2023年2月14日火曜日

20230214 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳 『オーウェル評論集』pp.318-321より抜粋

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳
『オーウェル評論集』pp.318-321より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003226216
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003226216

不安定。ナショナリストの忠誠心は、どれほど強烈なものであっても、その対象がかんたんに変わることがある。第一に、これはすでに指摘したことだが、対象は外国であってもさしつかえなく、事実そういう場合がいくらもあるのだ。偉大な国家的指導者や民族主義運動の創始者が、彼らの賛美する国の国民でさえないばあいもけっして珍しくない。まったくの外国人であるばあいもあるし、国籍もはっきりしない辺境出身者のばあいとなればさらに多い。スターリン、ヒットラー、ナポレオン、デ・ヴァレラ、ディズレーリ、ポアンカレ、ビーヴァ―ブルックなどは、すべてこういう辺境の出身である。汎ゲルマン運動は、なかば、英国人ヒューストン・チェンバレンの創始によるものであった。文学的知識人のあいだでは、過去五十年か百年のあいだに忠誠心を変えるものが続出した。ラフカディオ・ハーンのばあいは日本へ、カーライルをはじめその当時の多くの人びとはドイツへ、忠誠心の対象を移したし、今日ではたいていソヴィエトを対象に選んでいる。だがとくに興味ぶかいのは、この対象が再変更されるばあいもある、ということである。長年にわたって崇拝してきたある国家あるいはその他の組織がとつぜん嫌悪の対象となって、ほとんど間髪を入れず別の愛情の対象がこれにとって代る。H・Gウェルズの「世界史体系」の初版やほど同時期の彼の著作では、今日ソヴィエトが共産主義者にたたえられているのにも劣らないくらい。異常なまでにアメリカがたたえられているのだが、この無批判の賛美は、それから数年もしないうちに敵意に変わったのだった。数週間、いや数日のうちに、頑固な共産主義者が同じように頑固なトロツキストに変わるというのは、珍しいことでもない。ヨーロッパ大陸でのファシスト運動には大量の共産主義者が参加したが、ここ数年のうちにその逆の現象が起こったとしても、すこしも不思議ではない。ナショナリストにあって終始かわらないのはその精神状態だけであって、感情の対象そのものは変わることもあるし、架空のものであってもさしつかえないのだ。

 だが、知識人のばあい、忠誠の対象を変えるということは、すでにチェスタトンをめぐってかんたんに触れたとおり、重大な影響を受けるのである。すなわち、その結果、自分の祖国あるいはその他、自分がほんとうによく知っている組織のために発言するばあいなら考えられないくらい、はるかにナショナリスチックになってしまうのだ。つまり、はるかに卑俗で、愚かしく、意地悪く、不誠実になってしまうのである。相当の知性があり感受性にも富む人びとがスターリンとか赤軍といったものについて卑屈な、あるいは得意そうなたわごとを並べているのを見れば、これはぜったいに何か錯覚しているせいだと考えざるをえない。現代英国のような社会では、知識人といえるような人間が自分の祖国に深い愛着をいだくことは、まず考えられない。世間がーと言っても、知識人としてのその人物が意識している一部の世間ということにすぎないのだがーそれを許さないのである。周囲にいつのがたいてい懐疑的で不満を持っている人間ばかりとなれば、その真似をするか、要するにそれに反対する勇気がないというだけの理由から、自分も同じ態度をとってしまう。そうなると、ではほんとうの国際的視野を持とうとするかと言えばそうはせず、単にもっとも手近な型のナショナリズムも放棄するというだけに終わるだろう。しかしやはり何か「祖国」は欲しい。そうなれば、これを国外に求めるのは自然な成り行きである。そしてひとびとたびそれが見つかれば、自分ではとうに脱却したつもりでいる。神とか、国王とか、帝国とか、ユニオン・ジャックといったものにつながる愛情に身をゆだねて平然、という思いがけない結果になる。こういう、とうに覆されたはずのさまざまな偶像がふたたび名前を変えて現われ、その正体を認識できないまま、良心のとがめもなく崇拝するということになるのだ。忠誠心の対象を移し変えたナショナリズムというのは、犠牲の山羊(スケープ・ゴート)を使うのと同じで、みずからの行いは改めないまま救いを得る、一つの方法なのである。

20230213 「デウス・エクス・マキナ」が望めなさそうな世界情勢と「内憂外患」

本日は終日降雨が続きましたが、気温は、以前ほど寒くは感じられませんでした。2月ももうすぐ半ばとなりますので、徐々に春が近づいているものと思われます。とはいえ、世界情勢はロシアによるウクライナ侵攻、そして隣国である中華人民共和国による台湾侵攻への懸念も払拭されることなく月日が経っております。さらに、これらの世界規模の重大な懸念は今後、どのようなカタチで落ち着いていくのかは現時点では不明ではあり、また同時に、スムーズにそれらが収束することは難しいのではないかと思われます・・。

そして、このような状況にこそ、古代ギリシャ喜劇の「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けの神)の到来が望まれるのだと思われますが、そうした気配、あるいは国際情勢での文脈も、現時点においてはないと思われますので、今後も、2020年頃から今なお続くコロナ禍と同様、否が応にも、それら情勢の推移を注視し続ける必要があるように思われます・・。

そしてまた、そのように考えてみますと、1945年の太平洋戦争の敗戦以来、我が国にとって、最も戦争に巻き込まれる可能性(危険性)が高くなっているのが現在であるように思われます。

我が国にとって理想的な今後の展開は、ロシアがウクライナへの侵攻を諦め、東部ドンバス地方そして南部のクリミア半島からもロシア軍が撤退し、さらに、中華人民共和国が台湾への侵攻を完全に止めることであると云えますが、しかし、たとえ、そのような方向へ情勢が推移したとしても、その次は我が国の内部での諸問題に焦点が当たり、それらもまた、全て良い方向での解決は困難であると思われますので、こうした状態がまさに「内憂外患」と評し得るのではないかと思われます。

とはいえ、こうした国内においても不安定な要素が活性化している状況は、何も我が国のみに限られず、各種報道を視るかぎりにおいては世界各地にて生じていることであるとも云えます。

そして、こうした世界規模にて、さきの「不安定な要素が活性化している状態」を歴史を視座として考えてみますと、今後の進展は、必ずしも、我が国にとって都合の良いものにはならないと思われるのです。

そして、そうした考えが依拠する歴史は、1930年代の我が国と(ナチス)ドイツによるものであり、実際にウクライナに侵攻したロシアに関しては、少なからずの研究者の方々が、そのことを指摘されていました。

しかし同時にロシアの方は既に戦争を始めていますので、他方の中華人民共和国の動向については、1930年代以降、既に統治していた南満州に飽き足らず、満州全土を手に入れ、そこに傀儡国家をおき、さらに中国全土の支配を目論んでいた、当時の我が国と比較してみますと、先ず、一国二制度により高度な自治権が認められていた香港への中華人民共和国からの締め付けが厳しくなり、さらに、そこから少し北上した東側の海にある台湾に対しても、他の国々からの繰り返しの非難にもかかわらず、威圧的な行為を繰り返しています。さらに、最近では観測気球(飛行艇と云う)がアメリカ合衆国、カナダ上空などで発見され撃墜されていますが、これに対しても国際法上明らかな領空侵犯であるにも関わらず、中華人民共和国政府は、陳謝や反省の弁を述べることはなく、逆にさらに強硬な態度を示しているとのことです。

この事態の推移からは、さきの1930年代の中国大陸での我が国の動向、そしてまた1960年代初頭のピッグス湾事件、そしてキューバ危機などとも相通じるものがあるように思われますが、同時にそれらの背景にある諸要素は同じではありませんので、さらなる検討が必要であると思われます。

そして、このたびの一連の動向が、今後、砲弾やミサイルの発射、そして何より流血や人命の損失を伴わずに収束に向かうことを切望していますが、しかし、実際の事態の進展とは、どのような方向に進むことになるのでしょうか?

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2023年2月12日日曜日

20230212 株式会社三省堂刊 ウィル・バッキンガム著 小須田 健 訳「哲学大図鑑」 pp.134‐137より抜粋

株式会社三省堂刊 ウィル・バッキンガム著 小須田 健 訳「哲学大図鑑」
pp.134‐137より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4385162239
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4385162232

二種類の真理がある。理性の真理と事実の真理だ
ゴットフリート・ライプニッツ(1646年~1716年)

 初期の近代哲学は、しばしば二つの学派に区分されるものとして提示される。合理主義学派(こちらには、ルネ・デカルト、ベネディクトゥス・スピノザ、イマヌエル・カントらが含まれる)と、経験主義学派(こちらには、ジョン・ロック、ジョージ・バークリーそしてディヴィッド・ヒュームらがふくまれる)だ。

実際には、それぞれに異なる哲学者たちを二つのはっきりしたグループに分けることなど簡単にできる話ではない。なにしろ、このグループの本質的なちがいは、認識論的なものであった。

つまりそれは、私たちはなにを知りうるか、自分たちが知っているということをどうやって私たちは知っているのかといった点にかんするちがいであった。簡単に言うなら、経験主義者たちは知識は経験に由来すると述べ、合理主義者たちは知識は理性的反省によってのみ獲得されうると主張するのであった。

 ライプニッツは合理主義者であったが、理性の真理と事実の真理のあいだにライプニッツが設けた区分は、合理主義と経験主義との論争に興味深いひねりをくわえるものであった。ライプニッツが主著「モナドロジー」で述べるところによるなら、原理的にあらゆる知識は合理的反省によって到達可能だ。だが、私たちの合理的能力につきまとう欠点のせいで、知識を獲得する手段として経験にも依拠せざるをえない。

心のなかの宇宙

 ライプニッツがどのようにしてこの結論にいたりついたかを見るには、彼の形而上学、つまりライプニッツが宇宙はどのように構成されていると考えたかを、わずかでも理解しておく必要がある。

ライプニッツによるなら、世界のあらゆる部分、あらゆる個々の物は、ある明瞭な概念ないし「観念」をともなっており、その観念のおのおのには、それ自身が本当のところなんであるのか、さらにはほかのものとどう関連しているのかにかかわるいっさいが内包されている。

宇宙のなかのありとあらゆるものが連結しあっていればこそ、あらゆる観念がほかのすべての観念と連結していることになるのだし、さらにこの連結をたどって宇宙全体の真理を発見することも、原理的には理性的反省の力だけで可能になるとライプニッツは主張する。こうした意味での反省が、ライプニッツの「理性の真理」という考えへつうじてゆく。だが、人間精神には、そうした真理のうちのごく少数のもの(たとえば幾何学の真理のような)しか把握できない。そのため経験にも頼らざるをえず、そこから「事実の真理」が生れる。

 こうして、たとえば雨が降っていると知ることから、地球上のどこかほかの場所では明日なにが起こるかを知ることへと推論を進めることが可能となる。ライプニッツの考えでは、その答えは、宇宙が「モナド(単子)」と呼ばれる個別的で単純な実体から構成されているという事実に潜んでいる。おのおののモナドはほかのモナドから分離されていて、それぞれが過去・現在・未来のあらゆる状態における全宇宙の完全な表象をふくんでいる。この表象がすべてのモナドのあいだで同調(シンクロナイズ)すると、あらゆるモナドが同じ内容をもつことになる。神が事物を創造したのはこのようにしてだとライプニッツは語る。つまり、あらゆる事物は、「前もって確立されている調和状態」にあるのだ。

 ライプニッツは、すべての人間精神がそれぞれ一個のモナドであり、したがって宇宙についての完全な表象をふくむと主張する。だから私たちには、原理的に言って、この世界およびそれを越えたものについて知りうるすべてを、ただ自分自身の精神を探索するだけで知ることができる。たとえば、ベテルギウス星について私がもつ観念を分析するだけで、ついには、いま現在のベテルギウス星の表面温度を決めることすらできるだろう。だが実際には、私が絶望的なまでにーライプニッツの用語で言うなら、「無限に」-複雑なために、またそれぞれを私が網羅することができないために、ベテルギウス星の温度は、理性の真理なのかそれとも事実の真理なのか。その答えを見つけるには経験的な手法に訴えかけるのが筋なのかもしれないが、私の理性的反省によってそれを発見できたほうがよかっただろう。だから、それがどちらの真理であるかは、私がどのようにしてその答えにいたりついたかに左右される。だが、これがライプニッツの言いたいことなのだろうか。


20230211 小説、物語などから認識される、さまざまな状況について

ここ最近、日が長くなり、また気温も上下しますが、日中の最高気温が少しづつ上がってきたように感じられます。また当ブログも、今回の記事投稿により、1950記事に到達します。さらに、そこから50記事の追加投稿により、当面の目標としている2000記事に到達することができるわけですが、こちらについては、当ブログ開始から丸8年となる、来る6月22日までに達成出来れば良いと考えています。

そうしますと、これから凡そ130日の間に50記事の新規投稿ということになりますので、概ね2.6日に1記事の投稿頻度となります。これであれば、そこまで苦とならずに(どうにか)到達することが出来るようにも思われますが、また今後、事情により、記事作成をしない期間がある可能性も数度見込まれることから、今後もしばらく、毎日の記事作成を目指して続けて行こうと思います。

そういえば、先日投稿の「昨日のSNS上での出来事から思ったこと【書籍をめぐる縁について】」は、おかげさまで、最近投稿したオリジナルのブログ記事としては、比較的多くの方々に読んで頂くことが出来ました。これを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

そしてまた、それに関連してか、あるいは偶然であるのか、ここ最近相次いで、読んでいる小説の話題になったことがありました。その話の中で私がカレル・チャペックによる「山椒魚戦争」を挙げたことから、その直後に岩波文庫版のそれを書棚から見つけ、またしばらく読んでいたところ、興味深い記述をいくつか見つけたため、その一つを引用記事としたのが去る2月8日投稿分となります。

カレル・チャペックの作品は、去る2020年頃から新型コロナウィルス感染症が国内で拡大し、緊急事態宣言が発出された頃に「白い病」(戯曲)が話題となり、書店にて平置きされていた時期がありました。そして前出の小説「山椒魚戦争」は、昨年2月末からのウクライナ・ロシア戦争、そして近年の中華人民共和国による台湾進攻への懸念などとも関連あるいは通底する要素があるように思われます。

とはいえ、これらの作品は、それぞれフィクションとして書かれていますが、そこで大変興味深いと思われることは、もちろん、和訳文ではあるのですが、作中のさまざまな記述、描写などに、ある種の「現実感」があることです。

その具体的な一例として、去る2月8日投稿分の引用記事が挙げられますが、同時に、この引用部は、当著作を知った契機となった以前の2016年に引用記事を作成した荒俣宏による「理科系の文学誌」内にある「山椒魚戦争」についての記述が、まさに、この引用部に該当すると思われるのです。

そのように考えますと、私は2016年に「理科系の文学誌」から「山椒魚戦争」を知り、その2年後に当著作を読み、そこからさらに5年後、各種報道などで知る世界情勢から当著作が思い出されたわけですが、この一連の経緯から考えられことは、さまざまな規模での状況の様相とは、情報を多く収集することのみでは認識が困難であり、こうした小説、物語などをモデル、仮説として、そこから現実での要素を加味、検討をして、徐々に(現実との)整合的な認識へと至ることが出来るのではないかと思われるのです。そして、おそらく、この段階において、より重要であると思われるのが「文字、文章による伝達であること」であると思われるのですが、さて、如何でしょうか?

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2023年2月9日木曜日

20230208 株式会社岩波書店刊 カレル・チャペック著 栗栖 継訳「山椒魚戦争」 pp.265‐266より抜粋

株式会社岩波書店刊 カレル・チャペック著 栗栖 継訳「山椒魚戦争」
pp.265‐266より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003277414
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003277416

山椒魚学校が国有化されたことによって、事態は簡単になった。どの国でも、山椒魚は、その国の言葉で教育されたからである。山椒魚は外国語を、比較的熱心に学ぶのだが、彼らの言語能力には、奇妙な欠陥があった。それは一つには、発声器官の構造によるものであり、一つには、どぢらかというと、心理的な原因によるものだった。たとえば、彼らは多音節から成る長い単語を発音するのが困難で、一音節にちぢめようとし、短く、すこしばかり蛙の鳴くような声で発音した。rと発音するところをlと発音し、歯擦音の場合は、心持ち舌たらずだった。文法上必要な語尾を落としたし、「私」と「われわれ」の区別が、どうしても覚えられなかった。彼らには、ある単語が女性であるか、男性であるかは、どうでもいいことだった(交尾期をのぞいて、性的に淡白であることが、こういうところに現れているのかもしれない)。

 彼らの口にかかると、どの言語も性格が変わり、この上なく単純で基礎的な形に合理化された。彼らの新語、発音、それから文法的単純さは、港に働く下層の人間たちばかりでなく、いわゆる上流階級のあいだに浸透したが、こういう表現方法は新聞にまで現れるようになって、やがて一般化した。人間のあいだでも大幅は文法上の性が焼失し、語尾が脱落し、格変化がなくなった。教育を受けた青年たちまでrを発音せず、舌たらずの歯擦音を出すようになった。教養のある人びとでも、インデテルミニスムス(非決定論)あるいはトランスセンデントノ〔英語ではトランセンデンスで、先験的世界〕の意味を説明できるものは、ほとんどいなくなったが、それは、これらの単語が、人間たちにとっても、長すぎて発音しにくくなったからにすぎない。

2023年2月8日水曜日

20230207 光文社刊 宮台真司・野田智義著「経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来」 pp.189‐193より抜粋

光文社刊 宮台真司・野田智義著「経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来」
PP.189‐193より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334952933
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334952938

宮台 スローフード運動は、1986年、イタリアのローマにマクドナルドの第1号店がオープンした際、市民の間え「僕らはパニーニを食べるんだ」という声が上がり、反対運動がわき起こったのをきっかけに発展しました。99年8月には、ジョゼ・ボヴェという有名なフランスの農民活動家(現欧州議会議員)がマクドナルド店舗解体キャンペーンを始め、その様子は世界中に伝えられました。人間が社会の、あるいはシステムの奴隷になってしまうのを避けようとする戦略的な運動は、90年代をピークに一定の広がりを見せたのです。

 しかし、その後の運動には陰りが見え始めます。それは、とりわけ90年代半ば以降のグローバル化の急進展で、地元商店が大規模資本の直営店やフランチャイズに置き換えられて、ファストフードが雇用を生み出す重要なシステムとして見直されるようになったためです。2018年には、フランス、マルセイユ郊外のバルテルミー地区で、地域経済の落ち込みによってマクドナルドの閉店が決まると、住民たちが「閉店反対運動」を起こしました。

これは、残念であると同時に、非常に重大な展開です。共同体が共同体であり続けるための条件はいろいろありますが、そこには経済的環境も含まれます。具体的には、グローバル化の影響による格差拡大で貧困化が進んだコミュニティでは、人々は生きていくためにあえてシステム世界を選択せざるをえず、それによってコミュニティはますます壊れて、ますますシステム世界に依存していきます。ヨーロッパ的アプローチの限界はそこに表れています。

 マクドナルド化をディズニーランド化で埋め合わせる

宮台 これに対し、アメリカではシステム世界を重視し、システム世界の全域化そむしろ徹底しようとしています。

 移民国家アメリカの社会は多人種・多民族で構成されており、人間関係は互いを知らないという「不信ベース」で成り立っています。人間集団の基本は、同じ価値や目的を持つ人たちが集まるアソシエーション(組織集団)で、行動に責任を負うのはあくまでも個人です。また、キリスト教原理主義の国なので、人々は神に見られていると感じており、汎システム化によって人間が経験する精神的不安定にも比較的耐性が強い土壌が備わっています。

 システム世界の全域化を徹底するアプローチは、こうした歴史や文化を反映したものです。一口で言えば、成員が「動物」でも回る社会の仕組みを構想しようというものです。ここで「動物」というのは、不快を避け、快に向かう性質を持つという意味です、つまり、人々の内発的な善意ー良心ーを用いる代わりに、アメとムチだけでなく、快・不快の巧妙なコントロールを行うアーキテクチャ(仕組み)による管理下を進めるという戦略です。

 飲食店を例に取ると、大資本の直営店やフランチャイズ店では、BGMの音量、照明の明るさ、座席の硬さ、家具や調度のアメニティを使って、客の滞留時間をコントロールし、単位面積当たりの収益率を上げようとします。客は、そうした戦略に気づかず、「疲れたな」とか「飽きたな」と感じて、主観的には自発的な選択として店を出ますが、そうした自発的な選択がアーキテクチャによってコントロールされています。ローレンス・レッシングは「CODE-インターネットの合法・違法・プライバシー」(山形浩生・柏木亮二訳、翔泳社、2001年)という著書で、これを「アーキテクチュアル・パワー」と呼びます。

「人間が快・不快を感じる動物でありさえすればよい」とするこうしたアプローチは、収益率上昇にとっては有効ですが、副作用をともないます。こうしたアーキテクチュアル・パワーを用いたシステムは、客の常識的な価値観を一切当てにしないので、システム世界の全域化が進んでいけば、社会はその分、さらに「不信ベース」になりがちです。

 そうした流れを象徴するのが、モンスター・クレーマーによるカスタマー・ハラスメント(顧客・取引先からの嫌がらせ・過度クレーム)です。不信や不安が原因で、損得勘定に過剰に敏感になって、些細な不利益でヒステリーを起こす人が増えるのは、システム世界の全域化にともなう当然の副作用です。

 そうした副作用にどう対処するのか。アメリカ的アプローチでは、システム世界の全域化による副作用には、システム世界の全域化の徹底によって対処します。アメリカのマクドナルドでは、商品を受け取るまでの時間が長いことを理由に店員を殴ったクレーマー事件が発生すると、すぐさま警察に突き出して解決します。警察=行政というシステムで解決するのです。さらに、Airbnbなどでは、プロバイダーのみならず、消費者・ユーザーの振る舞いも評判スコアにカウントされますが、そうしたシステムを使うわけです。

 ここから少し話を進めます。マックス・ウェーバー研究で知られる社会学者ジョージ・リッツァは「マクドナルド化する社会」(正岡寛司監訳、早稲田大学出版部、1999年)という本を書いています。元になっているのは1980年代に書かれた論文ですが、そこで彼は「マクドナルド化(McDonaldization)」と「ディズニーランド化(Disneylandization)」という言葉を使います。

 リッツァの言う「マクドナルド化する社会」とは、人間が「動物」でありさえすれば回るような脱人間化・没人格化・損得化が進んだ社会です。そういう社会では、人々は「かけがえのない人間として扱われたい」という感情を無視されることで疎外感や不安感を抱くようになり、カウンセリングを受けなければ押しつぶされてしまうような心理状態に置かれます。

 それを対処するために使われるのが「ディズニーランド化」、すなわち祝祭的消費に因る感情的回復です。アメリカでは、マクドナルド化によって人々が抱くようになった疎外感や不安感を、ディズニーランドによって与えられる祝祭体験で埋め合わせることで、人々が感情的に破綻してシステム世界からこぼれ落ちることがないようにしているのだ、というのがリッツァの図式です。

 そこには「システムがつくり出した裂け目を、システムで埋める」というシステムのマッチポンプがあり、人間はマッチポンプの素材へと貶められています。そこには、人間を動物のような制御対象と見なすシステムの自己運動があるだけで、社会の主人としての人間という存在はほとんど完全に消え去っています。われわれの尊厳は、果たしてそれで保たれるのか。保たれないからこそ、トランプ現象や、Qアノン現象のような陰謀説のまん延があるのではないでしょうか。みなさんにじっくり考えていただきたい点です。

2023年2月6日月曜日

20230206 中央公論新社刊 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ著 清水富雄・飯塚勝久・飯塚勝久訳「モナドロジー・形而上学叙説 」pp.14-17より抜粋

中央公論新社刊 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ著 清水富雄・飯塚勝久・飯塚勝久訳「モナドロジー・形而上学叙説 」pp.14-17より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600746
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600745

ドイツが30年戦争の線から立ちなおるには、ほとんど1世紀を要した。この時代のドイツの惨状は、同時代の記録によると、たとえば人口は四分の三を失い、家畜類や財貨の損失はさらにはるかに大で、農業はもとの状態に回復するのに、ある地方では2世紀を要し、大多数の商業中心地は亡び、政治団体はあらゆる悪徳が蔓延していた。これらのすべては30年戦争に帰せられた。

 今日では、かかる状況記述には誇張があると言われ、第一に、ドイツは1618年にすでに破壊の途上にあったこと、第二に当代の記録はかならずしもそのまま信頼しがたいことが指摘されている。君主たちは金融上の義務を避けるために、諸国の損害を言いたて、市民は税をまぬがれるために、すべて自国の状態をどぎつい極彩色で描いているという。たとえばスペイン政府に対して書かれた損害表には、ある地方では破壊された村の数が存在の知られている総数以上になっている。人口の減少もある程度までは一時的な移住によるものがあり、社会的にも破壊よりは移転による。

 しかし、誇張があるにしても真実がないわけではない。人口の四分の三を失ったか、あるいはそれほどの率でなかったかにかかわりなく、それ以前にも以後にもドイツの歴史が経験しなかった全般的な災厄であったことは事実であり、挽回しがたい災厄という実感が一般的に広がっていたことはたしかである。すくなくとも戦後のドイツ再建の仕事に直面した人々には、これが一般的印象であったであろう。

 スウェーデン軍だけでも約2000の城、18000の村、1500以上の町を破壊した、バイエルンは18000の家族と900の村を失った。ボヘミアは6分の5の村と4分の3の人口を失った、とそれぞれ主張した。ユルテムベルグでは住民の6分の1に、ナッサウでは5分の1に、ヘンネベルグでは3分の1に、ヴォルヘンビュッテルは8分の1に、マグデブルグでは10分の1に、オルミッツでは15分の1以下に減少した、という当代の記述は、伝説であるとしても、モンテーヌ将軍はナッサウで「自分自身の目で見たのでなかったら、一地方がかくも荒らされ得るものとは信じなかったであろう」と述べている。(ウェッジウッド「30年戦争」1957)。

哲学者の課題ー再統合

 しかし、戦争の直接の損害より根本的に重大であったのは、社会秩序の崩壊、権威や宗教の不断の変化動揺、それがもたらした社会の解体である。これがまさに思想家の直面する問題であり、これの再建、復興が思想家の避けがたい課題となる。われわれの哲学者ライプニッツがあえて講壇の生活を捨て、広い世間に出て活動することを意欲した動機には、かかる背景が想定されてよいであろう。この課題は哲学と宗教と政治にまたがる。具体的には、分裂対立した宗教的信条の再統一、再統合、それにつながる政治的問題である。

 これを根本的に基礎づけることは哲学の使命である。これらいっさいにわたるものが、ライプニッツがみずからに課した問題である。彼の哲学が志向するものはこれなしには理解しがたいであろう。「永遠の相のものに」人間と世界を観想することを説いたスピノザが、「神学・政治論」「国家論」を書かざるを得なかったのも、同一の哲学的使命感によるであろう。しかし、それをいかなる哲学にもとめるかは、哲学者がいかなる人間であるかによって決定される。

 ライプニッツの遠大な世界史的活動は、マインツ選帝侯に仕えることによってまずその端緒を見いだした。これ以後ライプニッツの活動には、全生涯を通じて、常に宗教、政治、哲学・科学が内面的に相交錯しており、それらがずれも独立分離していないことが彼の全活動の根本的性格である。そして、それが常に世界的規模において、「普遍的universal」な見地において行われることが、もっとも性格的なところである。

 彼が君主に仕えたのは、経済的に独立でなく、しかしスピノザのようにつつましい孤独な思索者たることに満足せず、世間の中で活動することを意欲したからではあるが、より根本的な動機としては、偉大な君主をとおして自己の大志を実現しようとしたのであろう。彼の全生涯を見ると、かならずしも一国一君主に隷属した忠実な廷臣ではない。それゆえ、彼の天才を洞察することのできた君主には信頼されたが、これを理解し得ない君主には白眼視された。結局、真に彼を用いる英邁な大国の君主に出会うことのできなかったのは彼の悲運であった。彼の真の理解者・共感者は宮廷の貴婦人だけであった。