2015年8月30日日曜日

橋川文三著 中島岳志[編] 「橋川文三セレクション」 岩波書店刊pp.344-346より抜粋

敗戦に伴う衝撃は、従来の日本人の思想と生活を支えていた天皇の問題をめぐってまず集中した。それが進歩と革新をめざす勢力と、保守ないし反動勢力との間の争点となり、タッチストーンとなったのは当然であった。
この問題もまた戦後思想史上の大きなテーマにほかならないが、ここではその経過をたどることが目的ではない。問題は敗戦直後、「天皇こそ最大の戦争犯罪人」とされ、「諸君が天皇制打倒に賛成しえないというならば、自ら民主主義革命に参加することを拒絶し、反動的勢力として天皇の側につくことを意味する」(「赤旗」第二号)という主張がうずまいた革命的激動の中で、純正な保守の立場というものがありえたとすれば、それはどのようにこの問題に対処したかということである。
そうした状況の中でもっとも早い時期に皇室の存在を擁護する論文―「建国の事情と万世一系の思想」を公表したのが津田左右吉であった。この論文はあたかも敗戦後最初の総選挙の直前に発表されたが(「世界」昭和二十一年四月号)、ちょうどそれは選挙の争点が天皇論議に絞られ、保守勢力が天皇制擁護にキャンペーンを集中していた時期であったために、革新勢力にとってきわめて不利な効果をもつことになった。
もともと、津田は当時進歩派の歴史家と一般に思われていたこともあって、その論文の反響を懸念した「世界」編集部が異例の「あとがき」を付けたというエピソードもその時のことであるが(このことについては「戦後日本思想体系」第一巻の日高六郎による「解説」を参照されたい)、ここではその問題にも立入らない。
ここではかつて自ら日本古代研究に関するその著作の発禁処分をうけたことのある津田が、その経験にもかかわらず、天皇と皇室について「二千年の歴史を国民と共にされた皇室を、・・それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民自らの愛の力である」と述べたその思想と心情が問題である。
当時、こうした皇室への敬愛感は、事実上保守主義者か、右翼者によってしか公然とは述べられず、ただ国民の多数の中に、漠然とそれと同じ感情が認められたにとどまる。
この場合、一般に明治時代にその教養と思想を形成した人々と、大正期以降に成長した世代との間には、天皇と皇室に対する感受性にかなりの差異があったことはやはり注目される。後者は、あたかも革命運動の挫折とその後における戦争によって直接に被害を受けたという、意識を抱いており、それらの惨禍の理由を天皇制に結び付けて理解する傾向が強かった。戦後の天皇制論議において、必ずしもコミュニストでない三十代知識人が、なんらかの意味で天皇制批判の中核を形成したのは主としてそのためであろう。
それに対し、前者はなお「君臣水魚の交」を伝えられる明治天皇制への郷愁を抱いており、本来の天皇制は戦争末期のようなものではないという実感を持っていた。これは主としてオールド・リベラリストと呼ばれた人々の心情であり、その差異が自ら天皇制に対するそれぞれの態度にも反映したと考えられる。
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572

橋川文三セレクション
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
橋川文三

金関丈夫著 「長屋大学」 法政大学出版局刊 pp.61-62より抜粋

たねいれぬパン

 イスラエル人の神事には、特にたねいれぬパンが用いられたことが、聖書にしばしば記されている。

たねいれぬパンの使用には、後世いろいろの解釈が付せられ、たね即ち酵母は、我々の心中に一抹の悪心がきざしたならば、それはパンの中に一つまみの酵母があって、パンの全体をふくらませるごとく、我々の全心を悪でふくまらませるという道徳的比喩から、神はこれを忌むのである。というような解釈が、いまでは一般的であるらしい。


 しかし、神事に際して、比較的後世に発生した日常の風習が避けられ、特にその種族の古風が採用されて、ついには神事にのみ、種族の古俗が遺るということは世界の一般的現象であるから、この、たねいれぬパンのごときも、その眼で見て簡単に解釈すべきであると思う。

イスラエル人は、のちに酵母の使用法を知り、それが日常の風習に採り入れられたのちにも、神事のさいに限っては、古俗であるたねいれぬパンを用いたのであろう。


 こういうことは他にも沢山の例がある。「出エジプト記」四章二十五節には、モーゼの妻が、「利き石をもってその男子の陽の皮を割り」と記されている。モーゼの時代にまだ金属器が使用されていなかったのではなく、また石ということに何か特別の意味があったのでもなく、これも、こうした儀式には日常の器具が忌まれて、特に石器時代の古俗がとり遺されていたと、見るべきであろう。


 「創世記」には、十二箇所「髀の下に手を入れて誓ふ」ということが書かれている。これなども、なぜ髀の下に手を入れるかということについて、そうした風習が既に不思議なことになり終った後の時代には、いろいろな解釈が付せられているようだが、それは当時の単なる風習であったろうと思う。

ギリシャの古代にも、こうした風習が長者に対する挨拶法として遺っていたことは、モンテーニュの随筆によって伝えられている。哲学者のパシクレスという人は、そこを、突然相手の股の間に手を入れる癖があったので、人を驚かせたというようなことも伝えられている。


 聖書を読むときには、後世の神学者や説教者の解釈を離れて、素直な気持ちで読む方がいいようである。

 中国人は古典、たとえば「詩経」などに対して、こうした素直な態度を失ってしまった結果、そのあらゆる素朴な章句に、教訓的或は諷刺的な意味を付していたが、グラネなどによって、近頃ではようやくその本然な素朴さを味わう道がひらかれたのである、その国の学問の伝統を身につけない外国人が、しばしばこうした革新的進歩をもたらすように、西洋神学の伝統にあずからない、われわれ日本人の素直な態度が、聖書の理解を変革させ、かえって西洋神学に寄与することが出来ないとは限らないと思う。

長屋大学

金関丈夫

金関丈夫著 大林太良編 「木馬と石牛」 岩波書店刊 pp.59-61より抜粋

日本のいわゆる金石併用時代の青銅器文化に、中国地方の中央を境界にして、東西二つの文化圏があった。
東は銅鐸の文化であり、西は銅剣、銅矛の文化であるということは、今ではあまねく知られている。また出雲地方が、この西の文化圏にあったということについても、明らかな証拠がある。現に出雲大社の宝殿には、この地方から出土した銅矛の実物が蔵されている。

この二つの異なる青銅器文化圏の意義をどう考えるかということは別として、弥生式の時代に、出雲地方が北九州を中心とする一つの優勢な文化圏にあったということは、またたいへん面白いことではないかと思う。

「古事記」によると「ムナカタ」氏が祭祀したという筑前の宗像神社の祭神の一人「イチキシマヒメ」というのは、宗像三女神のうちで、後世に創らせたものであったが、この「イチキシマヒメ」の「イ」は単なる接頭音であり、「チキ」とか「ツク」とかに語源がある。

私の考えでは、この「チキ」「ツク」などという語と、筑紫の「ツク」また九州の地名に多い「ツキ」例えば秋月、古月、香月、杵築、「シキ」例えば伊敷、一色、「スキ」例えば臼杵、指宿、「チキ」例えば市来、加治木、「チカ、シキ」例えば値賀島、志賀島などとは関係があり、これらの音で表されている名を冠した一つの強力な海洋部族があったかと思う。

出雲地方へ北九州の青銅文化をもたらし、出雲の海辺の一角に定着して「杵築」の地名をのこしたのも、恐らくこの一族ではなかったか。

こんなことをいうと、大社関係の方々にしかられるかもしれないが、大社の祭神はいまはオオナムチノミコトということになっているかもしれないが、これは近世以後のことであって、古来スサノオノミコトと信ぜられていたのである。

ところがさきの宗像の三神は、天安河原でうけひをしたときに、スサノオノミコトのものざねから生まれたので「乃ち汝の子なり」とアマテラスからスサノオにおしつけられたという。すなわち宗像の三神はスサノオノミコトの子だということになっている。

この説話のおこりは、おそらく「イチキシマヒメ」の祭祀者がスサノオノミコトを祭祀する部族と接したときに生まれた、よくある妥協の思想から成立した話であろう。大社にはスサノオと共にイチキシマヒメが祭られたことがなかったとはいえないと思う。

出雲の部族が、古代においては日本海をまたにかけたたいそう発展的な海洋族を含んでいたことは、「古事記」の記事や、「風土記」の国引きの伝説からもうかがわれる。若狭路から琵琶湖に入ったと思われる「イツクシマヒメ」も、両部思想のお陰で安芸の厳島と同様弁天様になったが、島の名の竹生には「チク」の語源をとどめている。
これらも日本海から近畿に入ったのであり、出雲族の越の国々との交通の遺物であろう。京都の出雲路というのも同方面から侵入したこの部族の故地であろう。
竹生島の「チク」は滋賀の「シカ」にも関連があろうかと思う。出雲神話に南方説話の影響の多いことなども、私の以上の考えを支持するもののようである。
近年鰐淵村の猪目洞穴で発見された弥生式時代の貝輪などにも、南海産のテング貝で作られたものがあった。
土俗の方からいっても、中海のソリコブネのような船が南方につながることは、早くから人々に云われており、その他にも色々と面白い事実があるようだ。佐陀神社の神事の海蛇が南海から暖流に乗ってきたものであることも、この際見逃し難い。

以上はただ旅中、不備な資料を基にした私の思いつき出会って、詳細はもっと深く考えなければならないが、請われるままに仮に発表したのである。

金関丈夫著「発掘から推理する」(抜歯について)岩波書店刊pp.39-43

喪服が悲しみの表現である、孝順、貞操の表徴であることは、末世の今日においても、確固たる信念につながっている。このことはしかし、喪服を含む服喪の行為が、こうした倫理観から起こったのだ、ということとは別問題である。こうした倫理観念の発生していない原始社会にも、この風習はいたるところにあり、しかもより厳重にある。変装はおろか身体の毀損―マユ毛やひげを抜く、指を切る、歯を抜く―を伴う残酷な変貌の例さえある。これが単なる風習的な儀礼に堕し終わった以前の、実際的に、切実に必要とされた呪術であった跡さえ、容易に追跡されるのである。

健康な歯をわざわざ抜き去る風習、いわゆる抜歯風習の痕は、日本では縄文時代から弥生時代中期の人骨に見られるが、意外なことには、つい最近まで、長崎県や大分県の家船の婦女が、嫁入り前に前歯を抜いていた。中国では河南省の殷代、山東省の戦国時代の頭骨にその痕のあることを、私は先年発表しておいたが、旧冬の訪中中国学術代表団の考古学者夏鼐教授の話で、最近山東省の大汶口の龍山期、すなわち晩期新石器時代の多数の頭骨に、前歯を欠くものが発見されたことを知った。中国西南地方や台湾北部の諸族に、つい近ごろまで、この風習のあったことは、多くの人が知っている。

この風習の起源については、従来まだ定説がない。種々雑多な解釈はあるが、当事者がこれをいかに説明しているかは、いっこう当てにならない。それがいかなる折に行われるかに、解決の緒を求むべきである。

大別して、抜歯には近親者の死に際して服喪の一形式として行われるものと、男女の成年式の一行事、あるいは結果的に見て一種の試練として行われるものとの、二つの場合がある、前者はポリネシアを中心とする。しかしオーストラリア、メラネシア、インドネシア、中国、日本、東部シベリア、アリョーシャンからアメリカ大陸にわたる環太平洋諸地域のものは、多くは後者の場合である。この場合は、一生一度の行事だが、前者の場合では、何度も経験しなければならない。ポリネシアでは多くの近親者を失ったものは、前歯が一本もなくなる例がある。ニューギニアのある種族で、同じ意味を持つ指なしの老人を見るのと同様である。

これら二つの異なった場合を持つ風習が、別個に起こったとは考えにくい。根元は一つだったにちがいない。同じ地方に両者を併存する例が、その一つの証拠になる。四川、貴州、雲南各省の種族については、晋の「博物誌」にはじまり、宋、元、明、清を通じて、一種の成年式の意味で記載されているが、しかし明の「炎徼紀聞」や、清の「峒谿纖志」では、父母の死に際して、子婦各二歯を折って棺中に投ず、とあり、明らかに服喪の一形式としている。抜歯ではないが、前歯の前面を削る風習がある。これは抜歯から染歯への過渡の形式であるが、これが成年式の行事として行われるマレーからインドネシアにおいても、ケドゥ族(マレー)、ベンクール族(スマトラ)、サライ島民(スマトラ)では、近親者の死に際して、身体を傷つけるのは抜歯や指切りだけではない。髪や眉毛は簡単だが、プルタルコスの「倫理論集」には、エジプト、シリア、リーディア(小アジア西部の古王国)などでは、鼻や耳を削る風習があったという。

それならば、そのいずれが根元であろうか。あるいは、これら両者を同時に説明し得る単一の解釈は何であろうか。

染歯すなわち歯ぐろめを抜歯の簡便化だと見るのは、ほぼ定説である。現に台湾では、抜歯をやらない種族にのみ染歯の風習がある。歯の前面を削って染めやすくする風習が、インドネシアでは単なる染歯に先行している。日本で、染歯が成年式の行事の一つであったことは、対馬にのこる近代の風習からも察せられるが、古い記録(「万里小路時房日記」1431年)にものこっている。しかし、その以前に、正月行事の一つでもあったことが、「紫式部日記」に見える。正月は、今ではその考えはすたれたが、祖霊を迎える魂迎えの行事でもある。正月のものいみは、祖霊に対する謹慎である。ものいみの「もの」は、「もののけ」の「もの」で、いわば恐るべきアラミタマである。これを恐れて衣物を換える―さきのプルタルコスの「倫理論集」にはエジプト、シリア、リーディアでは男と女が衣をとり換える。日常の仕事を廃し、目立たぬように、ひそやかにひきこもるルソン島のイフガオ族は、一年の最後の一日は同じ恐れからものをいわないで家にこもる。この「だまり正月」は日本にも各地にのこり、ヒロンの「日本王国記」には17世紀のはじめまで長崎地方にこれがあったことが報告されている。―これがもの忌みにほかならない。

このときに歯ぐろめをするのは、近親者の死に際して変装、変貌を以ってカモフラージュすることと同じ意味である。恐るべき祖霊は、死の直後のみならず、子孫の一生の重要な行事には必ず出張してくる。成年式、これが終わってはじめて、社会人として生まれ出たことになる。その社会とは、同時代人のみの結合ではない。祖先をも含む、時間的のひろがりを持った結合だ。祖霊は重要メンバーとして出席しなければならない。成年式には多くの場合一定期間のもの忌みが課せられる。成年式の試練とも見られている抜歯をも含む各種の身体変工は、少なくともその一面は、この際のカモフラージュと見られる。
服喪に際して抜歯するのも、成年式に抜歯するのも、ひとしく死霊に対して身をかくすカモフラージュである。「紫式部日記」の正月歯ぐろめの行事の記載は、この解釈を可能にするカギである。
正月はめでたいから晴着だ、となっているが、その晴着の前身は、喪服と同じ変装具だったといえば、人々は驚くであろうか。
発掘から推理する (岩波現代文庫)
発掘から推理する (岩波現代文庫)
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305 

金関丈夫著「発掘から推理する」「あた守る筑紫」岩波書店刊pp.145-150より抜粋

「あた守る筑紫」
筑紫という名は、狭くとれば筑前、筑後の二国であろうし、やや広くひろげて、北九州一帯を指す場合もあったが、時にはまた、九州全体をこの名で呼ぶこともあった。
「万葉集」の「あた守る筑紫」は、普通には北九州のことと考えられ、大陸方面からの外寇に対する防壁の地の意に解されている。
そうした意味の筑紫の形容語として「あた守る」といっているわけだが、この「あた」という語は、古来なんぴとも、敵人とか、賊とかを意味する普通名詞と考えて疑わなかったようである。
その字に「仇」をあて、古くは「あた」と清んで呼んだ。後には「あだ」と尾音が濁り、「酒は身の仇」とか「国に仇なす」とか、さらに広く普通名詞として用いられるに至っている。
すなわち、これが普通名詞として、古くから敵人とか、賊とかの意に用いられ来ったことは確かであるが、元来それがどこからきたか、あるいは「あた守る筑紫」という場合には、やはりそうした普通名詞であったかどうか。私はこのことを問題にして、一つの新しい説を出してみようと思う。
さて、話は変わるが、「隼人」と書いてハヤトあるいはハイトと訓むのは、もともとハヤヒトの約音である、というのが本居宣長の説である。なるほど「万葉集」などにもすでにハヤヒトと訓んでいるから、この訓みは相当に古い。
また宣長はハヤヒトを、その人々がすぐれて敏捷く、猛勇き故にハヤヒトという、と解しており、現代でもこの解釈は疑われていない。
もし下河辺長流(江戸前期の歌学者)の「枕詞燭明抄」の「其たけくして烈しきこと隼の如しと風土記に見ゆ」という記事を信じ、かつそのいわゆる「風土記」なるものを一般の「風土記」と同種のものと考えるならば、宣長流のこうした解釈をも、また奈良朝までさかのぼらせ得るかも知れない。
また「万葉集」巻十一に「ハヤヒトの名に負ふ夜声いちじるし」とあるのは、「続日本紀」の大宝二年(702)十月の条下に見える薩摩の「唱更国司等」の唱更をハヤヒトと訓んでいるのと共に、当時ハヤヒトの名は唱す(はやす)人というところからきたのだ、との考えもあったかと思わせる。
これらの考えにしたがえば、いずれにせよ、ハヤト、ハイトの前に、ハヤヒトがあったことになる。しかし、考えてみると、もともとハヤトと呼ばれたこの人々の名に隼人という字をあてたことから、後にその字によって、ハヤヒトの訓みが生まれたのだと、いえないこともない。

隼人はもともとハヤトという音にあてられた音字であり、これをハヤヒトと訓んで、逆にその字柄から敏捷猛勇な人々だと考えたり、あるいはその職分から、唱いはやす人だと考えたのは、後世人のいわゆるフォークスエチモロジー(民間語源説)であったかもしれない。
そこで、可能的な一つの説として、このハヤトがハヤヒトに先行するのではないか、という新しい考え方を、私は仮に取り上げてみる。そして、ここでまた一つ話をかえてみる。

ネグリト族と隼人
フィリピンのルソン島の所々に、身長が小さく、皮膚が黒く、頭髪が縮れて、円ら眼の、唇の厚い人間が住んでいる。
すなわち人も知るネグリト族で、周囲のマレー系の種族からは、アエタ、アイタ、アジエタ、アグタ、アギタ、アイグタ、アタ、アツタ、エタ、イタ、イナグタ等、種々様々な音で表される名で呼ばれている。タガログ語のイタ、あるいはイテイムやビコル語のイトム、マレー語のイタムからきているといい、これらはいずれも黒いという形容詞だという。ところが、宋の趙汝适の「諸蕃志」には、この地方を含む三嶼という国名の部に「海膽(胆)人」の種族名が見え、形小さく、眼は円く髪が縮れていると、彼等を形容している。この本の英訳者のヒルト氏らは、この海胆(ハイタン)をアエタの対音と考えている。
また元の汪大淵の「島夷志略」の三島の部の「海膽」についても、校注者の藤田豊八博士は、これを「諸蕃志」の海胆であるとし、アエタの対音であるとの考えに賛成している。
これらの考えは正しいと思われる。
すると、アエタ、アイタ、アタの音は、ハイタンのごとくにも伝えられた、という一証がでてきたわけである。
このハイタンの音は、隼人のハイトにはなはだ似ている。
宣長が挙げた「日本書紀」の訓に隼人をハイトンといったという例は、このハイタンにますます近いわけであるが、ここでは胆の音にこだわる必要はない。
しかし、このネグリトを指したハイタンの名と、南九州の古代人を呼んだハイトの名が似ているというのは、偶然のことかも知れない。少なくともその間につながりがあると考えさせる資料は、今のところほとんどない。
同様に、つながりがない、ともいいきれないが、それはともかくとして、ここで必要なのは南方のこうした種族を、あるいはアタともいい、あるいはハイタンともいった、アタはハイタンのごとくにも響くことがあった、という一つの事例なのである。
というのは、天武天皇の白鳳十一年(682)に、大隅の隼人と相撲をとった、と記されている薩摩の阿多の隼人の阿多という地名が、これで浮かび上がってくるからである。
元来、地名と種族名とは、こうした時代には不可分のことが多く、種族名をとって地名にあてた例は他にも少なくない。
例えばエゾは北辺の住民そのものであり、また彼等の住んだ地名の名でもある。南方にも同様の例は多いのである。
薩摩の阿多を種族名からきた地名と認めるのは、それだけでは証拠不十分であるが、一方にマレー系の語圏で、アタがハイタンとも響いた例があるところから、薩摩とアタとハイトとを結びつけることが可能になってきたのである。隼人は古くはアタとも呼ばれていたのであろう。
というのが私の想像の第一段である。つまり、奈良朝のころに、地名をアタといい、種名をハヤトといって別物と考えたのは、当時すでに両語の同源であったことが忘れられていたのであろう。
誤解を防ぐために重ねていうが、隼人の名がフィリピンのネグリトの名に似ているといっても、その二つの種族が同一だったと考える事はできない。
隼人がネグリトに似ていたかを知る材料は、何も残っていないからである。有名な「肥前国風土記」の値嘉島の白水郎は容貌が隼人に似て、その言語俗人(よのつねのひと)に異なっている、とあるのは、隼人が周囲の一般人と容貌や言語風俗を異にしていたことを示すのみであって、その容貌がどうであったは、これだけではわからない。
ただ、今日薩南の地方を歩いてみると、身長が極度に低く、頭髪が縮れ、鼻の平たい人に遭うことがしばしばある。一種の、ネグリト様の体質がこの地方にあることは認められる。しかし、かく痕跡化してしまったのでは、これを強調することができないのである。

金関丈夫著 「日本民族の起源」 法政大学出版局刊 pp.165-167より抜粋

なるほど何らかの時代には何かの原因があって、人類は自然に変化する。九州地方だけでなく、日本全島で、縄文時代からひきつづき生きつづけたものが、現代日本人の根幹を作っている。
弥生人渡来説者にしても、騎馬民族侵入説者にしても、在来の日本人を皆殺しにしたなどとは、誰もいっていない。それは不可能だからである。しかし北九州や畿内などに、新文化の伝播者が移入し、畿内においてはその移入者が今日の畿内人の体質を規定するほど多量であっただろうというのは、これは可能であり極めて蓋然性がある。
自然の進化によって日本人は変ってきた。異系の影響はなかったというのも可能性はあるが、それで現代日本人の今見るような地方差を説明することは不可能に近く、蓋然性に富む説明は恐らくできないであろう。可能性がなければ問題にはならないが、問題は蓋然性にあるのであって、その蓋然性の多寡は形質人類学一本では極められないはずである。
話がここまできたから結論を先にいっておくが、この問題についての蓋然性の多い議論としては、北九州地方の、九州における弥生文化の中心地となった地方に、弥生時代に入ると同時に、従来九州には存在しなかった新しい体質が生まれたことの説明としては、弥生文化の伝播者として新たに渡来した、異系の人種の影響であったろう、ということである。彼等は山口地方にも、出雲にも、また畿内の国府にも出動したが、その数はむしろ少なく、九州では紀元前後500~600年の間に、北九州の一部に住みつき、西九州にも、南九州にも膨張することはなかった。
これらの地方が北九州の部族には敵国だったとすれば、当然のことであったに違いない。山口では玄海沿岸に海浜に沿うて南北に延びたが、出雲、国府では周辺への進出の跡もとどめていない。その伝来した弥生文化も、その精髄は北九州にとどまり、さきにもいう通り、西九州にすら及んでいない。その文化の面から見て、九州への渡来の経路は南朝鮮であり、南朝鮮の住民の人種性に、今日と大きな変化がなかったとすれば、従来の縄文人に比して、短頭長身により傾くその形質は、南朝鮮人より受けたものであったろう。
彼等の北九州への移入は、3世紀以後にはしだいに薄くなり、それ以後は畿内に向きをかえて、九州を素通りするに至ったであろう。九州にのこった弥生人は、やがて土人の間に吸収されて、しだいにその現像を失ってゆくのであろうが、しかしその遺伝子は潜在して、永く作用し、或いは浸透してゆくであろう。

日本民族の起源
金関丈夫

2015年8月28日金曜日

岡 正雄論文集 大林太良編 「異人その他 他十二篇」岩波書店刊 pp.64-67より抜粋

要するに日本固有文化は、南中国、江南地域、インドネシア方面から渡来したいくつかの農耕文化の分厚い地盤の上に、支配者文化が被覆してできあがった混合文化であるといってよい。もともと農耕民族は定着的で生産的で受容性に富んでいるために、外来文化を受容し蓄積する性格がいちじるしく、したがって農耕民社会の蔵する文化目録(インヴェンタール)は、移動的戦闘的な騎馬遊牧民社会のそれに比して格段に豊富である。
農耕民社会は定着的で自己の耕作地に拘束され、その耕作地の広さにも限度があるため、その生活圏が狭小なのが普通である。農耕民文化には、外来文化の受容、蓄積のためもあって、異系・異質の文化や文化要素が併存し同居している混合的性格が顕著で、相互に対立し矛盾する文化が併存・同居しているにもかかわらず、これを包摂した統一ある共同体文化を形成している、栽培植物が農耕民の最大関心事であり、植物的世界に生活しているのであるから、植物の萌芽、開花、結実、枯死という生命の循環を反映した世界観や循環的論理、あるいは陰陽二元的論理が特徴的である。ものの考え方は混合文化のゆえもあって、おのずから分析的「論理的」でなく、包括的で「理解的」な傾向をもっている。
こうした農耕民文化に対して遊牧民文化はきわめて対照的である。この社会は牧草を追って絶えず移動する移動社会で、定着的な地縁的組織は発達しない。かれらを結合するものは基本的には血縁と系譜である。この社会は移動社会であるために、いきおい軍隊的性格と組織を持つようになり、きわめて行動的で侵略的で、政治力と組織力にすぐれている。また移動的であるために、文化は蓄積されない。その文化目録は武器、馬具を除き極度に貧弱である。遊牧民は行動的ではあるが生産的ではない。牧畜経済は家畜が「資本」で、富の増大は家畜の数の増大を意味し、その増大は家畜の自然的繁殖にまつのであるが、これは資本と利潤の関係に似ている。家畜資本は数量的に取り扱うことができるし、牧民はただ家畜を管理し、適当な牧草地を発見し、畜群を外敵や疫病から保護することがその仕事で、あたかも資本主義経済の経営者に似た立場にあって、農民の生産経済形態とは根本的に異なっている。農耕民の循環論的、二元論的なのに対し、直線論理的で、一元論的であり、前者の宗教が霊魂崇拝的、アニミスティックで、「水平的」信仰形態であるのに対し、これにおいては、主神的信仰、天神信仰が顕著で、私のいう「垂直的」信仰形態を特徴としている。両者の文化の対照的性格への理解は、日本固有文化の性格を考えるうえに少なからぬ意味を持つであろう。

天皇種族は政治力と組織力にすぐれてはいたが、文化的には貧しかった。これに反し、被征服民たる農耕民は文化的には豊かで、生産的ではあったが、政治力も組織的行動力も乏しかった、だから天皇族は政治的・軍事的には勝ったが、文化的にはむしろ被征服民の文化に吸収されたといってよいだろう。農耕民や漁労民だけで大規模な国家広域社会はできないし、また遊牧民だけで永続的な国家を作りえない。定着的な農耕民社会の地盤の上に政治的にすぐれた種族が被覆し、これを組織して、はじめて永続的な国家が成立する場合が多い。

日本文化の雑多で、多様で、矛盾的な性格は、こうした農耕文化の一般的性格や、さらにその農耕文化そのものが、すでにいくつもの農耕文化の混合から成立しているということや、騎馬遊牧民文化の性格を持った支配者文化と先住農耕民文化との混合、というよりもむしろ支配者文化は農耕民文化によって深く影響されたというこれらの事実から理解し説明することが、少なくとも一つの途であろう。
さらにもう一つの文化をここに付け加えなければならない。これは男性的・年齢階梯制的・水稲農耕―漁労民の文化であるが、この文化は農耕民の文化としては、既に述べた。

しかしこの文化のもう一つの特徴は、年齢階梯的な漁労民であるということである。この社会はきわめて男性的で、強い年齢組的結合力を有し、年齢・世代的な厳格な上下秩序によって律せられてはいるが、同年齢者間はきわめてデモクラティックで、ある種の男らしさ、勇気などを理想とする行動・態度型もあったようである。この種族は後年に至っては階層化されて一部は主農副漁民となり、一部は主漁副農民となったのであろう。上古の末から中世にかけて成立した武士階級は、中央からきたって土着した氏族的・家長権的な開拓土豪が右の農民や漁民を配下に統率して形成されたものではないかと思う。というのは武士階級の社会構造において二重の構成・秩序原理が存在するらしく見えるからである。武士階級の社会構造、習俗、生活様式にどの程度この文化が浸透しているかということは、今後の研究にまつほかないが、少なくとも、日本民族文化または日本人の性格形成に、この農・漁民が大きく参加していることは、否定できないと思う。