2016年11月14日月曜日

20160810 身体性と創造性 歴史との関りを保つ精神について【書籍からの抜粋引用あり】☆☆☆

昨日のブログ記事を記して投稿した直後、それと深く関連する内容の既投稿ブログ記事が多く読まれていることに気が付かされました。
この指摘とは、それが為されなければ、自身でも気が付くことができなかったと思いますので、いたく感心した次第です・・。
「世の中にはスゴイ人がいるものだ・・。」といった感じです・・。
また、それと同時に、記した一連のブログ記事を(私よりも)深く読んで頂いている方(方々)がいることに対し、いくらかの驚異(脅威?)をもおぼえました・・(苦笑)。

とはいえ、それにより萎縮してしまうことは、おそらく読んで頂いている方々の望むところではないと思いますので、ただ、こうしたことがあったこと「のみ」注視し、今後もこれまでと同程度に発信内容の偏向等に気を付け、自身の興味が赴くことを記し続けようと考えております(笑)。

さて、昨日投稿したブログ記事においても我が国の古代、あるいは神話に関する内容でしたが、その内容を記したことにより、後になり不図、和歌山市在住時、数人で自転車にて昨日ブログ記事に記された有田市まで行ったことを思い起こしました・・。
これは距離にすると、おそらく片道20キロメートル程度であり、また和歌山市街から南隣の海南市に至るまでは、概ね平坦な道が続き比較的楽であったのですが、そこから有田市に至るまでにいくらかアップダウンがあり、これに多少苦労した記憶があります。

また、同様に万葉集の歌からも7世紀半ば頃、紀伊国の南下行において、現在の海南市の藤白あたりが一つの区切りであり、ここから一端しばらくは道が険しくなることが示されております・・。

このようなことは、自身の体を用い、その場所に赴く経験を持つことにより、身体の記憶としてのこり、後日何かしらのきっかけが与えられると、上記のように関連する事柄をも含め想起することが出来るようになるのではないでしょうか?

さて、こうした身体性に付随する記憶の仕方とは昨今進化発展が著しい人工知能においても可能であるのでしょうか・・?

そして、ここまで記しておりますと今度は、以前に幾度か抜粋引用させていただいたエルンスト・ユンガー著 月曜社刊 川合全弘訳 「労働者 支配と形態」からの一節を思い起こしましたので、下に示します。
PP.77~78
過ぎ去った時代の粉々に砕けた象徴を包み込む沈黙の中から、その時代の物音が、あたかも寄せては返す波に晒されてきた貝殻の中に海の全体が包まれるような仕方で、大きな隔たりを越えてなんとはなしに耳に迫ってくるように思われる
その名前さえ忘却の淵に沈んでしまった諸都市の遺物を鍬で掘り返すとき、我々がじっくりと聴き取ろうとするものは、まさしくこの物音なのである。
木蔦の下や荒野の砂中に埋もれるこれらの石は、権力者たちの力の記念碑であるばかりでなく、名も無き労働の、ここに費やされたごくささやかな手仕事の記念碑でもある。
これらの石のいずれにも、忘れ去られた石切り場も喧噪、はるか昔の陸路や海路の危難、港町のごった返し、職工長の構想、賦役の重圧、遠い昔に消え失せた種族の精神や血や汗が染み込んでいる。これらの石は、稀にしか明かされることのない生のより深い統一性の象徴なのである。
それゆえ歴史との関りを保つ精神はいずれも、自らが、これらの場に魅せられるのを感じる。
それらを前にするとき、悲しみと誇りとが不思議な仕方で入り混じる。
すなわち、あらゆる努力の儚さに対する悲しみと、それにもかかわらず自らが不滅なるものに属することを繰り返し自らの象徴において表現しようとする意志への誇りとが、それである。このような意志は、しかし我々の心と活動の中にも生きているのである。

さて、ここまで抜粋していますと、さらに今度は再び「ここにきて、また自身の作成した一連のブログ記事の意味について述べようとしているのではないか?」そして、それとは別にEnyaの楽曲「Anywhere is」(特に後半部)および我が国の童謡「椰子の実」が想起されましたが、あるいは上に示したエルンスト・ユンガーの一節とは、こちら前者楽曲の方により関連があるのかもしれません・・。
ともあれ、これを読まれた皆様は、どのようにお考えになるでしょうか?
そして、今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域における早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。








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