2024年2月14日水曜日

20240213 株式会社岩波書店刊 富永茂樹著「トクヴィル:現代へのまなざし」pp.2‐5より抜粋

株式会社岩波書店刊 富永茂樹著「トクヴィル:現代へのまなざし」pp.2‐5より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 400431268X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4004312680

 アレクシス・ド・トクヴィルには彼の姿を描くいくつかの絵画作品が残っています。そのなかでアンドレ・ジャルダンの手になる伝記をはじめとして、彼をめぐる書物の表紙のデザインにしばしば用いられていて、もっともよく見かけるのはテオドール・シャセリオーの描いた油彩の肖像でしょうか。本書の冒頭をごらんください。これは一八五〇年つまりトクヴィルの亡くなる九年前に制作されたもので、現在ヴェルサイユの美術館に所蔵されています。その次に知られているのは、レオン・ノエルの手になる石版画でしょう。 

 そのいずれも私は現物を見たことはないのですが、この二点を並べると、トクヴィルが後者ではどちらかというと凡庸な顔つきを示しているようであるのにたいして、前者では四〇歳代の半ばに達しているとは思えないほどの若わかしい表情とともに、とりわけ彼の眼の輝きが見る者の注意を惹き、そのまなざしがどこに向けられているのかたいへん気になるところです。画家を、あるいは作品に対峙する者を正面から見据えているようでありながら、本人からして心もち左のほうを向いているとも思えるトクヴィルの視線は、遠く世界の果てにまで到達しているのではないかとさえ考えたくなってきます。

 二〇世紀の終わりから二一世紀のはじめにかけて刊行されたガリマール社のプレイヤード版の著作集では、その第二巻にノエル、第三巻にはシャセリオーの肖像の一部分が使用されていますが、第一巻にはまだ幼児の頃のトクヴィルの顔が現れます。全体としてはまだあどけない表情を残しているけれども、その眼もまた独特の光を放っているようで、この顔つきを眺めていると、彼のまなざしは終生とおして変わることがなかったのではないかという印象が強まります。

 あるいはこの眼の光り具合は、彼が近視であったかもしれないことを想像させます。「政治的に不適切な」いいかたかもしれませんが、近視のかたの眼はふつうの人間のそれよりもずっと美しい。これら三点の肖像に加えてもう一つ、あの風刺画家のオノレ・ドーミエが「政治家さまざま」と題した石版画シリーズのなかでトクヴィルを採りあげています(第四章の扉に出てきます)。

 そこには小さな鼻眼鏡を手にした姿があり、「彼がいつも手にしているこの眼鏡のお蔭で外交問題を明晰に見ることができますように」という文言が添えられているのが大変興味深い。この眼鏡は近視のためのものだったのでしょうか。それともひょっとすると老眼鏡なのでしょうか。

「外交問題」とあることからもわかりますが、これはトクヴィルが一八四九年に外務大臣となった頃の作品です。つまりこのとき彼は四四歳になっています。その年齢で老眼は少し早すると思われるかもしれませんが、同じく四四歳で老眼鏡をかけることになった私には、そちらの可能性も否定はできません。そして早くから老眼鏡を必要とする者には、その以前から遠くにあるものがよく見えていたこともわかります。

 ただし私のようにふつうの者であるなら、その「遠く」というのは物理的な距離にとどまります。ところがトクヴィルの場合は、視線が一方では大西洋の向こう側にまでとどいて、まだ見ぬ世界へと出発する決心をさせ、他方では自身が生れる以前に崩壊し消滅してしまっている、アンシャン・レジームつまりフランス革命の以前の社会の解剖へとも導きます。空間的ばかりではなく時間的な隔たりをも乗り越えて、なにごとかを見つめるまなざしなのです。

 トクヴィルの眼の光はさらに、ある種の悲哀と諦念を帯びているようにも思えます。石版画の彼の表情を凡庸と形容してしまいましたが、しかしここからも社会にたいする無関心あるいは距離を感じることができないわけではない。いや、同時代のアメリカ社会とアンシャン・レジームのフランスの社会を詳細に記述し分析した彼が、社会についてただ無関心であったはずはけっしてなく、なにか思案げにいささか左のほうへ流れているのです。

 この視線の流れが、主著の「アメリカのデモクラシー」(以下「デモクラシー」と記します)や「アンシャン・レジームとフランス革命」(同じく「アンシャン・レジーム」と記します)の文体などから受け取ることのできる、どこか人間と社会の深い部分を見てしまったトクヴィルの悲しみに近い感情を思い出させてしまいます。自身もふくめて「デモクラシー」と彼が名づける社会を生きる人間についての洞察力についてもいうなら、彼のまなざしの向かう「遠さ」には「深さ」も加えるべきなのかもしれません。

2024年2月12日月曜日

20240212 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」 pp.82-85より抜粋

中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」
pp.82-85より抜粋
ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

茶と同時に、中国から磁器が輸入された。イギリス東インド会社の研究で知られるロンドン大学のチョウドリ博士はつぎのようにのべている。「十七、八世紀における中国磁器の輸入は、ヨーロッパにおけるティ、コーヒー、チョコレートの消費と関連して出現してきた新しい社会習慣の、文化的美的側面を代表している。・・・中国陶磁器は藁で包むと、臭いがせず、したがってティといっしょに選ぶには、理想的な補助的貨物であった。磁器をつめ込んだ茶の包装箱は、ひどく重量があり、船に必要なバラストとして積み込まれたのである」

 中国磁器の名は、すでに十四、五世紀に、ヨーロッパ諸国の諸王族の調度控えなどに現れていたといわれるが、十六世紀以降、西欧諸国の東アジア進出につれて、中国磁器のヨーロッパへ輸出されるものが、ようやく莫大な数にのぼっていった。十七世紀中頃から十八世紀中頃にいたる時代は磁器輸入のピークをなし、当時のヨーロッパにおける中国磁器の流行はすさまじく、中国磁器ブームにのって、日本からも有田の染付や柿右衛門の赤絵がオランダの手をへて大量にヨーロッパへ輸出された。

 中国の磁器生産の中心はいうまでもなく景徳鎮で、そこの窯からつくり出された芸術の香り高い名品が、「世界各地に伝播して異常なる賞賛を博し」つつあった。(ダントルコール、小林市郎訳注「中国陶瓷見聞録」東洋文庫)。ティやチョコレートの舶来飲料を飲むものは、高価な芸術品であった中国製のティ・ポットや茶碗などを使うのが当時のナウな風俗であった。ヨーロッパは食事文化のみならず、磁器文化においても、中国や日本の前に頭を下げざるをえなかったのである。

 中国磁器は、はじめバンタムで中国船から買ったものがオランダをへてヨーロッパへ輸入されたものが多かったが、イギリス東インド会社は一七一七年以後、広東をつうじて盛んに磁器買付けを行った。イギリスは、たとえば把手のついたチョコレート茶碗、うけ皿と組みになった紅茶茶碗、ティ・ポット、ミルク入れ、砂糖入れといったものを特別に注文して作らせた。また多くの皿には日本風の飾り絵をデザインするように注文した。

 こうしたヨーロッパ人の東洋文化への傾倒はふつう東洋趣味として片づけられているが、たんなる美術史上の東洋趣味という以上の重要な意味をもっていたのである。というのは、東洋趣味はオランダ、フランス、イギリスなど十七世紀から十八世紀はじめにかけてのヨーロッパ諸国に広くみられたけれども、そのなかで茶を選択したのはイギリスであった。茶とほぼ同時に入ってきたコーヒーにはアラビア文化の背景があったにしても、十七世紀のヨーロッパ人にとって、コーヒーはもはや神秘的な飲み物ではなかった。またチョコレートについては、ヨーロッパ人の優越感をかき立てるものでこそあれ、その文化的背景は問題にしなくてよかった。ところが、東洋文化のシンボルであった茶はコーヒーやチョコレートに比べると、はるかに高いランクを占めていたばかりか、西洋人に強いコンプレックスを抱かせるものであった。とくにコーヒーにおいてオランダに敗れたイギリスが、風土的条件に適していたこともあって茶を選択しなければならなかったことが、中国へのコンプレックスとなり、それがインパクトとなって逆に文化的・経済的・政治的シンボルへとイギリスをかき立てることになる。このようにしてイギリス近代史が形成されてゆく。

2024年2月11日日曜日

20240211 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 山上正太郎著「第一次世界大戦」 pp.18-20より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 山上正太郎著「第一次世界大戦」
pp.18-20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4062919761
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062919760

 オーストリアとセルビアのバルカン半島をめぐる勢力争いは、二〇世紀初頭にさかのぼる。元来、オスマン・トルコ帝国領であったボスニア地方自治体が、トルコの弱体化に乗じて、一九〇八年、この地に対するセルビアの野心を押さえて、オーストリアによって併合されたものである。同じくセルビアが抱くアルバニアからアドリア海進出の野心は、一九一三年、同じくオーストリアによって阻止された。

 当時、スラヴ民族の国であるセルビアには大セルビア主義と称して、バルカンにおいて自国を強国たらしめようとする民族主義が高揚していた。ところがオーストリアにはスラヴをはじめ、多様な民族が同居している。隣国セルビアからの民族運動の高まりは、国内の諸民族を刺激して統治を乱すものであった。セルビア側からすれな。オーストリア帝国の専制政治による民族主義の弾圧である。フランツ・フェルディナンドはこのオーストリア専制主義のいわば象徴として、暗殺の対象となった。

 ところでスラヴ民族主義のもとに勢力拡大をはかるロシア帝国が連想されよう。当然、ロシアはセルビアを支持していたが、それはロシア自体の勢力をバルカン方面に伸張させるためである。前述のように一九〇八年と一三年、二度にわたってセルビアがオーストリアに屈したとき、前者を援助できなかった無力さは、ロシアの国威を傷つけずにはすまなかった。いま、またもセルビアを見棄てるならば、さらに威信の失墜であるともに、ロシアの南進にとっても打撃である。ここでオーストリアのセルビアに対する強硬措置から戦争が起こり、そしてオーストリアが勝利を得れば、バルカンの勢力分布は変動して、ロシアに不利となるであろう。ロシア帝国主義にとって南進、すなわちバルカンからトルコのボスポラス、ダーダネルス両海峡への進出は命運を賭するものであった。

 オーストリアを支持し、年来、軍事同盟をさえ結んでいた国はドイツ帝国である。ドイツはあの汎ゲルマン主義によって、東ヨーロッパからバルカン、そしてトルコ、西アジアをめざしていた。それはドイツ帝国主義の東方への野望であり、やがてヒトラーの侵略主義に組みこまれるものである。このドイツとオーストリアとの軍事同盟の一つ、いわゆる三国同盟(一八八二年成立)にはイタリア王国が属していた。しかしイタリアの動向には信がおけず、それだけにドイツ、オーストリアはゲルマン民族主義のもと、同盟国として緊密な関係を保たねばならなかった。

 ドイツに依存しているオーストリアは、セルビアに強硬措置を決意したとき、この同盟国ドイツの全面的支持を求めた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、首相ベートマン=ホルヴォークはためらいもなく支持を約したのみならず、機を逃さず、強硬手段に訴えることを促すほどの積極性を示した。さらにウィーン駐在のドイツ大使は、連日のようにオーストリア外務省に出向き、セルビアに強硬手段をとるように圧力をかけた。

 ドイツはオーストリア対セルビアの戦いが局地戦にとどまるにこしたことはないが、セルビア側にロシア、さらにフランスが加わったとしても、二、三年先はともかく、いまならば軍事力で成算ありと自負していた。ロシア、フランスとの戦いが不可避であれば、両国の軍備が整う前に、という予防戦争の気配もあった。

 一九世紀末以来、独墺伊三国同盟と対立していたのがロシア、フランス共和国の露仏同盟(一八九四年成立)である。一八七一年、プロシアを中心としてドイツ帝国を成立させるべきいわゆるドイツ統一戦争のとき、このプロシアはその統一のため、フランスに戦勝する必要があり、これを果たした「復讐」を期しているであろうフランスを孤立化させておきたい統一後のドイツ外向は、いまや露仏接近のために破綻したといえよう。こうして独墺の連合勢力とこれに対する露仏の軍事同盟によって、ヨーロッパ大陸の列強は二分されることとなった。

 そして「光栄ある孤立」を誇っていた植民地帝国イギリスも、諸国との競合が高まるうちに外交政策の変更を迫られたのである。

2024年2月10日土曜日

20240210 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.223-224より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.223-224より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 ナポレオンの没落から半世紀あまりのあいだに形成された国際関係には、独特な性格がある。そこには一時的なものもあったが、その反面、いつまでも尾をひいて現代の特徴をつくっているものもある。 

 その第一は、世界経済の統合が進み、(一八四〇年代以降は)とりわけ顕著になってきたことである。世界経済が相互にからみあって、いっそう多くの地域が大洋の両側をつないで両大陸にまたがる貿易と金融のネットワークのなかに組み込まれていく。このネットワークの中心は西ヨーロッパであり、とくに大英帝国だった。イギリスが経済の覇権を握ったこの時代は、同時に輸送と通信手段が大きく改善され、多くの産業技術が地域かた地域へとすみやかに伝わっていって、製造業の生産高が急激に増大し、その刺戟を受けて農業や原材料部門でも新たな分野の開拓が進んだ時期である。関税障壁が崩されて、重商主義政策が展開され、自由貿易と国際協調という理想が広く受け入れられて、新しい国際秩序が生まれ、世界では大国が抗争を繰り返した十八世紀とはまったく様相が一変したかに見えた。このころには、一七九三年から一八一五年までの戦いー十九世紀には「大戦」と呼ばれたーによる混乱と疲弊にこりて、保守主義者も自由主義者もともにできるだけ平和と安定を求めるべきだと考え、ヨーロッパの協調や自由貿易など、さまざまな手段が編み出された。当然、商業および産業への長期的な投資が伸び、世界経済の成長が促進されることになる。

 この時代にみられる第二の特徴は、長期にわたる大国間の戦闘がなかったといっても、国家間の利害の衝突がすべて解消されたわけではなかったことである。とにかく、ヨーロッパと北アメリカは未開発地域をめぐって激しい征服戦争を繰り広げていたし、海外への経済進出には多くの場合軍事行動がともない、非ヨーロッパ社会が世界の生産高に占める割合は急激に減少する。さらに、ヨーロッパの列強のあいだの地域紛争や散発的な衝突も起こったし、とくに領土の帰属や国境の決定をめぐっての争いは多かった。しかし、これからみるように、一八五九年のフランスとオーストリアの戦いや一八六〇年代のドイツ統一戦争のような公然たる敵対行動は期間も地域も限られていたし、クリミア戦争でさえとても大戦争とはいえなかった。ただし、アメリカの南北戦争だけは例外で、これについてはのちほど検討する。

 第三に、産業革命に端を発するテクノロジーの進展が、陸海の軍事技術にも影響をおよぼしはじめていた。だが、この変化はこれまでにいわれてきたよりもずっとゆっくりしたもので、十九世紀後半になってやっと鉄道や電信、速射砲、蒸気エンジンの利用、装甲艦などが戦力の決定的な指標になる。新しい技術の導入によって、大国は火力でも機動性でも主導権を握り、海外でもわがもの顔にふるまうのだが、陸海の軍隊の指揮官がヨーロッパの戦いの概念を見直すようになるのはそれから何十年も先のことである。とはいえ、技術の変化と産業の発展の二つが原動力となって、陸でも海でもさまざまな影響をおよぼし、やがては大国の力関係にも変化が生じてくる。

2024年2月8日木曜日

20240208 東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.85-87より抜粋

東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.85-87より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488010512
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488010515

 ちょうど一八四八年という、驚異の年を迎えていた。学生はひとりのこらず、教皇座に就いたマスタイ・フェレッティ枢機卿に熱狂していた。彼は二年前に教皇ピウス九世となり政治犯に恩赦を与えていた。この年初め、ミラノで最初の反オーストリア暴動が発生し、帝国政府の国庫を苦しめるためにミラノ市民は禁煙を始めた。(薫り高い葉巻の煙を挑発的に吹きかけてくる兵士と警察官の前で断固として抵抗していたミラノの学生は、私たちトリノの学生の目に英雄のように映った)。その同じ月に両シチリア王国で革命騒動が勃発し、フェルディナンド二世は憲法を約束した。しかし二月にパリで民衆蜂起によってルイ・フィリップが退位して(ふたたび、そして決定的に)共和国が宣言されー政治犯に対する死刑と奴隷制が廃止され、普通選挙が制定されたー三月には教皇は憲法だけでなく出版の自由も保証し。ゲットーのユダヤ人を多くの屈辱的な規則と奴隷状態から自由にした。そして同じ時期にトスカーナ大公も憲法を保証し、国王カルロ・アルベルトはサルディーニヤ王国に憲法を公布した。そしてウィーン、ボヘミア、ハンガリーで革命運動が起こり、ミラノの五日間蜂起によってオーストリア人は追い出され、解放されたミラノをピエモンテに併合するためにピエモンテ軍が戦いはじめた。共産主義者の宣言が出されたという噂さえ学生仲間のあいだで流れた。そのことには学生だけでなく工員や貧困層も熱狂し、最後の国王のはわらわたで最後の司祭を絞首刑にすることになると誰もが信じていた。

 すべてがよい知らせであったわけではない。カルロ・アルベルトは敗戦を重ねていて、ミラノの住民、そして一般的に愛国者全員から裏切り者とみなされた。ピウス九世は大臣が殺害されたことに怯えて、両シチリア王の領地であるガエタに避難した。身を隠して攻撃する教皇が当初思われたほど自由主義者ではないことが判明し、認められた憲法の多くは取りさげられた。しかしそのあいだに、ローマにはガリバルディとマッツィーニに率いられた愛国者が到着していて、翌年初めにローマ共和国が宣言された。

 父は三月には家にはまったく姿を見せなくなり、乳母のテレーザは、きっとミラノ蜂起に加わったのでしょうと言っていた。しかし十二月頃、家に出入りするイエズス会士のひとりが、ローマ共和国の防衛に駆けつけたマッツィーニ派に父が参加していたという知らせを受け取った。祖父は気落ちして、驚異の年が恐怖の年に変わるような恐ろしい予言を私に浴びせかけた。たしかにその頃、ピエモンテ政府はイエズス会の財産を没収して組織を攻撃し、その周囲を徹底的に破壊するためのサン・カルロ会やマリア・サンティッシマ会、レデンプトール会といったイエズス会を支持する修道会まで弾圧するようになった。

 「これは反キリストの到来だ」と祖父は嘆き、当然、あらゆる出来事をユダヤ人の陰謀だとみなして、モルデカイの陰惨な予言が実現するのを見ていた。

2024年2月7日水曜日

20240206 昨日久しぶりに自らの文章を作成して思ったこと

本日の首都圏は昨日の降雪の影響もあってか、これまでよりも一段と寒く感じられ、また場所によっては残雪により足元が悪く移動に少し難儀しました。また他方で、当ブログの方は、おそらく、さきの積雪とは関係ありませんが、久々に自らの文章によるブログ記事を作成・投稿しました。

この昨日の記事題材は、今後何回かにわたる予定であり、続きの記事の重要な部分については、断片的ではありますが、過日の訪問直後に作成しました。そして本日も、この「訪問記」の続きを作成しようと考えていましたが、以前の独白形式のブログ記事作成の感覚を取り戻そうと、考えをあらためて、さきほどから当ブログ記事を作成しています。

ここ最近は主として書籍からの引用記事を作成・投稿してきましたが、引用記事については、まだ題材のストックがあり、またそれは日課とも云える短時間での数冊の斜め読みなどによって、不定期ながらも、さらに随時蓄積されています。

しかしながら一方で、さきの経緯で引用記事の候補となった著作の記述を後日あらためて少し身を入れて読んでみますと「そこまで適当ではないかもしれない・・」と感じ方、考えがあらたまることも少なからずありますので、こうしたいわば観念的な採掘作業は継続する必要性があるように思われます・・。

さて、書籍に関しては、昨年末に購入して読み進めている白水社刊オーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上巻は、ようやく終りが見えてきました。そして次に下巻の購入が望まれるところですが、これは今月中旬を目安したいと考えています。ともあれ、これまで私はクリミア戦争について断片的な知識しか持っていませんでしたが、今回の多少難儀している読書により、以前よりも若干、その様相が分かるようになってきた感じがあり、さらに著作内にある19世紀当時の社会についてのさまざまな記述から、21世紀現在の未だ混乱がおさまらない東欧・中東地域での様相とも相通じる、通底すると思われるものが少なからず見受けられました。

しかし、当著作に関しては、文庫本のように比較的気軽に犬耳をしたり朱線を入れることに対して抵抗感があり、後日、興味深い記述を引用記として作成する際に少し難儀するのではないかと予感させられます・・。また他方で、その折には頁を開きしばし斜め読みをしていると、読み進めていた時の感覚が想起されてきて、そして次第に、そうした記述の場所も思い出されてくるのではないかと幾分楽観的に構えている側面もまたあります・・。

これは後日検証してみると面白いかもしれません。

そして、そのように考えてみますと、これまで一連の当ブログは自らの読書経験と継続している読書により成立しているとものと云え、これがなければ、おそらく、継続的に自分なりの文章を作成することは出来なかったと云えます。それ故、私は外出の際に、いつも何かしらの書籍を持ち歩いているのだとも云えますが、しかし、その淵源は既に小学生の頃からであり、またその当時から電車通学の期間が長く続いたことから、その癖はさらに固定化されていったのだと思われます。くわえて、幼稚園から小・中学校の頃は近辺に神田神保町の古書店街があったことも、そうした癖の助長や固定化に有意に寄与しているのではないかと思われます・・。自らの年齢、世代が変っても、その都度、興味深いと感じ、読み進めることが可能な書籍を見つけることが出来ることは、悪くはないように思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2024年2月5日月曜日

20240205 令和・歯科医院訪問記①訪問に至るまでの経緯

昨年の初夏、突然、下顎の左側の小臼歯のあたりが痛くなり、当初は我慢していましたが、それも出来なくなり、以前から訪問の機会があった都内東部の歯科医院に問い合わせたところ、すぐに診察して頂けることになりました。

待合室からチェアに通されてエプロンをつけ、うがいをして待っていると、担当の歯科医師がやってきました。こちらの先生は、これまで何度かお話したこともある中堅どころの先生であり専門領域は口腔外科であるとお聞きしていました。

早速、診療がはじまり一通り診察してからレントゲンやCTの撮影を行い、あらためてチェアに戻ると、すぐに先生が戻って来て、今しがた撮影されたモニターの画像を見つつ症状の説明をはじめました。

それによると「この痛くなっている歯は、長年にわたる食いしばりの癖により、過剰な咬合圧がかかり、そのために歯全体に亀裂が入ってしまい、その割れ目から色々なものが歯の中に浸透し、それが歯髄の方にまで達して奥の方で炎症を起こし膿が溜まっている。」とのことでした。

こうした症状は「歯根破折による根尖性歯周炎からの歯根膿疱」といわれるものであり、特段珍しくはない症例とのことでした。

ともあれ、その治療法としては、まず歯の神経がある場合はそれを取り去り、次に根の方に溜まった膿を排出して、そこを清潔にしてから薬剤を詰め、再度炎症が生じないように処置を行い密閉して、そこから膿疱を起こした歯の処置を行うといった流れになりますが、こうした歯根破折(割れてしまった歯)の場合、一般的には、その歯はもう使い続けることは出来ないため、抜歯して、その欠損部に部分床義歯やインプラントなどによる補綴治療を行います。

しかしながら、こちらの先生によると「私は口腔外科が専門であり、これまで既に数多く治療してきているのですが、この割れてしまった歯を一旦抜歯して、その割れた部分を接着して使える状態にして、あらためて欠損部にその接着した歯を植えなおすことも可能ではあるのですが・・。」とのことでした。

この治療法は「破折歯の接着治療」と称されるものであり、以前に少し聞いたことはありましたが、実際に自分がそれを受ける可能性があるとまでは考えたことがなかったため、少し躊躇していましたが、先生の様子を見ていますと、至って平静であり、そこから「先生、割れてしまった歯を一旦抜いて、接着剤を用いて接着してから、また植え戻すということは本当に出来るのですか・・?」と尋ねると、これまた至って平静な様子で「ええ、まあ割れ目の走行の入り方などにもよりますが、これも見た感じでは、そこまで複雑に割れ目が入っていなかったようですので、おそらく大丈夫であると思います。」とのことで、出来るだけ自分の歯を生かして使いたい私としては、他の補綴方法よりも優先して、この「破折歯の接着治療」を受けることにしました。

ちなみにこちらの先生は、御実家は山梨県山梨市にあり、そこから首都圏の某老舗歯科大学に進学そして卒業されてから、沖縄にある大学病院にて臨床研修医を経て、同大学病院の歯科口腔外科に医員として6年間ほど勤務されてから、御実家の山梨市の歯科医院に戻り、そして週1日は、さきの都内東部の歯科医院にて勤務医をされているとのことでした。

山梨から東京の歯科大学へ、そして卒業後は沖縄に渡るといった背景には一体何があるのかと興味を抱き、治療に入る前のちょっとした雑談などから話が進展して、やがて私が山梨市の医院を訪問させて頂く運びとなりました。それが決まったのが昨年の暮れであり、そして訪問の日程は翌、本年の1月下旬に決まりました。

私としても、こうした取り組みは初めてであり、どのような要領で進めて良いのかよく分からないものの、とりあえず始めた次第です。また近日中に続編を作成予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

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電話番号:047-334-0030 

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