株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.144-147より抜粋
ISBN-10 : 4061498835
ISBN-13 : 978-4061498839
ゲームやネットは、物語の伝達に適さないかわりに、コミュニケーションの拡張に適している。
ゲームの特徴について参考になるのは、メディア・プロデュ―サーの桝山寛の議論である。彼は2001年の「テレビゲーム文化論」において、コンピュータ・ゲームの本質を、コンピュータがプレイヤーの「相手をしてくれる」こと、すなわちユーザーとシステムのコミュニケーションに求めている。桝山によれば、ゲームの魅力において、コンテンツ(物語や世界観)の役割は実は相対的に小さい。彼は、その象徴的な例を、1999年に発売され、社会現象になったペットロボットに見ている。ペットロボットはなにもコンテンツを伝えないが、「遊び相手」になることでユーザーに喜びを与えてくれる。桝山はこの喜びこそがゲームの本質だと主張し、コミュニケーション・ロボットにゲームの未来を見た。
同型の指摘はネットに対しても行われている。たとえば、社会学者の北田暁大は、2005年の「嗤う日本の「ナショナリズム」」やそのほかの著作においては、コミュニケーションの内容より、むしろコミュニケーションの事実そのものが大きな役割を果たすと分析している。
北田によれば、その特徴がもっとも強く現れたのが、2000年代に隆盛を迎えた匿名掲示板「2ちゃんねる」である。よく知られるように、2ちゃんねるでは多くのユーザーが情報を交換するのではなく、だれかと繋がりたいために、すなわちコミュニケーションそのもののために投稿を繰り返している。北田はそれを「(繋がり)の社会性」と呼び、従来の社会性と区別している。北田自身は触れていないが、2000年代半ばのSNSの成功は、「(繋がり)の社会性」の強さをあらためて証明した事例と言えるだろう。ペットロボットのユーザーと同じく、2ちゃんねるやSNSを前にしたユーザーは、自分の行為(書きこみ)に対してだれかが反応を返してくれる、その喜びだけで十分に満足してしまう。
出版やテレビは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくては、メディアとして成立しない。しかし、ゲームやネットは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくても、コミュニケーションのプラットフォームさえ整備すれば、メディアとして大きく成長することができるのだ。
コミュニケーション志向メディアの生みだす物語
ところでここで興味深いのは、コミュニケーション志向メディアは、それそのものは物語の伝達に適さないにもかかわらず、コミュニケーションの副産物として実に多くの物語を生み出すことである。前述のように、「ゲームのような小説」の台頭は、テーブルトーク・ロールプレイングゲームのシステムが、無数の物語を、しかも効率よく生みだすからこそ可能になった。
ネットも同じように多くの物語を生みだしている。現在の読者にとってもっともわかりやすい例は、2004年に出版され、ベストセラーとなった「電車男」だろう。よく知られるように、この小説は特定の作家をもたない。「電車男」の「コンテンツ」は、2004年の3月から5月まで、2ちゃんねるのあるスレッドに集まった書きこみの集積でしかない。「電車男」という「物語」は、匿名のコミュニケーションの副産物として、たまたま生み落とされたものである。
2023年1月23日月曜日
20230122 以前書けなかったことが書けるようになる変化について「文体の獲得?」
南紀白浜在住であった頃の地理感覚を思い出してみますと、在住している西牟婁郡白浜町から、北隣の紀伊田辺市の中心街までは、自動車で20分程度の距離であり、ホテル勤務の日勤後や夜勤明けなどに度々行っていました。他方、南の方の椿温泉や上富田町については、当時、月に何度か出向いていたダム湖への釣行の際に通っていましたが、そこを目的として訪れたことは、あまりありませんでした。
また、隣接する紀伊田辺市から、さらに北方に位置するのが日高郡みなべ町であり、南紀白浜から北へ10㎞行くと紀伊田辺市、そして、そこからさらに10㎞北へ行くとみなべ町といった感覚でした。このみなべ町は、私がこれまで度々ブログ記事題材として扱った「銅鐸」の出土が目立つ地域でもあり、紀伊半島西南部を東から西に流れる南部川流域河口域の、決して広いとはいえない平野部から少し離れた里山の周辺にて、これまでに計6個の大型、高装飾の近畿式銅鐸が出土しています。
これら6個のみなべ町で出土した銅鐸のうちの一つで、出土した地域の名を冠した「雨乞い山銅鐸」と云うものがありますが、その名称から、その出土地域は、後代においても雨乞い祭祀を行っていた場所であると考えるのが妥当と思われますが、他方で、銅鐸がそこに埋納された、おそらくは西暦200年頃でしょうか、そこから1700年近く経った同じ場所においても、雨乞いなどの祭祀が行われていたことには、その間を貫く、土着の価値観、観念のようなものがあったのではないかとも思われるのです・・。
ともあれ、みなべ町は、現在では南高梅の産地として知られ、現在からもう少し経った2月半ばの頃に、町を南北に走る国道42号線を自動車で通り、窓を開けますと、何とも芳しい大気の薫りがするのです。和歌山県の大気の薫りは、季節や場所によって異なりますが、全てに共通していることは、私見ですが「自然の薫りが濃厚」であることです。県庁所在地の和歌山市も、他地域から訪問して翌朝起床して外に出ますと、南紀白浜とは異なるものの、後背の山々から運ばれた薫りであるのか、そこから「濃厚な自然」を感じさせられ、目が覚めるような感覚があると思われます。
さて、さきの、みなべ町の銅鐸の出土地が、後代に至っても(雨乞いなどの)祭祀を執り行う場所であったこととを貫通する、ある種の観念があるとすれば、それは文章化出来るはずであると思われるのですが、残念ながら、そうしたことは現在の私では困難と云えます・・。
しかし、私としては、そうしたことこそ、当ブログのような文章作成を通じて自然と出来る様になっていくのではないかと思われるのです・・。
これは、最近になって実感することですが、以前は文章化出来なかったものの重要と思われる、さまざまな様相を文章として著すことが出来た時は、やはり、それなりに嬉しいものがあり、あるいは、これを続けることにより、さらに文章化することが可能な様相といったものが徐々に増えていくのではないかとも思われるのです。
また、そのように考えていますと、これまでに当ブログにて何度か扱った「文体の獲得」は、もう少し具体的に考えてみますと、前述のような大抵の様相を自分なりに記すことが出来る様になった状態を指すのではないかとも思われるのです・・。
そしてまた、そうした変化を引き起こす一つの要素が、前述の「地域の濃厚な自然」ではないかと思われるのですが、しかし、実際のところ、そこには何らかの科学的根拠といったものはあるのでしょうか・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
また、隣接する紀伊田辺市から、さらに北方に位置するのが日高郡みなべ町であり、南紀白浜から北へ10㎞行くと紀伊田辺市、そして、そこからさらに10㎞北へ行くとみなべ町といった感覚でした。このみなべ町は、私がこれまで度々ブログ記事題材として扱った「銅鐸」の出土が目立つ地域でもあり、紀伊半島西南部を東から西に流れる南部川流域河口域の、決して広いとはいえない平野部から少し離れた里山の周辺にて、これまでに計6個の大型、高装飾の近畿式銅鐸が出土しています。
これら6個のみなべ町で出土した銅鐸のうちの一つで、出土した地域の名を冠した「雨乞い山銅鐸」と云うものがありますが、その名称から、その出土地域は、後代においても雨乞い祭祀を行っていた場所であると考えるのが妥当と思われますが、他方で、銅鐸がそこに埋納された、おそらくは西暦200年頃でしょうか、そこから1700年近く経った同じ場所においても、雨乞いなどの祭祀が行われていたことには、その間を貫く、土着の価値観、観念のようなものがあったのではないかとも思われるのです・・。
ともあれ、みなべ町は、現在では南高梅の産地として知られ、現在からもう少し経った2月半ばの頃に、町を南北に走る国道42号線を自動車で通り、窓を開けますと、何とも芳しい大気の薫りがするのです。和歌山県の大気の薫りは、季節や場所によって異なりますが、全てに共通していることは、私見ですが「自然の薫りが濃厚」であることです。県庁所在地の和歌山市も、他地域から訪問して翌朝起床して外に出ますと、南紀白浜とは異なるものの、後背の山々から運ばれた薫りであるのか、そこから「濃厚な自然」を感じさせられ、目が覚めるような感覚があると思われます。
さて、さきの、みなべ町の銅鐸の出土地が、後代に至っても(雨乞いなどの)祭祀を執り行う場所であったこととを貫通する、ある種の観念があるとすれば、それは文章化出来るはずであると思われるのですが、残念ながら、そうしたことは現在の私では困難と云えます・・。
しかし、私としては、そうしたことこそ、当ブログのような文章作成を通じて自然と出来る様になっていくのではないかと思われるのです・・。
これは、最近になって実感することですが、以前は文章化出来なかったものの重要と思われる、さまざまな様相を文章として著すことが出来た時は、やはり、それなりに嬉しいものがあり、あるいは、これを続けることにより、さらに文章化することが可能な様相といったものが徐々に増えていくのではないかとも思われるのです。
また、そのように考えていますと、これまでに当ブログにて何度か扱った「文体の獲得」は、もう少し具体的に考えてみますと、前述のような大抵の様相を自分なりに記すことが出来る様になった状態を指すのではないかとも思われるのです・・。
そしてまた、そうした変化を引き起こす一つの要素が、前述の「地域の濃厚な自然」ではないかと思われるのですが、しかし、実際のところ、そこには何らかの科学的根拠といったものはあるのでしょうか・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2023年1月22日日曜日
20230121 知識体系の身体性から思ったこと
おかげさまで、直近の記事投稿により、総投稿記事数が1935まで到達しました。そしてまた、今月内にて1940記事まで投稿出来れば、とりあえずは良いと考えています。ともあれ、現時点にて当記事も含めて残り65記事の新規投稿にて当面の目標としている2000記事まで辿り着くことが出来ますが、今後も何らかの理由により、記事作成が叶わない日も度々あると思いますので、引続き、引用記事であっても、可能である時は出来るだけ作成していこうと思います。
さて、ここ数日間は、以前に作成したブログ記事を下敷きとした銅鐸に関する記事、そして引用記事を作成、投稿してきました。これらも当初思っていたより伸びました。また、あらためて、以前に自分が作成した銅鐸を題材とした記事を新たな記事作成のために読んでみますと、面白いもので、また新たな刺激として感じられるのです。これをもう少し具体的に述べますと、これまで、あまり用いることがなかったことから、忘れて、干乾びていた銅鐸に関する知識が、以前に作成記事を読むことにより、生気を取り戻し、またあらためて、興味を持ちつつ読むことが出来るようになっていました。
これが以前であれば、さらに興味が亢進されて「新たな書籍を・・」となっていたのでしょうが、最近では、そこまでの気力、精神力は励起されないようです。とはいえ、書籍自体は現在も何冊か読み進めており、また、ここ一週間ほどは、歯科材料学の英論文や、原書の英語小説なども読み始めました・・。これらについては三日坊主にならない様、意識した方が良いのでしょうが、他方で、これらを読み進めていても、さきに述べた銅鐸に関する記事と同じような現象が生じ、読み進めているうちに、あまり用いることがなかったため、干乾びていた英語を用いる感覚が徐々に生気を取り戻し、これまで、どうにか読み進めることが出来ています。
トレーニングなどでも、以前に時間を掛けて培った筋肉に関しては、比較的容易に取り戻すことが出来ると度々聞くことがありましたが、読書なども、それと同様、身体性の一種であると云えますので、あるいは通底するものがあるのかもしれません・・。
それ故、やはり若い時分には、後になり比較的容易に甦らすことが可能な、知識の体系を学んで身に着けることが意外に重要ではないかと思われるのです。その意味において、現在のような刺戟に満ちた様々な娯楽が溢れている社会とは、そこまで良いものではないように思われるのです。そして、これは自分の経験からの意見ですが、高等教育の期間については特に、そうした刺激的な娯楽から縁遠い場所にいて、そして、その期間のうちに、さきのような一種の身体性を得ることに努めた方が良いのではないかと思われるのです。
そして、その観点からも「孟母三遷の教え」のコトバに集約されるのでしょうが、大学などの高等教育機関は、その学生さんへの影響を考慮して、あまり都市部歓楽街などの近隣に設置することは避けた方が良いのではないかと思われるのです・・。
しかし同時に、こうしたことは学問分野によっても異なり、人文社会科学などに関しては、最新の生きた情報をいち早く入手するため、また、その他様々な文化施設がある大都市圏に立地していた方が良いのではないかと思われます。たとえ、その場所の近隣に歓楽街があったとしても・・。
他方で医療介護、工業系分野などに関しては、それぞれ分野での研究へのアプローチの仕方が、さきの人文社会科学系とは異なることから、敢えて大都市圏での立地に拘らず、むしろあまり大きくはない地方都市に設置した方が学生さんの勉強や実習などは捗るのではないかと思われます。
また、そうした視座から国内各地・地域に設置されている大学の学部・学科構成や、その由来を調べ、比較することにより、それら大学の設置当初の時代精神や設置者側の思惑なども、ボンヤリと浮かびあがってくるのではないかとも思われました。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
さて、ここ数日間は、以前に作成したブログ記事を下敷きとした銅鐸に関する記事、そして引用記事を作成、投稿してきました。これらも当初思っていたより伸びました。また、あらためて、以前に自分が作成した銅鐸を題材とした記事を新たな記事作成のために読んでみますと、面白いもので、また新たな刺激として感じられるのです。これをもう少し具体的に述べますと、これまで、あまり用いることがなかったことから、忘れて、干乾びていた銅鐸に関する知識が、以前に作成記事を読むことにより、生気を取り戻し、またあらためて、興味を持ちつつ読むことが出来るようになっていました。
これが以前であれば、さらに興味が亢進されて「新たな書籍を・・」となっていたのでしょうが、最近では、そこまでの気力、精神力は励起されないようです。とはいえ、書籍自体は現在も何冊か読み進めており、また、ここ一週間ほどは、歯科材料学の英論文や、原書の英語小説なども読み始めました・・。これらについては三日坊主にならない様、意識した方が良いのでしょうが、他方で、これらを読み進めていても、さきに述べた銅鐸に関する記事と同じような現象が生じ、読み進めているうちに、あまり用いることがなかったため、干乾びていた英語を用いる感覚が徐々に生気を取り戻し、これまで、どうにか読み進めることが出来ています。
トレーニングなどでも、以前に時間を掛けて培った筋肉に関しては、比較的容易に取り戻すことが出来ると度々聞くことがありましたが、読書なども、それと同様、身体性の一種であると云えますので、あるいは通底するものがあるのかもしれません・・。
それ故、やはり若い時分には、後になり比較的容易に甦らすことが可能な、知識の体系を学んで身に着けることが意外に重要ではないかと思われるのです。その意味において、現在のような刺戟に満ちた様々な娯楽が溢れている社会とは、そこまで良いものではないように思われるのです。そして、これは自分の経験からの意見ですが、高等教育の期間については特に、そうした刺激的な娯楽から縁遠い場所にいて、そして、その期間のうちに、さきのような一種の身体性を得ることに努めた方が良いのではないかと思われるのです。
そして、その観点からも「孟母三遷の教え」のコトバに集約されるのでしょうが、大学などの高等教育機関は、その学生さんへの影響を考慮して、あまり都市部歓楽街などの近隣に設置することは避けた方が良いのではないかと思われるのです・・。
しかし同時に、こうしたことは学問分野によっても異なり、人文社会科学などに関しては、最新の生きた情報をいち早く入手するため、また、その他様々な文化施設がある大都市圏に立地していた方が良いのではないかと思われます。たとえ、その場所の近隣に歓楽街があったとしても・・。
他方で医療介護、工業系分野などに関しては、それぞれ分野での研究へのアプローチの仕方が、さきの人文社会科学系とは異なることから、敢えて大都市圏での立地に拘らず、むしろあまり大きくはない地方都市に設置した方が学生さんの勉強や実習などは捗るのではないかと思われます。
また、そうした視座から国内各地・地域に設置されている大学の学部・学科構成や、その由来を調べ、比較することにより、それら大学の設置当初の時代精神や設置者側の思惑なども、ボンヤリと浮かびあがってくるのではないかとも思われました。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2023年1月20日金曜日
20230119 銅鐸について②
先日投稿の「銅鐸について①」末尾にて「大変興味深い例外として、近畿式銅鐸出土の東端である遠江から、さらに東に位置する、かつての概ね駿河国に属する静岡県沼津市にて、近畿式銅鐸の破砕された一部、鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘された事例があるが、その背景には、どのような事情があったのか気になるところである。」と述べましたが、この近畿地方にて作られた銅鐸が、何故破砕され、そして、その一部が何故、東に離れた沼津市にて出土したのかと考えた時に、興味深いと思われた記述を以下に示します。
「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」
古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281
この記述では「奈良盆地の東南部に位置する三輪山周辺一帯を根拠地とした物部氏は、侵入してきたヤマト朝廷勢力に屈服したが、その支配下に入ることを佳しとしない物部氏の勢力も存在し、そうした集団が東へと移住して土着した。」といった概要になりますが、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行っていた集団が、自らの勢力の敗北により、当時、未だ確たる支配権が確立されていなかった遠江や駿河、伊豆などの地域へと移住したことは十分に考えられることであり、あるいは、この沼津市から出土した、破砕された近畿式銅鐸の鰭飾部を装身具に加工したものは、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行い、そしてヤマト朝廷側の侵入により東遷をした人々の末裔が所持していたのではないかとも思われるのです。
そして、こうしたことを述べていますと、想起されるのが記紀での出雲の国譲り神話です。その際も、先述と同様に、ヤマト朝廷側への屈服を佳しとせず、国を出て戦いを続けた土着の神々(地祇)の話がありますが、おそらく、こうした現象は当時、西日本の各地であったのではないかと思われます。そして、それらを総称した歴史での名称を「倭国大乱」であると考えます。
また、奈良県での銅鐸の出土状況概要を述べると、出土総数は20個ほどであり、それらの傾向は、古式・小型で、後代の銅鐸と比べ装飾性が乏しいものが大半であり、大型で高装飾の近畿式銅鐸の確かな出土例は、これまでに存在しません。
このことから、奈良県での銅鐸祭祀は「銅鐸について①」にて述べた九州北部と同様、大型化・高装飾化する以前に、銅鐸を用いた祭祀は廃れていったものと考えられます。そして、これと類似する銅鐸の出土傾向を持つ地域が島根、香川県であると云えます。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」
古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281
この記述では「奈良盆地の東南部に位置する三輪山周辺一帯を根拠地とした物部氏は、侵入してきたヤマト朝廷勢力に屈服したが、その支配下に入ることを佳しとしない物部氏の勢力も存在し、そうした集団が東へと移住して土着した。」といった概要になりますが、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行っていた集団が、自らの勢力の敗北により、当時、未だ確たる支配権が確立されていなかった遠江や駿河、伊豆などの地域へと移住したことは十分に考えられることであり、あるいは、この沼津市から出土した、破砕された近畿式銅鐸の鰭飾部を装身具に加工したものは、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行い、そしてヤマト朝廷側の侵入により東遷をした人々の末裔が所持していたのではないかとも思われるのです。
そして、こうしたことを述べていますと、想起されるのが記紀での出雲の国譲り神話です。その際も、先述と同様に、ヤマト朝廷側への屈服を佳しとせず、国を出て戦いを続けた土着の神々(地祇)の話がありますが、おそらく、こうした現象は当時、西日本の各地であったのではないかと思われます。そして、それらを総称した歴史での名称を「倭国大乱」であると考えます。
また、奈良県での銅鐸の出土状況概要を述べると、出土総数は20個ほどであり、それらの傾向は、古式・小型で、後代の銅鐸と比べ装飾性が乏しいものが大半であり、大型で高装飾の近畿式銅鐸の確かな出土例は、これまでに存在しません。
このことから、奈良県での銅鐸祭祀は「銅鐸について①」にて述べた九州北部と同様、大型化・高装飾化する以前に、銅鐸を用いた祭祀は廃れていったものと考えられます。そして、これと類似する銅鐸の出土傾向を持つ地域が島根、香川県であると云えます。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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2023年1月19日木曜日
20230118 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.28-30より抜粋
一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.28-30より抜粋
ISBN-10 : 4130820915
ISBN-13 : 978-4130820912
銅鐸と銅鏡
銅に錫をまぜた青銅器は、中国大陸において殷・周時代に大量に製作された。銅鐸などの祭器のほか剣や矛などの武器もあり、弥生人はこれも祭器としてあがめるようになった。弥生人が予想より早く青銅器の倣製を行ったことも知られている。銅鐸は弥生時代を代表する祭器で、筒型の本体(身)の上に吊り手(紐)をつけ、中に青銅の棒(舌)を吊るす。身を叩くと美しい音を出す楽器である。銅鐸のもとは、中国で銅鈴といって、家畜の首につける小さな鈴であった。朝鮮半島にこれが渡って、シャーマンが身につける呪術の祭器となり、さらに日本に渡って祭器としてのデザインを発達させた。
前期の銅鐸は、高さ20~30センチの小型で、装飾は少ない。中期にこれが40~50センチと大型化され、鰭をつけ装飾化が進む。流水文をつけた中期の銅鐸は、兵庫県気比神社の境内から見つかったもので、これの鋳型の破片が大阪府の遺跡から出土している。昭和39年(1964)、神戸市の六甲山の尾根の下から、銅鐸14個、銅戈(ほこ)7本が見つかった。[図8]図9はその銅鐸の一つで、袈裟襷文といわれる帯状の区画のなかに、人間の農作業(脱穀)や狩猟のさま、サギ、カメ、カマキリ、トンボ、トカゲ、カエル、魚などが浮線で(鋳型では線刻で)あらわしてある。真上向き、真横向きの、児童画のような多視点による記号的表現で、人間の頭は丸が男、三角が女だと見る説がある。
平成8年(1996)には、島根県の山中から銅鐸36個が埋められているのが発見された。これらは、神が顕現する場所を選んで祭りのあと奉納されたのではないかといわれる。後期になると、さらに大型化され飾り耳をつける。舌のないもの、高さ134センチのものもある。「楽器としての機能を失った。この平和なフィクションの青銅美術は、古墳文化のはじまえるや、現実の攻撃に耐えず、文字どおり葬り去れられる。伝統としてなにが残ったか、おそらく青銅器鋳造に習熟するという技術が貴重な遺産として伝えられたのであろう」。吉川逸治はこう評する。
銅鐸は2世紀の終わりになくなり、倭国の乱を統一した卑弥呼の配布する銅鏡がそれにかわった。卑弥呼の支配した邪馬台国の所在については、従来から九州説、近畿説に分かれて議論が行われている。1986年発掘が始められた先出の吉野ケ里遺跡からは宮殿の跡ではないかと話題になった。一方1997年、天理市黒塚古墳から33枚の三角縁神獣鏡(三角縁銘帯四神四獣鏡)[図10]が出土して、これこそ卑弥呼が魏王から賜った鏡ではないかと注目された。この問題については次節でのべる。銅鏡は、すでに弥生中期に前漢、後漢の王から北九州の倭王に与えられており、細微な幾何学文を背面に刻んだ韓国製の多紐文鏡も大阪府から出土している。
いずれにせよこのように、弥生時代、倭国が小国の分立状態から卑弥呼によって統一されるまでの過程で、中国、韓国との国交を通じて銅鐸、銅鏡、銅剣、銅戈などさまざまな青銅製品が日本にもたらされた。それらは呪術具、あるいは王の権威の象徴として用いられ、あるものは倣製品として模造された。銅鐸のように日本で独自の意匠に発達したものもある。弥生土器という新しい形式の土器の出現も、大陸のそれの影響なしに考えられない。大陸美術の本格的移入の前触れは、すでに弥生時代にあった。
ISBN-10 : 4130820915
ISBN-13 : 978-4130820912
銅鐸と銅鏡
銅に錫をまぜた青銅器は、中国大陸において殷・周時代に大量に製作された。銅鐸などの祭器のほか剣や矛などの武器もあり、弥生人はこれも祭器としてあがめるようになった。弥生人が予想より早く青銅器の倣製を行ったことも知られている。銅鐸は弥生時代を代表する祭器で、筒型の本体(身)の上に吊り手(紐)をつけ、中に青銅の棒(舌)を吊るす。身を叩くと美しい音を出す楽器である。銅鐸のもとは、中国で銅鈴といって、家畜の首につける小さな鈴であった。朝鮮半島にこれが渡って、シャーマンが身につける呪術の祭器となり、さらに日本に渡って祭器としてのデザインを発達させた。
前期の銅鐸は、高さ20~30センチの小型で、装飾は少ない。中期にこれが40~50センチと大型化され、鰭をつけ装飾化が進む。流水文をつけた中期の銅鐸は、兵庫県気比神社の境内から見つかったもので、これの鋳型の破片が大阪府の遺跡から出土している。昭和39年(1964)、神戸市の六甲山の尾根の下から、銅鐸14個、銅戈(ほこ)7本が見つかった。[図8]図9はその銅鐸の一つで、袈裟襷文といわれる帯状の区画のなかに、人間の農作業(脱穀)や狩猟のさま、サギ、カメ、カマキリ、トンボ、トカゲ、カエル、魚などが浮線で(鋳型では線刻で)あらわしてある。真上向き、真横向きの、児童画のような多視点による記号的表現で、人間の頭は丸が男、三角が女だと見る説がある。
平成8年(1996)には、島根県の山中から銅鐸36個が埋められているのが発見された。これらは、神が顕現する場所を選んで祭りのあと奉納されたのではないかといわれる。後期になると、さらに大型化され飾り耳をつける。舌のないもの、高さ134センチのものもある。「楽器としての機能を失った。この平和なフィクションの青銅美術は、古墳文化のはじまえるや、現実の攻撃に耐えず、文字どおり葬り去れられる。伝統としてなにが残ったか、おそらく青銅器鋳造に習熟するという技術が貴重な遺産として伝えられたのであろう」。吉川逸治はこう評する。
銅鐸は2世紀の終わりになくなり、倭国の乱を統一した卑弥呼の配布する銅鏡がそれにかわった。卑弥呼の支配した邪馬台国の所在については、従来から九州説、近畿説に分かれて議論が行われている。1986年発掘が始められた先出の吉野ケ里遺跡からは宮殿の跡ではないかと話題になった。一方1997年、天理市黒塚古墳から33枚の三角縁神獣鏡(三角縁銘帯四神四獣鏡)[図10]が出土して、これこそ卑弥呼が魏王から賜った鏡ではないかと注目された。この問題については次節でのべる。銅鏡は、すでに弥生中期に前漢、後漢の王から北九州の倭王に与えられており、細微な幾何学文を背面に刻んだ韓国製の多紐文鏡も大阪府から出土している。
いずれにせよこのように、弥生時代、倭国が小国の分立状態から卑弥呼によって統一されるまでの過程で、中国、韓国との国交を通じて銅鐸、銅鏡、銅剣、銅戈などさまざまな青銅製品が日本にもたらされた。それらは呪術具、あるいは王の権威の象徴として用いられ、あるものは倣製品として模造された。銅鐸のように日本で独自の意匠に発達したものもある。弥生土器という新しい形式の土器の出現も、大陸のそれの影響なしに考えられない。大陸美術の本格的移入の前触れは、すでに弥生時代にあった。
2023年1月17日火曜日
20230117 銅鐸について①
我が国の銅鐸の直接的起源とされるものは朝鮮式銅鐸といわれる装飾性の乏しい10~20㎝程度の小型のものである。
この朝鮮式銅鐸は、これらまでに朝鮮半島中西部の忠清道より4個、半島北西部の平壌より6個、そして半島南東部の慶尚道より4個出土している。
そして玄界灘を挟んだ九州北部地域においても、朝鮮式銅鐸と同様、比較的小型(20~50㎝)で装飾性の乏しい銅鐸が複数出土している。
また、九州北部における銅鐸祭祀は1世紀頃には廃れて、それに代わり武器型の銅矛が祭器として用いられるようになった。
こうして九州北部を起点とした我が国の銅鐸を用いた祭祀は東漸し、その過程において、意匠や寸法に変化が生じ、伝播の先端に近づくほど、装飾が華美なものとなり、寸法が大型化していった。
とはいえ、銅鐸の起源は朝鮮半島、中国での家畜につける鐘鈴であった。そのため、本来は、内部に舌を垂らし、揺らして鳴らし、音を出すためのものであったが、東漸の過程で、さきに述べたように寸法が大型化(100㎝以上)し、装飾も華美なものとなり、揺らして鳴らすという本来の目的から離れていった。
この大型化した銅鐸は近畿、四国の東南部と東海地方から多く出土しており、西側の近畿・四国東南部から出土したものの多くは、前述のように華美な装飾で、その意匠は、縄文土器に多く見られる繁縟さをいくらか継承しているようにも見受けられるが、これらを総称して近畿式銅鐸と云う。
対して、東側の東海地方にて主に出土する独特の意匠を持った大型の銅鐸は、さきの近畿式銅鐸と比較すると、その形状が、より縦長気味であり、その意匠は直線的で模様が明確であるといった特徴があると云えるが、これらを総称して三遠式銅鐸と云う。
これまでの流れを要約すると、朝鮮半島から齎された、元来、家畜の首につける鐘鈴が起源であった銅鐸は、伝播当初の地である北部九州地域において祭器として用いられ、そして東漸する過程において、徐々に土着的要素が加味され、大型化、高装飾化し、それぞれ独特な意匠を持つ近畿式銅鐸、三遠式銅鐸となっていく。
これら二種の大型銅鐸について、近畿式はおそらく大和、河内、摂津地域にて作られ、三遠式は濃尾平野にて作製されたものと考えられている。
また、それぞれの出土分布について、近畿式は近畿圏一帯を中心として、東は遠江、西は四国東部、山陰地域において出土している。三遠式は、東は信濃、遠江、西は濃尾平野一帯を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部、琵琶湖東岸、京都府北部において出土している。
くわえて、大変興味深い例外として、近畿式銅鐸出土の東端である遠江から、さらに東に位置する、かつての概ね駿河国に属する静岡県沼津市にて、近畿式銅鐸の破砕された一部、鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘された事例があるが、その背景には、どのような事情があったのか気になるところである。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

この朝鮮式銅鐸は、これらまでに朝鮮半島中西部の忠清道より4個、半島北西部の平壌より6個、そして半島南東部の慶尚道より4個出土している。
そして玄界灘を挟んだ九州北部地域においても、朝鮮式銅鐸と同様、比較的小型(20~50㎝)で装飾性の乏しい銅鐸が複数出土している。
また、九州北部における銅鐸祭祀は1世紀頃には廃れて、それに代わり武器型の銅矛が祭器として用いられるようになった。
こうして九州北部を起点とした我が国の銅鐸を用いた祭祀は東漸し、その過程において、意匠や寸法に変化が生じ、伝播の先端に近づくほど、装飾が華美なものとなり、寸法が大型化していった。
とはいえ、銅鐸の起源は朝鮮半島、中国での家畜につける鐘鈴であった。そのため、本来は、内部に舌を垂らし、揺らして鳴らし、音を出すためのものであったが、東漸の過程で、さきに述べたように寸法が大型化(100㎝以上)し、装飾も華美なものとなり、揺らして鳴らすという本来の目的から離れていった。
この大型化した銅鐸は近畿、四国の東南部と東海地方から多く出土しており、西側の近畿・四国東南部から出土したものの多くは、前述のように華美な装飾で、その意匠は、縄文土器に多く見られる繁縟さをいくらか継承しているようにも見受けられるが、これらを総称して近畿式銅鐸と云う。
対して、東側の東海地方にて主に出土する独特の意匠を持った大型の銅鐸は、さきの近畿式銅鐸と比較すると、その形状が、より縦長気味であり、その意匠は直線的で模様が明確であるといった特徴があると云えるが、これらを総称して三遠式銅鐸と云う。
これまでの流れを要約すると、朝鮮半島から齎された、元来、家畜の首につける鐘鈴が起源であった銅鐸は、伝播当初の地である北部九州地域において祭器として用いられ、そして東漸する過程において、徐々に土着的要素が加味され、大型化、高装飾化し、それぞれ独特な意匠を持つ近畿式銅鐸、三遠式銅鐸となっていく。
これら二種の大型銅鐸について、近畿式はおそらく大和、河内、摂津地域にて作られ、三遠式は濃尾平野にて作製されたものと考えられている。
また、それぞれの出土分布について、近畿式は近畿圏一帯を中心として、東は遠江、西は四国東部、山陰地域において出土している。三遠式は、東は信濃、遠江、西は濃尾平野一帯を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部、琵琶湖東岸、京都府北部において出土している。
くわえて、大変興味深い例外として、近畿式銅鐸出土の東端である遠江から、さらに東に位置する、かつての概ね駿河国に属する静岡県沼津市にて、近畿式銅鐸の破砕された一部、鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘された事例があるが、その背景には、どのような事情があったのか気になるところである。
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祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2023年1月16日月曜日
20230115 国際的な歯科の見本市から思ったこと
我が国においても歯科用機器・材料の見本市である「デンタル・ショー」は各地にて度々開催されていますが、世界規模にて有名であるのが、ドイツのケルンにて開催される「国際デンタルショー」(IDS)とアメリカのシカゴにて開催される「ミッドウィンター・ミーティング」とされています。双方共に私はこれまで参加したことはありませんが、師匠をはじめ研究室の先輩である開業医、大学勤務の先生方は度々参加されています。そして、その土産話を夕方過ぎに診療を終えた先輩から聞くのですが「日本のそれ(デンタルショー)とは桁が違うよ!」というのが話の基調であり、そこから、さまざまな新しい歯科用機器や材料の具体的なハナシへと移行し、それらもまた大変興味深いのですが、聞いていますと、やはり我が国の歯科用機器や材料の開発は、近年では全般的に西欧諸国、そして最近に至っては中国や韓国に対しても後れを取っているようであり、それは私が歯系大学院生であった頃と比較しても、さらに進行しているように思われます・・。
私が歯系院生であった頃(2009~2013)は、中国製の歯科用セラミックス・ブロックは品質にブレがあり、補綴装置に加工された場合、機械的強度などが問題となり、口腔内で用いる材料として適切であるか疑問視されていましたが、現在においては明らかに品質は向上して、そして市場でも広く流通しているとのことです。そしてこれは、分析機器を用いた実験から明らかになった事実であり、その意味からも、著名な経済学や社会学の研究者の先生方が度々指摘するように、我が国の平成時代は「足踏み」をしていたと云えるのではないかと思われるのです・・。
また、さらにこの題材にて遡りますと、2003年、南紀白浜のホテルにフロント係として勤務していた頃、同僚から「このサイトが最高に面白い!」といわれ、夜勤の休憩時にバックヤードのPCで見たのが中国の開発したロボットである「先行者」について書かれたブログでした。そういえば、このサイトは私が初めてまともに読んだブログであったのかもしれません・・。ともかく、それは、あまり精巧とは云えない造りの中国製ロボットをイジる内容のものでしたが、たとえ当時であっても、私は素直にそれを笑う(嗤う)ことは出来ませんでした。しかし、その後の経験も加味してみますと、我々日本人は、情感が繊細であるためなのか、こういった遠回しな、悪意のあるイジりを、ことのほか好んでいるようにも見受けられます。
ともあれ、その頃から20年程経った現在から考えてみますと、少なくとも歯科用セラミックスに関しては「その間の中国の工業力の進化は目覚ましいものがあった」と考えるのが妥当であると思われます。
私としても今後、出来れば「国際デンタルショー」(IDS)や「ミッドウィンター・ミーティング」のような最先端の技術の粋を集めた見本市に参加して、自分なりに実地で見聞して確かめたいと思いますが、師匠や先輩の先生方から云わせると
「いや、あれに参加するのは決して観光ではないのだ。あの見本市で見た材料や機械の中から、今後の世界標準になるものが出て来るのだ。だから「これはスゴイ」と思った技術や材料の会社のブースには積極的に話し掛けて情報を引き出すのだ。それに、彼等も出展している企業だけに、話し掛けると色々と鷹揚に答えてくれるのだ。それで実験の試料として材料を頂けることもあるから、あそこで拾ったさまざまなネタは、その後の実験や講義や講演などのネタになるから、まあ、あれは半分以上は仕事で行っている感じだな・・。」
となります。また、そう考えますと、私はそこまで実務的な意味合いを、これらの見本市に見出すことは出来ません・・。しかし、ここ最近、コロナ禍ということもあり、長らく遠出をせずに、さらに外国に行き度肝を抜かれることもなかったため、これはまさに今後の私のブログや連携するSNSのためにも出来れば行った方が良いのではないかと思われるのです・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
私が歯系院生であった頃(2009~2013)は、中国製の歯科用セラミックス・ブロックは品質にブレがあり、補綴装置に加工された場合、機械的強度などが問題となり、口腔内で用いる材料として適切であるか疑問視されていましたが、現在においては明らかに品質は向上して、そして市場でも広く流通しているとのことです。そしてこれは、分析機器を用いた実験から明らかになった事実であり、その意味からも、著名な経済学や社会学の研究者の先生方が度々指摘するように、我が国の平成時代は「足踏み」をしていたと云えるのではないかと思われるのです・・。
また、さらにこの題材にて遡りますと、2003年、南紀白浜のホテルにフロント係として勤務していた頃、同僚から「このサイトが最高に面白い!」といわれ、夜勤の休憩時にバックヤードのPCで見たのが中国の開発したロボットである「先行者」について書かれたブログでした。そういえば、このサイトは私が初めてまともに読んだブログであったのかもしれません・・。ともかく、それは、あまり精巧とは云えない造りの中国製ロボットをイジる内容のものでしたが、たとえ当時であっても、私は素直にそれを笑う(嗤う)ことは出来ませんでした。しかし、その後の経験も加味してみますと、我々日本人は、情感が繊細であるためなのか、こういった遠回しな、悪意のあるイジりを、ことのほか好んでいるようにも見受けられます。
ともあれ、その頃から20年程経った現在から考えてみますと、少なくとも歯科用セラミックスに関しては「その間の中国の工業力の進化は目覚ましいものがあった」と考えるのが妥当であると思われます。
私としても今後、出来れば「国際デンタルショー」(IDS)や「ミッドウィンター・ミーティング」のような最先端の技術の粋を集めた見本市に参加して、自分なりに実地で見聞して確かめたいと思いますが、師匠や先輩の先生方から云わせると
「いや、あれに参加するのは決して観光ではないのだ。あの見本市で見た材料や機械の中から、今後の世界標準になるものが出て来るのだ。だから「これはスゴイ」と思った技術や材料の会社のブースには積極的に話し掛けて情報を引き出すのだ。それに、彼等も出展している企業だけに、話し掛けると色々と鷹揚に答えてくれるのだ。それで実験の試料として材料を頂けることもあるから、あそこで拾ったさまざまなネタは、その後の実験や講義や講演などのネタになるから、まあ、あれは半分以上は仕事で行っている感じだな・・。」
となります。また、そう考えますと、私はそこまで実務的な意味合いを、これらの見本市に見出すことは出来ません・・。しかし、ここ最近、コロナ禍ということもあり、長らく遠出をせずに、さらに外国に行き度肝を抜かれることもなかったため、これはまさに今後の私のブログや連携するSNSのためにも出来れば行った方が良いのではないかと思われるのです・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
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