ますます私の心に―またほかの多くの人々の心にも―思い浮かぶことは、現代の政治論争にみられる異常な悪意と不誠実である。
論争が辛辣だということだけをさしているのではない。論争が深刻な問題を扱う際には、辛辣であって当然だろう。
ほとんどだれもが、反対者の主張なんかまともに聞く値打ちはなく、論争でうまく点をかせぐことができさえすれば、客観的事実など問題ではないと感じているように思われることを、私は言いたいのだ。
私が集めたパンフレット―保守主義、共産主義、カトリック教、トロツキズム、平和主義、アナキズム、その他もろもろ―に目を通すと、強調される論点こそまちまちだけれども、ほとんどすべてが同じ精神的雰囲気を持つように思われる。
だれも真実を探求しようとせず、だれもが公平さや正確さをまったくないがしろにして、一定の「立場」を打ち出しており、だれの目にも明々白々な事実ですら、それを見たがらない人々からは無視されてしまうことがある、同じ宣伝トリックが、ほとんどあらゆる場合に見受けられる。
そのトリックを分類するだけで多くのページ数を要することだろう。しかしここで私は、非常に広くはびこっている論争上の習慣のひとつ―反対者の動機を無視すること―に注意を促しておく。
この場合手がかりとなる言葉は、「客観的に言えば」である。
人々の客観的行動だけが問題となり、彼等の主観的感情などは全然重要ではない。というふうに論じているのだ。
そうなると平和主義者たちは、戦争遂行上の努力を妨害することで、「客観的に言えば」ナチスを援助しているわけである。したがって、彼等自身がファシズムに敵対しているかもしれないという事実は無関係なものとなる。
私自身も、そんなことを言った覚えが一再ならずある。
同じ理屈がトロツキストにも当てはまる。トロツキストは、とにかく共産主義者から、しばしばヒトラーの積極的で意識的な手先とされてきた。しかし、そんなことはありそうもないという数多くの明白な理由を指摘してやると、また「客観的に言えば」式の議論を持ち出してくる。
ソ連を批判することはヒトラーを助けることだ、ゆえに「トロツキズムはファシズムである。」そして、このことを立証し終えると、意識的な裏切りに対する非難をまた繰り返すのが通例である。
これはたんに不誠実なだけではない。これで痛い目に会いもする。もし人々の動機というものを無視すれば、彼等の行動を予見することがずっと困難になる。
なぜなら、もっともはなはだしい心得違いをしている人でも、自分が行っていることの結果がどうなるか分かる場合はあるからだ。
露骨だが、実際に考えられる例証をひとつ挙げてみよう。ある平和主義者が、重要な軍事情報を得やすいなんらかの仕事についており、ドイツのスパイから接近されたとしよう。そのような状況においては、彼の主観的な感情によって実際に結果が左右される。もし彼が主観的に親ナチスであれば祖国を売るだろうし、もしそうでなければそういうことにはなるまい。それほど劇的ではないとしても、本質的には同様なことが絶えず起こっている。
私見では、平和主義者のなかの少数は内心ナチスびいきだし、極左諸政党にはきまってファシストのスパイが入り込んでいる、重要なのは、その個人が誠実で、どれがそうでないかを発見することだ。
そして例の十ぱひとからげ的非難は、このことをいっそう困難にするだけである。論争が行われるときの憎悪に満ちた雰囲気のため、人々はそういう問題を見失ってしまう。
反対者が誠実かつ知的であるかもしれないと認めることなど、耐え難いと感じられるのだ。反対者が実際にはどういう人間かを知るよりも、彼は馬鹿である。現代における政治的予言が著しく不首尾なのは、とりわけそのような精神的習性ゆえなのだ。
(1944年12月8日)新装版 オーウェル評論集1
オーウェル評論集 1 象を撃つ
ジョージ・オーウェル
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