2023年6月11日日曜日

20230611 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.242-244より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.242-244より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

対馬の島影は、古代からこの海を渡った人々にとって、きわめて印象的だったにちがいない。「万葉集」巻一に入唐使節団を送る春日蔵首老の歌が一首のっている。

 ありねよし対馬の渡りわた中に幣とり向けて早かへり来ね

「ありねよし」は対馬の枕言葉とされているが、これは海上から対馬に近づく人々の実感をきわめてよくあらわした言葉である。海上十里くらいのところから見た全島の姿(もっとも、上島の方は霞んで見えないのが普通だろう)の中心をなしているのが「有嶺よし」と歌われた有明嶽(558メートル)である。その左手にやや遠く対馬第一の高峰矢立山(649メートル)がそびえているが、これは島の左手に偏っており、稜線が有明ほどに流麗ではないので、船人の眼にひきつけるポイントになりにくい。対馬の国府厳原は、ちょうどこの有明の真下にいだかれている。

 船は、壱岐の勝本に20分ばかり寄港したのち、針路をやや北に向けて、いよいよ厳原に向かって直行する。かつて、バルチック艦隊が二列縦陣を作って北上した東水道である。壱岐海峡では明るいブルーに輝いていた海流が、ここではほとんど黒く見えるほどの紺色にかわる。

 後方には壱岐の島影がしだいに霞みはじめたのに、行手の対馬の島影はなお模糊として遠いというあたりでは、「夫木和歌抄」にあるという古歌の心がそのままに現代人にも了解されるであろう。

 漕出る対馬の渡り程遠み跡こそかすめゆき(壱岐)の島松

 たしかにこの海上では、古代の人々の心がまざまざと想像される。先史時代から日本と大陸とを結ぶ海上交通の要路に当たっていたために、「百船の泊つる」津の島と万葉にも歌われたこの島への道を、古来、幾千幾万の人々が渡って行ったかもしれない。三世紀に書かれた「魏志倭人伝」に、この島に夷守とよばれる国防官庁の支所がおかれていたことが記されているが、その後の遣外使節団の人々も、兵団の将兵たちも、多くはこの海を渡って対馬に着き、浅茅湾の船待ちして、やがて外洋へと船出して行ったのである。

 こうした海上の往来の途上、おそらくは幾つもの大事件がもち上がったはずである。そしてそれらの事件の記憶は、幾つもの神話や伝説にその姿を変え、それらはさらに複雑に習合しあって、今もこの「神々の島」とよばれる対馬各地の津々浦々にあるおびただしい神社の縁起として伝えられている。また、そのあるものは、歌に詠まれ、たまたま歌集に収められることによって、今もなお私たちの想像力に強い刺激を与えることになった。「万葉集」巻十六に収められた「筑前国志賀白水郎歌十首」なども、海上に起こった無数の人間の冒険や悲劇のほんの一端を示すものにほかなるまい。

 大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る

 荒雄らは妻子のなりをば潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも

万葉の註記によれば、神亀年間(724-728、聖武天皇の代)大和朝廷が朝鮮半島に対する国防前線として、また兵站基地として重視していた対馬に、糧食を送る官吏の役目を自らすすんで代行した志賀島の海人荒雄の遭難を悼んで作られた歌である。作者は筑前国守山上憶良とも伝えられているが、こうした海上の悲劇の実感は、現実にこの海を渡るとき、いっそう生々しくよみがえってくる。最後の歌など、この海の澄みきった海中をのぞくとき、むしろ悲痛な凄味をさえ感じさせるであろう。

 ともかく、現在考古学的に確認されているところでは、対馬にはおよそ四千年前から人々が住んでいたといわれる。そして、それら先史時代の人々の遺品は、対馬が縄文式文化圏の西の辺境をなしていたこと、つまり、対馬原住民が、早くから日本列島の文化圏に生きていたことを示している。この島に「高御魂神社を始めとして、別天神、神代七代、橘水門、三貴子、綿津見宮、出雲国作り、大八島最初の県直以下の神々が揃いも揃って鎮座せられている。この事実は、実に古事記から見た日本建国の縮図である」(「新対馬島誌」)といわれるのも、いかにもありうべきことと思われる。

2023年6月10日土曜日

20230610 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.24-27より抜粋引用

株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』
pp.24-27より抜粋引用
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182

今日につながる意味での「大学」が誕生したのは、12世紀後半から13世紀初頭にかけての中世ヨーロッパでのことであった。北イタリアのボローニャで、世界最初の大学に神聖ローマ帝国皇帝の特許状が下されたのが1158年、パリ大学が教皇の勅書によって設立されるのが1231年のことである。この二つの原型的な大学に続き、13世紀、英国ではオックスフォードとケンブリッジの二大学が設立され、イタリアでは、モデナ大学、レッジョ大学、アレッツォ大学、パドヴァ大学、ナポリ大学、シエナ大学、ペルージャ大学、フィレンツェ大学、ピサ大学、ヴェローナ大学、パヴィア大学、フェラーラ大学、トリノ大学など多数が設立されていった。同じ頃、中央ヨーロッパでも、プラハ大学、ウィーン大学、クラクフ大学、ハイデルベルク大学、ライプチヒ大学などの新大学の誕生が続き、15世紀までにヨーロッパ全土で大学数は70~80校に及んだ(図6)。中世的秩序のなかで、大学、その根幹をなす教師と学生の協同組合は、教皇権力と皇帝権力の対立を巧みに利用し、これら普遍的権力とそれぞれの都市の地元有力者のバランスを利用しながら、急速に増殖し、勢力を広げたのだ。
 重要なのは、このような中世西欧における大学の誕生はに、同時代の都市を拠点とした広域的な人の行き来や物流の活発化が先行していたことである。西欧諸地方では、10世紀頃から農業生産力の上昇が地域間商業の活発化をもたらし、広域的な経済の拠点として都市が発達し、それらはしばしば自治権を獲得した。急速に拡大する貿易と分業体制のなかで、中世都市は地中海沿岸からバルト海・北海沿岸まで広がる新しい全ヨーロッパ的ネットワークのハブとなり、新種の商人から放浪の托鉢修道士まで、多種多様な移動民を抱え込み始めていた。生まれ故郷から離れ、一生を移動しながら過ごす彼らは、各地で勃興しつつあった自治都市に集い、そこで知識を交換し、新たな協同組合的な組織を形成していった。当時、情報メディアといっても写本や手紙しかなかった時代、都市から都市へ移動するこれらの人々は、新しい知識を伝え、集積する最大のメディアであった。
 当時、「遍歴者、流浪者、旅人の中には、学者や朗読者の小さなグループもあって、そのまわりにはいつも教えを請う者たちが集まり、その影響圏に知識欲の旺盛な者たちがどっと押し寄せていた」(H=W・プラール「大学制度の社会史」)という。大学は、このような中世の移動民たちが結びついたネットワークの結節点として出発したのであり、その組織原理の根底に越境性、脱領域性を内包している。彼らは移動する能力によって都市を支配層や地主、より普遍的な皇帝や教皇の権力さえも相対化する自由を手にしたのであり、この移動性と一体をなす「都市の自由」こそが、後年に理念化される「大学の自由」の現実的な基盤であった。
 もちろん、「都市の自由」だけが大学誕生の唯一の要因だったわけではない。中世西欧で大学が誕生したのは、特権的知識層の増大を許容する生産力、行政組織の発達、知的活動への需要増大と専門家や学者の役割拡大、同業組合的組織の普及、アラビア経由での古代地中海世界の学問の受容など複合的な諸要因が作用していた。しかし、このような要因だけならば、そこに登場する知識・教育機関が、「大学」でなければならなかったとは必ずしも言えない。
 古代以来、文明が高度化してくると、社会は必ず専門知識層を生み、そうした専門家による知識継承機関が設置されてきた。古代ギリシャのアカデミーやバビロニアの図書館、イスラムの聖書学校などがその例で、日本の近世には藩校があった。知識機関の設置は、社会のアイデンティティ維持にとって常に根幹だったが、その頂点に立つものは必ずしも「大学」でなければならなかったわけではない。高度な知識を有しながら「大学」が存在しない社会がいくらでもあった。ところが12世紀のヨーロッパは、知の中核的な機関として「大学」を誕生させ、以来、「大学」は、人類の知的活動に最も影響力あるモデルとなっていくのである。

20230609 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.14‐15より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.14-15より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

「君らも知っているはずだ。その頃僕は、だいぶ印度洋や、太平洋、支那海などをうろつきまわったあげく、ロンドンへ帰って来たばかりだった―六年余りだったかな、―といえば、まず東洋も一通りは味わってしまったわけだが。ところで、僕は毎日ブラブラしながら、よく君らの仕事を邪魔したり、君らの家庭を襲ったりしたものだったっけ、まるで君らを啓蒙することが、僕の天職だと言わんばかりにね。それも一時は愉快だった。だが、暫くすると、じっとしているのにも倦いて来た。そこでまたしても船を探しはじめた、―ところが、こいつがおよそ難しい仕事でね。今度は船の方で見向いてもくれないのだ。船探しにも倦いちまった。

 「ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、豪州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなところがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指をおいては、大きくなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。今考えると、北極などもその一つだったと思う。なに、もちろんまだ行ったこともないし、今ではもう行ってみる気もないがね。つまり、魅力が消えてしまったのだ。だが、まだそうした場所は、いくらでも赤道付近にころがっていたし、他にも両半球あらゆる緯度にわたって残されていた。中にはその後本当に行ってみたところも幾つかある。それに・・いや、こんな話はもうよそう。だが、一つ、いわばもっとも広大な、しかももっとも空白な奴が一つあったのだ。そして僕は、それに対して疼くような憧憬を感じていた。

 「なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかったし、―恣に少年時代の輝かしい夢を追った真白い地球でもなかった。すでに闇黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。で、僕はふと思い出した、そういえばこの河で商売をやっている、大きな貿易会社があったはず。畜生、そうだ!これだけの河といえば、船―それも蒸気船を使わなければ、商売のできるはずがない。それなら、そいつに一つ乗りこめばいいではないか!と、僕はひとり肯いた。そしてあのフリート街を歩きながら、どうしてもこの考えを振り捨てることができなかった。蛇の魅力だったのだな。

2023年6月4日日曜日

20230604 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.273-275より抜粋

岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」
pp.273-275より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003313313
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003313312

およそ社会の進歩を認めないところに、すぐれた歴史が現れようはずはない。せいぜい史実を克明に描写した宋の司馬光の「資治通鑑」ぐらいが関の山である、「資治通鑑」は確かに有用な、すぐれた史書であるが、そこには社会が進歩したとも退歩したとも書いてない。史観のないのが彼の史観である。この書は元来は「通志」という名であったが、「資治通鑑」、即ち政治の参考になる歴史の鑑という名を時の天子、神宗から賜った。誠に鑑のように、史実だけを列べようとした年代記である。ただそこには、先の歴史事実と後にくる歴史事実との間の因果関係を理解させようという努力が認められる。そしてそれから以後、「資治通鑑」に匹敵するほどの歴史さえ書かれなくまってしまった。

 中国には司馬遷の「史記」、班固の「前漢書」以下、「後漢書」、「三国志」から「明史」に至るまで、各代の史実がすべてで二十四史あり、正史と称せられるが、この中で歴史的意識をもって書かれていたのは「史記」と「漢書」だけだといっていい。「史記」は太古に五帝三代の黄金時代を設定するが、これを除けば周が衰微してから以後、春秋・戦国・秦を経て、いかにして漢の統一王朝が出現したかを説明しようと努めている。

 「漢書」は古代史の頂点をなす漢王朝の繁栄とその一時的衰退期たる王莽時代までを区切って、いわゆる断代史の模範を垂れた。漢代の歴史はその前に更に長い歴史をもつことを示すために、前代に活躍した人物の名前を年代順に列べた「人物表」なるものを造って付け加えた。以上の両著はいずれも創意に基づく創作である。ところがそれは以後の各代の正史は、単に雛型に従って事件を記述するだけで、せいぜい一王朝の興隆と衰亡を記すのが関の山で、歴史上における位置付けを試みる意図をもたない。ただ歴史は繰り返すものという見方しか持ち合わせないので、前王朝の衰微が後王朝興隆の原因という簡単な因果関係が理解されるわけである。

 だから人によっては、中国には史料はあるが歴史は書かれていないという。たしかにその通りで、骨を折って中国の正史を読んでみても、ただそれだけでは中国社会の発達は分からない。そこで漢代から清朝までをひっくるめて封建時代とするような時代区分論が出てくるのも、已むを得ない結果だと言って言えぬことはない。

2023年6月3日土曜日

20230603 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880

「三酔人経綸問答」は、三人の酒に酔った男が、それぞれの政治的信条を戦わせる話で、その豊富な内容は、明治初期の政治文学のなかで、群を抜く。登場人物の一人は、「豪傑君」という右翼軍国主義者で、アジア大陸への拡張政策を唱える。もう一人は「洋学紳士」とよばれ、急進的な平和主義者で、国内における自由主義的な政策を主張する。第三の人物は、以上二人の客を迎える主人、「南海先生」で、現実的な漸進主義の立場をとる。たとえば対外政策について、南海先生は侵略的軍国主義に与せず、また無防備の絶対平和主義にも賛成しない。日本の将来を「小邦」の条件のもとに考え、「世界孰れの国を論ぜず与に和好を敦くし、万已むことを得ざるに及ては防禦の戦略を守り、懸軍出征の労費を避け」るのが、良策だろうという。また国内の民主平等の制ー一院制・普選・地方官公選・無料教育・死刑廃止・言論結社の自由などーについても、直ちにその実現をもとめる洋学紳士と、それを非現実として軍縮を強調する豪傑君の話を、それぞれしりぞける。そして民主思想が直ちに実を結ぶことは期待できないといい、しかし「君真に民主思想を喜ぶときは、之を口に挙げ、之を書に筆して、其種子を人々の脳髄中に蒔ゆるに於て」、遠い将来にそれが実現されるかもしれない、という。

 この三人の人物は、いずれも戯画化され、批判されている。豪傑君は、単純な国権論者で、時代後れだとされる。しかしその議論の中には、いわゆる「戸閉り」論がある。洋学紳士は、夢想的な民権論者で、改革のための改革をもとめ、政府を攻撃のために攻撃するといわれる。しかしそこには、大国間の争いに中立する小国の民主制の強調がある。南海先生は、あまりにも常識的なことで胡麻化していると二客から批判されるが、政治的理想はただちに実現されなくとも、公然と表明されなければならない。というのである。けだし三酔人のいうところの多くは、ほとんどそのまま一世紀後の今日の政論家の説に通じる。

 鶏声暁を報じて、二客が去り、「三酔人経綸問答」は終る。その末尾の文句は次のようでようである。「二客竟に復た来らず。或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べりと。而して南海先生は依然として唯酒を飲むのみ」。

「三酔人経綸問答」は、政治殊に国際政治に関して、異なる意見乃至立場を、目的と手段、あるいは価値と現実、の関係解釈のし方にいたがって、相互につき合わせ、それぞれの立場を相対化している。それぞれの立場が、兆民その人の考えの三つの面を代表していたことは、いうまでもないだろう。両極端の立場の仲介者としての南海先生が、必ずしも兆民の立場なのではない。すべての政治的意見ーすなわち価値と現実との関係の具体的な定義ーのこのような相対化は、十九世紀の日本社会において画期的であり、またその相対化が、基本的な価値ー自由平等と民権ーを相対化せず、むしろその普遍的妥当性への確信を前提として行われたという点で、殊に画期的である。

2023年6月1日木曜日

20230601金関丈夫著「日本民族の起源」法政大学出版局刊」pp.189-191より抜粋

法政大学出版局刊 金関丈夫著「日本民族の起源」
pp.189-191より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4588270559
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4588270550

縄文時代の人の骨は、日本全国殆ど変わりがない。永年の間、殆ど変わっていない。背が低く、頭が長く、顔が短くて、マビサシが強く出ている。顔も広く、鼻も広い。熊本県には縄文時代の骨が多数でているが、皆この特徴をもっており、また九州以外の他地方の縄文人とも差はない。

 弥生時代になると、玄海に面した地方(北九州・山口)の弥生文化に属する遺跡から出る骨は、これとちがってくる。まず背が高くなっている。

 縄文時代の男の平均身長は158㎝であるのに、弥生文化に属している北九州・山口の男の平均身長は162~163㎝に近い。頭は短く、顔は長くなり、従って鼻も長く、眼窩も高い。マビサシの発達も弱い。このように縄文人との間にはギャップがある。一方、文化はがらりと変わっていて金属を用い、米を作る農耕文化をもっている。いわば生活革命であります。その文化は大陸の方から渡って来たと考えられる。文化だけが来ることはないので、人が一緒に来たにちがいない。どこから来たかといえば、南朝鮮が先ず考えられる。南朝鮮の古代人と現代人とがあまり変わりないとすれば、現在の南朝鮮人は頭は長くなり、背は高く、顔も長い。弥生人に似ている。時代の異なるものを比較するので、無理ではあるが、弥生文化をもって来た者は、今日の南部の朝鮮半島人の祖先であっただろうと推定できる。金属器を加工し、使用する文化は、中国から朝鮮を経由して来ている。このように骨のみから比較するばかりでなく、技術史の比較でも朝鮮経由大陸伝来のものであろうということは確かであります。

 それでは、この新しい文化とその伝達者は、九州地方ではどのように拡がっていったでしょうか。九州の北の方では福岡県でも山口県の西でも大陸型の骨が出る。佐賀県の背振山の南斜面でも同様な骨が出ます。背振のは弥生中期のカメ棺の人骨ですが、体の長い北九州弥生人と呼ぶことができる骨がでている。ところが同じ九州で、最近、長崎大学の解剖学教室の内藤教授が調べたところによると、長崎半島の先端の深掘の弥生遺跡、五島列島の弥生遺跡、平戸・松浦の遺跡では同じ弥生人でありながら、骨の性質は縄文時代の人骨と変わらない。すなわち、背は低く、顔は短く、頭は長い。眉の出っぱりも強い。弥生時代人であるにかかわらずそのような点で、縄文人とちがわない。これを説明して内藤教授は、北九州では、何か環境の変化があったために長身型が出現したのであり、外から混血の要素が混入したのではないと述べている。新しい文化が、刺戟となって新しい体質を作ったかと想像するもののようであります。

 さて私はさきに北九州にはいった弥生人は背が高いと述べたが、カメ棺を作るには背が高い男でなければ作れない。(縄文時代の土器は女性が作っていた。)しかもカメ棺の作製はただの男ではだめで、よほど背が高い男でなければならない。このことについては、私は昔台湾で、台湾人が大きな壺を作るのを見ましたが、台湾人の男ではできないので、むかしから福建省の漢人を雇っている。これは確かな事実です。ところでカメ棺は従来の縄文時代の人では男であっても作りえない。北九州ではカメ棺が出る所と、背の高い骨が出る所は一致している。それより南には高い骨はでない。背の高い骨が出なかったところの弥生文化では、カメ棺も作りえなかった。深掘、五島の弥生文化では弥生文化は侵入したが、体格は変わらなかった。新しい人種は入らなかった。即ち、これらの地方までは海外からはいった人間が拡がっていないのだ。したがって、北九州で日本人を論ずる場合には、混血児が弥生時代から相当にあったと考えねばらならない。南の方を問題にする場合には、弥生時代の混血は殆どなかったと考えざるをえない。つまり、北九州人で日本人を代表すれば、日本人は混血人だということになり、熊本の山の人で代表すれば、日本人は万世一系の土着縄文人の子孫だということになる。

2023年5月28日日曜日

20230527 ブログ2000記事到達に際して

当記事の投稿により、総投稿記事が2000に到達します。当ブログをはじめてから約8年ほどで2000記事の投稿と考えてみますと、その期間は、10日間のうち6~7日は1記事投稿してきたことになりますので、私としては思いのほかに継続したのではないかと思われます。とはいえ、現在、当記事を作成していても、感興や感慨のようなものは皆無と云えます。

また、以前、当ブログにて自分にとって転機となった南紀での経験を述べてみたいという考えから作成した【南紀について】は比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、大学関係者の方々で、新たな医療介護リハビリ系の専門職大学あるいは科学技術大学院大学などの設置を検討されていましたら、南方熊楠が後半生を過ごした口熊野とも呼ばれる紀伊田辺は、南紀白浜温泉にもほど近く、風光明媚であり、教育・研究の環境として悪くないと思われますので、類似した環境と云える紀伊半島南部の東側の新宮と併せて是非、ご一考頂ければと思います。

さらにもう一つこじつけますと、紀伊田辺・新宮双方から通じている熊野本宮大社の主祭神は、家都御子神または家都美御子神(けつみ(み)このかみ)ですが、実は、これは出雲系の神である素戔嗚尊のことであり、この神は、木の国だけに樹木の神であると同時に、穀物の神でもあることから食の神とされています。そして実際に紀州・和歌山は、鰹節や醤油などの我が国の食文化には欠かすことの出来ない食材の発祥の地であり、さらに伝統食品である梅干しの生産量もダントツの首位であることから、語義通り、日本の味のルーツが今なお息づいている地域であると考えます。

そして、前段が幾分長くなってしまいましたが、こうした文化的背景を持つ地域に、食材の専門家である管理栄養士を主軸として、それに関連する職種と云える歯科衛生士などの医療介護リハビリ専門職を養成する学費が安価な高等教育機関(専門職大学)を、ある程度の規模の病院など医療機関がある紀伊田辺・新宮双方に設置しますと、西日本・東日本双方の受験生にも対応出来て、とても良いのではないかとも思われます。

そして、それら専門職大学では、各々専攻する専門職の養成課程科目と語学課目とは別に、各学生さんの内発的な興味に即した人文系の自由研究科目を必修として、それを在学期間を通じて学び続けるようなカリキュラムにすることにより、これまでとは少し異なった知的背景を持つ専門職の方々を養成することが出来るようになるのではないかと思われるのです。

以前、当ブログにて自らのことを「私は課程博士を修了した初めての歯科技工士ではないか?」と述べましたが、その路程は兄の死や、指導教授(師匠)の予期せぬ退職などが重なり、それなりに辛いものでしたが、同時に歯科理工学実習にて鋳造や鑞付けを担当させて頂き、2012年からは教授も准教授の先生もいない状況下にて、実習書や教科書に記載の情報以外は、人文系ネタを随所に散りばめつつ実習を進めることが出来たことは、自分の性質に合っていたのか強く記憶に残っています。

学生さんとしては、実習にて30歳過ぎのオッサンの本能と知性が噛み合って駆動している様子を、何やら「おかしなもの」として見ていたのではないかとも思われます・・。実際、私が人文系ネタを話しながら、実習手順や使用材料などについて説明していますと、後ろから小声で「民明書房刊・・」と聞こえたこともありました・・(苦笑)。

しかし他方で、自分としては最も多く人文系ネタを散りばめた実習を行った2012年度の実習後から2013年初旬にかけて、どうしたわけか、休日での市内の散歩や、喫茶店での読書の際に、実習時に担当した学生さんから話し掛けられることが何度かありました。

若い女性が町なかで、数度の面識しかない中年男性に話し掛けることは、あまり一般的な行為ではないと思われますので、ありがたいことであるのか、ともあれ、少なくとも危険視はされていなかったのではないかと思われます・・(笑)。

また、そこでの会話のさなかに、性懲りもなく人文系ネタを話してみても興味深そうに聞いて頂き、また、私としても、その都度のご質問にも、あまり逸らさない返答が出来たのではないかと記憶しています・・。

そして必修である実習以外の場面で、自分が話す人文系ネタを面白そうに聞いて頂けたり、それに対しての質問などの知的な反応を頂いたという経験は、それまで人文系を背景とする歯科技工士の大学院生として、あまり良い目を見たことがなかった私としては、それなりに画期的、いや革命的なことであり、以前にも述べましたが、そうしたいくつかの経験が複合的に作用して、今回の2000記事達成に至るのだと云えます・・。

とはいえ、であるからと云って、私はその学生さん達に恋慕しているわけではありません。おそらく、彼女等の多くは、鹿児島弁でいうところの「よかおごじょ」らしく、比較的早くに結婚されて、現在は子育てをされているのではないかと思われます。しかし、それらの方々が10年前の学生時代の実習時に、変なことを話していて「何だか面白そう・・」といった感じであるのか、町なかで話し掛けた中年男性は、8年近くかけて2000記事のブログを作成程度のことはしたということで、各々の「見る目」のご参考にして頂ければと願うところです・・。

おかげさまで(どうにか)2000記事に到達することが出来ました。そして今後はしばらく記事作成を休もうと考えていますが、また思いのほか案外早い時期に再開してしまうのではないかとも思われます・・。

そして2000記事到達となる今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。