2021年4月10日土曜日

20210410 中央公論社刊 吉田裕著「日本軍兵士」-アジア・太平洋戦争の現実 pp.42‐45より抜粋

ISBN-10 : 4121024656
ISBN-13 : 978-4121024657

【太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属=18万2千人、陸軍軍人・軍属=17万6千人、合計で35万8千任に達するという。日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、8万8133人(「日露戦争の軍事史的研究」)と比較すれば、この35万8千人という海没死者の重みが理解できるだろう。なお、船舶輸送軍医部は、「船舶輸送中における戦死は溺水死その半ばを占むべし」としている(「船舶輸送衛生」)。つまり「溺れ死に」である。

 多数の海没死者を出した最大の要因は、アメリカ海軍の潜水艦作戦の大きな成功による。第二次世界大戦で、米海軍は52隻の潜水艦を喪失したが、1314隻・500万2000トンの枢軸側商船を撃沈している。潜水艦一隻の喪失で25隻もの商船を撃沈していることになる。ドイツ海軍は781隻喪失、撃沈が2828隻・1400万5000トン、一隻の喪失で3.6隻を撃沈しているが、米海軍には大きく水をあけられている。ところが日本海軍の場合は、127隻喪失、撃沈が184隻・90万トン、一隻の喪失でわずか1.4隻を撃沈しているにすぎない。

 米海軍の対日潜水艦作戦では1943年半ばが大きな画期となった。米海軍は、この頃までに不発や早発が多かった米軍魚雷の欠陥を是正しただけでなく、日本商船の暗号解読に成功した。これにより、船団に対する待ち伏せ攻撃が可能になったのである。(「研究ノート 対日通商破壊戦の実相」)

 多数の兵士たちが海没死した日本側の要因としては、日本軍の輸送艦の大部分が徴傭し、船倉を改造した狭い居住区画に多数の兵員を押し込めたことがあげられる。そのため沈没の際に全員脱出することは不可能であった。また、多数の喪失によって船舶の不足が深刻になり、一輸送船あたりの人員や物資の搭載量が過重となったことも犠牲者を増大させた(前掲、「アジ化・太平洋戦争の戦場と兵士」)。

 先にあげた船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」は。船舶輸送に特有の環境の一つとして、居住区画の「狭隘」さをあげ、軍隊輸送では坪あたり3ないし4人の兵士が適当だが、温度が高い熱帯地の輸送では坪当たり2.5人を理想とする、しかし、船腹の関係や作戦上の要求から、「坪当たり5人の多きに達すること」があると指摘している。

 一坪に完全武装の兵士5人が押し込まれれば、横になることさえ不可能である。1944年7月、フィリピンに向かう輸送船の船内の状況を軍医(見習士官)の福岡良男は、「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれ、自由に甲板に出られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため、うつ熱病(熱射病)となり、体温の著しい上昇、急性循環不全、全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立ち会い、肉親に見送られることなく、波間に沈んでゆく兵を、切ない悲しい思いをして見送った」と回想している。(「軍医のみた大東亜戦争」)。

 入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、福岡によれば甲板の出入口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが我が物顔でたむろしているからだった。

2021年4月9日金曜日

20210409 株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻 pp.279‐280より抜粋

株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻
pp.279‐280より抜粋
ISBN-10 : 4003104927
ISBN-13 : 978-4003104927

その外側に、風を伴ってまだ散乱しているであろう雪は、今日の騒動(2・26事件)にもつれあい、桜田門の遠い椿事を、弟と語るあいだも彼の胸に白い幻影にしていた。当時の保守党の尊王攘夷の叫びの中で、敢然と開港条約に調印した祖父江島近江守の行動が、彼を激しく打ち、強い感動とともに、肉親の同情を交えた共鳴で祖父のことを考えるようになったのはまだ学習院の頃であった。歴史についての彼の興味も、一つにはそれに誘いだされたといってよく、明治維新政府は、祖父を人柱にして建築された、とする結論は彼には誇りがなものであった。しかも、そこで栄達の座についてのは、祖父を死体にし、その首を打ち落としたものではなく、それを狡く利用した仲間であるのを思うことによって、はじめの尊王攘夷、徳川幕府打倒を、巧みに文明開化主義に乗りかえた新しい明治の権力者ー薩長が代表する政治家、軍人、新興財閥には、下手人の水戸浪人たちに対するよりも、ずっと底深い憎しみと軽蔑を感じさせた。宗通をかたく捕らえている反社会的な生活は、まだ若かった頃から、この秘密なフレームにその芽をもっていたのであった。

 こうした考え方を、宗通は誰にも打ち明けたことはなかった。もちろん、また秀通(弟)にも話そうとはしなかった。容貌がすっかり違っている通り、性質もまるで反対な弟は、宗通の眼には、つねに騒々しい俗物で、彼が憎み、軽蔑しているものと如才なく手を繋いで、損をしないで生きるのを世渡りの第一義としている、欲深い、おろか者に過ぎなかった。つねは向からやって来る以外には、めったに呼びよせもしない。今朝の特別な例外は、出来事の詳細を聞こうとするためであったとはいえ、宗通の気持の底には、彼自身でもはっきりは心づかないものが潜んでいた。

「この雪で、お祖父様の桜田門の事件が思い出されるではございませんか。」

 この意味の言葉が、秀通の口からもしも洩れたとしたならば。-眼先だけの、騒々しい世間師が、そんなことに考え及ぶ筈はない、と思いつつも、宗通には漠然とした期待があった。それほど彼は誰かとその話がしたかった。また、それほど、今日の出来事は雪を媒介として、祖父の横死の歴史の一ペエジを、彼の追想に甦らせていたのであった。

2021年4月6日火曜日

20210406 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.306‐307より抜粋

 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.306‐307より抜粋

ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

以下の話は、今では私自身、ちょっと気恥ずかしい気持もする。私は最後の引揚船でフィリピンをあとにしたが、昭和17年以来足掛け5年mまず内地軍隊食にはじまり、戦地軍隊食・フィリピン食・ジャングル食(?)・収容所食と、奇妙なものを食べつづけて来た。そしてタタミはもちろんのこと、普通の「日本食」の味も香りも形態も、茶碗も箸も忘れていた。否、内地の軍隊のあおのどんぶり型のアルミ食器と麦飯すら半ば忘れていた。

 戦地ではずっと飯盒とその蓋と掛蓋が食器であり、収容所でははじめは缶詰のあき缶であった。後には食器(メスキット)も支給あれ給与もよくなったとはいうものの、毎日のように豆とブタの脂身のきんとんのようなごった煮ーいわば米軍の最低の兵隊食、彼らのいう、黒人のえさ(ニガー・フーズ)の連続で、しかもそれには缶のにおいがついており、しまいにはこの亜鉛か錫のにおいが鼻についてやりきれなかった。しかもそれを、日に三度、雨の日も風の日も、野天に一列に並んで、順番にバケツの中から、おしゃもじのような大きなスプーンで、フライパンを楕円にしたような食器にペタッぺタッと盛ってもらっては、幕舎にもって帰って食べるのが毎日だったわけである。

 そういう日々も終って引揚船に乗り、甲板から港を眺めていたとき、輸送指揮官から、輸送本部の仕事を手伝ってくれといわれた。「最後の最後までブツキですかあ、もうまっぴらです」といったものの、結局口説き落とされ「ま、一応本部までは来て下さい」ということになって輸送本部に行った。

 何しろ佐世保につくまでに半徹夜ぐらいで処理しなければならない復員事務から、所持軍票の整理やらがあり、また常夏の国から一週間足らずで厳冬の日本に帰るこの人びとのたmr、積み込んできた冬服冬外套の支給も早急にはじめなければならず、相当大変な仕事がまっていた。

 もっとも重労働だからということで幾分か優遇され、上甲板に近い復員官の個室の隣の、20畳ぐらいのタタミ部屋が提供されていた。船倉ではとても半徹夜で事務を処理することなどできないからだろう。しかし私は、そういう優遇で仕事をさせられるよりも、船倉で一向かまわないから、ただただ静かに休んでいたかった。しかし、それもならず、最後の最後まで「ブツキ」をやらされることになってしまった。

 夕食になった、なるほど特別待遇で、タタミの上に、四角いアルミ盆にのった食事が、船のボーイの手で並べられた。一椀の麦飯、味噌汁、野菜と肉の煮つけであった。全部で十数人だったと思う。何年かぶりのタタミの上での「人間らしい」食事であった。

 正座して、まず味噌汁をとった。かすかな湯気とともに、味噌と煮干のにおいが鼻孔に入って来た。その瞬間涙が出て、鼻孔を流れ、湯気といりまじった。味噌汁のにおいで涙を流すなどということは何となく恥ずかしく、照れくさかった。私は歯をくいしばって涙を抑えようとした。しかしそうすればするほど涙はあふれ、目にたまり、手がふるえてきた。味噌汁をこぼさないように、うつむいたまま、湧きあがってくる涙を必死で抑えた。

 私はうつむいていたので、ほかの人に気づかなかったから、こういう状態になったのは自分だけかと思っていた。だが、全員が同じだったのである。鼻をすする音がした。やがて一人が耐え切れなくなったように「ムムッ」といってこぶしで涙を拭った。それが合図のようになって、あとは全員、堰を切ったように同時に声をあげて泣きだした。

 以上が典型的な「感覚的里心」の発作的激発であろうが、考えてみればこれは異常である。もちろん、こういう感情の激発は一瞬にすぎない。不平不満はすぐに出てきた。三日もしれば、人びとは、「給与だけは収容所の方がよかったな」などと言い出すのである。しかし、そのことと、こういった感覚的な感情の激発が絶えず内在していることとは別である。

2021年4月4日日曜日

20210404 株式会社岩波書店刊 加藤周一著「羊の歌」-わが回想- pp.101‐103より抜粋

ISBN-10 : 4004150965
ISBN-13 : 978-4004150961

祖父の家が一歩一歩没落の道を辿っていったときに、祖母の側の親類は栄えていた。祖母の兄は、その頃実業界で成功し、独占的な大燃料会社の副社長になっていたし、弟は海軍で昇進し、少将となり、やがて中将となった。30年代の後半に満州ではじまったいくさは、いよいよ拡がりつつあったから、もとより大燃料会社の景気はよく、海軍の高級将校の威勢はいよいよ増すばかりであった。

副社長はよく親類縁者の面倒をみた。その会社にはいたるところに一族が就職して働いていた。しかし傾きかけた妹の家、つまり祖父の家を救うところまではゆかなかった。たとえ望んでも、その能力はなかったのかもしれない。副社長といっても、技術者の社員から昇進したので、大株主ではなかった、娘がひとりあって、娘婿が後に同じ会社の副社長になった。

この人は快活な人柄で、相手によってわけへだてしなかった。私の父とさえも、-というのは、この気むずかしい医者とうちとけて話す人は親類のなかにも少なかったからだが、会えば談笑して倦まなかった。中学生の頃の私は、この副社長の一家とほとんどつき合っていなかったが、太平洋戦争の後、パリで貧乏暮らしをしていたときに、その娘婿、つまり二代目の副社長と、思いがけなく一晩を過ごしたことがある。下宿に突然手紙がきて、しかじかの日にパリに行くから、よろしくたのむと簡単に書いてあった。飛行場へ行ってみると、彼は鞄持ちの会社員を二人連れてあらわれ、「やあ、どうだい」といった。その気さくな調子が、私にいくさのまえの記憶をよびさまし、大会社の副社長という肩書きを忘れさせた。

 海軍少将は、若いときに英国へ留学し、ロンドン軍縮会議の頃大使館附武官をしていたこともあって、英国の文化を尊敬していた。親類の集りでも、英国人の風俗やその歴史について語ることが多かったと思う。30年代後半の日本で海軍の将校が外国人と交際することは少なかったから、どの程度に英語を話したかはわからない。しかしよく英語の本を読んでいた。オークション・ブリッジという遊びを、私たちの家庭にもちこんだのも彼である。

あるときには、巡洋艦の艦長をしていたし、あるときには、揚子江艦隊の司令官で、またあるときには、艦政本部長でもあった。私は子供の頃巡洋艦に招かれたことをよく覚えている。それは県知事になった伯父の権力をはじめてみたときとは全くちがう印象を私にあたえた。県知事には役人がへつらっていた。県庁の役人たちは、ほとんど陰惨な気をおこさせるほど卑屈だった。しかし巡洋艦の水兵たちは少しも卑屈ではなかった。彼らはお世辞をいわず、必要最小限度以外には口をひらかず、しかし敏捷で、正確で、能率的で、艦長の客に対しては申し分なくゆきとどいていた。そこでは人間の組織が機械のように動き、ほとんど美的な感動を与えた。その印象があまりにも強かったので、私はその他のすべてのことを忘れてしまったのかもしれない。その巡洋艦の大きさも、その日誰が一しょに招待されていたかということも、またおそらくは晴れた日の海の色や、飛び交う鷗や、風にひるがえる軍艦旗も。私たちはこの海軍将校を「おじさん」とよび、またあるときには「提督」とよんでいた。提督は太平洋戦争の前後を通じて一種の見識を有し、決してそれをゆずろうとしなかった。それは狂信的な超国家主義は必ず国をほろぼすということである。

20210403 株式会社光文社刊 岩田健太郎著「丁寧に考える新型コロナ」 pp.72‐74より抜粋

pp.72‐74より抜粋
ISBN-10 : 4334044999
ISBN-13 : 978-4334044992

日本人はなぜ予後が良いのか。この観点から、京都大学の山中伸弥先生は、こうした予後を変える要素を「ファクターX」と名付けました。これから突き止めたい謎のファクター、ということですが、ぼくはむしろ日本、日本人特有のファクターではなく、もっと一般化できる(うまくいっている国共通の)要素を希求するのが筋だと思っています。

 一つのヒントは、血栓です。

 すでに重症COVID-19感染で動脈、そして静脈の血栓が起きやすいことが知られています。これが予後に影響を与えている可能性もあります。

 海外で診療したことがある医者ならよく知っていることですが、欧米と日本では抗凝固薬のワーファリンの必要量が全然違います。アメリカだろ10㎎など多い量で投与するワーフェリンは、日本人だと体重の違いを考えてもずっと少ない量で十分な抗凝固ができます。

 ぼくは最初、このワーファリンの投与量の違いから、「日本人のほうが血栓ができにくいのでは」と思ったのですが、調べてみるとこれはワーファリンの代謝の人種間の違いで、直接的な抗凝固の違いではないようです。

 ただ、それとは別に、やはりアジア人は静脈血栓はできにくいようです。

 これはカリフォルニアでの人種間の疫学研究で示唆されたもので、日本人や中国人などの静脈血栓リスクは、他の人種・民族に比べると低いようです。

 動脈血栓、すなわち心筋梗塞や脳梗塞などですが、これは高血圧やいわゆるコレステロールの高い人(脂質異常)、肥満、男性、喫煙、糖尿病などがリスク因子です。COVID-19も、男性や肥満はリスク因子になっていますから、COVID-19の動脈血栓リスクがCOVID-19のリスク(あるいはその一部)になっている可能性があります。

 そして、こうした動脈の病気も、日本人などアジア人では欧米より少ない傾向にありますから、これも説明の一つになっている可能性はあります。禁煙指導や高血圧の治療、スタチンなどによる脂質異常の治療などで動脈血栓の病気は世界的に減っていますが、それ以上に日本の頻度は海外のそれより少ないのです。

 ぼくは血管の病気の専門化ではないので、このへんの推測は一般的な医者目線からの議論に過ぎません。

 が、血栓と人種の関係は、COVID-19の重症化リスクに寄与している可能性は高いと思っています。さらに決定的なデータが出ることを期待しています。

2021年4月2日金曜日

20210401 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」pp.158‐161より抜粋

 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」pp.158‐161より抜粋

ISBN-10 : 462430103X
ISBN-13 : 978-4624301033

日本は周知のように明治維新による上からの革命に成功してともかく東洋最初の中央集権的民族国家を樹立し、ヨーロッパ勢力の浸潤を押しかえしたばかりか、世界を驚倒させるスピードでもって、列強に伍する帝国主義国家にまで成長した。

ところが中国では、曾国藩らの「洋務」運動から康有為の「変法維新」運動に至る一連の上からの近代化の努力も結局、清朝内部の強大な保守勢力の前に屈服し、その結果は19世紀後半の列強帝国主義の集中的蚕食を蒙って、半植民地、いな孫文のいわゆる「次植民地」の悲境におちた。

むろんこのような中国と日本の運命のひらきには、両国の地理的位置とか「開国」の時期のずれとか、旧社会の解体過程の相異とか、支配階級の歴史的性格とか、いろいろの要因が挙げられるであろう。しかし、ここではそうした原因論が問題なのではなく、むしろ、こうした出発点の相異が結局両国のナショナリズムに殆ど対蹠的な刻印を与え、それが今日の事態にも致命的に影響しているという点が重大なのである。

すなわち、中国は支配層が内部的な編成替えによって近代化を遂行することに失敗したため、日本を含めた列強帝国主義によって長期にわたって奥深く浸潤されたが、そのことがかえって帝国主義支配に反対するナショナリズム運動に否応なしに、旧社会=政治体制を根本的に変革する任務を課した。

旧社会の支配層は生き残らんがためには多かれ少なかれ外国帝国主義と結び、いわゆる「買弁化」せざるをえなかったので彼等の間から徹底した反帝国主義と民族的独立の運動は起こり得なかった。一方における旧支配層と帝国主義の癒合が、他方におけるナショナリズムと社会革命の結合を不可避的に呼び起したのである。孫文から蒋介石を経て毛沢東に至るこの一貫した過程をあとづけることはここでは必要なかろう。ただ、こうしたナショナリズムとレヴォリューションとの一貫した内面的結合は、今日中国において最も典型的に見られるけれども、実はインド・仏印・マレー・インドネシア・朝鮮等、日本を除くアジア・ナショナリズムに多かれ少なかれ共通した歴史的特質をなしていることを一言するにとどめる。

 ただひとり日出ずる極東帝国はこれと対蹠的な途を歩んだ。ここで徳川レジームを打倒して統一国家の権力を掌握した「維新」政権はそれ自体、旧支配階級の構成分子であり、彼等はただ「万国に対峙」し「海外諸国と併列」する地位に日本を高めようという欲求にひたすら駆り立てられて急速に国内の多元的封建制力を解消してこれを天皇の権威の下に統合し、まさに上述の「使い分け」を巧妙きわまる仕方で遂行しつつ、「富国強兵」政策を遂行した。

この、上からの近代化の成功はまことにめざましかった。かくて日本はその独立を全うしつつ「国際社会」に仲間入りしただけでなく、開国後半世紀にしてすでに「列強」の地位にのし上がったのである。しかし同時に、近代化が「富国強兵」の至上目的に従属し、しかもそれが驚くべきスピードで遂行されたということから、まさに周知のような日本社会のあらゆる領域でのひずみ或いは不均衡が生まれた。

そうして、日本のナショナリズムの思想乃至運動はその初期においてはこのゆがみを是正しようという動向を若干示しはしたが、やがて、その試みを放棄し、いろいろニュアンスはあるにせよ、根本的にはこの日本帝国の発展の方向を正当化するという意味をもって展開していったのである。

従ってそれは社会革命と内面的に結合するどころか、玄洋社ー黒龍会ー大日本生産党の発展系列が典型的に示しているように革命に対してーというより革命の潜在的な可能性に対して、ある場合にはその直接的な抑圧力として作用し、他の場合にはそのエネルギーの切換装置たる役割を一貫して演じてきた。しかも他方それは西欧の古典的ナショナリズムのような人民主権ないし一般にブルジョア・デモクラシーの諸原則との幸福な結婚の歴史もほとんど、ろくに知らなかった。むしろ上述のような「前期的」ナショナリズムの諸特性を濃厚に残存せしめたまま、これを近代ナショナリズムの末期的変質としての帝国主義に癒着させたのである。かくして日本のナショナリズムは早期から、国民的解放の原理と訣別し、逆にそれを国家的統一の名においてチェックした。そのことがまたこの国の「民主主義」運動ないし労働運動において「民族意識」とか「愛国心」とかいう問題の真剣な検討を長く懈怠させ、むしろ挑戦的に世界主義的傾向へと追いやった。そうして、それはまたナショナリズムの諸シンボルを支配層ないし反動分子の独占たらしめるという悪循環を生んだのである。

 日本のナショナリズムが国民的解放の課題を早くから放棄し、国民主義を国家主義に、されに超国家主義にまで昇華させたということは、しかし、単に狭義の民主主義運動や労働運動のあり方を規定したというだけのことではなかった。それは深く国民の精神構造にかかわる問題であった。つまり日本の近代化過程が上述のように「使い分け」の見事な成功によって急激になされたということは、一般に国民大衆の生活基盤の近代化を、そのテンポにおいても、その程度においても、いちじるしく立ち遅れさせたことは周知のとおりであるが、それはナショナリズムの思想構造ないし意識内容に決定的な刻印を押したのである。頂点はつねに世界の最尖端を競い、底辺には伝統的様式が強靭に根を張るという日本社会の不均衡性の構造方式は、ナショナリズムのイデオロギー自体のなかにも貫徹した。

そうしてあたかも日本帝国の驚くべき躍進がその内部に容易ならぬ矛盾を包蔵することによって同様に驚くべき急速な没落を準備したこととまさしく併行して、世界に喧伝された日本のナショナリズムは、それが民主化との結合を放棄したことによって表面的には強靭さを奔騰させつつあるとき日本国民は逆にその無気力なパンパン根性やむきだしのエゴイズムの追求によって急進陣営と道学的保守主義者の双方を落胆させた事態の秘密は、すでに戦前のナショナリズムの構造のうちに根差していたのである。

2021年4月1日木曜日

20210401 株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」pp.64-67より抜粋

株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」pp.64-67より抜粋
ISBN-10 : 4101131031
ISBN-13 : 978-4101131030

スエズには12月17日の夕刻に着いた。シンガポールを出てから18日目である。検疫も簡単にすんだ。書類には、やれ伝染病が発生したか?とか、ネズミがいるか?とか、いかめしい質問が並んでいるが、要するにすべてNoで片づけてしまって、ネズミはいたが食べてしまったなどど書く必要はない。

ドクターのことを呼んでいると船の者が言うので、行ってみると検疫官の従卒が「頭痛がする」と額に手をあてて実に物悲しげな顔をしてみせる。私は日本医学の真価をみせてやるのはこのときだと思い、わざわざ数種類の薬を調合して彼に与えた。ところが、あとからあとからいろんなのがやってくる。「アイ・ドロップ」とか言って目薬を要求するものが多い。そう際限なくやってしまっては自分の船で使うのがなくなってしまう。私もこれには弱って、あちこちから目薬の空きびんをかき集め、ホーサン水を作ってその中につめ、それからはこれを与えることにした。あとでサード・オフィサーが言った。

「ドクター、だめだよ。奴等みんなタカリですよ。」

エジプトは薬品が高価で不足しているので、仮病を使って船に薬を貰いにくるのだという。スエズ運河を通過中も、しきりにボートマンが私のところにやってくる。最も欲しがるのはやはり目薬だ。例の急造のを与えると、ひねくりまわしてなにかぶつぶつ言う。よく聞いてみると、ペニシリン入りのはないかとのこと。

「ノオ」とついに私も大声を出した。「この船はそんなもの持たぬぞよ!」

私はそいつを医務室から押し出し、ピシャリとドアを閉めた。しばらくすると、また別のボートマンが現れ、アイ・ドロップ、プリーズ、と言う。「ノオ」と私は不気味におしころした声を出した。そのくらいのことで引き退る相手ではない。しきりに自分の目を指し哀訴を繰返す。見るとたしかにその目は汚く目ヤニがこびりついている。もう急造の目薬もないので、硼酸の粉末を与え、その使用法を説明し、私はそいつを医務室から押し出し、ピシャリとドアを閉めた。

 薬品ばかりでなく、「スエズを通るのはもうイヤだよ」と船長がこぼしていた。船には港々で検疫官やパイロットなそにやるミヤゲ物をかなり積んである。扇子、ハンニャの面、羽子板などだが、ひどいパイロットになると、これではイヤだ、もっと別なのをくれ、終いには船長室にかかっていた額をさして、あれをくれなどと言いだす始末だそうだ。ついに私は持参した例の風呂敷の一つを船長に提供したが、上等の風呂敷を持ってこなくてホッとしたのはこのときだけであった。そればかりではない。調査官のM氏の部屋にやってきたボートマンが空箱を指さし、それをくれと言うのでなにげなく頷くと、空箱でなくてその横になった手袋を持って行ってしまった。慌ててとめると、今あんたは確かにくれると言った筈だと頑張り、とうとう手袋をまきあげられてしまったという。こうした植民地的貧困の残渣は、現在この国に澎湃とみなぎっているナショナリズムの息吹きと一見奇妙な封に入り混じっている。

 スエズでもポート・サイトでも、家の中でも街上でも、頻々とナセルの写真にお目に掛かった。私は大体こういう現象を好まない。写真なぞというものは、個人でこっそり飾っておくべきもので、でかでかと人目につくように貼りだされる場合、いつだってなにかいかがわしい気配を感ぜざるを得ない。しかしアラブ連合の若き役人氏は、自分の胸をさし、「ナセルは私の心臓だ」と言った。街にはこの雰囲気がみちみちている。

 スエズの裏通りには、パジャマ姿に素足の汚い子供らが一杯いて、写真機を向けると我がちに集まってくる。自分が写されようとして前へ前へと出てくるからなかなかシャッターが切れない。ところが大人がそばにいると、たちまち子供らを追いはらってしまう。初めは何のことかと思ったが、要するに貧しい非文明的な情景は、国威をけがすから写させないのだ。辻豊氏の「ロンドン東京五万キロ」という本によると、シリアやヨルダンではもっとひどく、うっかり写真をとると警察にひっぱられる。辺鄙な土地ほどこういう傾向が強いらしく、スエズでは汚い風景にカメラを向けると必ずといってよいほど注意を受けたが、ポート・サイドではめったにそういうことはなく、アレクサンドリアでは一度も経験しなかった。

 特有な平たいパンを戸板にずらりと並べ頭にのせて運んでいる光景を撮ろうとすると、さっそく愛国者が現れ、手をふって「ノオ」といった。しかもこの愛国者氏は十分間ほど私を尾行し、けしからぬ写真を撮りはせぬかと見張っているのである。といって、対日感情は非常によく、街を歩いていてもやたらに握手を求めてくる。しかし私はこういう現象も好まない。もっと個人的なものから出発したものでないと、なにかいかがわしく、トーマス・マン作「魔の山」に出てくるクラウディア・ショウシャの口を借りれば「ねーんげん的」でないように思われる。

*このクラウディア・ショウシャは、おそらく実際は、同著内、他の登場人物であるシュテール夫人を指しているのではないかと思われます。