ここ数日は比較的温暖な日が続き、このブログも600記事到達まで残り30記事を切りました・・。
しかしながら、本日に関しても特に記事題材となるものは未だ脳裏に浮かばないまま、つい先ほど記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
こうした状況にて作成した記事とは、これまでの数多くあり、またそれらを後になって読んでみますと、それなりに面白いものとそうでないものがあります。
そこから『こうした違いとはどこで生じるのであろうか?』とも考えてみるのですが、それぞれの書かれた状況とは、大きく見ればあまり変わりないですし、一方細かく考えてみますと、それこそ日々の記事を書く際の内面の状況とは大きく異なっているといえます・・(苦笑)。
とはいえ、内面の状況が何といいますか『ノッていれば、ハイであれば良い、面白い記事が書けのるか?』と考えてみますと、必ずしもそうではないようであり、むしろ、そういった状況とは『気分の高揚』と『文章の作成』双方の歯車が上手く嚙み合わずあまり文章作成が捗らないことが多いように思われます・・。
しかし、こうした内面の状況においても脳裏にコトバ、文章らしきものは流れているのです。
そうしますと脳裏のコトバ、文章の流れを上手く掴み、実際の文章として著すことが大事であるのですが、実はこれがなかなか難しいのではないかと思われます・・。
そして、これを効果的に行うことが出来るようになれば、ブログなどの場合、ある程度の記事数を作成することなどは特に難しいことではないのかもしれません・・(笑)。
しかし、そこで同時に重要であると思われることは『洗練され、流れ込むようにその内容が頭の中に入ってくるような文章(だけ)が良いのか?』ということであり、このことは先ほどの『脳裏を流れる文章』と『著す文章』との関係性に密接に関与しているのではないかと思われます・・。
あるいは、この関係性とは『口語』と『文語』との間に見られるものを異なった言い回しにて表現しているだけであるのかもしれません・・。
とはいえ、私見ではありますが、まさしくここに、全ての『学ぶ』という行為の意味が凝縮されているのではないかと考えます。
また、その発露の様式が短歌、誌、散文、論文あるいは数式であっても本質的には全て同じではないかと自身は考えます・・。
そして、そのように考えてみますと思い起こされるのは『古事記』と『日本書紀』の相違であり、たしか前者は712年、後者は720年に編纂されたものです。
また、その内容とは、双方共に基本的には神話からはじまる皇室を基軸とした年代記です。
おそらく、それ以前の時代における、こうしたいわば『歴史』とは、口承により代々語り継がれていたのですが、平城京への遷都を機に、こうした『(口承された)歴史を文章化して遺す』試みが国家的プロジェクトとして為されたのではないかと考えられています(7世紀末頃より企図されてはいたが)。
さて、『古事記』と『日本書紀』の編纂年代はおよそ8年異なります。
そして、この8年の間にその記述される文章(漢文)は洗練され、後者(『日本書紀』)の書かれた漢文とは大陸でも記述内容が概ね理解出来るものであると評価されております。
一方、前者(『古事記』)の書かれた漢文とは、和文の音に漢字を置く一方、通常の漢文的表現も見られたりと混淆しており、おそらく6世紀あたりの古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文のような感じであったのではないかと思われます・・。
それ故、後代になり、徐徐に話される言語(口語)が変化してきますと、その内容を理解することは困難になり、後世、ようやく18世紀半ば過ぎに本居宣長によってその内容が註釈、翻訳されたとのことです・・。
18世紀後半とは、いくつかの学問分野にて、そうした註釈、翻訳作業が熱を帯びた時代であったのかもしれません・・。
ともあれ、これら記紀双方にて、より口承された内容に近いものはおそらく『古事記』であり、それをさらに、漢文としての文語の方向に洗練させたものが『日本書記』であると云い得るのですが、双方の微妙な内容、表現の相違が、前述の『脳裏を流れる文章』と『著す文章』あるいは『口語』と『文語』との相違に何かしら関連、相似するのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
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