2022年5月3日火曜日

20220502 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.93-96より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.93-96より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

1898年、スーダンの首都ハルツームとナイル川を挟んで西岸に位置するオムダーマンで、チャーチルは英軍による最後の騎兵隊の突撃に参加した。またしても植民地の抑圧者の側で、イギリスの支配に異を唱えたスーダンのイスラム教徒マフディー軍の反乱の鎮圧支援を行った。マフディー軍の最も大きな不満の一つは、黒人の奴隷制度を廃止しようとするロンドン政府の動きであった。このときも母ジェニーはチャーチルが兵隊兼レポーターとして配属されるよう奔走した。軍部の上層部にとっては不愉快な根回しである。しかもチャーチルの役割は重要度を増していた。ブラッド卿よりもはるかに隆々とした口ひげを蓄えたキッチナー将軍にスーダンのイスラム教徒の軍隊の場所を実際に告げる偵察役となったのである。

 作戦の目的は、イスラム教徒の指導者を敗退させ、チャールズ・ゴードン英大佐の殺害の恨みを晴らすことだった。13年前、ハルツームで大佐が無残に串刺しにされた事件は、当時の世界に衝撃を与えた。1898年9月2日午前8時40分、チャーチルは総勢6万人のダルヴィーシュ軍に向って馬を走らせていたが、すでに英軍が彼らを1時間以上にもわたって銃撃していた。チャーチルとその部隊は150人にのぼる土着の槍兵軍を相手にするものと思ってやってきたが、敵はライフル銃兵であった。

 ダルヴィーシュ軍は突然ひざまづき、イギリス軍槍騎兵の別部隊に発砲を開始した。どうすべきか?逃げるか、それとも攻撃するか?イギリス軍は攻撃することを選んだ。チャーチルは、ダルヴィーシュ軍の方向に100ヤードもない場所を担当していたが、自分が12人もの槍兵たちでぎゅうぎゅうの谷間に突進していっていることに気づいた。

 そこで彼は何をしたのか?もちろん戦い続けたのである。ひどい混戦で、ダルヴィーシュ軍の多くがボウリングのピンのようにひっくり返っていった。チャーチルはマウザー銃を10発放ち、自分も馬も無傷で攻撃を終えた。峡谷を突き抜け、ダルヴィーシュ軍と英軍とが互いに切り刻むなかを動き回った。

 チャーチルは「敵の兵士に乗りつけ、ピストルを顔面めがけて発射し、数人を殺害した。3人は確実に死んだが、2人は重傷、残る1人はたぶん逃げおおせただろう」。こうして書くと、戦闘が一方的であったような印象を持たれるかもしれない。結局のところ、英軍にはマキシム機関銃があり、敵を持っていなかった。 

 しかし、そう考えるのは戦闘の危険性を大きく過小評価している。イギリスの兵士310人のうち、21人が命を落とし、49人が負傷した。チャーチルはのちにこう語っている。「私の一生において最も危険な2分間だったといっていいだろう」。

 いや、果たしてそうだったのだろうか?チャーチルはこの後で第二次ボーア戦争(1899~1902年)で戦い、幾度となく屈強なオランダ人農夫たちから砲火を浴びた。オランダ人はパシュトゥン人やダルヴィーシュ軍よりも射撃が上手であったし、より優れた武器を持っていた。チャーチルとボーア人の戦いの全容についてここで繰り返す余裕はないが、複数の本が出ている。少なくともそのうちの二冊はチャーチル自身の筆によるものである。

 つまるところチャーチルは24歳のレポーターとして、このイギリスにとって不幸な戦争に参加したのである。この戦いで、南アフリカの歴史小説家ウィルバー・スミスが書いたアフリカ南部の草原を舞台とする小説のページから出てきたような、奇妙な声を発するひげもじゃの奴らが、ついに新聞の一面を飾ったのだった。

 チャーチルは南アフリカのナタール植民地のコレンソと呼ばれる場所まで装甲列車に同乗した。敵に攻撃を受けて、列車は脱線。このときチャーチルは攻撃の的になりながらきわめて冷静に振る舞い、自分自身の安全を顧みず反撃した。毎度のことながら、弾丸を浴び、毎度のことながら、奇跡的に生き延びた。いったんは敵に捕まったが、捕虜収容所から逃亡し、貨物列車に飛び乗って、森に隠れた。ハゲワシに驚かされ、炭鉱に隠れ、ロレンソ・マルケス(現在はモザンビークの首都、マプト)にたどり着いたときには英雄として歓迎を受けた。

 その後チャーチルは首に懸賞金をかけられた状態で自転車部隊と同行してプレトリアを抜け、デュウェツドープという町で再び撃たれてあやうく殺されそうになった。さらに第二次ボーア戦争のダイアモンド・ヒルの戦いでは「人並みはずれた勇気」を見せた・・・。読者諸氏はそろそろおわかりだろう、私がこの章でお伝えしたかったことが。

 さらに続けてもいい。1915年に陸軍に入ると、ガリポリ戦の後、西部戦線に向かい、膠着状態の塹壕のあいだにある中間地帯に36回も出ていった。時にはドイツ戦線にあまりにも近づいたために、敵の会話が聞こえるほどだったという。チャーチルは爆弾や弾丸にいかに無頓着だったかという話もできるが、もう十分おわかりだろう。

 チャーチルは、青年時代、というより一生を通じて、並外れた勇敢さを見せた。彼に向ってどれほど多くの弾やミサイル弾が発射されたことだろう?1000発?自分の手で何人を殺したのだろう?12人?いや、おそらくもっと多いだろう。ナポレオン戦争で軍功を重ねたウェリントン公爵以降、チャーチルほど実戦を経験した首相はいない。暴力で歯向かってきた途上国の戦闘員そしておそらく非戦闘員に対して個人的に殺意を行使した首相はいない。

 チャーチルのように四つの大陸で銃撃を受けた首相もいない。ここまでくれば、賢明な読者諸氏には、チャーチルの勇敢さは疑いないものと納得していただけるだろう。とはいえ、なぜ彼がそのような性格だったのかを知りたいとも思われるだろう。

2022年5月2日月曜日

20220501 5日間のブログ休止期間に読み進めた書籍から思ったこと 「文化の断層の程度」

ここ最近では珍しく5日間、当ブログの更新を止めていました。また、その期間は出来るだけPCもスマートフォンも触らないようにしていましたが、他方においては、かねてよりの読書は以前と比べて、いくらか捗ったように思われます。

過日投稿の記事においても述べましたが、ここ最近は我が国の古代史、考古学を扱った著作を主に読み進めていますが、こちらの方は、どうにか200頁過ぎにまで至り、そこでは、我が国での所謂「古墳」が誕生する直前の時代について述べられており、また、その先の記述については、ざっと読んでみたところ、古墳に付随する祭祀についての記述が、比較的多かったように思われ、また、こうした記述(古墳に付随する祭祀の様相)は、これまでに読んだ著作全般において、あまり多くはなかったか、あるいは、それについて、私が関心を持ちつつ読んでいなかったためであるのか、あまり記憶がありません。

ともあれ、こうした契機から、往時の古墳にて行われていた祭祀の様相が、これまでよりも判然とするのであれば、その先の読書も、自身としては興味深いものになると云えます。そしてまた、この古墳時代への胎動期とも云える弥生時代末期の2世紀代とは、銅鐸、銅矛などの青銅製祭器が祀られた最後の時代であり、その先の古墳時代においては、かつての青銅製祭器が担ってきた役割が首長墓(古墳)での祭祀に替わると云えるのですが、しかし、この青銅製祭器を用いた祭祀の終焉と、それに代わり造営されるようになる古墳、および、それに付随する祭祀の間に、どのような文化的な断層があったのかとは、未だに包括的な見解があるわけでなく、あるいは地域ごとに違うとも云えるのでしょうが、ともあれ、この文化的な断層の期間に「古事記」に記された「出雲の国譲り」そして「三国志」の「魏志倭人伝」に記載のある「倭国大乱」があったと思われるのですが、このあたりの詳細、つまり、さきに述べた文化の断層の程度が未だよくわからないのです・・。

そこで、前述の「文化の断層の程度」をより具体的な現象として表現しますと「それまで祭祀に用いてきた銅鐸などの祭器は埋納されたが、それまで銅鐸祭祀を掌ってきた人々はどうなったのか?」ということになると思われます。

これは「日本書紀」の神武東征の記述において、征伐された紀州北部の土着女酋長である名草戸畔(なくさのとべ)あるいは、同じく征伐された新宮付近での女酋長であった丹敷戸畔(にしきのとべ)のようにヤマト王権側の軍勢によって誅殺されたのかもしれませんし、あるいは、神話にあるように、これまで治めてきた地域での統治権をヤマト王権側に譲り渡し、自らは同地域内の他の場所に移るといった、いわば穏やかなカタチのものもあったと思われます。

ともあれ、そうした過程を経ることにより、ヤマト王権の基盤は確たるものになっていったのでしょうが、しかし、そのように考えてみますと、おそらく、こうしたことは、その後の壬申の乱や源平の合戦、南北朝の争乱期、戦国時代、そして幕末維新の頃などにおいても、多少規模の相違はあれ、概ね同様とも云えるような様相があったのではないかと思われるのです・・。

そして、上記のような戦乱によって生じた「文化の断層」について扱った、さまざまな著作の記述をあたってみますと、それらの中から、地域、時代における、ある種の普遍的な性質(文化の断層が生じる際での特徴的な動態)のようなものを看取することが出来るのではないかとも思われてきますが、さて、如何でしょうか?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
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2022年4月26日火曜日

20220425 文藝春秋刊 司馬遼太郎著「翔ぶが如く」第一巻pp.4-7より抜粋

文藝春秋刊 司馬遼太郎著「翔ぶが如く」第一巻
pp.4-7より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4167105942
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4167105945

私に吉野郷ゆきをすすめてくれた知人も、40がらみの大入道のくせに、高原への登り坂のどのあたりの道端に気をつけなさいよ、露草がきれいにならんで紫の小さな花をつけていますから、というようなことを言い添えた。この露草好きの知人は、同時に、「チェーイ」とひき裂くような掛け声で立ち木を打つ示現流の名人という評版があった。

 吉野郷への登り道には楠が多く、皮革質の葉のおびたたしいつやめきが陽と風のなかで騒いでいいる。この土地ほど、この照葉樹の似合う風土はなさそうであった。

 大崎ノ鼻に立ってみると、なるほど風が強い。私の知人は風のことだけを言ったが、かれがかんじんなことを言わなかったことに気づいた。元来かんじんなことはなるべく口中に含んで言わないというこの土地の古いしきたりを私の知人も身につけていた。

 山風や潮風よりも、じつは眺望であった。この大崎ノ鼻に立つと、濃い群青の錦江湾に浮かぶ桜島の山容とその色彩が、どの名陶をも見すぼらしくさせてしまうほどの凄味をもって迫ってくる。

それだけではなかった。

太陽がちょうど桜島の右肩の上にあった。

そのために桜島をとりまく錦江湾のブルーは濃淡をもって縞模様をなしている。

太陽の真下にあたる右手の海は波がきらきらと跳ねあがって見えるばかりに鮮かであり、中央の海は逆光のために黒く、海底に怪魚の蟠るのを想像させるほどに古代的な不気味さをたたえていた。 

 しかしながら目を左へ転ずると、まったく異なる青の世界がはるかにひらけていた。
海は軽佻なほどにあかるく、
「泣こよっか、ひっ翔べ」
という上代以来の隼人どもの心を、この青が染めあげたかと思われるほどに陽気であった。

 この大崎ノ鼻からながめると、桜島が中央の主座にすわり、その右手のほうはるかな天に、薩摩半島の先端に位置して薩摩富士といわれる開聞岳がうかんでいる。
 左手には靉々としたかすみのむこうに霧島山がそびえ、しかもそれだけではなかった。高千穂の峰が、衣のすそをひく神人のようにかさなっているのである。
 ところがこれらがみな活火山であるために、この風景は猶今後変化するかもしれず、できあがってまだ2000年も経っていないのである。
 奈良朝あたりではこれらがしきりと大爆発し、ときに海中が沸いて新島を盛り上げるなど、そのおそろしさに人が住みかねていたらしく、平安初期になってようやく開墾がさかんになって中央の土地制度に組みこまれた。それ以前にはこの国の海岸に住むひとびとは、
「隼人」
といわれていた。歌舞伎の化粧がそうであるように目に赤いクマドリをし、ときに頬に赤い染料をぬり、その行動が敏捷であるためにハヤビトとよばれた「魏志」に出てくる倭人を思わせ、げんに薩摩人はすでに戦国のころから自分たちこそ日本人の原型であり、他は日本人に似た連中であるという優越感をもち、江戸期になると島津家はその家柄についての優越感からひそかに徳川将軍家を軽んじる気配さえあった。げんにかれらが徳川家を倒して明治維新を成立させたとき、仲間の長州人の場合のように過剰な対徳川家憎悪も持たないかわりに、倒れゆく徳川家に対し無用の感傷をもたず、どちらかといえば土俵でうつたおした好敵手に対する闘士としての奇妙な愛情を持ったという、ふしぎとしか言いようのない気配を歴史の上に投影した。

 しかもかれらは自分のつくった明治国家をも気に入らず、明治十年までいっさい中央の指令をこばんで独立薩摩圏としてありつづけた。
「君たちはえたいが知れない」
この吉野郷の桐野どんの掘立小屋のようだったという生家をあとに訪ねたとき、正直なところそう思った。

2022年4月25日月曜日

20220424 書籍を探す方法の変化、および、季節による興味の変化について

今回の記事投稿により、総投稿記事数が1765に到達し、そして今後さらに新規で35記事投稿することにより、当面の目標としている1800記事に達します。また、速やかにこの目標に至るためにも、今月4月内に、出来るだけ多くの記事を投稿し、具体的には、今月内で1770記事にまで到達出来ればと考えています。そうしますと、残り30記事を50数日のうちにて投稿することになり、頻度にしますと、概ね5日のうち3日、新たな記事作成をすれば良いことになります。これは、これまで直近での投稿頻度と比べて若干楽になったと云えますが、さらに、もうじき来るGW期間においても、少し投稿頻度を上げて、後になってから、もう少し休むことが出来るようにしたいとも考えています。

さて、2年前にツイッターを始めてから、動画サイトにて、報道系や国際情勢などの動画を観ることが、以前よりも多くなりましたが、それら動画の中には、大変勉強になり、興味深いものも少なからずあり、さらには、そうした動画での告知情報によって書籍を購入することも(度々)あるため、その意味においては、これら動画による私への効果は、TV番組を遥かに凌駕していると云えます。

そう、ツイッターを始めてからの直近2間年で、大きく変わったことの一つは、書籍購入への動機づけであると云え、それ以前では、人から得た情報や、他の書籍での記載などで、ある程度あたりをつけてから探したり、あるいは、森での昆虫採集のように、ひたすら、書店内の書棚、書籍背表紙の森の中にて、立ち読みしつつ徘徊・探索するといった方法を用いてきましたが、この後者については、若い頃は、楽しみつつ半ば夢中で出来ていましたが、近年は、費やすことの出来る時間そして体力的にも、多少困難になってきたことから、いわば、さきに述べた、これまでの書籍を探す手法の代替として、動画サイトの視聴を通じて得た各種情報を充てるようになったと云えるのですが、これについては、今現在において「用い得る一つの手段としては悪くない」といった見解を持っています。

他方で、どうしたわけか、私には、季節が温暖になってきますと、我が国の古代史についての興味が湧いてくるといった性質があり、そのことを、先日入浴中に考えていたところ、私の古代史に関しての興味が本格的に生じたのは、和歌山、南紀在住の頃であり、そこでの、さまざまな古代から続いているのであろう、事物や意匠そして、それら全てを包括している土地の大気の中で、しばらく暮らしていますと、徐々に心に変化が生じてくるのではないかと思われます。そして、この心の変化の一つの要因が、その土地での独特の植生から発せられる、いわば「大気の薫り」のようなものではないかと思われるのです。

これにつきましては、もう少し文章を進めたいところではありますが、一先ず、ここで区切らせて頂きます。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2022年4月23日土曜日

20220423 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.346-350より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.346-350より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

彼はまた、ホワイトハウスを電話に出させるためにあらゆるチャンスを利用した。アメリカのジャーナリストと交流し、彼らを首相別邸のチェッカーズに招くようになった。

 アメリカではラジオの聴取者が増える一方だったので、彼は臆面もなくアメリカの聴衆に向けて演説を行うようになった。有名な1940年6月4日には次のように直接的な訴えで演説を終えている
。

 ヨーロッパの大部分、伝統ある国の多くがゲシュタポなどナチス支配の嫌悪すべき組織の手に落ちました。あるいは落ちんとしています。しかし私たちは萎れてはなりません。負けてはなりません。最後まで戦い抜きます。私たちはフランスで闘います。海上で、洋上で戦います。高まる信念と強靭さをもって空中で戦います。海辺で戦います。上陸地で戦います。野で戦い、街路で戦います。丘で戦います。けっして屈服しません。そしてもしも、私は一瞬たちともそうなるとは信じませんが、イギリス全土、あるいは大部分が服従を強いられたり、飢えたりしたならば、イギリス艦隊によって武装され、護られた海のかなたのわれわれの帝国が闘争を続けるでしょう。神のお導きにより、新世界が全力で旧世界を救い、解放するために足を踏み出してくれるまで。

 神に祈っている点に注目していただきたい。今でもそうだが、神は当時のアメリカ政治においてイギリスよりもかなり大きな役割を果たしていたのである。彼は7月のオラン演説のクライマックスと同じ方式を使った。自分の行動についての判断を「アメリカ合衆国に」委ねたのである。

 ゆっくりとではあるが、チャーチルの試みは成果を出しつつあった。しかしそれは困難な道のりであり、対価も大きかった。第一に、駆逐艦と基地の取引があった。イギリスは50隻の退役駆逐艦と引き換えにトリニダード、バミューダ、そしてニューファウンドランドの基地をアメリカに引き渡したのだ。古いバスタブのような駆逐艦は浮かせるのも一苦労で、1940年末までに使用可能になったのはわずか9隻だった。

 次にアメリカは何がしかの武器を売ることに同意した。しかし中立法に基づき、イギリスは即座の現金払いを要求された。1941年3月、アメリカの巡洋艦がイギリスの最後のなけなしの金塊50トンを受け取るためにケープタウンに派遣された。借金のかたに薄型テレビを押収する管財人のようなものだった。アメリカにあったイギリス企業は最安値で売却された。イギリスが自分たちは実質破産しているのだと抗議し始めると、アメリカ政府はイギリスの真の支払い能力を調べにかかった。まるで年老いた生活保護費の受給者が財産隠しをしていると咎める社会保障局のようだった。

 将来の支払いを見込んで続けられた武器貸与については、チャーチルは「史上最も高潔な行為」と表向きは言っていたかもしれない。しかし内輪では、イギリスはアメリカに皮をむかれ、骨まで鞭うたれていると言っていた。武器貸与の条件として、アメリカはイギリスの海上貿易に干渉することを言い張り、イギリスが大いに必要としていたコンビーフをアルゼンチンから輸入することを停止させた。

 武器貸与法は、終戦後もイギリスが自国の商業航空政策を運用する権利を妨げ続けた。この損得抜きの高潔なはずのアメリカ政府の行為に対して、イギリスはなんと2006年12月31日にやっと支払いを終えた。その日、当時財務省の経済担当副大臣だったエド・ボールズ氏が8330万ドル、4250万ポンド相当の最後の小切手とアメリカ財務省に対する感謝の手紙を書いた。戦時債務の支払いに関して、これほどまでに卑屈な几帳面さを示した国がほかにあっただろうか。

 アメリカは第二次世界大戦の初期の段階でイギリスが大量の現金を吸い上げ、その流動性のおかげで最終的に大不況から脱出でいたのだという見方もある。アメリカの戦争マシーンを始動するクランクの役割を果たしたのはイギリスの金だった。ところが、アメリカにとって申し分ない条件だったにもかかわらず、1941年の初め頃、アメリカの政治家の多くは、この合意はイギリスにとって寛大過ぎると考えた。結局、法案は下院で260対165の票決で可決されたが、イギリスに法外な金額で救命胴衣をくれてやることを拒否したこれら165人の議員たちは一体何を考えていたのだろうか。彼らは旧世界が沈むのを見たかったのだろうか。実際、そういうことを一瞬考えた者もいただろう。

 チャーチルはその手のアメリカ人たちを味方に引き入れなければならなかった。ところがその年の終わりには、これら同じアメリカの国会議員たちをチャーチルは手なずけていた。1941年12月のクリスマスの翌日、彼らは議場を埋め尽くした。チャーチルが演説をするために立ち上がる前から、全上院議員、下院議員が歓呼の声を上げてやまなかった。何が彼らの気持ちを変えたのだろうか。

 そう、パールハーバーでちょっとしたことが起きたのである。日本による奇襲があったのだ。その数日後、ヒトラーがアメリカに宣戦を布告するという常軌を逸した決定をした。これらのことがようやくアメリカの議員たちをしてイギリスと一体感を持つに至らせるのに役立ったのかもしれない。

20220422 歴史の通説が相転移的に変わるような出来事があることについて

おかげさまで昨日の投稿記事の閲覧者数は思いのほかに伸びていました。こちらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、後になり、当記事を読み返してみますと、即興にて作成し、主題も途中で変わっていたりはするのですが、そこで述べていた自意識の相・層に流れている、あるコトバの流れを文章化することが重要との趣旨については、少なくとも間違いではないように思われます。

また、この意識の中でのコトバの流れには、いくつかの相・層があり、当ブログのような公表を前提とする文章なども、いわば、そうした相・層に流れている一つであると云え、そして、それを文章化してブログ記事とすることが、多くの場合、面倒に感じるところであるのですが、ここを何と云いますか、記事のクオリティーよりも、とりあえず作成することに重点を置いて作成してみますと、如上のような書き出しとなります。

しかし、実際斯様に記事作成を始めてみますと、これまでに逡巡しながら作成した諸記事と比べても、あまり大きな差異を感じることはありませんので、今後しばらくの間、出来る限り拙速を許容するスタンスにて進めてみようと思います。

さて、昨日の投稿記事にて述べた、現在読み進めている著作ですが、その後も少し進み、銅矛、銅鐸そして銅剣、銅戈などの青銅器について述べた章へと至りましたが、このあたりの記述からは、既知の知見が更新されて、興味深く読み進めていますが、それでも、当著作が刊行された2020年初旬(執筆されたのはさらに以前)においても、この西日本を主とした、これら各種青銅製祭器の出土分布の様相については、かねてより私が知るものから、あまり大きな変化はないようでした。

この我が国における各種青銅器の出土状況は、記紀などにある記述との関連性などが考察されて、ヤマト朝廷成立以前の社会の様子について検討されることが多くあり、とりわけ「古事記」にある出雲神話について、かつて「出雲」という地域は、大変に強く、近畿のヤマト朝廷とも(西日本での)覇権を争っていたとされるが、かつての、この地域の強大さを示す遺物、遺跡等があまり見出されなかったことから、それはあくまでも神話だけのハナシ、設定であるとも考えられていましたが、それが1984年の出雲市での荒神谷遺跡(国内最大規模、358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土)そして1996年、同県雲南市にて加茂岩倉遺跡(一箇所からの出土としては最多である39個の銅鐸が出土)が発見されたことにより、我が国が地域毎にて独特の青銅製祭器を盛んに用いていた弥生時代中期以降における、出雲地域の重要性、そしてまた「古事記」記載内容への、ある種、史実への妥当性が検証されたことになりました。

つまり、この島根県の2遺跡の発見により、弥生時代末期の我が国社会の様相への認識が大きく変わったと云えるのですが、出土された遺物等に基づき研究される考古学などの分野では、おそらく、この2遺跡の発見といった、いわば「大事件」が生じると、それまでの学問上の通説が大きく変わるということがあるようです。

以前、私がこの出来事を森浩一氏の著作を通じて知ってから、これら遺跡の発見以前に書かれた、本邦青銅製祭器の出土状況および、当時の社会様相についてを扱った書籍を図書館であたってみたところ、いくつかの書きぶりのパターンがあり、そのなかには「古事記」では出雲についての記述が多くあるものの、実際の出雲地域の重要性については疑問視する見解も複数ありましたが、他方で、当ブログにて以前に引用記事とした金関丈夫氏による我が国の青銅器文化について述べた記述は、和歌山のメッサオークワ ガーデンパーク内の書店での立ち読みの際に見つけ「おお!この2遺跡の発見以前に、このような、その後にも通用する見解を述べていた方がいたのか・・。」と、いたく感心した記憶があります。

ちなみに和歌山で思い出し、また以前に当ブログにて述べましたが、前述の銅鐸39個が出土した加茂岩倉遺跡にて出土した四つの銅鐸と、和歌山市のJR和歌山駅東口近くの太田黒田遺跡にて出土した銅鐸は、同一の鋳型にて作成されたものであることが分かっており、それらの関係性や来歴が気になるところですが、こうしたことは、未だ文字の使用が一般的ではなかった時代のことであることから、突飛な仮説や憶測に結び付きやすい易いと思われがちですが、実際の出土遺物に基づいた研究によって、こうしたことが明らかになることは、やはり、それなりに面白く、興味深いことであるように思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
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2022年4月22日金曜日

20220421 ブログ記事作成に際して意識化(文章化)される相・層について

現在の総投稿記事数が1761記事であることから、今月4月内で、出来るだけ1770記事に近づけることを今月の目標として、今後しばらく進めていこうと思います。さて、相変わらず、就寝前や移動時にて、いくつかの書籍を読み進めていますが、今回は、かなり久しぶりに我が国の古代史を主題とした著作を読んでいます。久しぶりに読む分野の著作は当初、その文中に出て来る独特のコトバに慣れず、しばらく、読み進めるのに苦労をしますが、しばらく読み進めていると、徐々にそうしたコトバにも慣れて、スムーズに読み進めることが出来るようになりますが、しかし同時に、著作を読み進める集中力のようなものが、以前ほど続かなくなってきたようにも思われます。そのため、その他の著作も併読しているわけですが、こちらは、さきの古代史の著作と比べると、和訳された著作ではあるものの相対的に読み易いと云え、また、そこに書かれている記述には、しばしば、現在、東欧にて続いている戦争にも関連性があるのではないかと思われるものがあり、こちらはこちらで大変興味深いと云えます。

ともあれ、今回は上述のような独白形式にて記事作成を進めてきましたが、こうして作成する文章には、ある種の相・層のようなものにあるようで、たとえば、昨今であれば、日中の移動中にて考えていたことは、そのまま文章化して、当ブログの記事となることはありません。以前であれば、ブログのネタ帳のようなものを持ち歩いており、何か(自分なりに)面白いことが思い浮かぶと、それを書き付けて、それを後に見直してから、夜半に、当ブログの記事作成を行ってきましたが、それは当初から約2年間ほど続いて、そこから後は基本的にネタ帳などを見ないで記事作成を行うようになりましたが、あるいは、さきに述べた文章の相・層に速やかに至るためには、このネタ帳のようなものは有益であったのではないかと、考えることが度々あり、これは、今後のさらなる効率的な記事作成のためにも、あらためて検討してみようと思います。

さて、このように、これまで1700以上のブログ記事を作成・投稿してはきましたが、こうした記事作成に関する試行錯誤や右往左往は今なお続いており、また、自分の文体を確立したといった実感は全くありません。7年近く継続していても、こうした様子ですので、計画的な記事作成を行っていれば、もっと早期に自身の文体を確立出来たとも云えるのかもしれません・・。しかし、こうした、外から訪れる、いわば相転移のような大きな経験に関しては、あまり人為的に急かすような性質ではないように思われるのです。しかし、未だ経験していませんので分かりませんが、文体の確立といった経験は、感知できるような性質を持っているのでしょうか。あるいは、感知出来ない性質のものであるならば、何故「文体の確立や獲得」といったコトバが生まれたのでしょうか・・。

といった様子で、当ブログのことを考えている相・層もあり、それを意識化しますと、上記のような文章になりますが、それと同時に、他の相・層にあると云える、さきに挙げた、現在読み進めている我が国の古代史に関しての著作は、その題名から、当初、主に古墳時代を扱った書籍であると思われたのですが、実際読み進めてみますと、その前段階と云える主に弥生時代に列島内に広がった水稲耕作社会についての記述部分が思いのほかに長く、120頁を過ぎた今なお、その部分を読み進めています・・。しかし、面白いもので、こうした記述を読んでいますと、また徐々に、以前に知っていた、その分野での知識が、記憶のなかで生気を持ち始め、そして、読み進めている文章の記述と、思い出された当該分野での知見による、すり合わせ、検証のようなことが為され、加上され、新たに編集された知見となったり、あるいは初めて読む知見であることから、とりあえず保留して、憶えておくようにしますが、しかし、こちらの記述を読んでいて面白いと思ったことは、ある遺跡名などが出てきますと、それが以前に読んだ著作に記されていて既知である場合は、自然、その遺跡の概要、特徴が思い出されるのですが、その想起された概要や特徴は、概ね合致しているか、あるいは間違っていないのです・・。

しかし、そうした遺跡に関しての情報は、常時意識にあるわけではありません。しかし同時にそれ等情報は、私の記憶の中にあったと云えるのです・・。

そして、そうした書籍を読み進めて出て来たコトバから、それに対応する以前に知った情報を記憶の中から検索して意識上にあげるという行為を継続して行きますと、その行為を通じた中で、ある種のパターン認識のようなものがあるのではないかとも思われてくるのですが、こうしたことに関しては、何かしら手技を伴う実験とも似た要素があるのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
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ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。