2016年7月26日火曜日

20160725 文語と口語との関係について、語り得ぬものとは・・

本日は若干帰宅が遅くなり、既に366記事は作成したので、ブログ記事作成は止めて早めに寝ようかと思いましたが、日常性もしくは慣れというものはなかなか恐ろしいものであり、こうして本日分ブログ記事の作成を始めていました・・(苦笑)。

ともあれ、こうして記事を作成していますと「さて、では次の目標は400記事にしてみようか・・。」と考える私が他方におります・・(笑)。

そうしますと「ここでブログ記事を作成している私とは、日常生活を送っている私とは、また別の相にいるのではないか?」と不図考えてしまいます・・(笑)。

これを異言しますと、文章を書く相の私と、日常生活を送る私とは、その基層の部分においては同一であるものの、その表層(?)においては分離しており、あるいは分離しているように見え、このことは、さきに抜粋引用したエルンスト・ユンガーの記した文章と何かしら関連があるのではないかとも考えさせられます・・。

また、この主題ににこだわっているようにも見受けられるかもしれませんが、それは、こうした文章を記す私がはじめて経験していることであるからと云えます。

また、こうした経験とは、通常文章を記す際において書き著すことがないのが通常であるのかもしれません・・。

いや、あるいは、こうした経験とは、特に普遍性を持つものではなく、私自身がそうした経験をしているように他者に対して見せるために記しているだけという可能性も否定できません・・(苦笑)。

そして、こうした、いわゆる精神内部の動態、状況をできるだけ精確に書き記そうという行為とは、そもそもが徒労に終わることの方が多いのかもしれません・・。

それ故、様々な宗教および宗派が併存しながらも、その平和的な相互理解があまり進まず、それとは逆にそれらの間での観念上の対立が実際の闘争にまで至るのではないでしょうか?

まあ、こうした意見とは比較的陳腐なものではあるのですが・・(苦笑)。

ともあれ、「では、そうした精神内部の動態、状況の精確な記述を妨げているものは一体何であろうか?」と考えた場合、おそらくそれはコトバでいうと割合簡単であり「自己欺瞞」といったものではなかろうかと思います・・。

もちろん自身を含め、我々とは、この自己欺瞞を日常的に行っているのではないでしょうか?

そしてそれは、様々な事物に対して自己欺瞞を思考のなかに置かないようにする学問が再現可能性・普遍性を重視する理系学問分野一般の特徴ではないでしょうか?

それ故、理系的な哲学の著作ともいえるヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」の最終章、結語において「人は語り得ないものについては沈黙するほかない。」という結論にたどり着いたのかもしれません・・。

とはいえ、後年著者は自身で、この結論を含め、この著作での主張を撤回しております。

それはつまり、新たな創造・思索を行うために我々人間とは、語り得ない対象についてもコトバを用いて認識あるいは認識の共有を試みなければならならないという現実が、沈黙することよりも有効であるという考えに達したからであると思われます・・(我々日本人はこの認識がイマイチ苦手であるのではないだろうか?)。

また、たとえ、認識の共有が図られず、逆に対立に終わったとしても、まだそちらの方が持続可能性・発展持続性があると考えたのかもしれません・・。

そして、このように記していると「日常生活における自身と文章を書く自身の相が少なくとも表層においては分離しているのではないか?」といったさきの意見も、たとえ、それが無意識的な自己欺瞞によるものであるとしても、少なくとも、故意にその現象を歪めようとする意図に基づかないという意味においては、まあ、許容されても良いのではないかと思われましたが如何でしょうか?

ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

そして、さる四月の熊本における大地震によって被災された地域の今後の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。







2016年7月25日月曜日

20160724 さまざまな地域性に対して思うこと・・ 

A「昨日(20160723)投稿した記事により投稿記事総数が366となり、1年分として適当な量に達しましたが、本日現在も相変わらず記事を作成しております・・(苦笑)。

物事、行為の日常化とはなかなか恐ろしいものです・(笑)。

あるいは、様々なことについて生じる「中毒」もまた、これと何かしら類似したものがあるのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。

とはいえ「文章作成中毒」なるものは、これまでに聞いたことがありませんので、もし、そういったものがあるのであれば、一度かかってみたいと思わなくもないです・・(笑)。

さて、ハナシは変わりまして、昨日のブログ閲覧者数もおかげさまで1000に到達することが出来ました。
1年分として良い区切りであった昨日にこうした結果となり大変嬉しく思います。

また、ここまでブログ記事作成を継続するエネルギーの源泉となった和歌山、鹿児島、福岡の自然風土、地域社会、文化そして、より具体的にはお世話になった方々どうもありがとうございます。

・・しかし、よく考えてみますと、以上のことは以上のことで変わりはないのですが、それに加えて、これらの地域にてお世話になった、刺激を受けた方々とは、全て皆土着、地元の方々というわけでもなく、私同様、各地方から移り住んでいる方々が多かったことが思い出されます・・。

それでも、その範囲にはある程度の限界といったものがあるようで、和歌山であれば、大体地元を含めた近畿・関西圏、遠くとも瀬戸内、東海圏そして鹿児島であれば概ね九州一円そして遠くとも近畿・関西圏からであり、福岡では概ね全国からいらっしゃっていたようですが、それでも大半は九州を中心とする西日本の方々であったように記憶しております・・。

そして、それらの場所に在住した私が記す一連のブログ記事が、一体どのような方々に、どのように読まれているのかとは、なかなか興味深いところではありますが、こうしたことを追究するのは、もう少しそれらの具体像が見えるようになってからにしようと思います・・。

とはいえ、読まれている記事の内容を随時追っていきますと、おそらく、それらを記した私よりも深く読まれているのではないかと考えさせられることが度々いや、多々あり、そのことから、やる気と共に「あまり変なコトは書けないな・・。」といった感じを強く与えられます・・(笑)。

また、さきに記した具体的な地域に関してですが、私の場合、修士課程在籍時に地域学という、地域性についてある程度調べる機会を持つことができたため、そうした見方、考え方については、基層に存在する、それら地域に対する好意、肯定といった感情に基づきながらも、何かしら具体的な知見が得られ、そして、そうしたことを述べる、記す必要性がある場合、客観的(純粋客観的とは無理ですが・・)な意見を述べることが出来るのではないかと多少僭越であるかもしれませんが考えております・・。

それに加え、過去に著された地域性に関する名著といえるものも割合多く存在しておりますので、それらを随時参照し、与えられた現象と比較検討し、その関連を考察するといった方法もまた採ることが出来るのではないかと思います・・。

そして、ここまで記していて思うことは、さまざまなセンスの良い、洗練された文物を生み出す西欧諸国の文化を愛好することは、我々日本人としては極めて自然なことであるとは思いますが、その他面において、自国の(ホンモノの)文化風土を知ること、いや能動的な関心そしてそこから発生する知識、見識を持つことは思いの他大事であるのではないかということです・・。

とはいえ、それと同時に思うことは、少なくとも我々日本人とは、如何なる理由によってであるかわかりませんが、自国の歴史、文化、風土を知る場合においても、直接的に知ることがどうも困難であり、一端西欧、欧米等異文化へのある程度の理解を経て、自国のそれの関心、理解に回帰することが多いのではないかと思われますが如何でしょうか?

ここまで興味を持って読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。

またさる四月の九州、熊本での大地震により被災された地域における諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」




2016年7月24日日曜日

20160723 366記事到達・・

今回のブログ記事投稿で投稿記事総数が366記事となります。

しかしながら、特に大きな心境の変化などはなく「とりあえずプロフィールの写真でも変更しておこうか・・。」といったところです。

以前プロフィールに用いていた写真は2011年秋に撮影したものであり、今回新たに変更したものは2010年秋に撮影したものです
(その後再度2011年秋に撮影したものに変更)。

このほぼ1年間(2010~2011)の間に多少、顔貌は変化したようではありますが、果たして、どちらがいいかとは、よくわかりません・・(笑)。

このことから、自身の顔写真についての評価とは、なかなか難しいものであることが分かりました(苦笑)。

また、直近に撮影した履歴書などの応募書類に用いている顔写真はアップしておりません・・。

それは「こうしたものは、ここで用いるのはどうかな・・?」と考えるからです。

さて、履歴書といえば、ここ最近は公募サイトを見ておらず、今回のブログ記事投稿でキリのいい366記事まで到達したこの後、再び折を見て公募サイトを閲覧し、自身に向いていると思われる職種があれば応募してみようと考えております。

応募を試みる職種は大学での研究支援業務を専門に行うリサーチ・アドミニストレーター(URA)といった職種になると思われます。

また、こうした職種は現在、任期付がほとんであり、安定した将来の展望が持ちにくく、今後処遇の改善を希望しておりますが、それでもやはり、少なくとも私の場合、和歌山、鹿児島を含む、気候が温暖な地域の大学にて、さきに述べた職種に就いた方が持続可能性、発展持続性があると考えております。

そして、その際、これまでに作成した一連のブログ記事が何かの役に立つか分かりませんが、少なくとも、ここまでの一連の行為とは、自身に対する何らかの証にはなったのではないかと思います・・。

しかし、このようなことを記しますと「証を立てたのであれば、以後ブログ記事作成を止めるのでは?」と思われる方が、いらっしゃるかもしれませんが、投稿するペースは今後、多少変わるかもしれませんが、ブログ記事作成自体は継続するつもりです。

といいますのは、1年以上(ブログ記事作成を)継続しておりますと、今度は(大抵毎日)記事を作成することが日常に近くなってきた部分も(少なからず)ありますので・・(苦笑)。

とはいえ、この日常を成立することが出来た主な原因とは、繰り返すようですが、これまで決して面白いものばかりとはいえない私の記したブログ記事を読んでくださった方々が(私にとって)少なからずいらっしゃったことです。

これまで一連のブログ記事を読んで頂いた国内外の皆様、どうもありがとうございます。

今後もおそらく記事作成を行う所存ですので、引き続きどうぞよろしくお願いします。

そしてまた同時に、作成した記事の中から何かしら新たな知見およびそのヒントを得られた方々がいらっしゃったのではあれば、それこそ私にとって僥倖であり、今後も何かしら、そうした新たな知見の発見あるいはそれに寄与できるよう、継続的にインプット・アウトプットを行うつもりです。

さらにそうした自身の性質に合致したものとして、さきに述べたような職種が挙げられるのではないかと思いますが、如何でしょうか?

そして、さる4月に大地震が発生した九州、熊本での被災地の早急な諸インフラの復旧そしてその後の復興が速やかに為されることを祈念します。






2016年7月23日土曜日

20160722 エルンスト・ユンガー、ロバート・グレーヴス、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインについて・・

心的外傷(トラウマ)によるフラッシュバックといった人間の心、精神における現象(?)と理系学問分野における様々な物質の相変態・相転移の現象が類似しており、さらにそれがエルンスト・ユンガーがその著書「労働者・支配と形態」にて述べている「技術と人間の結びつきとは間接的である方が良い。」ということに何かしら関連があるのではないだろうか?といった内容を先日のブログに記しましたが、これは現在になり考えてみますと、我々人間にとって奥が深い主題であるのかもしれません・・。

また、そのように考えてみますと、エルンスト・ユンガーと同時代の異なる戦場にいたイギリスの詩人ロバート・グレーヴス著の岩波書店刊「さらば古きものよ」からも同様に、上に記した内容に近い要素が何かしら看取されるのではないかと思いましたが如何でしょうか?

私見とはなりますが、この当時(20世紀初頭~第一次世界大戦)のイギリスをはじめとする西欧社会の歴史的背景、価値観を知るうえでこの著作はかなり有益であるのではないかと考えます。

とはいえ、この著作とはトーマス・マン著の「魔の山」ほど著名でもありませんので、この著作とは少なくとも我が国においては「隠れた名作」という評価が適当であるのではないかと思います・・。

また、当著作文量は上下巻に分かれていますが、おそらく「魔の山」の6・7割程度であると思われます。

興味を持たれた方々、是非一度手に取って読んでみてください・・(笑)。

あるいは、時代的にもタイムリーであるのかもしれません(そうでなければ本当に良いですが・・)。

そして、ここまで記していて、不図思い出したのが、ほぼ同時代人のオーストリア・ハンガリー帝国に出自を持つ哲学者ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインです。

彼もまた前掲二者同様、第一次世界大戦の激戦に身を置いた一人であり、その著作「論理哲学論考」内の思索の多くは、戦地での勤務にて為されたということです・・。

たしかに、この二者(エルンスト・ユンガー、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン)には相通じるものがあるように思えますが、如何でしょうか?

おそらくヴィトゲンシュタインの方が普遍的、科学的な現象面により注視し、端的には理系的な発想、著述の色彩が強く、そのことから、理系学問優勢の我が国における両者の知名度の相違を決しているのかもしれません・・。

さて、ハナシは変わって、今回投稿する記事により投稿記事数が365となりますが、特にこれといった変化はなく、また同時に今現在そういったものを望んでいるわけでもありません・・。

しかし、次回の投稿により、閏年である今年を挟んだ一年分の記事数として適当な366記事となります・・。

とはいうものの、おそらく次回(明日)の記事投稿においても特に何かが生じるということもなく、ただ自身のケジメとして「ああ、一年一カ月程度でようやく一年分として適当な記事数を作成したな・・。」ということになり、ある程度の達成感を感じる程度ではないかと思います(笑)。

ちなみに明日記す予定の記事とは今現在においてもこれまでと同様何も考えておらず、またその時になりはじめて考えると思われます・・(笑)。

そして、その意味において、明日が休日(土曜日)であることは、まことに好都合であるとは思います・・(笑)。

しかし、一体何時になると私の文体における相変態・相転移らしきことが生じるのでしょうか?(笑)。

あるいは、こうしたことは突如生じるといったものではなく、徐々に生じ、進行してゆくものなのでしょうか?
とはいうものの、そういしたことに実感が伴わなければ判然としませんので、もしかすると、以前記したように私とは(少なくともこうしたことに関しては)相当鈍感であるのかもしれません・・。
また、これはあくまでも可能性のハナシではありますが・・(苦笑)。

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さる四月の九州、熊本を中心とする大地震により被災された地域の出来るだけ速やかな復旧そしてその後の復興を祈念しております。


2016年7月21日木曜日

20160721 歴史から学ぶ・・【昨今の我が国について思ったこと】

ここ二日間ほど人間の精神における相変態・相転移について書いてきましたが、こうしたことは、ある程度大きく考えてみますと国・地域などによっても存在するように思われます。

たとえば、ある国が経験した大きな出来事(戦争・革命など)の前後において、その国の文化(の様々な面)が如何なる変化を遂げたかということを観察し考えてみますと、そこに最大公約数的に見たその国の精神における相変態・相転移の際の特徴、傾向などが見受けられるのではないでしょうか?

そして、こうしたことは様々な優れた著述家が既に述べられているので取り上げませんが、現在の我が国の状況とは、過去のどの時代に類似しているのかと考えてみた場合、もしかすると「白村江の戦い」の前の時代に似ているのではないかと思いましたが如何でしょうか?

しかし、であるからといって、今後絶対に戦争が勃発するというわけではなく、ただ古来より東アジア最大の国、中国(呼び名は色々ありますが)が熱を帯び膨張をはじめますと、それは否応なく周辺諸国に影響を与え、そこには多分に緊張が含まれるのではないかと思います。

そして、そこで生じた緊張とは、必然的にその国の同時代の精神あるいは集合的無意識などにも影響を与え、そして文化もまた変容してくるのではないかと思われます・・。

そして、こうした文化の変容は、特に都市部において容易に看取、観察することができるのではないかと思います。

また、特に具体的な個別の現象について記すことは控えますが、そこから1920年代~30年代の我が国社会の変容なども、同じようなモデルに則っていたのではないかと考えさせられます・・。

さらに、現代がさきに記したようなモデルに則っているとすれば、この時代(1920年代~30年代)を実際に生きた著述家等が概ね寿命により世を去った時代(現代)に社会の変容が生じているということもなかなか興味深いことではないかと考えさせられますが如何でしょうか?

そして、このように考えてみると「歴史から学ぶということは、少なくとも我々日本人にとっては、なかなか難しいことであるのかもしれない・・」とも考えさせられます。

さらに、ここまで記していますと、これまでの一連のブログ記事にて、その文章を抜粋させて頂いた様々な著述家の方々が現在の我が国に生きているとすれば、見るとすれば、彼等・彼女等は一体どのような感想を現在の社会に持つのであろうか・・?と考えてしまいます・・。

たしかに我々日本人とは19世紀半ば過ぎにいち早く西洋的な近代化を成し遂げ、当時膨張しつつあった西欧列強の植民地となることを免れ、また、その後の大敗を喫した太平洋戦争の後においても驚異的な復興を成し遂げ、世界に名だたる経済大国にはなりました・・。

それは、たしかに我が国民の、ある面での優秀性を如実に示すものではあるとは思います。

しかしながら他面において、それはあくまでも突貫工事的にある程度機能する組織等メカニズムを組み立てることの優秀さであり、その後の社会、組織における持続可能性、発展持続性を考慮したものではなく、むしろ、その後は、そうした組織等メカニズムに組み込まれ、あるいは単に生活を成り立たたせるための機構となり、持続可能性、発展持続性を保持するためのある種の熱意、精神(いや良心かもしれない・・。)を見事なまでに閑却するか、あるいはエピゴーネン的な換骨奪胎、再生産に終始してしまうような特質を持っているのではないかと不図考えてしまいます・・。

こういったことが単なる見当違いの妄想、杞憂であれば良いのですが・・。

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さる四月に発生した熊本での大地震による被災地での諸インフラの早急なる復旧そしてその後に続く着実な復興を祈念しております。

2016年7月20日水曜日

20160720 人間と技術との間接的な結び付き および 相転移・相変態について・・

昨日ブログ記事にて書いた内容とは、後になり考えてみますと、以前抜粋したエルンスト・ユンガー著月曜社刊「労働者・支配と形態」の下に示す内容とも関連がるのではないかと考えさせられます・・。

『しかしながら、人間が技術と直接的でなく間接的に結び付けられていることを認識するならば、ひとは、これと全く異なる判断に到達する。
つまり技術とは、労働者の形態が世界を動員する方法なのである。
人間が決定的に技術との関係を取り結ぶ程度、人間が技術によって破壊されるのではなく支援される程度は、労働空間において通用する言語に熟達することにほかならない。
この言語は、文法のみならず形而上学をも有するがゆえに、他のどんな言語よりも重要で深遠である。
この関連において、機械は、人間同様、二次的な役割を演じる。機械は、この言語が語られる発声器官の一つにすぎないのである。さて、技術を、労働者の形態が世界を動員する方法として理解すべきであるとするならば、まず、技術がこの形態の代表者、すなわち労働者に特に適合しており、その意のままになる、ということが証明されなければならない。』
上掲抜粋文中に記されている『人間と技術が直接的でなく間接的に結び付けられている』とは、通常の状態において人は自身の専門における特有の言語、言語体系そして、それらによる形而上学を意識上に顕現させた状態ではないものの、何らかの必要性、契機により、突如それらが意識上に顕現し、それを行使することになるということではないでしょうか・・?
そして、この顕現のきっかけとなる必要性、契機といったものが、性質は(おそらく)異なるものの、心的外傷(トラウマ)によるフラッシュバックの現出(顕現)のメカニズムと類似しているのではないかとも考えられますが、これを読まれている皆様はどのようにお考えになるでしょうか?とはいえ、無論、このことにより心的外傷(トラウマ)によるフラッシュバックが好ましいものであるとは短絡的には考えませんが・・。
しかし、同時にこの著者(エルンスト・ユンガー)のように数々のホンモノの戦場を潜り抜け・危険な状況を生き延びてきた方が上掲内容の文章を記す背景においては、心的外傷、フラッシュバックという言語を用いなくとも、あるいは同様の人間の精神、心のメカニズムを示しているとも考えられるのではないでしょうか?
また、さらにこのことに異言を試みますと、こうした現象、メカニズムとは物理、化学用語でいう相転移、相変態などにも何かしら類似した要素があるのではないかとも考えられます・・。
そして、このように記しておりますと、以前抜粋した井筒俊彦著、岩波書店刊「意識と本質 精神的東洋を求めて」および、それを補完する目的にて抜粋した「岩波理化学辞典」第5版の「相転移」の説明が想起されるため、これら両著の主要抜粋部分を下に示します。
井筒俊彦著 「意識と本質 精神的東洋を求めて」
「思うに、人は誰でも、その霊妙な心のうちに必ず知(事物の本質認知の能力)を備えており、他方、天下に存在する事物、一つとして本来的に理を備えていないものはない。ただ(心の表層能力だけしか働いていない普通の状態においては)事物の理を窮めるということができない。つまり、せっかく人間の心に備わる知もその本来の機能を充分に果たすことができないというわけだ。されば、儒教伝統における高等教育においては、必ずまず何よりも真っ先に、学人たちに、自分が既に理解しているかぎりの事物の理を本として、およそ天下に存在するすべての事物の理を次々に窮め、ついにその至極に到達することを要求する。こうして努力を続けること久しきに及べば、ある時点に至って突如、豁然として貫通するものだ。そうなれば、一切の事物の表も裏も、精も粗も、あますところなくそっくりそのまま開顕し、同時にその心の広大無辺の働きが残りなく明らかになる」
「格物(窮理)を実践するためには、あらゆる物について、それぞれのその理を窮め尽さなくてはならないのでしょうか。それとも、ただ一つの物だけ取り上げて、その理を完全に窮めてしまえば、あとはそのまま万理に貫通することができるのでしょうか」。伊川は答える、「たった一つの物の理を把握しただけで、どうして一時に万理に貫通することができよう」。だが、と彼は付け加える、そうかといってまた、天下にあるかぎりの一切の理を窮め尽せというわけではない、と。先に引用した一文(「遺書」十八)がこれに続く。曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして窮め終った理が多く積ると、突然、自らにして貫通体験が起こるのだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、というのである。ということは、しかし、「窮理」の最終的目的からすれば、事物の「理」、すなわち一物一物の「本質」そのものがそれ自体として問題なのではない、いやそれも問題であり重要であるにしても、むしろそれより、こうした修練を通じて、事物をそういう形で、そういう次元で、見ることの出来る意識のあり方を現成させることの方が、はるかに重要なのだということである。そのような意識の次元が拓かれて、全存在世界の原点である「太極」そのものを捉えてしまえば、ひるがえってその立場から、経験的世界の個々の事物に分殊して内在する個別的「太極」を窮め尽すことなど、いともたやすいことなのである。」

「岩波理化学辞典」第5版
相転移
相変化(phase change)ともいう。温度、圧力、外部磁場、成分比などの変数の変化によって物質が異なる相に移る現象。
原子、分子などミクロの構成要素の相互作用による協力現象である。
相転移には第1種相転移と第2種相転移がある。
固体の融解、同素変態(→変態)、液体の気化などは第1種相転移に属し、鉄などの強磁性体がある転移点(キューリー温度)で常磁性に変るのは第2種相転移の例である。
1) 第1種相転移(phase transition of the first kind).
熱平衡状態として2相の化学ポテンシャルμ1,μ2が等しいという条件で定まり、温度T,圧力Pによるそれらの1次導関数は不連続となるので、1次相転移(first order transition)ともよぶ。この場合、エントロピーや比体積は不連続であり、転移熱(潜熱ともいう。それぞれの場合、融解熱、蒸発熱などという)が伴い、P-T面における2相共存線についてクラウジウス―クラペイロン式が成立する。相1から相2への転移には新しい相2の核の生成が必要なので、準安定な過熱あるいは過冷却として相1が転移点を越えてある限界まで存続し続けることがある。
2) 第2種相転移(phase transition of the second kind).
化学ポテンシャルの1次導関数が転移点で連続で、転移熱(潜熱)はなく、また比体積の不連続もない。2次導関数は不連続で、比熱や磁化率などが転移点で不連続となるので、2次相転移(second order transition)と呼ばれる(3次以上の導関数の連続性を論じることによって、より高次の相転移を定義することもできる)。比熱が転移温度の上下でギリシャ文字のラムダのように発散する場合が多いが、それをλ転移という。このタイプの2次相転移は臨界現象と呼ばれ、一般にある秩序変数に関する秩序―無秩序転移であって、合金結晶中の原子配列規則化、磁性体における種々の磁気的秩序の生成(磁気転移)、常伝導状態から超伝導状態への転移、液体ヘリウムの超流動状態への転移など、重要かつ興味ある多くの例がある。

2次相転移の理論は非常に進歩し、臨界点付近の異常性について深い理解が得られている。→臨界指数
これらを再度抜粋し、読んでみますと、私も含め、我々は人間の精神に対する理解が未熟であり、あるいは、前著に述べられている古の儒教伝統の方が、現代の我々よりも人間精神に対する賢明な見解を持っていたのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の九州、熊本を中心とする大地震にて被災された地域のできるだけ早期そして着実な諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。

20160719 3年前のこの日(7/19)の記憶から・・

本日は帰宅が若干遅くなり、日をまたいだ7/20に昨日にあたる7/19の記事作成を開始しました・・(苦笑)。

7/19といえば、3年前2013年のこの日、学位審査が行われました・・。

この時のことは、現在になり思い起こしてみても、何とも落ち着かない気分になってきます・・。
しかし、当時の私とは、もっと落ち着かず、自分なりに必死にそれ(落ちつきのなさ)を抑えていたような記憶がウッスラとあります・・(苦笑)。

また同時に、そこに至るまでには、さまざまなことがあり、それは嘆いてもはじまらないことではあるのですが、一方、当時の私は、それら全てを消化、納得できていなかったのではないかと思います・・。

いや、そのように考えてみますと、それは現在においても未だ、全ては昇華、納得されていないのではないかとも思います・・(苦笑)。それ故、このことを思い起こすと、さきほど記したような落ち着かない気分になってくるのかもしれません・・。

また、一般的に、このような現象をトラウマ(心的外傷)ともいえるのかもしれません・・。

しかし、そうした過去の出来事にばかり注視することも現実的ではありませんので、実際の生活において、こうしたことは、何かそれを想起する契機を受けた時、瞬間的に、そうした(大量の)記憶の波(?)に呑み込まれるといった感じになるのではないかと思います・・(フラッシュバック?)。

このように書いておりますと、こうした過去の記憶の波が押し寄せる現象のメカニズム、作用機序とは、何も心的外傷およびそのフラッシュバックのみならず、少なくとも私の場合、いくつかの学問分野における知識、言語の相が、日常生活における何らかの契機により、突如押し寄せるといったことにも類似しているのではないかと考えさせられました。

こうしたことは、これまで読んだ書籍等に記されていた記憶がありませんが、これを読まれた皆様の中に、この現象を理解していただける方が少なからずいるのではないかと思われますが、実際のところ如何でしょうか・・(笑)?
ともあれ、人間の心とはなかなか面白いものです・・(笑)。

そして、ここまで記し不図思い出したことは3年前の7/19の前後(特に後)、どうしたわけかジブリアニメの「千と千尋の神隠し」および「紅の豚」を好んで何度も観ていたということです・・(苦笑)。

また、それぞれの主題歌「いつも何度でも」「時には昔の話を」はそれ以来、とても好きになりました。
こうしたことから、楽曲の好みなどは、当たり前のことですが年齢に係らず、経験により進化発展してゆくものなのでしょう・・。

さて、それはさておき、この時にお世話になった皆様、どうもありがとうございます。

そして、さる四月に発生した九州、熊本の大地震によって被災された地域における復旧活動が速やかに進み、そしてその後の復興が為されることを祈念しております。

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。