2023年6月12日月曜日
20230612 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.10-12より抜粋
ISBN-10 : 4480084886
ISBN-13 : 978-4480084880
日本の18世紀において絶えず進んだ過程は、学校教育の普及である。幕府は教育を奨励し地方政府もその経営する学校(藩校)を新設した。この傾向は、ことに18世紀後半に著しい(創立年代のあきらかな278校のうち、18世紀中葉以前の創立は、40校にすぎず、18世紀後半の創立は80校に及ぶ。すなわち18世紀後半の50年間は、それ以前の150年間の2倍に相当する速さで、藩校を新設したということになる。笠井助治「近世藩校に於ける学統学派の研究」上、吉川弘文館、1969、72頁、参照)。藩校は武士の子弟の教育を目的とし、その教育の内容は次第に実用的なものになろうとしていた。
ただし地方政府も有能な官僚の必要を自覚しはじめたからであろう。その結果、後述するように、武士知識層に専門分化の傾向を生じたのである。他方幕府は、武家ばかりでなく、一般町人にも官立学校の一部を開放し(昌平坂学問所の一般人向け講座開設、1718)、町人のための私塾を援助して、官立に準じるものとした(江戸の会輔堂、1723、大阪の懐徳堂、1725)。また京都の町人を対象として開かれたいわゆる「心学」の塾(1729)は、18世紀後半に至ると多数の人を集めて、全国的な支部をもつようになった。「寺子屋」の初等教育を除いて、武家・僧侶による教育の独占は、18世紀に破られたのである。もしこの世紀を町人の時代と称び得るとすれば、その背景は、上層・中層の町人(および)一部の農家)にとって、高等教育が手のとどくものになったということにほかならない。町家出身の学者は輩出したばかりでなく、その思想の独創性において、武家出身の知識人を圧倒するようになった。
この時代を通じて絶えず繰り返された現象は、農民大衆の蜂起である。18世紀を通じて、「一揆」・「とりこわし」の有名なものだけでも35件以上、「強訴」・「越訴」の類を加えると、70件に及ぶ。動員された農民は、しばしば数千人、稀には数カ国にわたって数十万人の参加したことさえある(たとえば「伝馬騒動」、1764年12月~65年1月、には、武蔵・上野・下野・信濃の中山道沿いの村民、20万人以上が加ったといわれる)。原因は多くの場合に、飢餓と絡んで年貢米や米の買溜めに係っていた。その背景には、商品経済の発達と全国市場における米価の著しい動揺があり(幕府は米価が下落すると、商家に米を買支えさせ、価格が上がると、買溜めの商家を罰し、数年毎にそれを繰り返していた)、また年貢米に依存する武家の財政難とそれに伴う取立ての強化があったろうと察せられる(徳川時代に幕府が繰返した「改革」は、いずれも「倹約」を主要な「プログラム」の一つとしていた。また徂徠の「政談」以来、儒者の献策として今なお残るもののなかに、中央または地方政府の財政難の対策を説かぬものは少ない)。一揆の結果は、支配者側が農民の要求(年貢米の軽減、代官の交替など)を容れた場合にも、容れなかった場合にも、武力弾圧と農民指導者の処刑であった。徳川時代の全体を通じて知られている百姓一揆は、3000件に近いというが(2967件、年平均10.6件、青木虹二「百姓一揆の年次的研究」)、そのいずれも武家独裁の体制の変革をもとめたのではなく、その体制を前提として局地的な政策をもとめていたということは、この国の事情の中国や欧州とのちがいを示している。太平天国の乱や農民戦争はおこらなかった。しかし一揆とは性質のちがう大衆運動に、18世紀以後数度繰返された「おかげ参り」(または「抜け参り」)もある。町家および農家の妻女子弟や下男下女などが、夫や親にも告げず、領主の「往来手形」も持たず、しばしば旅費さえも調えずに、集団的に伊勢神宮の旅へ出かけた現象である。その数およそ数百万(1705年と1771年の「おかげ参り」では、2・300万とされ、1830年には、500万人ほどが参加したといわれる)。ここにも抑圧された大衆感情の発作的な表現があった。
2023年6月11日日曜日
20230611 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.242-244より抜粋
pp.242-244より抜粋
ISBN-10 : 4309231144
ISBN-13 : 978-4309231143
対馬の島影は、古代からこの海を渡った人々にとって、きわめて印象的だったにちがいない。「万葉集」巻一に入唐使節団を送る春日蔵首老の歌が一首のっている。
ありねよし対馬の渡りわた中に幣とり向けて早かへり来ね
「ありねよし」は対馬の枕言葉とされているが、これは海上から対馬に近づく人々の実感をきわめてよくあらわした言葉である。海上十里くらいのところから見た全島の姿(もっとも、上島の方は霞んで見えないのが普通だろう)の中心をなしているのが「有嶺よし」と歌われた有明嶽(558メートル)である。その左手にやや遠く対馬第一の高峰矢立山(649メートル)がそびえているが、これは島の左手に偏っており、稜線が有明ほどに流麗ではないので、船人の眼にひきつけるポイントになりにくい。対馬の国府厳原は、ちょうどこの有明の真下にいだかれている。
船は、壱岐の勝本に20分ばかり寄港したのち、針路をやや北に向けて、いよいよ厳原に向かって直行する。かつて、バルチック艦隊が二列縦陣を作って北上した東水道である。壱岐海峡では明るいブルーに輝いていた海流が、ここではほとんど黒く見えるほどの紺色にかわる。
後方には壱岐の島影がしだいに霞みはじめたのに、行手の対馬の島影はなお模糊として遠いというあたりでは、「夫木和歌抄」にあるという古歌の心がそのままに現代人にも了解されるであろう。
漕出る対馬の渡り程遠み跡こそかすめゆき(壱岐)の島松
たしかにこの海上では、古代の人々の心がまざまざと想像される。先史時代から日本と大陸とを結ぶ海上交通の要路に当たっていたために、「百船の泊つる」津の島と万葉にも歌われたこの島への道を、古来、幾千幾万の人々が渡って行ったかもしれない。三世紀に書かれた「魏志倭人伝」に、この島に夷守とよばれる国防官庁の支所がおかれていたことが記されているが、その後の遣外使節団の人々も、兵団の将兵たちも、多くはこの海を渡って対馬に着き、浅茅湾の船待ちして、やがて外洋へと船出して行ったのである。
こうした海上の往来の途上、おそらくは幾つもの大事件がもち上がったはずである。そしてそれらの事件の記憶は、幾つもの神話や伝説にその姿を変え、それらはさらに複雑に習合しあって、今もこの「神々の島」とよばれる対馬各地の津々浦々にあるおびただしい神社の縁起として伝えられている。また、そのあるものは、歌に詠まれ、たまたま歌集に収められることによって、今もなお私たちの想像力に強い刺激を与えることになった。「万葉集」巻十六に収められた「筑前国志賀白水郎歌十首」なども、海上に起こった無数の人間の冒険や悲劇のほんの一端を示すものにほかなるまい。
大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る
荒雄らは妻子のなりをば潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも
万葉の註記によれば、神亀年間(724-728、聖武天皇の代)大和朝廷が朝鮮半島に対する国防前線として、また兵站基地として重視していた対馬に、糧食を送る官吏の役目を自らすすんで代行した志賀島の海人荒雄の遭難を悼んで作られた歌である。作者は筑前国守山上憶良とも伝えられているが、こうした海上の悲劇の実感は、現実にこの海を渡るとき、いっそう生々しくよみがえってくる。最後の歌など、この海の澄みきった海中をのぞくとき、むしろ悲痛な凄味をさえ感じさせるであろう。
ともかく、現在考古学的に確認されているところでは、対馬にはおよそ四千年前から人々が住んでいたといわれる。そして、それら先史時代の人々の遺品は、対馬が縄文式文化圏の西の辺境をなしていたこと、つまり、対馬原住民が、早くから日本列島の文化圏に生きていたことを示している。この島に「高御魂神社を始めとして、別天神、神代七代、橘水門、三貴子、綿津見宮、出雲国作り、大八島最初の県直以下の神々が揃いも揃って鎮座せられている。この事実は、実に古事記から見た日本建国の縮図である」(「新対馬島誌」)といわれるのも、いかにもありうべきことと思われる。
2023年6月10日土曜日
20230610 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.24-27より抜粋引用
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182
20230609 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.14‐15より抜粋
ISBN-10 : 4003224817
ISBN-13 : 978-4003224816
「君らも知っているはずだ。その頃僕は、だいぶ印度洋や、太平洋、支那海などをうろつきまわったあげく、ロンドンへ帰って来たばかりだった―六年余りだったかな、―といえば、まず東洋も一通りは味わってしまったわけだが。ところで、僕は毎日ブラブラしながら、よく君らの仕事を邪魔したり、君らの家庭を襲ったりしたものだったっけ、まるで君らを啓蒙することが、僕の天職だと言わんばかりにね。それも一時は愉快だった。だが、暫くすると、じっとしているのにも倦いて来た。そこでまたしても船を探しはじめた、―ところが、こいつがおよそ難しい仕事でね。今度は船の方で見向いてもくれないのだ。船探しにも倦いちまった。
「ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、豪州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなところがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指をおいては、大きくなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。今考えると、北極などもその一つだったと思う。なに、もちろんまだ行ったこともないし、今ではもう行ってみる気もないがね。つまり、魅力が消えてしまったのだ。だが、まだそうした場所は、いくらでも赤道付近にころがっていたし、他にも両半球あらゆる緯度にわたって残されていた。中にはその後本当に行ってみたところも幾つかある。それに・・いや、こんな話はもうよそう。だが、一つ、いわばもっとも広大な、しかももっとも空白な奴が一つあったのだ。そして僕は、それに対して疼くような憧憬を感じていた。
「なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかったし、―恣に少年時代の輝かしい夢を追った真白い地球でもなかった。すでに闇黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。で、僕はふと思い出した、そういえばこの河で商売をやっている、大きな貿易会社があったはず。畜生、そうだ!これだけの河といえば、船―それも蒸気船を使わなければ、商売のできるはずがない。それなら、そいつに一つ乗りこめばいいではないか!と、僕はひとり肯いた。そしてあのフリート街を歩きながら、どうしてもこの考えを振り捨てることができなかった。蛇の魅力だったのだな。
2023年6月4日日曜日
20230604 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.273-275より抜粋
pp.273-275より抜粋
ISBN-10 : 4003313313
ISBN-13 : 978-4003313312
およそ社会の進歩を認めないところに、すぐれた歴史が現れようはずはない。せいぜい史実を克明に描写した宋の司馬光の「資治通鑑」ぐらいが関の山である、「資治通鑑」は確かに有用な、すぐれた史書であるが、そこには社会が進歩したとも退歩したとも書いてない。史観のないのが彼の史観である。この書は元来は「通志」という名であったが、「資治通鑑」、即ち政治の参考になる歴史の鑑という名を時の天子、神宗から賜った。誠に鑑のように、史実だけを列べようとした年代記である。ただそこには、先の歴史事実と後にくる歴史事実との間の因果関係を理解させようという努力が認められる。そしてそれから以後、「資治通鑑」に匹敵するほどの歴史さえ書かれなくまってしまった。
中国には司馬遷の「史記」、班固の「前漢書」以下、「後漢書」、「三国志」から「明史」に至るまで、各代の史実がすべてで二十四史あり、正史と称せられるが、この中で歴史的意識をもって書かれていたのは「史記」と「漢書」だけだといっていい。「史記」は太古に五帝三代の黄金時代を設定するが、これを除けば周が衰微してから以後、春秋・戦国・秦を経て、いかにして漢の統一王朝が出現したかを説明しようと努めている。
「漢書」は古代史の頂点をなす漢王朝の繁栄とその一時的衰退期たる王莽時代までを区切って、いわゆる断代史の模範を垂れた。漢代の歴史はその前に更に長い歴史をもつことを示すために、前代に活躍した人物の名前を年代順に列べた「人物表」なるものを造って付け加えた。以上の両著はいずれも創意に基づく創作である。ところがそれは以後の各代の正史は、単に雛型に従って事件を記述するだけで、せいぜい一王朝の興隆と衰亡を記すのが関の山で、歴史上における位置付けを試みる意図をもたない。ただ歴史は繰り返すものという見方しか持ち合わせないので、前王朝の衰微が後王朝興隆の原因という簡単な因果関係が理解されるわけである。
だから人によっては、中国には史料はあるが歴史は書かれていないという。たしかにその通りで、骨を折って中国の正史を読んでみても、ただそれだけでは中国社会の発達は分からない。そこで漢代から清朝までをひっくるめて封建時代とするような時代区分論が出てくるのも、已むを得ない結果だと言って言えぬことはない。
2023年6月3日土曜日
20230603 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋
ISBN-10 : 4480084886
ISBN-13 : 978-4480084880
「三酔人経綸問答」は、三人の酒に酔った男が、それぞれの政治的信条を戦わせる話で、その豊富な内容は、明治初期の政治文学のなかで、群を抜く。登場人物の一人は、「豪傑君」という右翼軍国主義者で、アジア大陸への拡張政策を唱える。もう一人は「洋学紳士」とよばれ、急進的な平和主義者で、国内における自由主義的な政策を主張する。第三の人物は、以上二人の客を迎える主人、「南海先生」で、現実的な漸進主義の立場をとる。たとえば対外政策について、南海先生は侵略的軍国主義に与せず、また無防備の絶対平和主義にも賛成しない。日本の将来を「小邦」の条件のもとに考え、「世界孰れの国を論ぜず与に和好を敦くし、万已むことを得ざるに及ては防禦の戦略を守り、懸軍出征の労費を避け」るのが、良策だろうという。また国内の民主平等の制ー一院制・普選・地方官公選・無料教育・死刑廃止・言論結社の自由などーについても、直ちにその実現をもとめる洋学紳士と、それを非現実として軍縮を強調する豪傑君の話を、それぞれしりぞける。そして民主思想が直ちに実を結ぶことは期待できないといい、しかし「君真に民主思想を喜ぶときは、之を口に挙げ、之を書に筆して、其種子を人々の脳髄中に蒔ゆるに於て」、遠い将来にそれが実現されるかもしれない、という。
この三人の人物は、いずれも戯画化され、批判されている。豪傑君は、単純な国権論者で、時代後れだとされる。しかしその議論の中には、いわゆる「戸閉り」論がある。洋学紳士は、夢想的な民権論者で、改革のための改革をもとめ、政府を攻撃のために攻撃するといわれる。しかしそこには、大国間の争いに中立する小国の民主制の強調がある。南海先生は、あまりにも常識的なことで胡麻化していると二客から批判されるが、政治的理想はただちに実現されなくとも、公然と表明されなければならない。というのである。けだし三酔人のいうところの多くは、ほとんどそのまま一世紀後の今日の政論家の説に通じる。
鶏声暁を報じて、二客が去り、「三酔人経綸問答」は終る。その末尾の文句は次のようでようである。「二客竟に復た来らず。或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べりと。而して南海先生は依然として唯酒を飲むのみ」。
「三酔人経綸問答」は、政治殊に国際政治に関して、異なる意見乃至立場を、目的と手段、あるいは価値と現実、の関係解釈のし方にいたがって、相互につき合わせ、それぞれの立場を相対化している。それぞれの立場が、兆民その人の考えの三つの面を代表していたことは、いうまでもないだろう。両極端の立場の仲介者としての南海先生が、必ずしも兆民の立場なのではない。すべての政治的意見ーすなわち価値と現実との関係の具体的な定義ーのこのような相対化は、十九世紀の日本社会において画期的であり、またその相対化が、基本的な価値ー自由平等と民権ーを相対化せず、むしろその普遍的妥当性への確信を前提として行われたという点で、殊に画期的である。
2023年6月1日木曜日
20230601金関丈夫著「日本民族の起源」法政大学出版局刊」pp.189-191より抜粋
ISBN-10 : 4588270559
ISBN-13 : 978-4588270550
弥生時代になると、玄海に面した地方(北九州・山口)の弥生文化に属する遺跡から出る骨は、これとちがってくる。まず背が高くなっている。
縄文時代の男の平均身長は158㎝であるのに、弥生文化に属している北九州・山口の男の平均身長は162~163㎝に近い。頭は短く、顔は長くなり、従って鼻も長く、眼窩も高い。マビサシの発達も弱い。このように縄文人との間にはギャップがある。一方、文化はがらりと変わっていて金属を用い、米を作る農耕文化をもっている。いわば生活革命であります。その文化は大陸の方から渡って来たと考えられる。文化だけが来ることはないので、人が一緒に来たにちがいない。どこから来たかといえば、南朝鮮が先ず考えられる。南朝鮮の古代人と現代人とがあまり変わりないとすれば、現在の南朝鮮人は頭は長くなり、背は高く、顔も長い。弥生人に似ている。時代の異なるものを比較するので、無理ではあるが、弥生文化をもって来た者は、今日の南部の朝鮮半島人の祖先であっただろうと推定できる。金属器を加工し、使用する文化は、中国から朝鮮を経由して来ている。このように骨のみから比較するばかりでなく、技術史の比較でも朝鮮経由大陸伝来のものであろうということは確かであります。
それでは、この新しい文化とその伝達者は、九州地方ではどのように拡がっていったでしょうか。九州の北の方では福岡県でも山口県の西でも大陸型の骨が出る。佐賀県の背振山の南斜面でも同様な骨が出ます。背振のは弥生中期のカメ棺の人骨ですが、体の長い北九州弥生人と呼ぶことができる骨がでている。ところが同じ九州で、最近、長崎大学の解剖学教室の内藤教授が調べたところによると、長崎半島の先端の深掘の弥生遺跡、五島列島の弥生遺跡、平戸・松浦の遺跡では同じ弥生人でありながら、骨の性質は縄文時代の人骨と変わらない。すなわち、背は低く、顔は短く、頭は長い。眉の出っぱりも強い。弥生時代人であるにかかわらずそのような点で、縄文人とちがわない。これを説明して内藤教授は、北九州では、何か環境の変化があったために長身型が出現したのであり、外から混血の要素が混入したのではないと述べている。新しい文化が、刺戟となって新しい体質を作ったかと想像するもののようであります。
さて私はさきに北九州にはいった弥生人は背が高いと述べたが、カメ棺を作るには背が高い男でなければ作れない。(縄文時代の土器は女性が作っていた。)しかもカメ棺の作製はただの男ではだめで、よほど背が高い男でなければならない。このことについては、私は昔台湾で、台湾人が大きな壺を作るのを見ましたが、台湾人の男ではできないので、むかしから福建省の漢人を雇っている。これは確かな事実です。ところでカメ棺は従来の縄文時代の人では男であっても作りえない。北九州ではカメ棺が出る所と、背の高い骨が出る所は一致している。それより南には高い骨はでない。背の高い骨が出なかったところの弥生文化では、カメ棺も作りえなかった。深掘、五島の弥生文化では弥生文化は侵入したが、体格は変わらなかった。新しい人種は入らなかった。即ち、これらの地方までは海外からはいった人間が拡がっていないのだ。したがって、北九州で日本人を論ずる場合には、混血児が弥生時代から相当にあったと考えねばらならない。南の方を問題にする場合には、弥生時代の混血は殆どなかったと考えざるをえない。つまり、北九州人で日本人を代表すれば、日本人は混血人だということになり、熊本の山の人で代表すれば、日本人は万世一系の土着縄文人の子孫だということになる。