2022年2月11日金曜日

20220211 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.243-246より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.243-246より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

独墺合併が当時のヨーロッパを聳動させたということはいうまでもない。しかし、かつてはその実現を阻止するためには武力干渉を辞しない決意を示したイタリアは、今は終始傍観の態度を持したのであった。イタリアは当時すでにドイツへ著しく接近するにいたっていた上に、対アビシニア戦争のあとをうけてその主たる関心をアビシニアとイタリア本国とを結ぶ連絡路としての地中海へ注ぐにいたっており。しかも、この地中海に関してもまたイギリス・フランスに対抗する関係上ドイツの支持を将来にわたって必要と考えていた、オーストリアの独立保全に対するイタリアの関心は、こうして、もはや著しく冷却するにいたっていた。独墺合併後、ムッソリーニは演説して、「山々の彼方の国民(オーストリア人を指すー著者)は、1934年にわれわれがなしえたことに関してわれわれの注意を喚起するという憂鬱な単純さを依然もっている。けれども、われわれは答える、あの年以来多くの水がテヴェレの、ドナウの、シュプレーの、テームズの、そしてセーヌすらもの橋の下を流れたのである。この時期の間に、イタリアは巨大な、そして血塗れの努力をしながら、われわれの未だに忘れ得ないあの制裁がイタリアの上に課せられるのを経験したのである」と述べた。彼はこのような言葉でオーストリア問題に対するイタリアの態度変化を説明したのであった。他方、イギリスおよびフランスは独墺合併についてドイツのとった手段に対して抗議しながらも、オーストリアの事態に対して戦争を賭して干渉する意志は全くなく、傍観的態度を持したのであった。しかし、このような中でソ連邦はドイツが独墺合併によって東南ヨーロッパへ膨張したのに対して警戒の念をいよいよ深くし、ドイツの今後の侵略を防止すべき方法について四国会議をひらくことをイギリスに提議したが、イギリスはこれを拒否したのであった。チェンバレン首相は議会においてソ連邦のこの提案について述べて、それはヨーロッパが二つのブロックに分裂している現状をさらに悪化させてイギリスを必然的に戦争へ導くものであるとなし、宥和政策の立場を依然堅持する旨を明らかにしたのであった。
 しかし、独墺合併がヨーロッパの政治地図を変えたことの意味は、きわめて大であった。昔から「東南ヨーロッパへの門」と考えられていたウィーンをその掌中に収めることにより、ドイツ軍はハンガリー平野の端を抑え、バルカン半島の入口に立つにいたったのである。また、独伊両国が今や遂に国境を相接するにいたった結果として、フランスが小協商諸国およびポーランドに軍事的援助を提供することは全く困難となった。けれども、当面の最も重大な結果は、チェコスロバキアの版図の約半ばがドイツの領土によって包囲された形となり、しかも、その部分の中にはドイツ人を主要人口とするズデーテン地方が含まれていたことである。そこで、ドイツの膨張計画の次の対象はチェコスロバキアであろうということが、いち早く噂されるにいたった。そして、現に独墺合併の直後からヘンライン(K. Henlein)を党首としたズデーテン・ドイツ党(Die Sudetendeutsche partei)の運動を中心としてズデーテン地方の事態は早くも著しい不穏を呈することになった。このズデーテン・ドイツ党はその創立以来ドイツ外務省から資金的援助を仰ぎ、ドイツ政府の指令にもとづいてその運動を行ってきたのであったが、同党は、独墺合併の翌月にはズデーテン地方に関して高度の自治を要求するにいたった。そして、この前後を通じて同党はこのズデーテン地方のドイツ人とチェコ人との間の衝突を極力挑発することを試み、それによってズデーテン問題を同地方の被抑圧少数民族の問題として世界に強く印象づけることを努めたのである。このような中で、チェコスロバキア政府は同党に対して譲歩的態度をもって折衝し、極力交渉の妥結をはかったのであるが、ドイツは同党を操って解決を常に回避する方針をとらせて事態を紛糾させ、ドイツがチェコスロバキアへ干渉する口実をつくり出すことを企てたのである。そして、遂にヒットラーはズデーテン地方のドイツ人をその迫害の渦中から救い出すためには実力行使をも辞さない態度を示すにいたった(9月)ここに及んで、ヨーロッパ国際政治はズデーテン問題を中心として正に重大段階に到達することになった。
 さて、当時の険悪化した国際情勢の下において、一たびもしドイツとチェコスロバキアとの間に戦火が閃くにいたった場合、その戦争がいかなる規模のものへ拡大するかは到底予測を許さなかった。このような情勢を前にチェンバレンはヒットラーと会談し、事態を平和的に収拾することを企てた。しかし、その間においてヒットラーはベルリンにおけるその演説において述べて、現下の事態はパリ平和会議がその標榜した民族主義の原則を適用しなかったことに由来するとなし、チェコスロバキア政府が国内少数民族に対して無慈悲な抑圧を加えてきたことを述べて、これを痛撃し、またチェコスロバキア、ソ連邦間の相互援助条約に論及して、ボリシェヴィズムはチェコスロバキアを中央ヨーロッパへの進出の拠点として利用していると強調し、しかも、述べて、ズデーテン問題が解決をみた暁にはドイツはもはやヨーロッパに関して何ら領土的要求をもたない旨を断言したのであった。

20220210 株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著「軍閥興亡史」第一巻 日露戦争に勝つまで pp.21-23より抜粋

株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769829795
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769829799

 いわゆる神風が、十万の蒙古軍を博多湾頭に沈めてから、ほとんど六世紀におよぶ長い間、日本は幸いにも外国の侵略から無事であった。渺たる遠海の島国が、西欧列強の視界外に遁れていた形である。

 五百八十何年目かに、外国の砲弾が日本の国内で炸裂した。文久三年(1863年)の薩英戦争がそれであった。生麦事件(島津久光の行列前を馬で横切った英国人を斬る)に対する英国の謝罪および賠償の要求を、薩摩藩が嘲って一蹴し、徳川幕府は無力で相手にならないので、英国は支那艦隊を派して直接談判に赴いたのである。ところが、薩摩の方では、むしろ「待っていました」という肚がまえであった。談判には応じるが「屈するなかれ」という前提で発足した。主君行列の道路先を横切るごとき無礼者は、即座に誅するのが藩の法である。謝罪は先ず横切った側が先にせよ、しかる後に、葬式の費用その他が欲しいと言うなら話に乗ろうーという勢いである。これでは話にならない。

 談判の内容は省略するが、二日間で話がまとまらず、期間が尽きて、実力行使の段階に入った。が、実を言えば、薩摩の法では、初めから戦争になることを予期して、戦備をすまして待ちかまえていたのだ。

 鹿児島湾頭に現れたイギリス艦隊は、旗艦ジューリアスをはじめ、レインボー、アーガス、ハボック、パーサス、ピアール、コクエットの七隻であった。薩摩もつとに海軍を備えてはいた。この藩は国防の先覚者で、四隻の軍艦を持っていたが、(永平、白鳳、青鷹、天祐ー三百トン級)、それらは商船兼用の蒸気船と定義する内容のものであった。文久三年、旗艦永平丸が高風浪のために明石灘で沈没したので、残る三隻だけで英艦隊と対抗する立場にあった。

 「石が流れて木の葉が沈む」という浮世節の俗謡の起こりは「艦が沈んで大砲が浮かぶ」という流行唄であった。そうしてその順逆の皮肉は、薩摩の軍艦が行方不明となり、海上を捜索中に、大砲が漂流しているのを発見して、艦の沈没を確認したという実話から由来したものだ。薩摩の軍艦には、要部に鉄が使ってあったから沈んだが、大砲の方は木製であったから浮いて流れていたというわけだ。

 さすが剛気の島津勢も、弱艦三隻では太刀打ち出来ぬと考えて、もっぱら砲台に拠る作戦であった。天保山を中心に十一個の砲台を連ね、そこにオランダ式山砲八十二門が装備され、それで英艦隊を瞰射する手はずである。もし戦果不充分な場合には、多数の小舟を漕いで敵艦に横着け、乗り移って日本刀を揮い、乗員を皆殺しにして軍艦自体を分捕ろうという作戦計画であった。かつて河野通有らが、蒙古の軍艦に踊り込み、日本刀を揮って敵兵を薙ぎ倒した武勇伝を、五百八十年後の海戦において再演しようというのだ。戦術思想は少しも進歩していなかった。

 児戯笑うべし、とは今日から見た放言に過ぎない。当時の日本の常識はこの程度であり、薩摩のごときは最も進んでいた藩であった(慶応元年に藩費を以て二人の海軍研究生を西欧に派遣したように)。しかしながら鎖国幾百年、西欧の文明と実力についてはほとんど判っていなかったと言っていい。

 くわうるに、薩摩は攘夷の旗頭である。攘夷とは攘夷撃攘、すなわち西洋人の立入禁止の謂である。薩摩はそのリーダーとして三百余藩の中に重きをなしていたのだから、薩英戦争は、実は願ってもない好機会。この一戦において、武力の上で夷敵撃攘の腕前を見せるならば、言行一致満点、全日本は自らこの主義に掃一するであろう。藩士が振い起ったのは当然であった。

 文久三年七月二日、談判は不調に終わった。同時に英艦隊(司令官キューバ中将)は、ただちに薩の三艦を捕獲して錨地に曳航し去った。その前日から台風X号が九州南端を北上中で、湾内は激浪岩を噛み、薩の三艦はすでに行動の自由を失っていたのだ。これを見て、天保山砲台に開戦の火箭が上がり、各砲台一斉に射撃を開始し、英艦ただちに応じて、暴風中の戦闘が始まった。戦記に、「わが勇士中には真っ裸となり、下帯に大刀をさして夷敵撃滅を叫ぶものあり」と書いてあるような不屈の闘魂も、英艦主砲の斉射にたいしては、おそらく、空拳を以て機銃に立ち向かうの類であったろう。

 

2022年2月9日水曜日

20220209 今後1800記事到達までの当ブログの進め方について・・

先月末、目標としていた1700記事に到達したことから、しばらく、記事作成を休止していましたが、その間、特に変わったこともなく、あるいは、このまま、しばらく記事作成を休んでいれば、何かしら感じることも出来たかもしれませんが、本日に至り、半ばこれまでの惰性によるものであるかもしれませんが、記事作成をはじめた次第です・・。

そういえば、この10日あまりの記事作成休止期間では、それ以前と比べ、よく睡眠がとれたと思われましたが、同時に、この睡眠によって、いくらか体調が良くなるかと思いきや、そうでもなく、むしろ、これまで以上に睡眠時間を欲する自分に少し驚いています。

そして、自分の内面にて、そうした欲求の発見をしますと、どうしたものか、それを受容することが何だか怖くなり、ここに来て、それ以前の惰性が残っているうちに、ブログを再開しようと、前述のように記事作成をはじめたわけですが、ここに至るまでには、特に痛痒・苦痛をおぼえることなく作成を続けることが出来ています。

しばらくの休止期間後をはさんだ、久しぶりの記事作成であっても、この程度まで作成出来ていることは、ここに至っては、特に驚くに価すべきことではなく、それよりも、この作成している記事の主題が速やかに決まらないかと、願っています。

そう、当記事は、ここに至るまで主題が決まっておらず、取り急ぎ、これまでの流れとも若干関連があると思しき、当ブログの今後の進め方について述べて、先を進めて行こうと思い立ちました。

冒頭にて述べましたが、先月末、目標としていた1700記事への到達後、さらに数記事の新規投稿を行ったことから、これまでの精確な総投稿記事数は1703となっています。そうしますと、次なる目標として定めた1800記事まで、新規にて97記事の投稿を要することになりますが、これは今後、毎日1記事の投稿で、概ね3カ月ほどにて達成が可能ということになります。

また他方で、来る6月22日には、当ブログをはじめてから丸7年ともなりますので、現在(2/9)から4カ月、もしくは130日ほどの間に97記事の投稿が出来れば、丁度、丸7年を迎えるのと同時に1800記事への到達となります。

この目算によると、今後4カ月としばらくの間は、5日のうち4日は新規にて記事投稿をする必要性があることになりますが、これは現在の私にとっては、少し大変であるように思われます・・。

しかし、どうにかそれを出来るようにするためには、ここから1800記事までは、書籍からの引用記事を主とすることにより、どうにか進めることが出来るように思われ、また引用記事を作成することにより、自分の記事作成にも弾みがつくのではないかとも思われます。

書籍からの引用記事は、そればかりにて行っていますと、自分の文章をスムーズに作成することが困難になってくると思われますが、現在のような、未だ休息が足りないと感じつつも、記事作成を継続する必要があるという状況においては、それなりに適切な選択肢であり、また同時に、この1800記事に至るまでの期間に、これまでに作成した記事を適宜見直し、また必要があると思われた場合には、加筆修正を行うというのも悪くはないように思われました。

そこから、今後しばらくの間、1800記事への到達までは、上述のやり方にて記事作成を進め、また、既投稿記事の手直しなども随時行っていくこととします。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

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ISBN978-4-263-46420-5

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2022年1月31日月曜日

20220131【架空の話】・其の82 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇②】

医専大口腔保健工学科でのデジタル歯科全般に精しい実務家教員の選定下準備として、E先生と私が東京方面に出向くこととなり、私はE先生よりも1日早くKを発ち、S教授が以前勤務されていた**歯科大学にてさまざまな実験条件についての実地打合せ等を行った。

その翌日は、9:00にE先生と駅前で待ち合わせて、D先生の医院に訪問の予定となっていた。その近所に実家がある私としては時間的に多少余裕があったものの、同時にE先生が宿泊されていた千葉県のI市からは1時間ほどは要したのではないかと思われる。

E先生の方も、待ち合わせをした駅前にて「学生時代から部活の試合以外で、東京のこっちに来ることはなかったからなあ・・。」と周囲の景色を眺めながら仰っていた。そして、その片手には鹿児島名物「かるかん」で有名な「蒸*屋」の黒い手提げ紙袋をいくつか持たれていた。

そこで、とりあえず駅前のにあった喫茶店*トールに入り一息入れて、そして、本日の段取りについての打合せを行うことにした。本日で何人の先生方にお目に掛かることが出来るか分からないため、E先生は、とりあえず「かるかん」を三袋持ってこられたとのことであった。

打合せ後、私のスマートフォンにてD先生に事前のご連絡のため電話をかけると「ああ、今から来ても大丈夫だよ。」とのことであり、予定時刻より少し早かったが訪問させて頂いた。

久しぶりにお目に掛かったD先生は、多少白髪が多くはなっていた様子はあるものの、学術研究経験がある歯科医師にありがちな、少し慎重な鷹揚さや、その物腰には変わりがなくお元気そうであった。

E先生はD先生に初対面のあいさつをされ、喫茶店からは私が持っていた「かるかん」の一つを受け取り、D先生に差し出しつつ「こちらはK医専大のH・Mの両先生からでして「今回もどうぞよろしくお願いいたします。」とのことでした。」と述べた。それに対してD先生は少し背筋を伸ばしてから「・・ああ、大体の経緯は少し前に医専大の先生方から問合せがあったから、自分なりに調べて、いくつか候補を挙げてみて、こちらから行ける程度には、それぞれハナシをつけてはいますけれど・・。」といった流れになり、直ぐに本題へ入ることになった。

D先生が、デジタル歯科に精しく、また臨床活動も活発な首都圏の開業歯科医師として示された方々およびその医院は、こちらKでは聞いたことがなく、まだ若手とも云える年齢の先生方ばかりであり、その中で一件、口腔保健工学科関係者として大変興味深いと思われたのは、歯科医院としてはかなり規模が大きく、また、セラミックによる補綴装置を焼成するための高性能電気炉やCAD/CAM装置、医療用途の3‐Dプリンター、さらには、小型ながらも走査型電子顕微鏡といった分析機器までもが設置機器項目に記されていた歯科医院であった・・。

やがて、頂いた候補医院の情報を黙って読まれていたE先生も、私が興味を持ったさきの医院と同じ医院の資料を示しながら「D先生、すいません。こちらの医院はどういう感じなのですか、資料を拝読してみますと、既にいくつかの歯科大学、歯学部や口腔保健学科そして歯科衛生専門学校などの臨床研修施設とのことですが・・。」と訊ねられた。

D先生はその質問を予期していたかのよう、少し肩をすぼめてから「う~ん、やはり、その歯科医院に注目しますか・・。たしかに口腔保健工学科からしますと、ここの技工設備はかなり魅力的かもしれませんからね・・。そう、これだけの技工設備があって、且つ、作製された歯科補綴装置の技工作業から試適に至るまでの全臨床過程を見ることが出来る医院はあまりありませんからね・・。それと、こちらの医院で勤務している何人かの歯科衛生士さんは、御茶ノ水~飯田橋界隈にある大学にて社会人大学院生として研究活動を続けているとのことで、さらに歯科技工士も、お茶の水にあるIKSK大学の口腔保健工学科を卒業された方が、何年か続けてここに就職したと聞いていますから、何と云うか、若者らしく最先端の歯科医療技術に触れてみたくて、且つ、さらなる大学での研究の途も選択することが出来るような歯科医院は、やはり、それなりに魅力的であるのだと思います・・。そういえば、かれこれ5年間ウチで勤務して頂いている貴学OGの歯科衛生士であるCさんも、現在はパート・タイムですが、ここの医院の訪問歯科診療部門で働いていますよ。彼女はウチで働きながらN歯科大学でマスター(修士号)を取得されて、しばらく経ってから、ここで開催された摂食嚥下機能のリハビリテーション勉強会に参加して興味を持ったとのことです・・。ともあれ、こちらの院長は、私からの紹介状を持参して行けば、多分会って話しを聞いてもらえるとは思います・・。」とのことであり、そこで我々は、その場でD先生に紹介状の作成を依頼した。紹介状とは云っても、それはD先生の名刺裏の余白部分に「彼らはK医療専門職大学口腔保健工学科の方々です。この度**先生の医院を見学されたいとの要望から当紹介状を認めています。つきましては、ご多忙のところ恐縮ではありますが、ご対応のほど、どうぞよろしくお願いいたします。」と書かれたものであったが、それを持参して、はじめの一件目として訪問させて頂くことにした。

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2022年1月29日土曜日

20220129 1700記事の到達、スマートフォンとツイッターの運用による影響について・・

今回の記事投稿によって、総投稿記事数が当面の目標としていた1700記事に到達します。そうしますと、これまでの約6.5年の期間で1700記事を投稿してきたことになり、これを異言しますと、その間、10日のうち7日は新規記事の投稿をしてきたことになります。また、ブログを始めた当初は、この程度まで続くとは考えていませんでしたので、そうした自覚や実感は皆無ではありますが、私としては、それなりに身を入れて続けてきた方であるとは云えます。

そして、今後はしばらくの期間、新規でのブログ記事作成をせずに休みたいと考えています。また、2020年の1月から始めたツイッターと当ブログの連携は、これまでのところ、どうにか継続しており、さらにツイッター上から新規の興味深いと思しき、さまざまな情報に接することは、現在の私にとっては一つの重要な情報入手手段になっていると云えます。

ツイッターにて接した情報に基づき購入する書籍を検討することも度々あり、そしてまた、そうした過程を経て購入した書籍と、これまで通りのアナログ的とも云える書店内を徘徊、立ち読みして見つけたものとでは、どちらが「より良い」のかについて、現在の見解としては「しばらく、その判断は保留し且つ、あまり意識せずに双方続けてみよう。」といったところになります・・。

ただ、同時にここで強く思い出されたことは、書店内にてスマートフォンを用いて面白そうな書籍を検索することは、少しの例外はあるかもしれませんが、概ね、書籍に対しての身体性に基づいた価値判断を鈍らせるのではないかということです。

端的には、書籍を選ぶ現場にてスマートフォンを用いることにより、そこで本来生じる創造性にも関与する何らかの精神活動が阻害されるのではないかと私は考えます。

あるいは、元来PCを用いて作成し、主にブロガーにて投稿してきた当ブログが、ここ2年間でスマートフォンを用いてツイッターと連携するようになったことから、その作成の基盤にある環境が変化し、それに対応しつつ当ブログを続けるのに少し疲れたというのが1700記事到達の際の一つの思いであるとも云えます。

それ故、さきに述べました通り、しばらくはオリジナルの記事作成については、今後自然に「新規のブログ記事を作成したい」と望むようになるまでは、控えて休みたいと思います。

他方で、書籍からの引用記事の作成に関しては、今後も続けていきたいと考えており、あるいは1700~1800記事は、概ね引用記事にて充ててみることは、以前にも検討したことがありましたが、現在においても、それなりに面白い試みであるように思われます。

より具体的には、そうした引用記事とオリジナル記事の割合を(適当ではありますが)4:1程度にて1700記事から100記事程度作成するといったことですが、そこから、当ブログおよび自分に、どのような変化が生じるのかということは、自分としては未知の領域であり、興味深く思われるところです・・。

とはいえ、いずれにしましても今後数日間は、ブログ記事の作成を休もうと思います。また、これは比喩的な表現ですが、何だか自分が空っぽになったような感覚(本当はそうではないのですが)があります・・。

そして、今年の本格的な夏が来るまでには、あるいは少し厳しく見積もり、当ブログ開始から丸7年となる6月22日までに出来れば次の目標である1800記事に到達出来ればと考えています。また、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年1月27日木曜日

20220127 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

著者は現在のところ。19世紀初めからの欧米キリスト教列強の世界進出は、一つの世界的システムを形成しながら遂行されたととらえており、それを「不平等条約世界体制」と呼ぶことにしている。

 この世界体制はフランス革命、ナポレオン戦争、イギリスを原動力とする産業革命の複雑な絡み合いの中から成立し、資本主義的大量生産商品の販路を全世界に求め拡大する資本(ただし金融資本は未成立の段階)の欲求の中から成立していった。進出する欧米キリスト教世界では、対等・平等な主権国家間の国際関係がつくられていたとはいえ、ロシアのツァーリ専制国家にしろ、プロイセン王国、オーストリア・ハンガリー帝国にしろ、今日我々が国民国家という名称で安易に、一括してイメージするには相当異質な諸国家も含みこんだ複雑な国際関係がそこには存在していたのである。

 この欧米キリスト教列強が非キリスト教世界に外交と軍事を武器に進出し、商品の販売と資本の投資、現地生産物の安価購入を可能にするためには、非キリスト教世界に適用されるべき国際的な法体制がつくりあげられなければならなかった。

 その第一が治外法権である。欧米主権国家が自国民支配の法的枠組みを、非キリスト教国家の内部にそのままそっくり持ち込むことであり、持ち込まれた場、すなわち居留地においては非キリスト教国家の国家主権が否定される。当然、領事裁判権が行使されるとともに、この居留地を根拠地として、外国人商人の内地自由旅行権と内地での商業活動の自由、キリスト教内地布教の権利等々が相手国にさらに次々と要求されていくのである。

 第二が協定低率関税である。主権国家においては関税を設け、その輸出入税額を決定することは、国家主権行為の最も重要な構成要素でありつづけた。しかし非キリスト教世界に対する商品市場の開放要求は、非常に多くの場合、軍事力か軍事力を背景とした外交交渉においてしか実現されえない。この際の通商条約締結時、関税率が双方の協議の中で決定され、特に敗戦の結果の通商条約においては低い関税率が押し付けられる。明白な国家主権の侵犯である。

 第三が片務的最恵国条款の挿入である。治外法権と協定関税を骨子とする条約締結の際、欧米諸国がこの条款を挿入することにより、相手国にその後認める特権条款を、自国側のなんらの譲歩もなしに自動的に自国に均霑させる権利を獲得することとなる。この条款は、非キリスト教世界に適用させられる時、きわめて強力な威力を発揮するのである。

 この不平等条約世界体制はキリスト教世界とイスラム世界の古くからの接触地オスマン帝国を起源としているカピチュレーション(capitulation)とよばれるものである。最盛期のオスマン帝国は17世紀にはウィーン攻略寸前の状況(1683年)をつくり出すほどの勢力を誇り、キリスト教地域であったバルカン地域をも帝国内に包み込み、帝国内のキリスト教徒を二等国民とし、正式の帝国臣民たるイスラム教徒と差別した支配体制をつくっていった。

 他方、西洋との交易をおこなう必要から、帝国内に来航し、商業を営む諸国との間に、カピチュレーションとよばれる協定を締結していった。フランスとは早くも1535年に結んでおり、オランダとは1680年に締結している。本来的にオスマン帝国側からの特恵的条約であり、いつでも帝国側から停止し廃棄可能なものとされていた。

 注意すべきことは、カピチュレーションの締結主体である。1675年にイギリスはこの条約を結ぶが、その主体はレヴァント会社という貿易会社なのである。同会社はインドでの東印度会社と同様、重商主義段階特有の特徴をもった独占会社であり、法的権限をイギリス王国から賦与され、オスマン帝国貿易に関する全権を保持し、紛争に備え各地・各港に領事を置き、貿易をおこなうすべての英国商船から税金を徴収する権限を有していた。

 オスマン帝国がレヴァント会社と結んだカピチュレーションは、①英国人同士の争いと事件には帝国は介入しない、②英国人と他のキリスト教国民との争いと事件は帝国法廷が裁く、③英国人と帝国臣民との争いと事件は帝国法廷が裁く、と述べ、その第42条に、②③の場合、英国公使あるいは領事はその裁判の場に出席し、審理を聞きともに決定する、としていた。ただし、英文では”They shall hear and decide it together"となっている箇所は、トルコ語テキストでは単に「イスチマ」(「聞く」の意味)となっていたため、両者間の力関係に応じて裁判のあり方は大きく変化する。とりわけ英国人がイスラム教徒のトルコ人殺害ないし重傷を負わせたケースは微妙となった。オスマン帝国の勢力が衰えてくると、イギリス側は訴訟手続き・証拠法・判決の量刑等すべてにわたって英国法システムに従っておこなわれない場合には反対を強く主張するようになってくる。

 イギリスにおいて産業革命が展開し、商業資本家が階級として成立する中で自由主義イデオロギーが確立していった。この思想は一方で自己認識として文明対未開、あるいは文明国対半開国(semi-civilized country)という他者・自者の対立関係軸を創り出すとともに、他方で自由貿易のための独占を廃止すべきだ、との主張を生み出していった。1825年、レヴァント会社は廃止され、オスマン帝国貿易の独占権が消滅し、同会社のカピチュレーションはイギリス王国はそのまま継承され、同時に同会社の領事システムは、イギリス外務省の在外官吏体系の中に編入されることとなった。

 ところで、この領事システムは欧米列強の進出に不可欠なものであったことは留意してよいことである。不断に発生する貿易上の紛争を裁き、在留邦人をはじめとする自国民の保護に当たる領事・総領事とその体制が創られる過程でこそ、商品の大量で安定した販売が実現されていく、商品の安価さだけで単一の資本主義世界市場が形成されたわけでは決してないのである。

2022年1月26日水曜日

20220125 1600記事から現在に至るまでの進捗から思ったこと

当記事を含めて、あと3記事の投稿により当面の目標としていた1700記事に到達します。また同時に、特に無理をすることなく、今月内での達成が可能であるとも思われます。しかしながら、こうした状況から気が緩んだのか、あるいは、季節によるものであるのか、ここ数日間は、あまり記事作成への意欲が湧いてきません。他方で、これまでの経験から、そうした状況においては、無理にでも記事作成を始めることにより、概ね解決できると知っているつもりでしたが、この「無理にでも記事作成を始める」がどうも困難に感じられるのが昨今の状況であると云えます。

とはいえ、そうしたこと自体を記事題材として作成してみますと、どうやらこの程度までは書き進めることが出来ていますので、やはり、さきの方法にて、こうした不調はある程度まで解決することが出来るのかもしれません・・。

そういえば、かつての1000記事到達以前は、上記のようなことをあまり考えずにブログ記事作成を(ほぼ)毎日のルーティンとしていましたが、そこから1000記事の到達、さらにまた700記事近く追加した状況になりますと、さきの初心、あるいはストイックさといった「心の構え」は変わってくると云えるのかもしれません・・。こうした、ある程度の期間にわたる「心の構え」の変容には、何か普遍的なモデルがあるのか不明ではありますが、それでもこれは、ここまで(どうにか)続けることが出来ていることから、さきの「変容」なども作成者からしますと、決して愉快なものではありませんが、実感として理解することが出来るのだと云えます。

現在の目標である1700記事の到達以前の目標であった1600記事は、去る2021年8月2日に到達していましたが、そこから、ほぼ6カ月、半年後に100記事追加したことになり、また概ね2日に1記事を投稿してきたことになりますので、さらに以前の1500記事から1600までの100記事は、概ね4カ月にて達成していましたので、その期間は大体6日のうち5日は新規投稿を行ってきたことになります。

そのように考えますと、やはり以前と比べますと、さきの「愉快ではない変容」をあらためて知らされることになります・・。そして、後日、1700記事に到達して、次に1800記事まで作成することを目標とするのであれば、それは、さきの6カ月、半年以上の期間を要することになるのでしょうか・・しかし、そうであれば、当ブログ開始丸7年となる今年の6月22日までの到達は困難になるものと思われます・・。

しかしながら、目前の1700記事まで(どうにか)到達することが出来ましたら、さすがにしばらくの期間、当ブログから離れて休みたいとと考えているのですが・・。さて、どうなるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部

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*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。