2022年9月22日木曜日

20220921 自分の服装・恰好に対する反応から思ったこと・・

私は電車などの乗物に乗った状態にてPCを使うと酔ってしまうことが多く、また、喫茶店などでPCを開いて何らかの業務を行っている方を見ますと、その真剣な様子に気圧されしてしまうのか、自分ではあまり積極的には行いたいとは思いません。つまり、私はPCを持って出て、外出先や移動中にて、出来るだけPCを用いた業務を行いたくありません。そして、それは基本的に現在でも同様ではあるのですが、本日は、インターネットの繋がる環境とPCがあれば出来る業務があったことから、リモートワークでこれを行おうと、ノートPCを持って外に出ました。

リモートワークが出来る喫茶店は都内某所にあり、以前から何度か訪問させて頂いていました。電車を乗り継いで店に着き、注文をして席に座り、PCを開き、アダプターやマウスを接続して電源を入れて立ち上げた丁度そのころ、スマホのラインにて連絡があったため、それに対しての返事をして、また別件にて電話をかけることを思い出し、喫茶店前の歩道に出て、通話を試みていた時、向う側から、ワイシャツにプレスのきいたスーツのパンツを着て、首からIDカードホルダーを下げた20~30代ほどの4人組の男性が、ほぼ横並びに会話をしながら、こちらの方に歩いて来ました。そして、スマホで電話を掛けている私の前を通り過ぎる時、何人かがこちらを一瞥し、そして通り過ぎた後「日雇い労働者Ww」「出稼ぎじゃないの?Ww」と笑っておられました。

さすがに、そうしたことを云われても激昂出する(出来る?)ような年齢ではなくなってしまいましたが、その時「ははあ、私の恰好はそのような感じに見られるのか・・。」と思いました。ちなみにその時の私の恰好は、かれこれ10年以上前、デッドストックにて購入し、現在では色褪せたODグリーンの米軍のジャングルファティーグジャケットの下に淡青色のキューバシャツ、そして、その下に白のクルーネックシャツを着て、リーバイスのデニムブッシュパンツにベージュスエードのダナーライトをはいていました。また、頭にはベージュのブーニーハットを被っていましたので、たしかに、小ぎれいな格好であったとは云えないかもしれません・・(苦笑)。

ともあれ、そのような出来事に際して即座に怒ることが出来なかったことは現在となっては仕方がないのかもしれませんが、同時に、であるからと云って、あまり自分の服装の路線を変えようとは思わないことは、多少考えものであるのかもしれません・・(笑)。

しかしながら、今から、そうした服装の路線を変えて、もう少し小ぎれいにしてみたところで、何かが変わるものなのでしょうか?

そのように考えてみますと、たしかに今さら怒る気持ちは起きないのですが、しかし同時に絶望とは違うものの、何やらとてもイヤな、うすら寒い感覚が残りました。

まあ、生きていますと、時には、そのようなこともとありますね・・。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


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2022年9月20日火曜日

20220919 書籍を読んでいて不図、発見・気が付くことについて

いくつかの読み進めている書籍以外で、書棚からある書籍を不図、取り出し立ったままでしばし読むことが度々ありますが、面白いもので、そうした機会に選び、読んだ書籍の記述から、突如として、これまで知ってはいたものの、記憶の片隅に追いやられていた、何らかの知識が想起させられることがあります。

それは、それらの間に認められる、何らかの共通性などの発見ですが、こうしたことは意図して狙ったものではないことから、比較的鮮烈に記憶に残るのだと思われます。直近でのそうした経験は、去る9月17日投稿分の「株式会社岩波書店刊 谷川健一著「日本の神々」pp.186-188より抜粋」の記述にある「元来、山陰地域を根拠とした名和水軍は、南北朝時代に加担した南朝方が敗れて、その残党は、味方である肥後の豪族菊池氏と、その根拠地である肥後国に遷り、そこからさらに南の琉球に進出した」という伝説から、自らの以前の投稿記事「20190323 対話形式2007年10月頃のこと」内、以下の記述が思い出されたことです。

「6世紀の継体天皇の御代に九州北部で生じた磐井の乱はご存じだと思いますが、それで、その筑紫君磐井の墳墓とされる岩戸山古墳周辺地域に特異的に見られる石人石馬もご存じであると思うのですが、この石人石馬が、何と!鳥取県の石馬谷古墳からも、一つだけですが出土しているのです・・。それで、この共通項から遡った地域を考えてみますと、それは古代朝鮮半島南東部にあった新羅ではないかと思われるのですが、これは未だ仮説、いや一応、歴史的背景などは考えてはいるのですが、現段階では空想と云えます・・(笑)。」

厳密には、岩戸山古墳は肥後国には属しませんが、古墳時代、6世紀頃においては、筑後と肥後の有明海をのぞむ地域一帯には、ある程度共通する文化があったものと思われます。そして、その地域での埋葬文化の一つの顕われとして、石人石馬があると云えますが、若干時代は先行するものの、これと同様とも云えるものが、山陰地域にて出土していることは大変に興味深く、おそらくこれら(有明海沿岸の筑後・肥後地域と、伯耆国の山陰地域)での共通する文化を育んだ故地のようなものがあるのではないかと思われますが、おそらくそれは、さきの引用部通り、朝鮮半島南半分の何処か(おそらく旧新羅地域)にあるのではないかと思われます。

また、さきの有明海沿岸と伯耆国について、その他の共通する要素を考えてみたところ、岩戸山古墳が有明海の近く(多少内陸ではありますが、そこに流れ込む矢部川の流域)そして石馬谷古墳が宍道湖・中海と、双方共に内海・潟湖近くの地域に立地していることが共通しており、ここからもまた、居住地域に対する共通した嗜好性のようなものが感じ取れます。

とはいえ、内海を控えた地域での居住を嗜好する生活文化自体は、古墳時代以前の弥生時代から続いており、面白いことに、内海や湖を控えた地域(宍道湖・中海がある出雲、琵琶湖がある近江、浜名湖がある遠江)に、銅鐸もまた集中して出土しているのです。このことは、さきの古墳時代での石馬発見事例とも文化的な連続性があるのか未だ不明ではありますが、他方で、そうした内海・潟湖や湖の近くに居住地を定めるのは、当然であるのかもしれませんが、水稲耕作を主たる生活手段とした集団であると云えます。

ともあれ、このような、一見あまり関係がないように思われる離れた地域から、共通すると思われるものが、時代が変わりつつも、いくつか見出すことが出来る背景には、やはり何かしらの要因があると思われます。そして、この場合であれば、その主たるものは、案外単純であり、列島沿岸を流れる「海流」であったのではないかとも思われます。

こうした事例は、その他にも国内外に多々あるとは思われますが、その着想を、書籍などを読んでいて不図、思い付いた時は、やはり現在でも多少ワクワクしますが、そうした着想は、発見と云うよりも、むしろ(ハッと)気が付くといった感覚の方が、より適切と云えるのかもしれません。

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2022年9月18日日曜日

20220918 早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」 2: 昇る太陽 pp.150‐152より抜粋

早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」
2: 昇る太陽 pp.150‐152より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504350
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504359

午後零時三十三分、〈レパルス〉は転覆し、ゆるやかな荘厳さで、まず艦尾を先に、艦首を「教会の尖塔」のように突き上げ、恐ろしい紅色の艦底をみせた。千五百メートル上空から壱岐大尉は、艦首がまっすぐ自分に向いていたのを信じられないように見守った。〈レパルス〉は視界から消えた。これはありえないことだ。飛行機はこんなに容易に戦艦を沈められるものか。「万歳、万歳」壱岐は大声を出し、両手をあげた。乗機は舵輪をつっ放されて、前のめりになった。

 搭乗員も狂喜して万歳を叫び、救急箱のブドウ酒で乾杯した。壱岐が下を見ると、海面に何百と点が見えた。二隻の駆逐艦が生存者を救い上げていた。壱岐には機銃掃射を浴びせる気は起らなかった。イギリス人は武士道の伝統の下に勇敢に戦った。しかし今日助命した敵は明日は自分を殺すかもしれぬことを彼は知らねばならなかった。

 〈プリンス・オブ・ウェールズ〉が五発の魚雷で致命傷を受け、ほとんど停止状態にあるとき、九機の水平爆撃機が迫って来た。午前零時四十四分、爆弾が斜めに降って来た。命中弾は一発だったが、三万五千トンの戦艦はよろめき、沈み始めた。原則は水面下にあった。リーチ艦長は総員退去を命じ、フィリップス提督と彼は艦橋に立ち、去って行く部下に手を振った。「グッドバイ」リーチ艦長は呼びかけた、「ありがとう。幸運を祈る。」神の祝福を」午後一時十九分、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉-国王陛下の不沈艦と呼ばれたーは撃たれた河馬のように左へ転覆、一分足らずで視界から消えた。小男の提督とリーチ艦長とともに・・・。

 六機のおそまつなバッファロー戦闘機がシンガポールから現れたときには日本機は空のどこにも見えなかった。T・Aビゴーズ大尉は海中でもがく将兵を見おろして、茫然とした。彼らは手を振り、なお親指を突き上げて意気を示した。

 魚雷を投下できなかった高橋大尉は帰投の途中だった。〈プリンス・オブ・ウェールズ〉と〈レパルス〉の運命が極まったことを知り、不思議な同情の気持に襲われた。イギリス海軍は兄貴ではないか。彼はその衝動と戦った。しかし涙がこみ上げてきた。壱岐大尉は悲しみをもって桃井と田上のことを思った。彼は自分の魚雷が最初に〈レパルス〉に命中したことを知っていた。しかし報告には戦死した二人の戦友が最初の二発を命中させたとした。それは彼らのために為しうる最小の、そして最後のことであった。壱岐の隊が着陸すると、喜びに沸く整備員たちが、機を囲んだ。搭乗員は引っ張り出され、胴上げされた。壱岐が、胴上げから脱出すると、パイロットの一人が言った。「突っ込んでいったとき、魚雷を撃ちたくなかった。あまりにも美しい艦だったからなあ」

 東京の軍令部では海軍の高官たちは、戦艦が大海原で航空機に撃沈されたことをとうてい信じられなかった。それは彼らの海戦の概念の終局を意味した。航空隊員は歓喜していた。過去十年彼らが説いて来たことが実証されたのである。東南アジアへの勝利の第三の、そして最後の障害が、わずか飛行機四機の犠牲で除かれたのである。

 翌朝、壱岐は〈レパルス〉と〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の墓場を飛んだ。海上低く、沈没地点を通ると、花束を投下した。

2022年9月17日土曜日

20220917 株式会社岩波書店刊 谷川健一著「日本の神々」pp.186-188より抜粋

株式会社岩波書店刊 谷川健一著「日本の神々」
pp.186-188より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4004306183
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4004306184

地名の一致

 沖縄最初の統一王朝、第一尚氏んお根拠地であった沖縄本島の東南部、知念半島の根もとにある佐敷という地名は、じつに私の故郷の熊本県水俣市(もと水俣町)の北にもある。水俣町大字浜に祀る八幡宮は私の氏神であり、「日本の地名」(七八ページ)でも触れたが、幼少の折に、宮詣りする参道の傍に源為朝を祀る小祠のあるのを見て通りすぎていた。そこは江戸時代に浜村の舟津と呼ばれた漁民集落であるが、「肥後国誌」によると、為朝は舟津から琉球にむかって船出したという。曲亭馬琴も「椿説弓張月」の中で、この挿話を取り上げていて、同書の末尾には、

 肥後に佐敷と唱ふる所あり、水俣へ四里半、八代へも遠からず。琉球山南省に、又佐敷と唱ふる間切あり。肥後に浜村といふ漁村あれば、琉球の勝連にも、又浜村といふ村里あり。

 と述べている。

 肥後の浜村は、水俣の大字浜にほかならない。八幡宮のある舟津はその中に含まれる。琉球の勝連に浜村のあることは「中山伝言録」巻四に見える。これは今の浜比嘉島である。私の郷里の水俣の浜(旧浜村)や近傍の佐敷と同じ地名が、第一尚氏の根拠地にも見出せるということは偶然の符合だろうか。それとも、肥後の南部と第一尚氏との間に何らかの関係があることを示す証跡なのだろうか。

 こうして私はいつの間にか折口信夫の「琉球国王の出自」という論考をめぐってあれこれと考えてみるようになった。

 折口によれば、後醍醐天皇の皇子懐良親王が九州に下向した折、肥後に領地を持つ伯耆の名和一族も肥後の菊池水軍と協力して、南朝方に尽くしたが、親王はやがて亡くなり天下の大勢を挽回することもできなくなった。 

 そこで肥後の八代、佐敷などを根拠地としていた名和水軍の残党は、九州西海岸に沿って南下し、沖縄本島の東南部の知念半島一帯を制圧し、佐敷に沖縄の最初の統一王朝の基礎をきずいたという説である。

20220917 「やる気」から「習慣」に変化したところで生じるものについて

 三日前に、ツイッター上に、文系師匠によるオンライン記事が流れてきました。そして、その翌日(二日前)には、文系師匠からメッセージが届き、そこで件のオンライン記事のことを紹介されていました。私は師匠への返信にて、紹介された記事は既にツイッターに流れて来ていたため知っていたことをお伝えし、当該ツイッターURLを返信メッセージにコピペして送信したたところ、すぐに返信が届き、SNS上での情報伝播の早さに感心されていました。

他方、私の方と云えば、先日開催の文系院勉強会から、本日に至るまで、色々と動くことが多かったことから、当ブログの更新は進みませんでした。また、本日に関しても、さきほどまでは書籍からの引用記事にて充てようと考えていましたが、この出来事を題材として作成出来るのではないかと考えなおし、さきほどから記事作成を始めた次第です。そしてそこから、この程度まで文章を作成出来ましたので、少なくとも、失敗ではなかったように思われます。

また、現時点までの総投稿記事数は1845となっていますが、繰り返すようですが、やはりブログの更新頻度も徐々に鈍ってきたと云えます。しかし、そうした状態ではあるものの、年内に当面の目標とする1900記事に達するため、あと55記事を100日ほどで投稿する必要がありますが、これは今後、そこまで大きな労苦を経ずにどうにか、達成出来るのではないかとも思われます。それ故、もう少し自分に負荷を掛けても良いとも思われることから「年内に1900記事+αまで到達すること」を新たな目標としたいと思います。この程度であれば、特に無理を強いるものではありませんので。

とはいえ、このあたりまでブログを続けていますと、内心のどこかで「もういい加減止めてもいいのでは?」と思う気持ちもあり、端的に以前ほどの「やる気」はなくなったと云えます。しかしそれでも(どうにか)継続することが出来ているのは、それが習慣になっているからであると云えます。

私見としては、このことは重要なことであり、当初の「やる気」によって継続していた行為が「習慣」となることにより、当初感じていた面白味や達成感は徐々に減衰したと云えますが、しかし、これら面白味・達成感がなくなったところで、なおも継続することにより、おそらく知覚は困難ながらも、内面での変化は生じており、そこに上達の過程といったものがあるのではないかと思われるのです。

つまり、意識して行ってきた行為が継続により無意識化され、感覚に訴えるものが乏しくなってから、上達の過程は本格的なものになるのではないかと思われるのです。あるいは更に別言しますと、以前投稿のいくつかの記事において、ブログ記事作成の継続では、つまらなく感じる、いわばプラトーとも云える時期があると述べましたが、こうした時期に、尚も継続するなかで、知覚・意識することは困難ながらも、上達の過程が進行しているのではないかと思われるです。

他方で、昨今、更なる進化発展を遂げているさまざまな技術により、退屈な、つまらなく感じられる、さまざまな要素が捨象されていく傾向があると思われます。そこから、この傾向は全面的に良いことであり、それにより我々人類は、より創造的になれるものと考えられがちですが、こうした考えは全面的に間違いではないとは考えますが、しかしながら同時に、それらは個々の具体的な事例について精査されることがとても重要であると思われます。

そして、その精査が何故、重要であるかは、その精査の過程によって示される・生じるモデルが今後の教育にも影響を及ぼすからです。またそこで、参照されるものが古今東西のさまざまな現在と類似する特徴や傾向を持つ時代に為された議論そして、そこから生じたさまざまな思想ではないかと思われるのですが、このあたりの抽象的・観念的なことについて、我々日本人はどうも即物的・此岸的性質が相対的に強いためであるのか、とても苦手であるように思われるのです。

とはいえ、今後、劇的にそうした性質が変化するとは思われませんので、私見としては、我々日本人が比較的得意な分野と云える手作業を通じて抽象的・観念的な発想にも親和性を見出すことが比較的容易に可能と思われる、さまざまな医療介護職の方々を、より多く養成することが重要ではないかと思われるのです。また、その養成課程において重要であると私が考えるのは、発音などを過度に重視しない実践的な職業に用いるための語学と、内発性の継続的な駆動を促す教養科目の充実であるのですが、これはこれで問題があるとは思われますが、しかし、それなりに具体的な方策であるとも思われますので、よろしければ、各人各様にてご検討頂ければと思います。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年9月14日水曜日

20220913 久しぶりに開催された勉強会に参加して思ったこと

ここ数日間は新規のブログ記事投稿をしませんでしたが、その間、かなり久しぶりに西日本を訪問し、2019年以来コロナ禍によって開催出来なかった文系院の勉強会に参加させて頂きました。それでも、今回の勉強会では、参加者のお一人であり、また当ブログにて何度か扱わせて頂いる先輩は、ご家庭の事情からリモートでの参加となっていました。これもまたコロナ禍以前でしたら、あまり想像出来なかった状況であると云えます。

そしてまた、かねてより当勉強会を主催されている先生が、使用教室の教壇スクリーンに、PCのZOOM画面を映写出来るよう設置して、一方で、教室内をより広角にて映すことが出来るビデオカメラを机上に置いて、さらに、勉強会の開催中は、発言者にビデオカメラが向き、そしてズームするように手許のコントローラーを操作されている様子が不図目に入りましたが、その時は、議論に集中していたことからか、あまり分かりませんでしたが、こちらの典型的な人文系研究者とも云える先生が、ごく自然に、それら機器を使いこなされていたことは、後になって考えてみますと、何かしら感じ入るものがあったと云えます・・。

おそらく、こちらの先生はコロナ禍がなければ、それ以前と同様、板書による講義のスタイルを続けられていたと思われますので、正に幸か不幸か、コロナ禍によって、否応なく、それまでの講義スタイルの変更を迫られて、そして、新たな機器に順応されたのだと云えますが、それら機器を自然に操作されている様子を思い出してみますと、そこに認められる、新たなことへの学習力や吸収力には、驚きの念を禁じ得ません。

ともあれ、おかげさまで、私は去る8月初旬、文系師匠にお目に掛かった時以来、久しぶりに思う存分、人文系の議論をさせて頂きました。こうした勉強会のような機会は、現在の私にとっては大事なものであり、あるいは、こうした経験の機会があり、それが徐々に時間を経て抽象化(昇華?)されて、こうしたブログを書く為の、観念的な意味での材料となっているのではないかとも思われます。

ちなみに、当勉強会を主催されている先生は、去る2018年6月3日の投稿記事「2012年初秋開催の勉強会での記憶から・・」に登場する「魔の山」についての質問をされた先生であり、やはり、その仰るところには、分厚い教養の層を濾過されたとも云える、ある種の深み・含蓄があり、またこれは、医歯薬理工系(自然科学分野)の先生方からは、なかなか看取されない種類のものであるように思われます。

しかし、その「ある種の深み・含蓄」については、今後、さらなる明瞭化のために考えていきたいと思いますが、あるいはそれは、先日来から、当ブログにて扱っている「無双感」・「黒光り」とも多少関連があるのではないかと思われてきましたが、さて、実際のところはどうであるのでしょうか?

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2022年9月10日土曜日

20220910 中央公論新社 結城昌治著「軍旗はためく下に」pp.271-273より抜粋

中央公論新社 結城昌治著「軍旗はためく下に」
pp.271-273より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122069130
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122069138

第二話 従軍免脱

簡単にいえば自傷して従軍を免れようとする行為である。

よくも悪くも平均値的な兵隊が大隊長の当番兵をしているうちに、専用の女にうつつをぬかすような戦陣生活を送っている大隊長や、後方で酒食に耽る余裕のある連隊長以下の将校連中、前線では欠乏しがちの酒・甘味品に限らず多量の糧秣弾薬を抱えこんで、さながらそれが私物であるかのように振舞う主計将校らの所業に腹を据えかね、薬指を切って血書を認め師団長に直訴に及んだ。

 それが、直訴の内容は無視されて、自傷を従軍免脱とこじつけられ、軍法会議に送られて、判決は死刑、処刑は即日行われた、という事件である。

 その背景には、南方の戦局が日に日に傾いて、小康を保っている支那派遣軍各部隊がいつ南方へ送られるかわからないという状況がある。幹部将校の腐敗を目撃したりすれば、欠乏だらけの戦陣生活に厭気がさしている兵隊が、この上さらに南方へ送られてはやりきれないと思うのは、兵隊心理として一般である。場合によっては、指の一本ぐらい自傷してでも避けたいことである。その自傷を正当化するための血書直訴であると疑えば疑えないこともない。

 問題は、しかし、そんなところにあるのではない。直訴などという追いつめられてむき出しになった人間感情を、正当に受理し処理するようなチャンネルと人間的配慮は、よほど英邁で識見豊かな司令官か参謀長でもいない限り、軍という組織にはあり得ないことが問題なのである。

 直訴を行った上等兵が何年兵であったか明らかでないが、上等兵になっていて切捨御免の時代に生きているのと大して変わりはないことを知らずにいたわけでもなかろうに、この測定の甘さはどうしたことか、と、もどかしさが残る。直訴など通る軍隊ではないのである。軍隊は腐敗を抱えたままで、その腐敗の程度が深ければ深いほど、その体制の維持に汲々とし、そのためにはどのような非人間的処置をも辞さない組織である。師団長が兵隊の言うことを聞くと思うのが間違いである。師団長は、その戦略単位における天皇の代理人である。天皇や幕府の将軍が庶民の直訴に関心を示した歴史を私たちは持っているであろうか。もし有力なコネも何もない兵隊が上級将校の非違を質したければ、刺交えるつもりで衆人環視の場で弾劾するほかはない。結果は、兵隊にはおそらく規定の最高刑(五年以下ノ懲役又ハ禁錮ー第七十三条)が、相手は転属か、悪くてせいぜい予備役編入か免官ぐらいであろう。それでも、事実の影だけでも残し得る。これをする勇気を、しかし、ほとんどの兵隊が持ち得なかったのである。ひとつ間違えば兵隊の生命など法によって簡単に消されてしまうのだ。「おほきみ辺にこそ死なめ、顧みはせじ」というのは、兵隊の内発的な美徳の情熱ではなくて、皮肉なことに、国家や法が兵隊の生命をかえりみないのである。