本日の首都圏は気温も上がり、日中は暑いといってもいい程の陽気でした。そのような中、本日もまた、ほぼ一日を通し荷物の整理をしておりました・・(苦笑)。
いや、今現在もさまざまな荷物に囲まれ、本日投稿分の記事を作成しています・・。
つい先日投稿したブログ記事にても書きましたが、引越しなどの際の荷物の選別などは、以前の方が素早く出来ていたと記憶しております。これは年齢のために動きが鈍くなったからでしょうか?あるいは以前よりも思慮深くなったからでしょうか・・(笑)?
ともあれ、こうしたことを考えておりますと、また時間のみが経過してしまい、目下必要とされる荷物の整理、片付けが遅れてしまう次第ですが、しかし、今現在はブログ記事作成の時間としましたので、あまりそういったことは考えないことにします・・(苦笑)。
とはいえ、こうしたことは少なくともブログ記事の題材にはなりますので、もう少しこのことについて書いてみようと思います・・。
さて、只今行っている荷物の整理、片付けにおいて、現在日常的に使用しているものは、最後の方にまとめておき、主にこれまでに使い、所蔵してあるものについての整理、片付けについてですが、それらの中で最も分量的に多いのが書籍であり、それらも、これまでの整理によって、大分減り、まとめられましたが、それでも今現在ブログ記事を作成している自身の周囲にいくつかの島を成して積まれているものは書籍であり、また、それらの題名を一巡し眺めると、さまざまな想念やら、読んでみたいといった欲求が湧いてくるのですが、あくまでも現在はブログ記事作成の時間と決めたことから、そうした思いを封印し、先を続けます・・(笑)。
そして、次に多いのが生活道具、衣類などですが、これらに関しても整理、片付けを行っていますと、一つ一つの品々に何かしらの思い出、思い入れといったものが想起され、そう簡単にはコトは運んでくれません・・(苦笑)。
しかし、ここで立ち止まってしまっても、整理、片付けは進みませんので、とりあえず『現在の自身に必要かそうでないか』を基準とすれば、こうした作業とは、より一層スムーズに進むのかもしれませんが・・(苦笑)。
また、書籍に関してですが、大分前に購入して途中まで読み、置いておき、ここ最近、不図思い浮かぶ書籍が、現在のこうした機会にてフイッと現れることは、なかなか嬉しいものであり、こうした書籍は転居先(すぐ近くですが)にてすぐ読めるように、別に置き、そして、そうしたジャンルに分類した一群の書籍が、さきに述べた自身の周囲にある、いくつかの(平積みにされた)書籍の島の一つとなっております・・(苦笑)。
加えて、大変面白いことに、今現在においても自身が明日から転居するといった実感がまったくなく、そして、明日もまた記事作成を行うのであろうか?とも考えておりませんでした・・(笑)。
果たして、こうした自身の心的傾向とは良いものなのであろうか・・(苦笑)?
とはいえ、もしも明日、ブログ記事の更新が為されなければ、転居先での作業、あるいは何らかの事情により、作成することが出来なかったものとしてください・・(笑)。
さて、さきほど述べた転居後に読みたい書籍として分類された一冊として岩波文庫刊J.S.ミルの「大学教育について」があります。
この著作は、大変読み易く、それ以上に面白いことが書かれていると思いますので、興味のある方々は是非読んでみてください。
また、それは特に医療をはじめとするいわゆる理系学問分野の方々にとって、なかなか興味深いことがらが述べられているのではないかと思われます・・。
そして、ここまで書きましたので、いささか前言を翻すようではありますが、せっかくですので、以下に少し同著冒頭部から抜粋引用を試みます。
岩波書店刊 J.S.ミル著 竹内一誠訳 『大学教育について』pp.12-14より抜粋引用
ISBN-10: 4003910117
ISBN-13: 978-4003910115
『大学が国民教育のなかで果たすべき役割については、十分に説明されていると思われます。
少なくとも大学がこうあってはならないということについては、ほとんどの人々の間で意見の一致がみられます。
大学は職業教育の場ではありません。
大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。
大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。
専門職の養成のための公的機関があるのは至極当然であり、したがって、法律学校、医学校があるのは結構なことです。
そしてさらに、工科学校や産業技術を学ぶ学校があれば、なおさら結構なことでしょう。
このような学校制度を持つ国々は、その制度をもつことによって一層発展することでしょう。
しかも、これら学校をいわゆる本来の意味での教育のために設立された施設としての大学と同一の場所に、そして同一の監督下に置くことには多少の利点もあるにはあるでしょう。
しかし、技術を伝えるということは、各世代が次の世代に手渡すべき義務を担っているもの、つまり各世代の文明の価値を支えているもののなかには入りません。 (ここが少し疑問です。)
そのような技術は、自らの努力でそれを獲得したいという強い個人的動機を持つ比較的少数の人々にのみ必要とされるものであり、そしてその少数の人々ですら、正規の教育課程が修了するまでは、その技術を有効には使用できないのです。
専門技術をもとうとする人々が、その技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植えつけたかによって決定されるのです。
人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのです。
有能で賢明な人間に育てれば、後は自分自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。
専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く一般教養(general culture)の光明をもたらす類のものです。
確かに、人間は一般教養教育を受けなくても有能な弁護士となることはできますが、しかし、哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。
このことは、機械工学を含むほかの有用な専門分野すべてについても言えることです。
靴づくりを職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは教育であって、靴の製造法の伝達ではないのです。
言い換えますと、教育によって与えられる知的訓練と、それによって刻み込まれた思考習慣とによってであります。』
ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
A「つい先ほど、自身のブログを開いたところGWにて休日ということもあってか、本日のブログ閲覧者数はこれまでにない程に伸びていました・・。
また、閲覧されている記事のいくつかもまた、直近の記事への大変面白い反応であり、これも早速取り入れさせて頂きました。
どうもありがとうございます。
そして、そのような経緯から、現在こうして新たな記事作成に取り組んでいます・・(苦笑)。
とはいえ、本日に関しては(も)記事の主題は定まっておりません・・(苦笑)。
そういえば、昨日、一昨日の投稿記事は主に思想、哲学関連のことを書きましたが、こうしたことは自身の場合、何らかの契機により突如思い出され、そしてある程度まとまり、想念となり、それを文章化することが出来るようです・・。
そして、この契機が具体的に何であるか分かれば、その契機となる具体的な刺激を所望に応じ自身に与え、そういった内容の文章を書き続けることが出来るのかというと、どうもそういったものではないようです・・(笑)。
また、こうした内容を書いておりますと、そこから想起されることは、奇しくも、さきのブログ記事にて書いた精神、記憶の本質としてのイデアと、その似像、投影像たる現実における具体的な存在の関係性です・・(笑)。
しかしながら実際に我々とは、具体的な何か(似像、投影像)を指標として、それをさまざまな判断基準としています。
また、それらは数値化出来るものであれば、尚更分かりやすく、簡便に、そして普遍的に通用するものと考える傾向があります。
そして実際、この考え方とは、我々に大変な恩恵をもたらし、さらには我々の通常思うところのいわゆる合理的思考とは、その多くの部分がこうした判断基準に依拠しているのではないかと思われます。
・・・しかし、もしも、その判断基準とされるものが実際の精神、記憶(この表現もまた、いささか微妙ですが、しかし、こうしたものは存在すると考えます。何故ならば、こうした実際の精神、記憶がなければ長年にわたり、普遍的にその価値が認められる観念的なるもの、宗教、哲学、思想、文学などは、その本質的な価値、意味が分からなくなったであろうから・・。)たる本質、イデアではなく、その似像、投影像としての何らかの具体的な事物に依拠するものであったならば、それに基づいた思考とは、それを積重ねるにしたがい、徐徐におかしなことになっていくことも少なからずあるのではないかと思われます・・。
とはいえ、その一方において、以上の書いてきた内容もまた、具体的なモノを対象とした実験に基づいた感覚、感想より得られたものであり、言い換えると、本質、イデアとは異なる似像、投影像の操作によって考えるに至った内容であるといえます・・。
そして、そのように考えますと、あるいは、我々とは、おかしな方向に行くこともしばしばありながらも、似像、投影像の操作によってのみしか、ものごとの本質に迫る経路を持っていないのであり、また、たとえその操作によって本質に迫り、それを巧みに言語化したとしても、他者がそれを認識、理解する場合には、あくまでも再び、その道程にあった経験を追体験しなければならないのかもしれません・・。
たとえ幾つかの経路がそこにあるにしても・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
A「600記事到達以降も記事作成を継続し、今回の投稿によって15回目の投稿となります。
この調子にて記事作成を継続すれば案外650記事程度までは、あまり苦もなく到達することが出来るのではないかとも思われますが、どうなるものでしょうか・・(笑)。
さて、昨日の投稿記事はあまり多くの閲覧者数を得ることが出来ないのではないかと思われましたが、その予想に反し、割合多くの方々に読んで頂けました・・。
一般的に思想、哲学といったものは、我が国においてはあまり面白いものとされておらず、また、たとえその種子を学生時代に蒔かれたとしても、社会人、実社会において、その興味を失ってしまうことが多いように思われます・・。
これは今もって不思議に思うところであり、また同時に、それが我が国の西欧文化の受容における一面の限界であるのかもしれません・・。
そして、正直なところ、こうした我が国の社会における傾向とは本質的に変わることはないと思われます。
あるいは変わるとしても、それは『角を矯めて牛を殺す』ような結果になると思われますので、案外、このままの方が我が国の場合は良いのではないかとも思われます・・。
とはいえ、自身の場合もまた、ほぼ独学、耳学問に基づくものであって特に思想、哲学といったものを専攻したわけでもありませんので、畢竟この意見もまた、単なる思い込みであるのかもしれませんが・・。
しかし他方、こうして考えてみますと、我が国における思想、哲学といったものの学校、社会での伝達の仕方、つまり教え方にも、また多少は問題があるのではないかとも思われます・・。
とはいえ、こうした思想・哲学といったものの知識あるいはその体系もまた、他の学問と同様、そう簡単に扱うことが出来るようになるものでもなく、むしろ、こうした形而上的なことがらを扱う学問とは、対象となるものの多くが、実体としては存在しないことから、ある程度の期間を要する学習、独学と、実際の経験を加味・化合することによってのみ、何といいますか、そうした思想、哲学のフィルターを通して事物・事象を観ることが可能となり、そして、それを能動的に言語化することが出来るようになるといった性質であるように思われます。
また、さきに述べたこととも関連するかもしれませんが、我が国の実社会においては、そうした思想、哲学のフィルターを通してものごとを観ることは、何故であるかよく分かりませんが(かなり)タブー視されている感がありますので、おそらく、その時点でも、そうした学問に対する興味の芽は概ね摘み取られるのかもしれません・・。
そういえば、このことは山本七平、加藤周一もどこかで述べていた記憶があります。
ともあれ、以上のような経緯によって我が国の文系学問分野においては大学にて得た知識・知見と実社会が大きく離れたものとなってしまっているのではないかと思われます・・。
そして、以前にもブログ記事にて書いたと記憶しておりますが、この点において、上記の文系学問一般とは、少なくとも医療介護系などとは、大きく背景にある価値観が異なると評しても良いのではないかと思われます・・。
また、我々日本人とは、伝統的に即物的な世界観、つまりモノとコトバの対応関係が比較的明確な世界については明るいといった傾向があると思われますので、敢えて文系であるからといって、そうした思想、哲学を教える学部、学科を持ちたがる、あるいは当初から教えるのではなく、医療、介護、社会福祉などの実習、経験を要する学習を通じ、自然にそうした思想、哲学に興味を持つような経路、システムに多少改めてみても良いのではないかと思うことが少なからずあります・・。
現在になって考えてみますと、自身の場合もまた、そのような感じであったと思われますので・・。
根本的に思想、哲学もまた活きたコトバで語られなければ、それは空虚なカタチだけのものとなってしまい、伝達の力を失います。
そして、活きたコトバによる思想とは、実際の経験から内発的に生じるものではないでしょうか・・?
今回も、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて生じた地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
おかげさまで昨日投稿の記事は投稿翌日にしては、かなり多くの方々に閲覧して頂けたようです。
そういえば、ベルクソンによると『我々の精神の働きが演奏を行うオーケストラ』そして、『それを指揮する指揮棒が脳』であり、それを『視覚のみ』で認識すると『振られている指揮棒の動き』ということになりますが、我々が脳でものごとを考えるとは、たとえると、そのような状態であるとのことです。
つまり、そこ(脳で考える)には『精神の働きである演奏を行うオーケストラおよび、その演奏されている楽曲とは包含されていない』のですが、それらの要素が、さきに述べたように『精神』そして『記憶』であるとのことです。
つまり精神≒記憶といっても特に間違いではないということになるのです・・。
しかし、我々は常時、過去の全ての記憶が意識上にあるわけではありません。
そのような状態とは、かなり異常であることは、ただ、そうした状態を想像してみても、かなり重苦しく、息苦しいものであることにより分かるのではないかと思われます・・。
通常あるいは日常的に我々とは、必要最低限の記憶のみが意識上にあります。
そして、その『記憶の調整』あるいは『記憶を日常への注意へ向ける器官』が、さきの指揮棒にたとえた『脳』ということになります。
これを換言すると、精神、記憶の顕現を調整する働きを持つ器官が脳といった感じになるものと思われます。
そして、何かしらの原因にて脳の働きが弱くなると、我々の意識上に一気に記憶が顕現することになりますが、それが事故などに遭遇した際によく聞く、走馬灯のように自身の人生を垣間見るといった現象となります。
つまり、記憶、精神とは、何らかのカタチで脳と関連はあるものの必ずしも脳に存在するといったものでもないそうです・・。
そしてハナシは変わりますが、いや、そこから想起されることとして洞窟の比喩として知られているプラトンのイデア論があります。
これは我々が日常的に見たり感じたりしていることは、実は洞窟の奥壁に映し出された本質(イデア)の似像に過ぎなく、その見ている背後には、映し出された実体つまり本質(イデア)があるとのことですが、このプラトンのイデア論に、さきのベルクソンの説を折衷しますと、我々が脳の働きによって見ている現実世界とは、実は本質(イデア)の似像に過ぎなく、その注意されない背後には、実は本質としての膨大な精神、記憶(本質・イデア)が存在しているということになります。
さらにそうしますと、今度はウィトゲンシュタイン著の『論理哲学論考』、コンラッド著の『闇の奥』での記述を想起させますが、その明確な関連性の有無とは不明ではあるものの、やはりそこには何かしらの本質としてのイデアあるいは心理学的に表現すると集合的無意識による像といったものが存在するのではないかと考えさせれますが、さて如何でしょうか・・?
以上のことは、小林秀雄が何処かで述べていたと記憶しておりますが、何れにしても、なかなか興味深いことではないかと思われます・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
本日さきほど久しぶりに応募した公募の選考結果が届きました。
結果は不採用ではありましたが、とりあえずは一件目ではありますので、大変残念ではありますが、仕方がないこととあきらめます・・。
今後再び折を見て、こうした公募に応募しようと考えております。
とはいえ、やはりこうした応募結果が届きますと、膝の力がガックリと抜けるものであり、そのことから本日のブログ記事作成は断念しようかとも思いましたが、それでもこの脱力感をいくらかでも和らげるためにもブログ記事作成は有効であるかもしれないと思い立ち、今現在このように記事を作成している次第です・・(苦笑)。
また、実際にこのことを文章にして著しておりますと、多少はこの脱力感の減退に効果的であるようであり、本日に関しては、記事作成開始当初は、いささか覚束なかったキーボード上の両手も、今ではどうにか普通に動いてくれているようです・・(笑)。
さて、世の中にはさまざまな成功、失敗のジンクス、あるいはその一連の流れのパターンといったものがあるようですが、上記のような、まさしく現在の自身に生じていることがらとは、なかなか客観的に理解、判断することが難しいようであり、果たして、そうしたことがら、出来事とは、良い方向に向かっている兆しであるのか、あるいはその逆であるのかとは、一体何時になれば、そして、どのような理解、判断に至るものか、なかなか興味深いところです・・。
しかしいずれにせよ、ここで諦めるのは簡単ではありますが、それは同時に後になり悔恨を残すことになると思われますので、少なくとも、もうしばらくは、現在の仕事を継続しつつ求職活動を頑張ってみようと思います・・。
また、思い返してみますと2010年秋口より指導教員不在の状態となり、そこから2013年の学位取得、そしてその後から現在に至るまでの経緯とは、自身で考えてみても、いくつかの危ない橋を渡ってきたと思う一方、おそらく、なかなか得ることの出来ない経験も多くさせて頂いたのではないかと思われます・・。
そしてまた、それは指導教員がおられる状態にて院修了に至った場合と比べ、幸せであったかどうかとは分かりませんが、一般的に考えれば、そちらの方が幸せかどうかは別として、まともな人生となった蓋然性は(より)高いものと思われますが、しかしそれは現在となり問うても本当に本当に仕方のないことです・・。
もとより、こうした過去の経緯をしっかりと憶えていることは重要ではありますが、しかし、それにより悔恨を増大させることほど無意味なことはないと考えます・・(歴史の価値もまた同様な感じではないかと思われます・・)。
大事なことは今現在自身が目標を持っていること、そして、それを陰日なたにて見てくださっている方々がいるということであると考えます・・。
そして今回に関しても、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる2016年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
A「現在住んでいる場所が取り壊されるため、現在さまざまな荷物の整理を行っております。
『断捨離』が流行っていることもあり、出来るだけ必要のないものは捨てようと試みておりますが、それら荷物の中でも、とりわけ書籍に関しての取捨選択とは、大変難しく、いざ一冊一冊手に取り、それぞれ残すか捨てるかの判断をする際、不思議なことに大概の書籍に何らかの『思い』があり、その多寡を以って概ね判断をしているわけですが、それでも『いや、この書籍は今後あるいはもっと読むかもしれない・・』などと考えてしまい、判断に躊躇することが度々あります・・(苦笑)。
こうした躊躇あるいは判断力の鈍さとは、以前にはあまり感じなかったことですので、あるいはそれなりに自身も年齢を重ねてしまったということになるのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、こうして書籍の取捨選択を行っておりますと、これまで思いのほか多くの書籍を読んできたことが分かり、そこから『果たして自身とはこのままで良いのだろうか・・?』と、不図、考えてしまうのです・・(苦笑)。
しかし、もう少し考えてみれば、それは仕方のないことであり、あるいはそれだけの書籍を読んできたにもかかわらず、現在一応普通に働いているのであれば、それはそれで、よくやっている方であり、むしろ、それを今後、如何なるカタチでか有用化していく以外、善処の方法とは、ないのではないかと思われます・・(苦笑)。
さて、近在の古くからの古書店に書籍の出張買取に来て頂き、蔵書もおそらく半分以下にはなったと思われますが、それでもいくつかのカラーボックスに満載程度となりました・・。
そして、今現在記事作成を行っている周辺には雑然と書籍類が散在し、おそらく今GWとは、これら書籍を含めた荷物全般の整理にて明け暮れるのではないかと思われます・・(苦笑)。
また、それらの中で比較的面白いと感じたものは、修士論文の下書き、草稿であり、これは主題が概ね日本を題材とするものでありながら、そうしたことにお構いなく、さまざまな分野の和洋文献からの事例を多数引用をしており、これはこれで現在読んでみますと、より精確に当時の自身の読書、思考の足跡が辿ることが出来るものと思われます・・。
そしてまた、一応当時の自身とは、おそらく周囲からの影響も多くはありますが、それなりに自発的な努力をもしていたことが理解出来、あるいは当時の自身とは、現在よりも知的、優秀であったのではないかとも思われることもあるのですが、しかしそれでも、現在の方が当時よりも明らかに優っている、進歩していると思われることは、一連の当ブログ記事が示すように、ある程度の期間、ほぼ毎日、継続的何かを書き続けていることであり、これはおそらく当時の自身が知識の吸収に重きを置いていたとはいえ、なかなか難しかったのではないかと思われます・・。
しかし、そこで同時に思うことは、現在こうして、一応ある程度の期間、継続的に記事、文章を作成出来ている基盤とは、まさしくこの時期にあったのではないかということです・・。
そしてまた、今後もいくらかは、その伸びしろがあるとは考えますが、しかし、とりあえずは、そうしたことはある程度の期間を設けて考えなければ分からないようであり、それ故、今後も休みを入れつつも、出来るだけ継続的に記事作成を行おうと思います。
そういえば、昨日投稿の記事もまた思いのほか多くの方々に読んで頂けたようであり、また、その反応も大変興味深いものでした。
ともあれ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
A「昨日の投稿記事は思いのほか多くの方々に読んで頂けました。
加えて、昨日の記事投稿直後から現在に至るまでの一連の記事閲覧状況を見ておりますと、大変面白い反応が為されていたことから、それを取り入れさせて頂きました・・。
また、上記のような読んで頂いた方々からの反応を含め、さまざまな要因により、当ブログ記事作成は継続することが出来ていると云えます。
そして本日もまた、その調子にて記事を書いていこうと思います・・(笑)。
そういえば、今週に作成された記事において最も読まれた記事は4月24日投稿分の『『ハレ』を生じさせる地域の『何か』とは・・?』であり、これには多少驚かされ、またそのことから、再度記事を読み直し、全体の流れは変えない程度に、いくつかの表現を改めました・・。
とはいえ、普段であれば、こうした既投稿記事への改変は行わないのですが、特にこの記事に関して、そのようなことを敢えて行ったという背景には、作成者として、その記事に書かれている内容が、より正確に読んで頂いている方々に伝わって欲しいという、一種の欲が湧いたことがあるのかもしれません・・(苦笑)。
また一方、その欲?とは、ある程度多くの方々に読んで頂いていたからこそ湧いたものであり、そうしたことからも、自身が継続的にブログ記事の作成が出来ていることの裏面を理解することが出来るのではないでしょうか・・(苦笑)?
つまり、当たり前ではあるかもしれませんが、自身は特に文章の作成に秀でているわけでも、また、その才能があるわけでもありません。
しかしその一方で、これまでに挙げたような反応に対し『たしかに面白い!』あるいは『そういった理もあるのか!』と正直に感じることが出来る程度の感性と、それを基点として新たな着想が湧き、そしてまた新たな文章、記事を書ける程度の文体は、どうやら持っていたとは云えるようです・・(笑)。
とはいえ、それは特に自信と云える程度のものでもなく、またそれは一面において当初、自身の作成した記事の多くが対話形式を採っていた要因であったのかもしれません・・(苦笑)。
つまりは、文章作成という、いわば能動的、創造的な行為において、当初、自身は通常の状態であれば、そこに至るための出力が若干乏しく、対話をも含めた他者との応対によって生じる、いわば内面での動きに乗じ、文章を作成してきたものと云えます・・。
そして、そこである程度の期間書き続けておりますと、今度はこれまである程度の時間を費やしてきた、さまざまな分野における書籍の読解、読書もまた、本質的には一種の他者との応対であることを(あらためて)感知、認識し、今度はそれを応用し、文章を作成することが可能となったのではないかと思われます。
また、その時期とは、文体の対話形式から独白形式への移行期と、ある程度重なるのではないかとも思われます・・。
その間に一体如何なる関連があるのか不明ではありますが、おそらくそうしたことは世界史的に見てもある程度普遍的見解とも云える青銅器使用の普及と都市国家の成立時期が概ね被るのと次元は異なりますが、何かしら類似したメカニズムが作用しているのではないかとも思われます・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」