2016年11月18日金曜日

20161118 惰性・日常、無意識化による変化が上達?

昨日投稿したブログ記事は投稿翌日にしては閲覧者数が伸びました・・。

また、正直これまで500記事近くブログ記事を投稿してきましたが、一体どのような記事が、より多くの閲覧者を得ることが出来るのか、未だ現在イマイチよく分かりません・・(苦笑)。

とはいえ、たとえそれが分かったとしても、そうしたことをねらい記事を書く、書き続けるのも、あまり面白くないのかもしれません。

もし、そうしたことを自分なりに理解、意識していたとしたら、ここに至るまで記事作成、投稿は出来なかったのではないかとも思われます・・(笑)。

そして、そのように考えてみますと、案外と上手い具合にここまで書き続けることが出来たのではないかとも思えるのです・・(笑)。

それに加え、これまでのブログの炎上が生じることがなかったのも、幸運であったのかもしれません・・。

いや、あるいはこれは単に、これまで作成したブログ記事が衆目を集めるに至っていない、つまり、あまり面白くないことによるものであるのかもしれませんが・・(苦笑)。

しかし、これ(面白くない)は意外と良いことであったのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、何れにせよ、そうした思いにあまり振り回されることなく500記事に到達できることが現在の目標であるといって良いと思います・・。

また、記事作成に関しては、今回もそうであるように、感覚的に半分以上惰性にて作成している感がありますが、実のところ、この「惰性」あるいはもう少し聞こえの良い表現を用いますと「記事作成の日常化(無意識化)」により、これまでどうにか記事作成を継続出来ているものと考えます・・。

そのように考えますと、如何なる種類の訓練であれ、何かしらの行動、行為の日常化(無意識化)こそが、その継続そして上達への大切な要素ではないかと思うに至ります・・。
(意外と命題、反対命題の生成過程に似ているのかもしれない。)

しかし一方「下手の考え休むに似たり」ともいいますが・・(苦笑)。

もとい、では現在継続して作成しているブログ記事以外、これまでに私は如何なる行動、行為を日常化(無意識化)してきたのかと考えてみますと、それは書籍、文献を読むことではないかと思われます・・。

これに関しては特に自信といったものはありませんが、多少の断続はあるものの、おそらく20年以上は継続してきたと思われます・・。
(しかし、それは努力というよりも、欲求といった側面の方が強いと考えますが・・。)

そして、それがこれまでのブログ記事作成の基盤であったのならば、もう少しは継続することが出来るのではないかと思われるのです・・。
(何せ20年以上と1年半ですから・・(笑)。)

とはいえ、これもあくまでも希望論であり、実際のところは直近の未来においてすら、何が生じるか分からないといった状況にて毎回記事作成を行っているのが現状であるといえます・・(苦笑)。
(しかし、そのような中でこそ、ある行動、行為の日常化(無意識化)といったものが進行し、第二の天性のように精神に定着していくのかもしれない・・?)

そして、そうした(不安定ともいえる)状態にて、ほぼ毎日記事を作成し、ブログの更新を行ってきたことに、どのような効果があるか、あるいはどの程度の変化が望めるかとは、まったく見当がつきませんが、何かしらの効果、変化といったものは精神の深層において生じているのではないかとも考えることが出来る、あるいは考えたいと思う部分が(少なからず)あるといえます・・(笑)。

まあ、それでも、それ(のみ)を期待しつつ毎回記事を作成しているわけではありませんが・・(苦笑)。

それに加え、これまでの習慣を支えている何かしらの精神的要素が何時まで継続するかも分かったものではありませんし・・(笑)。

そして、ここまで書いて不図、思い起こしたのはゲーテの「ファウスト」にてファウストが聖書のヨハネによる福音書の冒頭部を訳している以下の記述です・・。

「こう書いている。
「初めにことばありき!」
ここでわしはもうつかえる!
だれかわたしを助けて先へ進ませてくれないか。
わしはことばというものをそう高く値ぶみすることはできない。
わしは霊の光に正しく照らされているなら、別に訳さなくてはならない。
こう書いてある。
「初めに意味ありき!」
ペンが先走りせぬように
第一行をよく考えよ!
一切を作り出すものは意味だろうか。
こう書いてあるべきだ。
「初めに力ありき!」
しかしこう書きつけているうちに、もうこれでは済まされないと警告するものがある。
霊の助けだ!不意に思いついて
安んじてこう書く。
「初めにおこないありき!」」

では、ことばを用いて何かを記すことは「おこない」なのであろうか?
あるいは、あくまでもそれも「ことば」なのであろうか?
と、考えてしまいました・・(苦笑)。

ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。











20161117 継続的な着想、(循環論法・トートロジー)、弁証法について・・☆☆☆

総投稿記事数も480に到達し、500記事まで残すところ20記事未満となりました。

そこで少し前を振り返ってみますと、直近の適当な区切りであった450記事到達から現在に至るまでは思いのほか早いものであったと思います。

そして、このままのペース(1日1記事)にて書き続けることにより来月12月初頭の500記事到達が予測されます。

とはいえ、この先如何なることが生じるか分かりませんので、とりあえず500記事到達までは「継続的な着想」が枯渇しないように書き続けようと考えております・・。

さて、その「継続的な着想」ですが、これは昨日投稿のブログ記事にて扱った「循環論法」あるいは「トートロジー」(これも以前ブログ記事にて扱った)と深く関連するものであり、さらにこれらは特に文系学問分野における思考方法に類縁関係を持つのではないかと考えます・・。

その一方において、文系学問分野における思考法として即座に思い浮かぶのは「弁証法」(ヘーゲル以降)ですが、この弁証法において定義される命題、反対命題もまた、その各々(命題・反対命題)の生成過程を考えてみますと、おそらくさきの「循環論法」「トートロジー」に拠るものが多いのではないかと考えられます・・。

そして命題・反対命題であれ、それらの生成過程とは、その次の段階ともいえる弁証法による議論よりも、内面性が強く、明らかにされることが少ない、無意識のうちに生成が為される部分が多いのではないかと思われます・・。

「循環論法」「トートロジー」とは、本質的にそうした性質を帯びていると私は考えます。

そして我々は日常において、そうした思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)の様相を言明、記述の何れであれ、明示しようとはあまり考えません・・。

むしろ、そうしたことを試みるのは「変」であるとされるのが通常ではないでしょうか・・(笑)。

また、この点について、我々日本人とは、相対的にその傾向が強いのではないでしょうか?

それ故、我々には「常識」といった感覚はありながら、議論により構築された汎用性を持つ「哲学」といったものに未だ持つに至っていないのではないかとも考えられます・・。
あるいはそうしたものが苦手であるのかもしれないです・・。

これを別言すると、個別的ともいえる思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)と「弁証法」の議論の間に大きな溝がありながら、論理的な議論に対し何らかの知的な理解を示さなければならない場合においては、感情的な能力ともいえる「共感」の(名人的ともいえる)駆動により、どうにかその場をやり過ごすことが多いといった感じです・・。

これはたしかに一種のユーモアではあるのかもしれませんが、そればかりではやはりダメであると思います・・。

とはいえ、それでも「循環論法」「トートロジー」といった議論、思想のタネともいえるものが大事に扱われないのは、それらが持つ一種の悩んでいるような感じ、暗さとも見られる鬱屈した感じからではないでしょうか・・?

そうしたものよりも、それを表層的なユーモアにていじり倒す方が余程「見ていて」気持ちがいいことは間違いありませんが・・(笑)。

しかし、それだけでいいのでしょうか・・?

あるいは、実のところそれが(我が国における)適当な価値の配分であるのでしょうか・・(苦笑)。

また、国民性とは、こうしたところにも表れるのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


さる熊本における大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。

2016年11月17日木曜日

20161111 「楡家の人びと」から「迷路」「神聖喜劇」などの長編について・・☆☆

A「昨日は風が強く、またそこそこ寒いなか、屋外にいる時間が長かったためか、風邪をひいてしまい、今現在多少頭が重く、体全体が気怠い感じがしております。

それ故、本日の記事更新は止めにしようと考えましたが、これまでに培った習い性とは、意外と強いものであるようで、こうして本日分の記事作成に取り組んでいる次第です・・(笑)。

また、面白いもので、一旦記事作成に取り掛かりますと、多少頭の重さ、気怠さも忘れるか、軽減されるようであり、こうしていくうちに、何かしらの主題が見つかるのではないかと思われます・・。

さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は、残すところ第三部のみとなりましたが、これは明日早々に購入し読んでみようと考えております。

そして、おそらくこの調子にて読み進めますと、来週中には全巻読了に至るのではないかと思われます。
そうしますと、また久々に野上彌生子著「迷路」以来の長編読了ということになりますが、この比較的新しい読書記憶に基づき、両著(「楡家の人びと」、「迷路」)を比較してみますと、後者は前者に比べ思想的あるいは内面の情緒的な記述の分量が多く、そのことにより、著作内容の理解が多少困難となり、また、そのことから読み進む速度においても相違が生じるのではないかと思われます・・。

あるいは、これはあくまでも私見ではありますが、各々著作に対象年齢を設けるとすれば「迷路」の方が、多少その年齢層が高くなるのではないかとも考えます。

また、そのような視点にて考えてみますと、我が国の長編小説の一つの金字塔?ともいえる大西巨人著「神聖喜劇」は一体どのような扱い(対象年齢)となるのでしょうか・・(笑)。

この著作に関しては端的、一言にて感想を述べることが困難であり、ただ「面白く、大変勉強になると思いますので機会、興味がありましたら、是非読んでみてください。」といった感じになります・・。

また、私も機会がありましたら、この著作全巻をもう一度読み、そして、その面白いと思われる部分をタイムリーに抜粋引用してみたいとも考えております・・。

しかし「迷路」にても、そうした傾向はあると思われますが、特に、この著作(「神聖喜劇」)に関しては、そうしたことを行っていると「何かしら問題が生じるのではないか・・」といった危惧もまたありますが・・(苦笑)。

そして、その危惧を含めて、この著作を大変魅力的なものにしているとはいえますが・・。

また、何といいますか、我が国の社会、歴史の深層、古層からの問題点を作中にて抉り出し、あからさまに提示しているという意味において「神聖喜劇」、「迷路」とは類似した要素を持っているともいえます。

とはいえ、前者の方がより強烈であるとは思いますが・・(笑)。

そして、そこから正直なところ「神聖喜劇」は女性向けの著作ではないと考えます。

また、そのよう考えてみますと、不図疑問に思ったことは、加藤周一著「日本文学史序説」下巻にて野間宏著「真空地帯」という「神聖喜劇」と類似した主題を扱った著作に関して割合長く述べられているのに対し「神聖喜劇」には一行も触れられていないのは、一体何故であろうか・・?ということであり、これは単純に双方の出版年度によるものなのでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧、さる熊本での大地震、山陰東部での大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」



2016年11月16日水曜日

20161116 循環論法・堂々巡り・変化について・・☆☆

A「昨日から、この時期にしては比較的温暖な日が続いたと思います・・。

ブログ記事の作成も480記事に到達し、今後も500記事到達までは、とりあえず現在の1日1記事投稿のペースにて継続していこうと考えております・・。

しかし、500記事到達前の現在、心配するのもおかしいのかもしれませんが、それでもここ最近不図思うことは「今後500記事に到達した場合、その後、このブログ記事作成はどうなるのであろうか?」ということであり、単純に記事作成を全く止めるということは、現状では逆に難しいのではないかとも思われるのです・・。

無論、書く題材がないということでしたら仕方がないのかもしれませんが、以前もブログ記事に記した通り、ブログ記事いや、こうした文章といったものは、少なくとも自身にとっては、書き続けることにより、何かしら書くことが出来ているのではないかとも思えるのです・・。

それ故、500記事到達後、記事作成を止めた場合、自身が記事を書かないでいる状態を(半ば生理的に?)許容できるのか?とも考えてしまうわけなのです・・(苦笑)。

とはいえ同時に500記事とは、自身にとってそこそこ大きな区切りであると考えますので、その(500記事到達)後、たとえブログ記事作成を継続する場合においても、記事作成のペースは500記事到達以前に比べ、多少、投稿の間隔が長くなるものと考えます・・。

また、そうしたことをも含め、果たしてこのブログを作成している自身とは多少なりとも良い方向に進んでいるのであろうか?とも時折考えてしまうのです・・(苦笑)。

以前はそのようなことをあまり考えませんでしたが、500記事到達が可能に見えるようになった昨今、そうしたことを考えるようになったことは、なかなか面白いことであり、また同時にそこから一種の不安感らしきものをおぼえることがあるのです・・。

しかしながら、ハナシを元に戻しますと、未だ現在500記事まで到達しておりませんので、とりあえずは、そうした迷い、不安感などについては考えず(しかし一方、それ自体はブログ記事の題材にはなるのですが・・(苦笑))500記事到達まで残りの20記事あまりを作成していこうと考えております・・。

そして「ハナシは全てその後」と割り切って考えた方が諸事都合がいいのではないかと思います・・(笑)。

ここまで記しており、不図思ったことは、まさしくこうした想念とは「循環論法」なのではないかということであり、また、それは往々にして「堂々巡り」ではあるのでしょうが、それでも、こうしたことを繰り返していくなかで、おそらく用いる言語・コトバのわずかな変化により、それまでの想念、考えのニュアンスもまた若干変化し、そして、それが上手い具合に行けば、言語化された納得出来る解決というものを得ることが出来るのではないかとも思われます・・。

しかしまた、そうしたことには、ある程度客観的な評価も必要ではあると考えますが・・。

そして、進化であれ退化であれ、変化自体を惹起するものは、既存要素内部のわずかな変化であり、そこから生じる全体への伝播、影響が、少なくとも「変化」全般の一側面であるといえるのではないでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の復興を祈念しております。」










2016年11月15日火曜日

20161115 時代毎の好まれる職業および個人の資質・家系などに関して・・ ★★★

本日は多少風邪気味であり日中に気温があまり低くならなかったことには救われました・・。

さて、先日知人と話しておりましたら、そのハナシの中で何度か「医者の家系」というコトバが出てきました・・。

思い返してみますと、以前にも何度か肯定・否定何れの意味合いであれ、このコトバを聞いたことがありました。

またかつての自身とは、このコトバがあまり心地いいものとして聞いておりませんでした・・(苦笑)。

もちろん、それは現在なお同様ではあるのですが、しかしながら、自身に関しては、周囲の親類およびその系譜について考えてみますと、このコトバが適用されないものであることが明確と認識されるのです・・。

また、そうした考えがより強くなった要因とは、文系学問分野の研究者であった叔父が、こうした考え(医者の家系云々)をとるに足らないものと広言していたことに大きく因ります・・。

叔父は「もともとうちの家系などは大したものではなく、近代以降たまたま医者になった者が数人いたとしても、それは以前からの文化的背景ともいえる文字、文章を読むこと、書くことを、どうにか日常的な行為態度としていたことに因り、そのように考えてみて、はじめて家系の持つ何かしらの傾向、あるいは不思議な意味合いといったものは認識、理解出来るのではないかな・・。」といったことを述べておりました・・。

さらに加えて「それ故、別にA君はそうした考えに捉われることなく、何れの学問分野であれ、自分なりにがんばればいいのだ・・。」とハナシを結ばれておりましたが、これはおそらく当時そして現在の私が納得出来る、最善ともいえる考えであり、また同時に、それが最も事実に沿った考えではないかとも考えます・・(笑)。

とはいえ一方、そうした古くさい家系のハナシとは関係なく、昨今の我が国社会においては不景気故にか、医療系資格の取得により多くの若い方々が向かっているではないかと思われます・・。

たしかに医療系資格の有無により、その手にすることの出来る収入および得られる安定性とは大きく変わってくる可能性は決して低くありません・・。

しかし、そうであるからといって医療系資格(ばかり)がエライというわけでもないとも考えます・・。

とはいえ、こうした医療系の資格とは、社会においては大変有益であり、少なくとも一般的な意味で普通に職務にあたっていれば「けしからん!」といった対象には(ほぼ絶対に)なりません・・。

あるいはまた、こうした社会において広範に認められる、あるいは意識すらされない一般的(過ぎる)ともいえる価値観を起点として、さまざまな時代における社会での凝集性、傾向(ある程度長期的な流行・ブーム)といったものが惹起されるのではないかとも思われます・・。

それは1931年~1945年に至るまでの陸海軍軍人がそうであったかのように・・。

そして、現代におけるそうした対象職種がおそらく医療系資格ということになります。

とはいえ、それは決して悪いものではなく、さきに記した1931~1945のそれと比較すれば、大分平和的(自衛隊は平和的でないという意味ではない)ともいえるのではないかと思われます・・。

では、そこの「何が問題であるのか?」と考えてみますと、それは、そうした時代時代の価値観(それ自体は悪くない)が社会全体に浸透し、そこから同調圧力らしきものが生じ、その価値観「のみ」が正しく、そうでないものは正しくないと判断される(同調圧力をも含めた)情動あるいは認識の(短絡的な)経路、構造、メカニズムそれ自体ではないでしょうか・・?

おそらく、こうした傾向もまた、以前の時代に比べれば大分良くはなったのかもしれませんが、それでも案外根強いものであるように思われます・・(もちろん我が国だけではないと考えますが)。

また同時に、自身もそのように考え、判断していると認識されることが少なからずあります・・(苦笑)。

また、こうした行為態度(同調圧力に同調する、便乗する)を社会の中においては常識的ともとらえられることに果たして普遍的な意味合いあるいは創造的な価値とは幾分かでも存在するのでしょうか・・?

あるいはまた、そうしたことを記すことすらも、いわば天に唾をするような行為として認識される傾向がある社会におけるコトバ、言語(就中、解像度の高い)の根源的な意味、価値とは、どのようなものであるのでしょうか・・?

いや、少なくとも我が国とは、古代における様々な遺物が示すところから考えてみても「はじめにコトバありき」といった状態ではなかったようにも思われます・・。

今回もここまで興味をもって読んで頂き、どうもありがとうございます。

おかげさまで今回の投稿により総投稿記事数が480となります。

さる熊本での大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。












2016年11月14日月曜日

20161114 未知の土壌に対する掘削・・賭け?

本日の首都圏は気温はこの時期にしては上昇しましたが、夕方前あたりから雨が降りはじめ、現在もなお降り続いております・・。

久しぶりの長編を読み終え、現在は特に新しい長編を読むという気分にもならず、これまでに手持ちの書籍をいくつか拾い読み、斜め読みしているような状態です。

そういえば、先日11月8日に投稿した記事「コトバ・言語の解像能および詩、普遍とは・・」は、おかげさまで、思いのほか閲覧者数が伸びました。

そうしたことから、このコトバ・言語の解像能といったことに対し関心を寄せている方々が少なからずいるのではないかと推察されます・・。

また、これは私にとっても大変重要なことであり、特に何か新しいことを習得するにあたり、その初期にぶつかる壁が何れの分野であれ「コトバ・言語の体系」ではないかと思われます・・。

そして、この壁を超える方法とは、とにかく、その分野について記された著作、文献を出来るだけ多く読んでみるということではないかと思われます。

その中で、その分野における『常識らしきもの』が徐徐に見えてくるようになり、またそれに伴い、自身もそこで得た常識を用いて、何かしらの発信が可能になるものと考えます・・。

そして他者との、その分野についての議論・対話を行うことにより、さらにまた、その分野のコトバ・言語の体系が明瞭になるものと考えます。

そして以上の過程を通じて得られる精錬された認識の体系を再度発信、他者との議論・対話を行うことにより、その体系とはさらに精錬され、徐徐にその本質を(自分なりに)理解できるようになるものと思われますが、さて如何でしょうか・・?

こうした視点にて考えてみますと、これまでどうにか継続的に作成している一連のブログ記事とは、議論・対話の過程が抜けているため、その精錬の度合いについては、かなり大きな疑問が残りますが、基本的には、そうした試み、たとえていうと円錐状(先端)の掘削機(ドリル)にて何やら未知の土壌(らしきもの)を少しずつ掘り返しているような感じを受けることがあります・・(笑)。

そして「掘り返している」という実感を受けるのが、かつて文章化して表現することができなかった事柄・主題に対し、どうにかそれを著すことが「出来た!」と思う時です・・。

とはいえ、実はその著したい内容、主題とは、本来(自身の中では)さらに複雑なものであり、それを文章化することが出来たと感じること自体、何といいますか、その時点での自身の文章による解像能の限界であり、ひいては思考の限界でもあるのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。

そうしますと、ヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」内の『語り得ぬものについては沈黙せねばならない』という言説に対し、幾分か、その意味の重みを認識することが出来るのかもしれません・・。

とはいえ、そこに留まり続けることには進化・発展といったことは望めず、それこそ回遊魚のように動き続けなければいけないのかもしれません・・(苦笑)。

そして、それがさきに述べた掘削機(ドリル)の駆動とも関連し、それにより(未知の土壌を)少しづつ掘り返すことを可能ならしめているのかもしれません・・。

あるいは、そのようにでも考えないことには、一連のブログ記事の継続的作成に対し、何かしらの意味を付与できないといったいくぶん切羽詰まった事情もまたあるのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、これもあくまでも主観的な考えであり、また幾分かブレーズ・パスカルの「パンセ」内に記されているパスカルの信仰に対する賭けに類似した構図でもあり、無意識のうちにそれを私が借景しているのではないかとも思えてくるのです・・(苦笑)。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の今後出来るだけ早期の復旧および復興を祈念いたします。

20160810 身体性と創造性 歴史との関りを保つ精神について【書籍からの抜粋引用あり】☆☆☆

昨日のブログ記事を記して投稿した直後、それと深く関連する内容の既投稿ブログ記事が多く読まれていることに気が付かされました。
この指摘とは、それが為されなければ、自身でも気が付くことができなかったと思いますので、いたく感心した次第です・・。
「世の中にはスゴイ人がいるものだ・・。」といった感じです・・。
また、それと同時に、記した一連のブログ記事を(私よりも)深く読んで頂いている方(方々)がいることに対し、いくらかの驚異(脅威?)をもおぼえました・・(苦笑)。

とはいえ、それにより萎縮してしまうことは、おそらく読んで頂いている方々の望むところではないと思いますので、ただ、こうしたことがあったこと「のみ」注視し、今後もこれまでと同程度に発信内容の偏向等に気を付け、自身の興味が赴くことを記し続けようと考えております(笑)。

さて、昨日投稿したブログ記事においても我が国の古代、あるいは神話に関する内容でしたが、その内容を記したことにより、後になり不図、和歌山市在住時、数人で自転車にて昨日ブログ記事に記された有田市まで行ったことを思い起こしました・・。
これは距離にすると、おそらく片道20キロメートル程度であり、また和歌山市街から南隣の海南市に至るまでは、概ね平坦な道が続き比較的楽であったのですが、そこから有田市に至るまでにいくらかアップダウンがあり、これに多少苦労した記憶があります。

また、同様に万葉集の歌からも7世紀半ば頃、紀伊国の南下行において、現在の海南市の藤白あたりが一つの区切りであり、ここから一端しばらくは道が険しくなることが示されております・・。

このようなことは、自身の体を用い、その場所に赴く経験を持つことにより、身体の記憶としてのこり、後日何かしらのきっかけが与えられると、上記のように関連する事柄をも含め想起することが出来るようになるのではないでしょうか?

さて、こうした身体性に付随する記憶の仕方とは昨今進化発展が著しい人工知能においても可能であるのでしょうか・・?

そして、ここまで記しておりますと今度は、以前に幾度か抜粋引用させていただいたエルンスト・ユンガー著 月曜社刊 川合全弘訳 「労働者 支配と形態」からの一節を思い起こしましたので、下に示します。
PP.77~78
『過ぎ去った時代の粉々に砕けた象徴を包み込む沈黙の中から、その時代の物音が、あたかも寄せては返す波に晒されてきた貝殻の中に海の全体が包まれるような仕方で、大きな隔たりを越えてなんとはなしに耳に迫ってくるように思われる。
その名前さえ忘却の淵に沈んでしまった諸都市の遺物を鍬で掘り返すとき、我々がじっくりと聴き取ろうとするものは、まさしくこの物音なのである。
木蔦の下や荒野の砂中に埋もれるこれらの石は、権力者たちの力の記念碑であるばかりでなく、名も無き労働の、ここに費やされたごくささやかな手仕事の記念碑でもある。
これらの石のいずれにも、忘れ去られた石切り場も喧噪、はるか昔の陸路や海路の危難、港町のごった返し、職工長の構想、賦役の重圧、遠い昔に消え失せた種族の精神や血や汗が染み込んでいる。これらの石は、稀にしか明かされることのない生のより深い統一性の象徴なのである。
それゆえ歴史との関りを保つ精神はいずれも、自らが、これらの場に魅せられるのを感じる。
それらを前にするとき、悲しみと誇りとが不思議な仕方で入り混じる。
すなわち、あらゆる努力の儚さに対する悲しみと、それにもかかわらず自らが不滅なるものに属することを繰り返し自らの象徴において表現しようとする意志への誇りとが、それである。このような意志は、しかし我々の心と活動の中にも生きているのである。」

さて、ここまで抜粋していますと、さらに今度は再び「ここにきて、また自身の作成した一連のブログ記事の意味について述べようとしているのではないか?」そして、それとは別にEnyaの楽曲「Anywhere is」(特に後半部)および我が国の童謡「椰子の実」が想起されましたが、あるいは上に示したエルンスト・ユンガーの一節とは、こちら前者楽曲の方により関連があるのかもしれません・・。
ともあれ、これを読まれた皆様は、どのようにお考えになるでしょうか?
そして、今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域における早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。