2016年11月28日月曜日

20161128 色々とハナシは飛びますが・・生命力の「燃焼」の程度

先日投稿したブログ記事にて2013年9月、鹿児島からの帰郷時における原宿付近での出来事を記しました。

そして、現在ではその出来事にある行動を採ることは困難であるように思われます・・。

むしろ、現在となっては、何故、当時(2013年9月)は、そのような行動をスムーズに採ることが出来たのか?の方が不思議に思われるのです・・。

そう思い返してみますと2013年当時の私と、現在2016年の私の間には大きな相違があり、さきのブログ記事に記した状況における対応、反応に限定して云えば別人になってしまったと表してみても決して言い過ぎではないと思います・・。

また、こうしたことをわざわざ(掘り返してまで)言語化、文章化することとは、どこかしら若い頃の悪行を自嘲・自慢半分半分で語るオジサンを連想してしまい、2013年の行為、現在の(そのことを言語化、文章化する)行為、共に我がことながら、あまり感心することは出来ません・・(苦笑)。

では何故、現在私がこの過去の「愚行」を再度ブログ記事の題材としているかのかと考えてみますと、それは、過去の自身(の特に行動)が理解出来ないことは、それが夢や架空の出来事でないのであれば、かねてより当ブログ記事にて歴史(過去の実際の出来事)の重要性を力説、標榜している私としては「灯台下暗し的な盲点」として認識されることにより、もう少し、その意味を考えてみた方が良いと思われるからです・・。

それ故、ハナシは元に戻し、具体的に2013年9月と現在の私の間には如何なる「相違」が認められるのでしょうか・・?

この問いに対し即座に感覚的に思い起こされる、一連のブログ記事にて用いてきたコトバとは「D2病」です・・。

端的に云えば2013年9月の私とはD2病の真っ只中にあり、それに対し現在の私とは、少なくともそこから大分寛解しているのではないかと考えます。

そして、それが両時期の間に見られる顕著な相違であり、また現在では理解不能な程の断層を生じさせる要因であるとも思われるのです・・。

とはいえ、ここで不思議に思うことは、2013年9月の出来事も現在と同様、自身の経験・記憶でありながら、何故、前者に関しては、その行為を行わしめた背景である、当時(2013)の精神、心の現実性を感覚的に内面から理解することが出来ないのであろうか?ということです・・。

そして、そのような状況を異なる視点から考え、さらに説明可能なコトバの抽出を試みますと、そこに「憑き物」「憑依」「Obsession」といったコトバが浮かんできます・・。

また、上に示したこれらコトバも以前投稿したブログ記事にて述べたことがありますが、そうしますと2013年当時の私は何かに「憑かれていた」とも表することが出来るのではないかと思います・・。

では、何に憑かれていたのかと考えてみますと、これもまた以前のブログ記事にて述べたものではありますが「Erdgeist」つまり「地霊」のようなものではなかったのだろうかと思われるのです・・。

また、この考えから更に歩を進めてみますと、この2013年の状態が、これもまた以前ブログ記事に記しましたが、「ハレ」(ハレ・ケガレのハレ)の状態であったのではないかとも思われるのです・・。

さらに加え、それはまた「躁的状態」ともまた、大きな関連性があるのではないかとも思われます。

以上、2013年9月の自身に対し思ったことを述べましたが、この後の反動とはかなり大きなものであり、自身の生命力に少なからぬ危惧を抱く結果となりました・・(苦笑)。

もしも(一定、有限の)生命力の「燃焼」の程度に差があるとすれば、この時の私とは、相対的に見て(著しく)強く燃焼していたのではないかと思われるのです・・。

そして、再びそうした状態になった場合、今度は上手くヒット・ポイントをずらし、持続可能性を維持することが出来るのではないかと、これまでのブログ記事作成での経験を通じ何やら得たような感じがしなくもありません・・(苦笑)。

しかし、実際のところは本当にそうなのであろうか・・?

また、これも畢竟、主観的仮説の積重ねであるといえば、そうであるので・・(苦笑)
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年11月27日日曜日

20161127 「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「積極性」「能動性」何れが先行するものであるか・・?

A「本日の首都圏は一日中グズついた天候でした・・。
また、気温も上がらず、あまり自身の活性も上がらなかったように思います・・。

さて、先日投稿したブログ記事にて「ネガティブ・ケイパビリティ―」について記しましたが、こうしたものとは、まさに本日のようなあまり活性の上がらない時に、その価値が認められるのかもしれません・・。

自身の活性の上がっている時とは、おそらく他の多くの方々もまた、活性が上がり、ブログ記事の作成を含め、何かしらの行為をするのに適していると考えられるからです・・。

あるいは、そうした活性が上がるのが他の多くの方々と異なる場合もまたあるかもしれませんが、一般的に考えてみれば、前者のようになることが多いのではないかと思われます・・。

しかし、そうであるからといって「ネガティブ・ケイパビリティ―」のみが重要である考えるのはおそらく間違いであり、さらにその深層、基層においては、何らかの「積極性」「能動性」がなければ、さまざまなことを継続することは困難であるものと考えます・・。

あるいは、当初はイヤイヤであっても、何かしらの行為を継続することを通じ、自身のより根本(深層、基層)の性質に適した「何か」を発見することが出来るのかもしれません・・。
さらにまた、それは消極的努力の継続により、自身の深層、基層にある積極性、能動性に働きかける何らかの「鉱脈」を見つけるに至るのかもしれません・・。

そして、そのように考えてみますと、消極的努力と積極性、能動性では何れがニワトリ・タマゴの先行するものであるかと考えるに至りますが、私見では、積極性、能動性の方が、各個人の内面奥に(当初より先行して)存在し、それを探し当てるための行為の継続に必要な性質が消極的な性質を持つ「ネガティブ・ケイパビリティ―」といったものではないかと考えます・・。

また、そのように考えることにより、これまでどうにか継続的に作成してきたブログ記事のことが腑に落ちる、納得することができるのです・・。

もっとも、これはあくまでも私見であり、他の方々の場合においてはまた、状況が異なることもまたあろうかとは思いますが・・。

しかしながらハナシを自身のことに戻し続けますと、自身行為の継続に必要な「ネガティブ・ケイパビリティ―」とは、ブログ開始当初より一定したものではなく、それは(間違いなく)ブログ記事閲覧者の皆様がいたことにより、保持あるいは増加することが出来たといえます・・。

つまり、全くの孤立無援の状況の中で、消極的な努力(ブログ記事の作成)を継続することは、自身にとって困難もしくは「無理なハナシ」であり、どうした経緯によるものか、読んでくださっている皆様に助けられて継続することが出来ていると表して良いと思われます・・(笑)。

また、考えてみますと、こうしたことは何もブログ記事作成に限定されるものでもなく、世の様々な行為において、こうした背景とは遍く存在するのではなかろうかと思われるのです・・。

しかし、そうであるからといって、それに寄り添うのではなく、寄り掛かることは、如何なものかと考えますので、今後とりあえず500記事までどうにか記事を作成し続けたいと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」





20161126 着想が訪れない、浮かばない時には・・鹿児島からの帰郷時の出来事

本日のブログ記事投稿により投稿総記事数が491となり、目標とする500記事まで残り10記事を切ることになります。
これに対し特に感慨らしきものはなく、今後もしばらく、この調子にて投稿し続けるつもりです・・。

とはいえ、本日もまた作成記事の主題は決まらない状態にて作成をはじめ、今現在何を書こうかと、その着想が訪れるのを待っている次第、状態です・・(苦笑)。

しかし、着想を待つとはいっても、確実に着想が訪れてくれるわけでもなく、特に本日に関しては、その着想がなかなか湧かず、訪れず、多少困った状態であるといえます・・(苦笑)。

こうした状態においてこれまで採ってきた手段とは、書籍からの抜粋引用であるのですが、500記事到達が目前にあるといっても良い現状において、その手段を用いるのも、如何なものであるかと考え、今現在そうした思いを記している次第です・・。

また、こうした自身の意識の状態、流れを記すことにより記事の着想が多少は湧く、訪れ易くはなるのでしょうか・・?

これまでのところ、こうしたことをある程度記していると、何かしらの記事主題に至る着想が自然に(この自然というものが実に曖昧であり、現在のところ、それ(自然およびそのメカニズム・作用機序)を言語化することは難しい)湧く、訪れるのですが、その自然なるものを言語にて記す、語ることを試みることにより、あたかも逃げ水のように、その(着想の)光明が遠ざかっていくものであるのかもしれません・・。

しかし、そうであるとしても、ここで言語による表出を諦めてしまうと、もとの木阿弥であり、逆にそうであるからこそ、ここで踏みとどまり、言語による表出の継続を試みる必要・重要性性があるのではないかと思われます・・。

そして、ここにブログ記事作成の継続のある程度重要なカギがあるのではないでしょうか・・?

もちろん、作成記事の着想を得るとは、何らかの主題、ネタが自身の中に言語化可能な程度に顕現、明示されることであるのですが、あるいはそれと同時に、現在のような着想が思い浮かばない状態においては、そうした意識の状態、流れを記すことによってもまた、さきに述べた着想とは「異なった経路」ではあるものの、結果的には記事の主題を得たのと、ほぼ同様の状態となるのではないかと思われます・・。

とはいえ、そうした状態にて記した文章が果たしてある程度(この概念も曖昧ですが)の同意を得ることが出来るかどうかとは、また別問題ではあるのですが・・(苦笑)。

そうしますと、これはどちらかというと、単に内心の満足を得るための方便であると採ることも出来ますが・・(苦笑)。

しかしながら、そもそも、これまでに作成したブログ記事とは、以前、周囲の方々に勧められはしたものの、その作成および継続とは、全面的に自身の能動性に委ねられたものであり、何らの義務によるものではありません・・。

それ故、今回の手法により作成された記事もまた、それが内心の満足を得るためのものであったとしても、それは本質的には以前の手法により作成されたものと、そう大きな相違はないのではないかとも考えられるのです・・。

そして、ここまで書いていて不図思い出したことは、その脈絡がよく分かりませんが以下のことです・・。

2013年9月に自動車(軽・鹿児島ナンバー)にて鹿児島より帰郷の折、東京に入り305号線・明治通りにて原宿を抜け走行していると、左側に東郷神社が見えたため、速度を少し緩め、神社を向いて軽く会釈をしたところ、後続の外国製SUV車にけたたましくクラクションを鳴らされ、追い抜かれました・・。

その直後、私は何を思ったか、このSUV車を追いかけ、追いつき窓を開け顔を出し、思い切り運転席の方を睨み「コラーッ!」と叫んでおりました・・。

現在考えてみますと、おそろしくバカなことをしたものであり、また、ここにその内容を記すのも(大分)気が引けるのですが、その意味において、当時の私とは、やはり多少おかしかったのではないかと思います・・(苦笑)。
(また、そうであるからといって現在はおかしくないとは言い切れないが・・(苦笑)。)

とはいえ、今現在なお、そうした気持ち自体とは、内心にて持つ限りにおいては、そこまで悪いものではないとも考えますが・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島県周辺にて発生した大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」




2016年11月26日土曜日

20161125 ネガティブ・ケイパビリティ― 消極的能力・消極的受容力について・・

A「本日も若干帰宅が遅くなりました・・。

さて、昨日投稿のブログ記事に関連して思うことはネガティブ・ケイパビリティ―というコトバであり、これは和訳すると消極的能力、消極的受容力といった感じになるものと思われます・・。

そして我が国の通史的な傾向として、多くの史家、研究者等が指摘するものに上に示したコトバとも関連があると思われる「受容性」が挙げられます・・。

この「受容性」については、今更帰納法的に様々な具体的史実・事実を取り上げるまでもないと考えますが、たしかに我が国の持つ通史的な傾向の一つとして、この性質(受容性)が挙げられるものと考えます。

今までの自身のブログ記事においては、どちらかというと、内面からの「能動性」に多くの価値を払ってきたのではないかと思われますが、しかし、その能動性が如何にして、その場その場の現実に適合、噛み合い、駆動させる形で発露されるのであるかと考えてみますと、実はそこに、こうした消極的能力、消極的受容力の価値があるのではないかと考えさせられるのです・・。

そして、その意味において、多くの試練ともいえる苦行的なもの全般の持つ価値があるのではないかと思われます・・。

しかしながら、おそらく我が国においては総じて、そうした試練、苦行的なものに「のみ」価値を払う、認めるようになり、それ(試練、苦行)をさらに締め付けたり、解放したりといった「制御」(人知に関わる)の部分に関しては概ね、その出来具合が不明な個々の精神をも含めて大らかに扱い、あるいは専ら「神の見えざる手」に委ねているのではないかと思われるのです・・。

また、これにに関しては「いじめ」についても本質的には同様な考えが我が国社会の基層に根強く存在するのではないかとも思われます・・(良い悪いは抜きにして)。

そして、そうした古来よりの人間社会をも包括した我が国の自然観、社会観とは、人間と自然を切り離す傾向が強い欧米的な価値観とは本質的いや最終的にはソリが合わないのではないかと思われます・・。

しかしながら、明治から現代に至るまでの我々の近現代史とは、反動的な傾向を持つ時代(それはいつの時代にもあった)もありましたが、それは概ね段階的な社会の欧米化であったのではないかとも思われます・・。

またそれは国内地域においても時代により濃淡があるのではないかと思われます・・。

そして、そうした視座から現代の我が国の社会を眺めて見ますと、なかなか興味深い光景が広がっているのではないかとも思われるのです・・。

また、それはさておき、ここまで記してして、今回のブログ記事投稿により総投稿記事数が490に到達することに気が付きました・・。

そうしますと500記事まで残り10記事ということになりますが、全くそうした感慨もなく、おそらく500記事に到達しても、何かしら書き続けることになるのではないかと思います・・(苦笑)。

そしてそれが私なりの深層からの能動性により惹起せられた消極的能力、消極的受容力といったものではないでしょうか・・(苦笑)。

いや、案外これが大事であるのかもしれない・・(笑)。

何れにせよ、今後も気負うことなく、思ったことを記し続けようと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

さる熊本、山陰東部そして昨今の福島周辺にて発生した大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」






2016年11月25日金曜日

20161124 文章の率直さと、その持続・・循環論法、トートロジー?

本日は帰宅が若干遅くなりました。
また、天候の方も昨日の天気予報通りとなり、首都圏では珍しい11月での降雪となりました・・。
降雪とはいっても、決して嬉しいものではなく、私は概して寒い季節が好きではありません・・。
とはいえ、こうした傾向とは特に昔からという訳でもなく、かつてはむしろ夏の暑さを冬の寒さよりも毛嫌いしていたように記憶しております・・。
しかし、同時にその時期とは、まさしく夏の盛りに屋外にて盛んに運動(部活動)をしていた時期でもあり、むしろ暑さの耐性に関しては当時の方が強かったのではないかとも思われます・・。
こうしたことも考えてみるとなかなか不思議なものです・・(笑)。
また、そのように考えてみますと、現在継続して作成している一連のブログ記事の文章、文体とは、現在に比べ比較的文章がよく浮かんでいたと思われる以前の時期(2012~2013)に比べ、果たして上達しているのであるか?という疑問に結び付いてくるのです・・。
しかし、以前の文章がよく浮かんでいた時期とは同時に、あまりにもその記す内容が率直に過ぎ、その意味において、ある種の賢明さを欠いていたのではないかと思われるのです・・(苦笑)
【もともとそしてまた現在においても賢明さは少ないかもしれないが・・(苦笑)】。

そして、私見ではありますが、そうした(率直過ぎる)文章を記すことが出来る期間とは、あまり持続するものではなく、さらに、それらをSNSなどで公表するという行為は、かなりの危険を伴うものであったとものと思われます・・(苦笑)。

また、その詳細な様相の変化を記すことは現在の私には難しいのですが、これを異言すると、上記のような率直過ぎる文章での発露とは、感覚的には、定量入った水タンクから最大限に開栓した状態にて内部の水を放出するようなものであり、そのことから、持続しないのではなかろうか?と思われるのです・・。

その意味において、これも私見且つ感覚的なハナシではありますが、現在記している一連のブログ記事とは、内容の率直さにおいてはかつて程ではないものの、ある大きな一つの主題に対して、様々な視点から記述を試みているといった感じを受けることが多く、これが時折面白く感じ、また何よりも継続的なブログ記事作成に少なからず寄与しているのではないかと思われるのです・・。
しかし、その一方において否応なく認識することは、自身が記すことの出来る内容、主題の有限性であり、世の中には私がいくら頑張ってみても記すことが出来ない内容・主題の存在です・・。
とはいえ、こうしたことは嘆いてみてもどうにもなりませんので、自身は自身の掘れるだけの範囲を出来るだけ丹念に掘り続ける以外ないものと思われます・・。
そして、そうこうしているうちに、何かしらの機運に恵まれたならば、そこから生じ得る自然な変化らしきものが訪れるのではなかろうかと思われるのです・・。
そのためには、自身が適当な目標として定めた500記事到達までは、このようにブログ記事を作成し続けるほかはないものと考えますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の復興を祈念しております。」


2016年11月24日木曜日

20161123 呉爾羅(ゴジラ)から思ったこと・・生贄・人身御供

A「首都圏および関東地方においては本日夕刻より雨が降り始め、これが明朝にかけては降雪に変化するのではないかとのことです・・。

ここ最近若干この季節にしては温暖と思える日が続いた後、突如こうした天候、気温になるのは、正直あまり嬉しいものではありません・・。

とはいえ、その一方で少し嬉しかったことは昨日投稿したブログ記事が投稿翌日ではあるものの、少なからぬ閲覧者数を得たことです。

興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます・・。

そして、本日はそうした状況に促され、ブログ記事作成をはじめた次第といえます・・(笑)。

さて、以前もブログ記事にて記しましたが、ここ最近映画(DVDを含む)を観る習慣を無くしておりましたが、昨日、何を思ったか、かなり久々に映画作品をDVDにてレンタルして観ました。

その映画は1954年(昭和29年)に公開されたモノクロ版の「ゴジラ」であり、この作品は、以前何処かで観た記憶がありましたが、最近色々と話題になっておりますので、その元祖、原点を観てみようと考えた次第です・・(笑)。

さて、この作品からの所感、感想とは、先ず、出演されている俳優陣(エキストラを含む)の顔、身体の動きが21世紀の現代と随分異なるのではないかということです。

次いで、作中内のセリフの背景に古来よりの我が国の民俗を(強く)感じさせるということです・・。

一番目につきましては、各々作品をご覧頂いて判断されるのが良いと思います。

また、二番目につきましては、具体的には、ゴジラが当初「大戸島」(架空の島、伊豆七島あたりがモデル?)の漁船を沈め、また不漁が続く状況にて村の古老が
「これは古い言い伝えにある呉爾羅(ゴジラ)の仕業に違いない・・」といったところ、島の女性が「また爺様のゴジラがはじまった(笑)」と返し、それに対し古老が「古い言い伝えをバカにしていると、今にお前ら「あまっこ」(女性)を呉爾羅(ゴジラ)の生贄として差し出さなければならなくなるぞ!」と怒気を含んで言い返していたところです・・。

こうしたやりとりとは、現在では(おそらく)あり得ないのでしょうが、おそらく昭和20年代においては(地域によっては)自然なものであったのではないかと思われます・・。

あるいは、それは1933年(昭和8年)のアメリカ映画「キングコング」の舞台設定とも類似する部分があるとも思われますが・・。

何れにせよ、科学知識が発展する以前、さまざまな自然現象の作用機序が分からない状態において超自然的、人知では解決不能と思われる災害現象が発生した場合、広く我々人類とは、その現象を支配する存在を何かしら見立て、それに対し様々な種類の祈願・祈祷を試み問題解決を図ってきたようです・・。

そして、その中の一つが人身御供つまり生贄です・・。

以前、私はそうした祈願・祈祷の一つである「雨乞い」について調べたことがありましたが、そこでもこうした種類のハナシには少なからず出くわしました・・。

とはいえ「雨乞い」において何かしらの生贄を捧げる場合とは、概ね一地域にて数段階に種別される「雨乞い」手段・方法の中でも、最終段階近くにて用いられる、いわばとっておきの手段・手法であることが多かったです。

そして、そうした意味からも、この映画内状況(大戸島の漁村)での呉爾羅(ゴジラ)による被害の大きさが示されるのではないかと考えられます・・。

また一方、私は今年公開された「シン・ゴジラ」は観ておりませんが、作中にこうした民俗あるいは土俗性と結び付ける要素は見受けることは出来ないと考えております・・。

とはいえ、そうした要素とは作中に描かなくとも困ることはありません。

しかし、そこで危惧されることは、かつて我々もまた、こうした祈願・祈祷の手段・手法を採っていたことを忘れてしまうことにより、今後、未知の災害現象が発生した場合、(忘れてしまっているので)再び無意識的な歴史での記憶に則り、現代では常識から考えて無意味ともいえる生贄・人身御供を捧げるような始末になるのではないかということです・・。

時折、我々にはそうした傾向が強くあるのではないかと思うことがあります・・。

それ故、さきに記したゴジラ作中内、大戸島の古老の怒気を含んだコトバに関心を持った次第でもあります・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部での大地震および昨今の福島周辺における地震にて被災された地域の早期の復旧そして復興を祈念しております。」








2016年11月22日火曜日

20161122 本日発生した地震から思ったこと・・「歴史の価値」とは・・

本日早朝に福島周辺を中心として再度、大規模な地震が発生したとのことでした・・。今年に入り熊本、山陰東部、そして今回の福島周辺と、大規模な地震が幾度か発生しておりますが、これで打ち止めとなって欲しいものです・・。

そして上記一連の大地震にて被災された地域の早期の復旧およびその後の復興を祈念します。

また、それと多少関連するかもしれませんが、そこから思い起こされたことは、昭和18年(1943年)から4年連続(鳥取、三河、南海×2)にて発生した一連の大地震のことです・・。

これら大地震とは、我が国において、ある程度周期的に発生しているとのことですが、今回の一連の大地震に加え2011年3月11日に発生した東日本大震災とは、さきに記した昭和18年からの一連の大地震と周期的に何かしら関連があるものか分かりませんが、何れにしても、現在の情勢とは、これら地震以外においても不安感を惹起・助長する要素が散見されるものと考えます・・。

また、そのように考えてみますと、どうもその「周期」というものに対し興味をおぼえるのです・・。

私はこれまで記したブログ記事にて歴史上の出来事を記す際「こうした出来事とは周期的に生じているのではないか?」と幾度か述べてきましたが、これは特に理系学問分野で使われる厳密な意味での「周期」といったものではなく、どちらかというと、記した内容理解促進のための便宜的な語の選択であり、一方、歴史とは、その本質において「周期」(循環して生じる現象の繰り返し)ではなく、あるいは歴史学とは、繰り返し反復されない出来事、現象を科学的に取り扱う学問であるともいえます・・。

また、それに加え思うことは、たとえ歴史が周期的にある出来事、現象が循環して生じるものであったとしても、それを我々が認識、概念化(内面化)することにより、それ(広く概念化・内面化された歴史)が予防接種、ワクチンの様な役割を果たし、未来に生じる出来事、現象を改変(良くも悪くも)することが出来ているのではないかということです・・。

そして「学問」としての、いや「認識される歴史」の一つの大きな価値とは、そうしたところに存するのではなかろうかと思われます・・。

故に歴史を軽く扱うことは避けた方が良いと考えるのです・・。

とはいえ、その一方において、これら認識される「歴史の価値」とは、世界的に見て「地域性」らしきものがあり、我が国のように四季がある程度明瞭に巡り(循環し)、また大地震が周期的に生じるような自然風土の環境においては、自然環境からの影響による周期的な循環を打破・分解するような概念・内面化された歴史観は成立し難く、むしろ、そうした自然環境に慣れることにより、ある意味、逆転した意味にて、そうした自然環境を馴致したという認識を得るに至るのではないかと思われます・・。

そして、こうした考えが以前ブログ記事にて記した和辻哲郎著「風土」における我が国をも包括する「モンスーン型文化風土」であり、また同時に、それはベン図において、大きな重複領域を中尾佐助の生活文化分類における「照葉樹林文化」と共有するのではないかとも思われます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


そして、繰り返すようではありますが、これまでに生じた大地震(熊本・山陰東部・福島)により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。