2017年5月5日金曜日

20170504 似像、投影像の操作によって出来ること・・

A「つい先ほど、自身のブログを開いたところGWにて休日ということもあってか、本日のブログ閲覧者数はこれまでにない程に伸びていました・・。

また、閲覧されている記事のいくつかもまた、直近の記事への大変面白い反応であり、これも早速取り入れさせて頂きました。
どうもありがとうございます。

そして、そのような経緯から、現在こうして新たな記事作成に取り組んでいます・・(苦笑)。

とはいえ、本日に関しては(も)記事の主題は定まっておりません・・(苦笑)。

そういえば、昨日、一昨日の投稿記事は主に思想、哲学関連のことを書きましたが、こうしたことは自身の場合、何らかの契機により突如思い出され、そしてある程度まとまり、想念となり、それを文章化することが出来るようです・・。

そして、この契機が具体的に何であるか分かれば、その契機となる具体的な刺激を所望に応じ自身に与え、そういった内容の文章を書き続けることが出来るのかというと、どうもそういったものではないようです・・(笑)。

また、こうした内容を書いておりますと、そこから想起されることは、奇しくも、さきのブログ記事にて書いた精神、記憶の本質としてのイデアと、その似像、投影像たる現実における具体的な存在の関係性です・・(笑)。

しかしながら実際に我々とは、具体的な何か(似像、投影像)を指標として、それをさまざまな判断基準としています。

また、それらは数値化出来るものであれば、尚更分かりやすく、簡便に、そして普遍的に通用するものと考える傾向があります。

そして実際、この考え方とは、我々に大変な恩恵をもたらし、さらには我々の通常思うところのいわゆる合理的思考とは、その多くの部分がこうした判断基準に依拠しているのではないかと思われます。

・・・しかし、もしも、その判断基準とされるものが実際の精神、記憶(この表現もまた、いささか微妙ですが、しかし、こうしたものは存在すると考えます。何故ならば、こうした実際の精神、記憶がなければ長年にわたり、普遍的にその価値が認められる観念的なるもの、宗教、哲学、思想、文学などは、その本質的な価値、意味が分からなくなったであろうから・・。)たる本質、イデアではなく、その似像、投影像としての何らかの具体的な事物に依拠するものであったならば、それに基づいた思考とは、それを積重ねるにしたがい、徐徐におかしなことになっていくことも少なからずあるのではないかと思われます・・。

とはいえ、その一方において、以上の書いてきた内容もまた、具体的なモノを対象とした実験に基づいた感覚、感想より得られたものであり、言い換えると、本質、イデアとは異なる似像、投影像の操作によって考えるに至った内容であるといえます・・。

そして、そのように考えますと、あるいは、我々とは、おかしな方向に行くこともしばしばありながらも、似像、投影像の操作によってのみしか、ものごとの本質に迫る経路を持っていないのであり、また、たとえその操作によって本質に迫り、それを巧みに言語化したとしても、他者がそれを認識、理解する場合には、あくまでも再び、その道程にあった経験を追体験しなければならないのかもしれません・・。

たとえ幾つかの経路がそこにあるにしても・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」









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