2023年6月11日日曜日

20230611 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.242-244より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.242-244より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

対馬の島影は、古代からこの海を渡った人々にとって、きわめて印象的だったにちがいない。「万葉集」巻一に入唐使節団を送る春日蔵首老の歌が一首のっている。

 ありねよし対馬の渡りわた中に幣とり向けて早かへり来ね

「ありねよし」は対馬の枕言葉とされているが、これは海上から対馬に近づく人々の実感をきわめてよくあらわした言葉である。海上十里くらいのところから見た全島の姿(もっとも、上島の方は霞んで見えないのが普通だろう)の中心をなしているのが「有嶺よし」と歌われた有明嶽(558メートル)である。その左手にやや遠く対馬第一の高峰矢立山(649メートル)がそびえているが、これは島の左手に偏っており、稜線が有明ほどに流麗ではないので、船人の眼にひきつけるポイントになりにくい。対馬の国府厳原は、ちょうどこの有明の真下にいだかれている。

 船は、壱岐の勝本に20分ばかり寄港したのち、針路をやや北に向けて、いよいよ厳原に向かって直行する。かつて、バルチック艦隊が二列縦陣を作って北上した東水道である。壱岐海峡では明るいブルーに輝いていた海流が、ここではほとんど黒く見えるほどの紺色にかわる。

 後方には壱岐の島影がしだいに霞みはじめたのに、行手の対馬の島影はなお模糊として遠いというあたりでは、「夫木和歌抄」にあるという古歌の心がそのままに現代人にも了解されるであろう。

 漕出る対馬の渡り程遠み跡こそかすめゆき(壱岐)の島松

 たしかにこの海上では、古代の人々の心がまざまざと想像される。先史時代から日本と大陸とを結ぶ海上交通の要路に当たっていたために、「百船の泊つる」津の島と万葉にも歌われたこの島への道を、古来、幾千幾万の人々が渡って行ったかもしれない。三世紀に書かれた「魏志倭人伝」に、この島に夷守とよばれる国防官庁の支所がおかれていたことが記されているが、その後の遣外使節団の人々も、兵団の将兵たちも、多くはこの海を渡って対馬に着き、浅茅湾の船待ちして、やがて外洋へと船出して行ったのである。

 こうした海上の往来の途上、おそらくは幾つもの大事件がもち上がったはずである。そしてそれらの事件の記憶は、幾つもの神話や伝説にその姿を変え、それらはさらに複雑に習合しあって、今もこの「神々の島」とよばれる対馬各地の津々浦々にあるおびただしい神社の縁起として伝えられている。また、そのあるものは、歌に詠まれ、たまたま歌集に収められることによって、今もなお私たちの想像力に強い刺激を与えることになった。「万葉集」巻十六に収められた「筑前国志賀白水郎歌十首」なども、海上に起こった無数の人間の冒険や悲劇のほんの一端を示すものにほかなるまい。

 大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る

 荒雄らは妻子のなりをば潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも

万葉の註記によれば、神亀年間(724-728、聖武天皇の代)大和朝廷が朝鮮半島に対する国防前線として、また兵站基地として重視していた対馬に、糧食を送る官吏の役目を自らすすんで代行した志賀島の海人荒雄の遭難を悼んで作られた歌である。作者は筑前国守山上憶良とも伝えられているが、こうした海上の悲劇の実感は、現実にこの海を渡るとき、いっそう生々しくよみがえってくる。最後の歌など、この海の澄みきった海中をのぞくとき、むしろ悲痛な凄味をさえ感じさせるであろう。

 ともかく、現在考古学的に確認されているところでは、対馬にはおよそ四千年前から人々が住んでいたといわれる。そして、それら先史時代の人々の遺品は、対馬が縄文式文化圏の西の辺境をなしていたこと、つまり、対馬原住民が、早くから日本列島の文化圏に生きていたことを示している。この島に「高御魂神社を始めとして、別天神、神代七代、橘水門、三貴子、綿津見宮、出雲国作り、大八島最初の県直以下の神々が揃いも揃って鎮座せられている。この事実は、実に古事記から見た日本建国の縮図である」(「新対馬島誌」)といわれるのも、いかにもありうべきことと思われる。

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