なるほど何らかの時代には何かの原因があって、人類は自然に変化する。九州地方だけでなく、日本全島で、縄文時代からひきつづき生きつづけたものが、現代日本人の根幹を作っている。
弥生人渡来説者にしても、騎馬民族侵入説者にしても、在来の日本人を皆殺しにしたなどとは、誰もいっていない。それは不可能だからである。しかし北九州や畿内などに、新文化の伝播者が移入し、畿内においてはその移入者が今日の畿内人の体質を規定するほど多量であっただろうというのは、これは可能であり極めて蓋然性がある。
自然の進化によって日本人は変ってきた。異系の影響はなかったというのも可能性はあるが、それで現代日本人の今見るような地方差を説明することは不可能に近く、蓋然性に富む説明は恐らくできないであろう。可能性がなければ問題にはならないが、問題は蓋然性にあるのであって、その蓋然性の多寡は形質人類学一本では極められないはずである。
話がここまできたから結論を先にいっておくが、この問題についての蓋然性の多い議論としては、北九州地方の、九州における弥生文化の中心地となった地方に、弥生時代に入ると同時に、従来九州には存在しなかった新しい体質が生まれたことの説明としては、弥生文化の伝播者として新たに渡来した、異系の人種の影響であったろう、ということである。彼等は山口地方にも、出雲にも、また畿内の国府にも出動したが、その数はむしろ少なく、九州では紀元前後500~600年の間に、北九州の一部に住みつき、西九州にも、南九州にも膨張することはなかった。
これらの地方が北九州の部族には敵国だったとすれば、当然のことであったに違いない。山口では玄海沿岸に海浜に沿うて南北に延びたが、出雲、国府では周辺への進出の跡もとどめていない。その伝来した弥生文化も、その精髄は北九州にとどまり、さきにもいう通り、西九州にすら及んでいない。その文化の面から見て、九州への渡来の経路は南朝鮮であり、南朝鮮の住民の人種性に、今日と大きな変化がなかったとすれば、従来の縄文人に比して、短頭長身により傾くその形質は、南朝鮮人より受けたものであったろう。
彼等の北九州への移入は、3世紀以後にはしだいに薄くなり、それ以後は畿内に向きをかえて、九州を素通りするに至ったであろう。九州にのこった弥生人は、やがて土人の間に吸収されて、しだいにその現像を失ってゆくのであろうが、しかしその遺伝子は潜在して、永く作用し、或いは浸透してゆくであろう。
日本民族の起源
金関丈夫
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