます・・。
とはいえ、これは未だ先のハナシですので、この先もただ、出来るだけ毎日何かしら書いていこうと思います・・。
そういえば、本日久しぶりにある程度の時間を書店にて過ごしました。
大型の書店に行きますと、いつものことですが、知らないこと、読んでいない書籍、知らない分野の多さに愕然とします・・(苦笑)。
さて、本日赴いた某書店内に掲示されていたポスターから再認識したことであり、また同時に自身は視聴していませんので、そのストーリーは分かりませんが、今年の大河ドラマは織豊・江戸初期の井伊家が題材となっているようです。
そして、そこから以前に投稿した昨年の大河ドラマ『真田丸』を扱ったブログ記事内において、偶然にも、わずかながら井伊家のこと(井伊の赤備え)を書いていたことを思い出しました・・(笑)。
また、それに加えて、これまでに投稿したブログ記事にて数度取り上げている野上彌生子著『迷路』に明治以降、華族となった井伊家当主兄弟をモデルとした人物が重要な役柄で登場することも思い出されました。
この登場人物については、加藤周一著『日本文学史序説』下巻においても解説されており、その部分はブログ記事として抜粋引用を行った記憶があります・・。
考えようによれば、これらもなかなか面白い偶然であるのかもしれません・・(笑)。
ともあれ、ここまで書いていて不図思ったことは、この野上彌生子著『迷路』を大河ドラマに限らず映像化してみるというのは、なかなか面白く、且つ、これまで為されていない試みではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
また、以前には山本薩夫監督『戦争と人間』という、部分的には多少史実と異なるものの重厚な長編映画がありましたので、同じ戦後期、現代とはいえ、数十年程度の単位にて文化水準といったものは大きく変化する性質のものであるとも考えられます・・。
その意味で、おそらく自身を含め現在の我々とは、小説も映画もドラマも『手軽に感激することを目的とした装置』のように認識しているのではないかと思われます・・。
一面においてそうした認識は間違っていないとは考えますが、しかし、本来それらが、芸術である所以とは『そこから有無を云わせない何かを提示され、考えさせられること』ではないかと考えます。
異言すると、そうした芸術作品とは、感激は残さずとも、不可解ではあれ『何かしら強い印象』を心に残すものであると思われます。
そして現在、そうした意味での重厚な作品とは、かつてに比べ少なくなっているのではないでしょうか?
そして、たしかにそうした作品がかつてに比べ少なくなっているのであれば、その大きな理由とは、小説、映画、ドラマといった、モノガタリを人に提示する様式全てが『マンガ』を基準とすることが最も効果的な集客、販売につながると考えられるようになったからではないかと思われるのですが、如何でしょうか?
(何でも分かり易ければ良いというものでもないらしいです・・。)
そしてそこから『(経済的な意味での)有用性の限界』および『文化水準とは何であろうか?』と考えさせられます・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した大地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年3月18日土曜日
20170317 言語による現象の精確な描写から普遍的認識へ・・☆☆☆
ここ数日間の首都圏は日中と日が暮れてからの温度差が大きいように感じます。
また、季節が春へと移行するこの時季とは、そのようなものであるのかもしれません・・。
さて、昨日投稿の記事も投稿翌日にしては多くの閲覧者を得ることが出来ましたが、現在この(昨日投稿)記事を読み返してみますと、恥ずかしく思うところもあります・・(苦笑)。
そして、そこから『このようなことを書いて果たして意味があるのだろうか・・?』と考えてしまうのですが、そうしますと、一連の作成記事の大半(あるいは全て)の意味を疑問視せねばならなくなりますので、出来るだけ、そうした『思い』に(継続的に)捉われず、書き続けることが重要ではないかと考えます。
そして、多くのこうした散文的なものとは、書き続けることにより、何か新しい着想に至ることが多いのではないでしょうか?
また、こうした文章に対する姿勢とは、感覚的ではありますが理系、文系学問間において相違があるのではないかと思われます。
当たり前のハナシではありますが理系学問とは、その内容の普遍性、再現可能性がその根幹に存在します。【存在しなければなりません。】
そのことから、その内容とは、誰が、何回行った場合においても、同様の傾向、結果を得られる性質のものでなければなりません。
そして、上記の前提思想に基づき作成される文章とは、文章そのものが重要であるのではなく、そこに書かれている方法、結果、考察が『現実に生じた現象を精確に描写していること』が重要であるといえます。
また、それを異言すると、その文章を読んだ他者一般が、そこで得られた認識に従い、同様の方法を用い、同様の結果が得られ、書かれた考察が妥当なものであるという認識に至ることが重要であるともいえます。
つまり、この場合、文章を構成する個々言語の『役割および目的』とは、実際に存在する『何か』の様相【その大きさ、様子はどうであれ】に対しての『普遍的認識に至るため精確に描写すること』であるといえます。
また、こうした言語の使用法とは、おそらく言語本来の原初的な用途でもあり、極めて重要であるといえます。
さらにまた、一般的に、ある学問分野において、一定の知識を有していることが理解され得るのは、その学問分野における専門的な言語群を用いた発言、文章等により(分野における)普遍的認識を得ることが出来ることから為されることが多いのではないでしょうか?
そしてそれは、さらにある程度複雑な文脈を有する使用法により一層精確に理解され得るのではないかと思われます・・。
このことは特に理系学問分野において、その傾向が著しく、その点、文系学問分野においては、一つの言語に対する認識において、その主体、学派等の持つ思想的背景により意味合いが微妙に異なることが多く、さらに、それら言語を含んだ、ある程度複雑な文脈の使用により、一層その主体、学派の持つ思想的背景は明瞭化されるのですが、同時にそれは、理系的な意味での普遍的認識とは幾分異なるのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、であるからといって、どちらが良い、悪い、上、下というのではなく、ただ当記事冒頭にて述べたように絶えず双方が接触、交流し続ける経験を通じ、何か新しい着想、創造に至ることが肝要なのではないでしょうか・・?【果たしてこれは普遍的認識であるのでしょうか(笑)?】
また、今回の記事とは、そうしたことを題材として一つの着想が得ることが出来たものと思われます(笑)。
そして今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺において生じた地震によって被害を受けられた地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
また、季節が春へと移行するこの時季とは、そのようなものであるのかもしれません・・。
さて、昨日投稿の記事も投稿翌日にしては多くの閲覧者を得ることが出来ましたが、現在この(昨日投稿)記事を読み返してみますと、恥ずかしく思うところもあります・・(苦笑)。
そして、そこから『このようなことを書いて果たして意味があるのだろうか・・?』と考えてしまうのですが、そうしますと、一連の作成記事の大半(あるいは全て)の意味を疑問視せねばならなくなりますので、出来るだけ、そうした『思い』に(継続的に)捉われず、書き続けることが重要ではないかと考えます。
そして、多くのこうした散文的なものとは、書き続けることにより、何か新しい着想に至ることが多いのではないでしょうか?
また、こうした文章に対する姿勢とは、感覚的ではありますが理系、文系学問間において相違があるのではないかと思われます。
当たり前のハナシではありますが理系学問とは、その内容の普遍性、再現可能性がその根幹に存在します。【存在しなければなりません。】
そのことから、その内容とは、誰が、何回行った場合においても、同様の傾向、結果を得られる性質のものでなければなりません。
そして、上記の前提思想に基づき作成される文章とは、文章そのものが重要であるのではなく、そこに書かれている方法、結果、考察が『現実に生じた現象を精確に描写していること』が重要であるといえます。
また、それを異言すると、その文章を読んだ他者一般が、そこで得られた認識に従い、同様の方法を用い、同様の結果が得られ、書かれた考察が妥当なものであるという認識に至ることが重要であるともいえます。
つまり、この場合、文章を構成する個々言語の『役割および目的』とは、実際に存在する『何か』の様相【その大きさ、様子はどうであれ】に対しての『普遍的認識に至るため精確に描写すること』であるといえます。
また、こうした言語の使用法とは、おそらく言語本来の原初的な用途でもあり、極めて重要であるといえます。
さらにまた、一般的に、ある学問分野において、一定の知識を有していることが理解され得るのは、その学問分野における専門的な言語群を用いた発言、文章等により(分野における)普遍的認識を得ることが出来ることから為されることが多いのではないでしょうか?
そしてそれは、さらにある程度複雑な文脈を有する使用法により一層精確に理解され得るのではないかと思われます・・。
このことは特に理系学問分野において、その傾向が著しく、その点、文系学問分野においては、一つの言語に対する認識において、その主体、学派等の持つ思想的背景により意味合いが微妙に異なることが多く、さらに、それら言語を含んだ、ある程度複雑な文脈の使用により、一層その主体、学派の持つ思想的背景は明瞭化されるのですが、同時にそれは、理系的な意味での普遍的認識とは幾分異なるのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、であるからといって、どちらが良い、悪い、上、下というのではなく、ただ当記事冒頭にて述べたように絶えず双方が接触、交流し続ける経験を通じ、何か新しい着想、創造に至ることが肝要なのではないでしょうか・・?【果たしてこれは普遍的認識であるのでしょうか(笑)?】
また、今回の記事とは、そうしたことを題材として一つの着想が得ることが出来たものと思われます(笑)。
そして今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺において生じた地震によって被害を受けられた地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
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