2017年8月20日日曜日

20170819 これまでのブログ記事から・・読書傾向から思う自身の性質・特徴について

A「本日は休日ではありましたが、所用のため仕事場に夜半までおりました。

とはいうものの、同時に日中、書店での物色、立ち読みも行いまた新たに面白そうな書籍を見つけてしまいました・・(笑)。

さて、そこで大変面白いと思うことは、こうした立ち読みにて面白いと感じる書籍を購入した場合、概ね、かなり速いスピードにて読了に至るということです・・。

もちろん、一応その内容は概ね理解しているつもりではありますが、それら書籍とは小説であったり、あるいは学術書に分類されるようなものもあり、多岐にわたると評しても良いのではないかと思われます・・。

そして、そのことから自身が内容を理解しながらもスムーズに読み進めることの出来る書籍の傾向を通じ、何らかの自身の性質・特徴らしきものが看取されるのではないかとも思われるのです・・。

また、それ故、本棚に並んでいる書籍を見れば、概ねその人の背景、学識等を理解することが出来るといった言説が生じるものと考えられます。

しかしながら、殊自身に関しては、どうした理由によるものか、こうした見地にて考え、認識することが困難であるように思うのです・・(苦笑)。

とはいうものの、他方において、そこで看取される(客観的ともいえる)自身の性質・特徴を認識したいという欲求とは、ないわけではありませんので、今後機会を見つけ、そうしたことをもう少し考えてみたいとも思っています・・。

そしてまた、こうした読書傾向の系譜あるいはその経時的な変化について考えてみますと、それはそれで面白く、一方で多少怖い気もしますが、相対的なものとして他者のそれと比較・検討してみますと更に面白い新発見があるのではないかとも思われるのです・・。

また、以前であれば、こうした読書の傾向とは、周囲の方々からの影響を強く受けていた記憶があります。

しかし、近年になりますと特に何らかの必要性がある場合を除き、あくまでも自身が理解し、興味を持って読むことが出来る書籍に集約され、その点において以前と比べますと、読む書籍の分野・傾向とは収束しているとも評し得ます。

とはいえ、この傾向とは今後このまま収束、安定するとも断言出来ず、またそれを望まないといった一面もありますので当面その判断は差し控えます。

しかし他方、自身の読書傾向において一貫する要素は何かと考えてみますと、それはかなり単純であり『歴史』であるといえます。

『歴史』関連の書籍に対しての興味・愛好とは小学生の頃から継続しており、その地域、時代に関しては種々変化しましたが、その変化とは内発的なものであり、また、それぞれ(地域、時代には)ある種の関連性、繋がりがあり、それは一つの(個人的な)体系と表現しても良いと思われます。

そして、以上のような認識、自覚に拠って、これまでのところ、どうにかブログ記事の更新が為されているのではないかとも思われるのです・・。

さらに、そうした自覚に立ってみますと、もうしばらくはブログの記事作成を継続することは出来るようにも思えてきます・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。』















2017年8月19日土曜日

20170818 720記事到達・・現在読んでいる書籍の上巻読了から・・

A「今回の記事投稿により総投稿記事数が720に至ります。

これもまたあまりキリの良い数字ではありませんが、700記事に到達後、あまり期間を経ずにここまで至ったように思われます。

また、昨日投稿分の記事は投稿翌日のわりには、これまた多くの方々(37)に読んで頂けました。

くわえて、先日来より読んでおります、ある通史的な文献(上下二巻本)の上巻を本日移動中の電車内にて読了しました。

今後あらためて再読し、その際には重要と思われる箇所、疑問に思ったことなどを赤線引き、記入していこうと考えています。

さて、先日もブログ記事にて書きましたが、通史的な文献とは、その書かれている内容(歴史の流れ)について、ある程度の基礎的な理解を得ていない場合、読み進めることが困難となるため、その読み進める速度とは、小説などと比べますと、有意に遅くなる傾向があると云えます(調べつつ、思い出しつつ読むため)。

とはいえ、この本日読了に至った上巻は、どうにか(理解しつつ)読み終えた実感がありますので『では、その内容への基礎的な理解とは一体どこで得ていたのか?』と考えてみますと、それは主に以前読んだ宮崎市定による一連のアジア史関連の著作にあるのではないかと思われます。

そして、そこからもう少し考えてみますと、本日読了に至った著作(上巻)とは、書店の話題の書籍コーナーに置かれてている傾向があるのですが、その視点、内容の面白さとは日本人の私からみますと『実のところ(宮崎市定の一連の著作と)あまり変わらないのではないか・・?』とも思われてくるのです・・(笑)。

しかしながら、もとより私見にはなりますが、宮崎市定に劣らぬほどに面白いということは同時に『かなり面白い』ということを意味しますので、今後、下巻を出来るだけ安く購入し読んでみようと考えています。

また、それに加えて、先日投稿のブログ記事に取りあげたことに因るものか陸奥宗光著『蹇蹇録』をあらためて読んでみたいと思うようになりましたので、これは後ほど本箱を開けて探してみることにします。

さて、そこからハナシを記事冒頭に戻し、昨日投稿分の記事の関してですが、文系・理系の院における院生の置かれる環境が大きく違うことを自身は経験を通じて実感したわけですが、これは現在考えてみますと『どちらが絶対的に良い』とは(決して)断言できないものであり、どちらもそれなりに(大変)良い面があったように思われます。

また、出来るならば、上記のものを含め、さまざまな経験を持つのが良いと思われるところですが、その意味において、特に医科・歯科系の院において見受けられる(大学とは別の)外部医療機関にて為される研修等が、さらに大学組織との連携を深め、外部医療機関自体にて単位等(複数大学の)を付与・認定出来るようなシステムが構築されるならば、それは若い医療スタッフの流動性を高め、医療スタッフ各個人の望むキャリア・デザインがより柔軟に為されるのではないかと思われ、また同時にこれはあまりムリがないハナシであるようにも思われるのですが、さて、如何でしょうか?

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。』










2017年8月18日金曜日

20170817 おかしくなってはじめて出来ること・・【生命力燃焼の程度の上昇】

本日の首都圏は日中そこそこ気温も上昇し、ようやく夏らしい一日になりましたが、それでも八月半ば過ぎにしては若干涼しい方であったのではないかとも思われます。

さて、昨日投稿分の記事も投稿翌日にしては割合多くの方々(33)に読んで頂けました。

読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、この記事をあらためて読んでみますと、そこに書かれている、いわば『議論の前提』については、あまり共通理解が得られずに議論が為されているのではないかと思うことが度々あります・・(自身も含めて)。

あるいは、
そうした事情がこの記事を読んで頂くことに繋がったのではないかとも考えられます。

・・
とは述べるものの、自身も以前はこうしたことを今現在以上にあまり考えずに議論を行っていたという(比較的明瞭な)記憶があります・・(苦笑)。

そして、それがどうにか是正、修正された(無論、現在でも十分であるとは思いませんが)のは、文系修士課程での継続的な議論によってであると考えます。

現在思い返してみますと、当時は本当にさまざまな議題で議論していた記憶があります・・。

しかし、このさまざまな議題とは、当初よりそれを企図したものではなく、あまり規模の大きくない文系の大学院とは、概ねごった煮状態で、さまざまな専攻内容を持つ院生が院生研究室という大部屋にて机を並べるといった状態により自然発生的に生じた議論がそうしたものであったということです・・。

くわえて(文系の)あまりお金にならなそうな専攻内容を敢えて研究しようとする方々とは、概して探求心が(きわめて)旺盛であり、さらに関西特有のボケ・ツッコミの文化が加味されると、自然、さきに書いたような議論に適した環境が醸成されたのではないかと思われます・・(笑)。

とはいえ、自身がそうした環境を経験することが出来たことは、かなりの幸運であったのではないかと考えます。

また、現在になり考えてみますと、何故、当時そうした議論をしながらも、同時に(自身としては)多量の書籍・文献を読むことが出来たのかとは、かなり不思議に思われるのです・・。

おそらくあの当時とは、多少おかしくなり、何と云いますか生命力の燃焼程度が有意に向上していたのではないかと思われます(M2病)。

その意味において歯系院生の頃もまた、それなりにおかしくなってはいたのでしょうが、少し年齢が上がっていたためか、文系院生の時ほどに(変な情熱をもって)無茶なことが出来なくなっていたように思われるのです(文系院生当時の自身を街中で見かけた場合、現在の私は一体どのような感想を持つのであろうか・・?)。

しかし文系、歯系いずれにおいても、どこかしらおかしくなっていた自身を鷹揚に(そして概ね親切に)対応して頂いた両都市そしてそれらの文化風土全般(無論大学をも含む)には大変感謝しています。

おそらく、これが首都圏、東京であったならば、さまざまな理由から半ば無意識的にではあれ生命力の燃焼程度を強化させることを抑制、躊躇していたのではないかと思われます。

しかしまた、これら(地方で)経験した生命力の燃焼程度の向上が可逆的に他方において生命力の増進を為さしめていたのではないかとも思われるのです。

それ故
、これらの経験なければ、現在の自分自体がなかったようにも思えるのです・・。

ともあれ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害の大規模自然災害によって被害を被った地域におけるインフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念しています。












2017年8月17日木曜日

20170816 昨日投稿分の記事に関連して スポットライト・ピント 実験的手法・歴史【視野の明瞭化】

A「本日の首都圏もまた断続的に比較的強い雨が降り、昨日同様、八月半ばとは思えない程に冷涼ともいえる一日でした。

そして、ここまできますと今年の首都圏に関しては冷夏と評しても良いのではないかとも思えてきます。

また、こうした天候の事情と関連してか、今年の日本列島を通過する台風とは『変な動き』が多く見受けられるとのことですので、これもまた近年時折聞くエルニーニョ現象による影響ではないかとも思われます。

夏季においては、暑過ぎるのはもちろん嬉しいことではありませんが、同時にここまで気温が上がらない夏らしからぬ日が続くのも、多少先が心配になってきます・・。

さて、ハナシは変わりまして昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの方々(33)に閲覧して頂きました。

また、その主題として取り上げた歴史を見る、考える際のスポットライトとは『視野を明瞭にする』という意味において、あるいはピントと換言しても間違いではないのかもしれないと思われます・・。

そして、それをさらに異言しますと、どの部位、倍率にてピントを合わせるかにより、得られる観察像(視野)が(ある程度)決定され、それに基づいて言語を以って推論され物語ることが可能な現象が徐々に明瞭になっていくといった実験を伴う手法とも通底するものがあるということです。

とはいえ、こうした手法により歴史を観察する際において重要なことは、他部位、倍率でのさまざまな様相、観察像の(様相の)傾向をある程度事前に認識しておくことではないかと思われます。

また、その代わりに一見汎用性、普遍性があるとも見える演繹法における前提から現象を推察、推論し、物語ることは、少なくとも歴史を観察する特に早期の段階においては避けた方が良いのではないかと思われます・・。

しかし、であるからといって歴史を観察する上において演繹法におけるような前提となる言説全てを忌諱すべきというわけでもなく、大事なことは、あくまでも、そうした前提を『あまりにも早急に用いない』ことではないかと思われます。

あるいは、比較的早期の推論の段階にて、そうした言説を用いる場合においては、あくまでもそれが『仮説』であることを明言すべきであるということです。

そして、こうしたいわば些細とも云える手続き的なことが、歴史を観察する上においても、実験を伴う手法を用いる場合においても同様に、スポットライト、ピントを共有、共通し合わせた状態での(有効ともいえる)議論を可能ならしめる要件ではないかと思われます・・。

また、それ故に、それ以前のごく初期の段階において自身の論敵に対し勝ち名乗りを挙げるような議論の仕方とは、児戯にもならないのではないかと思われますが、どうも我々日本人とは、どうしたわけか、こうした議論の仕方をことのほか愛好する習性があるのではないかと度々思うこと【特に昨今】があるのですが、さて、如何でしょうか?

また、これはどちらかというと自身に対する注意喚起であるかもしれませんが・・(苦笑)。

とはいえ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念しています。』


2017年8月16日水曜日

20170815 市ヶ谷駅より靖国通り沿いを歩いていて思ったこと・・『平常心』?

本日の首都圏はこれまた八月半ばのわりには気温が上がらず、且つ断続的に比較的強い雨が降るといった夏らしからぬ一日でした。

また、本日が我が国のある種の記念日であることも、すっかり忘れ、昼過ぎ頃、私はJR市ヶ谷駅から靖国通り沿いを九段下方面に歩いていました(久しぶりにお天気雨(きつねの嫁入り)にも出くわしました)。

そうしますと、道沿いにただならぬ数の黒塗りを基調とした大きめの車両(中には白字にて多少時代がかっているとも感じられる文言を書き連ねているものもありました。)が停まり、そして、それら周辺には一様に黒の背広上下を着用され髪を短く刈った方々が数多く見受けられました。

それに加え、警察の車両、警備の警察官もまた、いたるところに配備されているのを見て、ようやく「ああ、そうだ今日は敗戦(終戦)記念日だ!」と思い出しました(苦笑)。

そういえば、この記念日の表現を『敗戦』あるいは『終戦』と言い立て争う方々がいるようですが、戦争の大義はともかく、とりあえず我が国が無条件降伏を主旨とする連合国軍側から提示されたポツダム宣言を受諾したという意味においては、この戦とは正確には『敗戦』であったのではないかと思われます・・。

とはいえ、歴史とは概ね、何処に、どの程度のスポットライトを当てるかにより、その受ける印象、認識が著しく変化するものであるといえますので、より精確には、そうしたコトバとは、用いる文脈の主旨によって多少は変化させても良いのではないかとも思われます・・。

では、その歴史に対して当てるスポットライトについてですが、たとえば我が国による台湾、朝鮮半島、中国大陸、東南アジアへの侵出とは、もう少し時代を遡ってみれば、同様、類似の事例として西欧列強によるアフリカ、中東の分割植民地化、欧米列強による中国南部都市(上海)の分割統治、大英帝国によるインド・パキスタン・ビルマの植民地化、フランスによるベトナムの植民地化、オランダによるインドネシアの植民地化などと数え上げたらキリがありません・・。

それ故、こうした大き目(時間軸・地域軸)のスポットライトに基づいて考えてみますと、さきに述べた我が国の海外侵出などは『駆け出し』あるいは『新参者』と評して良いものであり、あるいは『駆け出し』もしくは『新参者』と評し得るほどに帝国主義のほぼ最後の段階において、海外侵出を果たした我が国であるからこそ『現在』を基軸とした歴史的視点からは、その企図の挫折といった結果をも加味され、あまり芳しくない内外における評価を(より多く)甘受しなければならないのかもしれません・・。

しかしながら、別の歴史的視点においては、そうした一連の行為とは、半ば無意識的にではあるのかもしれませんが、軍事力を背景とした弱肉強食のあからさまな帝国主義を為し得ないものとし、ひいては現在の世界大勢の重要な一面を招来したのではないかとも考えられます。

また、それは世界史的に見れば、あまり光輝ある役割とはいえないのかもしれませんが、しかし同時にそれは、何処かの国が引き受けなければならない大変重要な役割(世界史規模の狂言回し)であったのではないかとも考えられます・・。

それ故、我が国は、こうした歴史的事実を誇大妄想的にも卑屈的にも陥らずに、そして内外の声高に叫ぶこと(のみを)を是とする勢力に怯むことなく、屈することなく、まさに理系学問にて我が国がその能力、真価を発揮し続けるように、淡々と歴史的事実の検証そしてそれらの再構築を行うのが良いのではないかと思われます・・。

そして、その場合、さきの大戦は、やはり負けは負けということで『敗戦』で良いのではないかと思われます・・。

そういえば、西欧のフランスは度々戦争にて負けてはいるものの、その文化をはじめとする世界に対する影響力とは依然として強いのではないかと思われます・・。
【私は特にフランスびいきというわけではありません。】

そしてもし、ここに我が国の性質との相違が認められるのであれば、その相違とは一体どこに由来するものなのでしょうか・・?

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被災された諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。」

最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2017年8月14日月曜日

20170814 あらためて東京の街で思ったこと・・マンガ文化と活字文化

A「ここしばらくの間、かなり久しぶりに通史的とも云える書籍を読んでいます。

こうした種類の書籍は、読みそしてその内容をある程度理解するまでに多少時間を要することから、ここ最近は敬遠していたように思います・・。

これまでに読んだ、こうした通史的な文献にて面白いと感じた最初の著作はポール・ケネディ著の「大国の興亡」であり、これを読んだ時期とは、丁度、近現代史に対する興味が本格的なものとなっていた時期でもありましたので、それなりに熱心に読んだ記憶があります。

とはいえ、我が国において時折、ベストセラーと称され、書店店頭に高く積まれる、こうした通史的な書籍とは、たしかに宣伝にあるように多く購入されているのでしょうが、それと同時に、果たして、その書籍が、どの程度まで深く読まれているのであろうか?と疑問に思うことがあります・・。

その理由とは、こうした通史的な書籍とは、冒頭に書いたように『その内容をある程度理解するまでに多少時間を要する』ことから、少なくとも、その書籍が売れた時期からいくらかのタイムラグを置き、その影響といったものが徐々に社会に現れてくるのではないかと思われるのです・・。
【その影響らしきものを感知することは極めて少ない。】

あるいは、書籍文章の字面のみを辿っていくのもまた読書であり、また、そうした読み方が主流であるとするならば、その影響といったものが社会に現れてくることはかなり少ないのではないかとも思われます・・【実質的に読まれていないのだから】。

この後者の意見とは、かなりひねくれた見方であるのかもしれませんが、しかし、時折耳にする、あるいは書籍文献などで読む『我が国の性質』といったものを勘案してみますと、案外この後者の方が事実に近いでのはないかとも考えさせられることがあります・・。

そうしますと、実際の現在の我が国の文化水準とは概ね、あるいはアニメ、マンガ(のみ)によって表出可能なものであるのかもしれません・・。

もちろん、私はアニメ、マンガをあまり好きではないにしても、バカにするつもりはありませんが、その本質において、活字文化とマンガ文化とは異なるものであり、どちらか一方で、自国の文化を代表し得る、あるいは活字文化もマンガ文化に包摂可能であると考えることは、おそらく文化全般としては衰頽の兆候ではないかと思われるのです・・。
【何でも(マンガのように)分かり易ければそれで良いというわけではないと思うのですが・・。】

しかし、とは思いつつも、それに対する適当な対案も今現在のところありませんので、歯がゆいところではあるのですが、まあ、どうしようもないのでしょう・・(苦笑)。

ともあれ、そこからハナシを戻し、現在読んでいるこの書籍の内容に関連して『便利さ、分かり易さが至上命題となった社会においてマンガ文化が活字文化を併呑、凌駕し、それに伴い文化水準全般が劣化し、その国が崩壊に至るということはあるのだろうか?』と考えさせられるのですが、果たしてどうなのでしょうか・・?

何れにしましても、露出がやけに多いコスチュームをまとった何らかのマンガ・アニメヒロインが駅の大きなポスターに貼りだされていることはどうしても普通、尋常な事態ではないと思われるのです。

また、外国人もそうした光景を見て日本人に対しては『日本のアニメ文化はポピュラーでここまで社会に根付いているのですね。』といったことを述べつつも、その隠された本音とは、ここでは到底書けないようなことを考えているのではないかと思われるのです・・。

期せずして高度経済成長期(あるいはそれ以前)に日本が海外に発信した本音と建前といった文化は、21世紀に至り、外国の方々にも広汎に認知され、それを本家本元たる我が国にて用いることが流行しているのではないかと不図思うことがあります・・(苦笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』










20170813 久しぶりに西日本に出向いて思ったこと・・意味を感じる、理解する・・?

所用にてしばらく首都圏を離れ、西日本某都市へ赴いていました。本日の夕刻過ぎにこちらに戻りましたが、やはり西日本の方がいくらか蒸し暑かったのではないかと思われます。

それは日中から夜半を通じ、歩いている際にも自然と汗が出てくるといった感じであり、この感覚は、何といいますか、久しぶりに体験することにより、かつて、そうした環境・大気の中にて住んでいたことが思い出されるといった感覚であるとも云えます。

また、この感覚は、ある程度の期間、その地域に住むことによって(はじめて)体得し得るといった性質のものでもあり、且つ、それは地域内広域において感じ得るもの(大気、日光の強さなど)から地域内においてさらに限定的に感じ得るもの(特定のお店が提供する食べ物など)に至るまで多岐に渡り、それら全てを包含した「系」のようなものが、感覚的な意味における『その地域』ということになると思われます。

こうしたものは、おそらくあまり言語化されることはありませんが、こうした感覚、体感がなければ、その地域、都市と
は自身にとって、単なる地図上の地名としての記号に留まるもの、または書籍文献に書かれている具体的内容を感知し得ない言説つまりは無機的なコトバの羅列に留まるということになるといえます。

そしてまた、こうした感覚は、地域軸のみならず時間軸においても作用もしくは応用可能であり、その意味で、地域におけるさまざまな史跡、遺跡あるいは寺社仏閣などとは、さきに書いた感覚的な意味での現時点の『その地域』の構成要素であると同時に、さらに、それらに付随するさまざまな『物語としての歴史』をも認識し、それを現時点における感覚と結節することにより、その感覚とは、時間軸においても延長・拡大することが出来るのではないかと考えます。

つまり、先ずはじめに現時点における種々認識があり、そこからさまざまな能動的な興味関心に基づいた知見を深める、広めることにより多面(地域・時間軸等)にわたり『その地域』というものを(先ずは主観的に)知っていくのではないかと思われるのです・・。

また、そのように考えてみますと、少なくとも自身の場合、そうした方法の繰り返し、蓄積を通じて(決して多いとは云えないものの)いくばくかの知識、知見を得てきたと自覚しますが、こうした方法とは、さきの『その地域』あるいは『物語としての歴史』のみならず自身の場合は、実験を用いる理系学問分野においてもまた同様であったのではないかとも思い至るのです。

このことをもう少し具体的に書きますと、自身の場合、地域での日常生活のなかで自然に発生した時間軸的な要素への興味、つまり出土、発見された遺跡、古墳および土器、青銅器、鉄器などに対する漠然とした興味あるいは、どうにかそれらを認識したいといった欲求から、あとに続く現在の歯科用材料に対する実験を用いる方法、アプローチへの興味に結節したということになるといえます・・。

とはいえ
、こうした方法あるいは(自然発生的ともいえる)興味の生成過程が、現在の諸学問において用い得る、価値を持つ方法論として正統、正当であるのかは分かりかねるところではありますが・・。

しかしながら、こうした方法に拠って、いくつかの学問分野を横断する知識、知見が得られたという個人的な実感、自覚とは、少なくとも虚偽ではなく、また自身という決して優秀とは云いかねる人間が一応そうした実感を得るに至ったことには、応用の仕方が限局されるものではあるのかもしれませんが、何かしらの人間そのものに対する知見が多少は含まれているのではないかとも考えられるのではないかと(多少自意識過剰気味ではあれ)思うことがあるのですが、さて如何でしょうか・・(笑)。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害によって被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。』