~勉強会の御案内~
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先日1410記事に到達し、今年中に出来るだけ1440記事の投稿まで近づけたいと考えています。そして今月11月内では、15記事程追加更新すれば、来月師走は、いくらか楽になるのではないかと思われます・・。
ともあれ、そうしますと、今月は概ね2日に1記事の追加更新を要するということになり、それはそれで大変であるように感じられます・・。また、そのように考えてみますと、明らかに現在はブログ開始当初と比べ勢いが鈍化しているとは云えます・・。とはいえ、他方では、当ブログがどうにか5年以上にわたり続いていることの方が本来、強調しても良いと思われるところもありますが、やはり、目標や希望と云うものは、先を示している方が良いと思われますので、さきの記事作成の鈍化もまた、記事を作成する自身を鼓舞するためにも注意しておいた方が良いと思われるのです・・(笑)。
そういえば、先日来の宮地正人著「幕末維新変革史」上巻は、それ以降も読み進んで、また、読んでいてタイムリーであると感じさせられる箇所が随所にあり、あるいは遠からぬ先の我が国もまた再び、こうした変革期に至るのではなかろうかと考えさせられます・・。
また、他方で最近気が付いたことは、我が国の古代史について扱った書籍を以前ほど熱心に読むことが困難になっていることであり、以前であれば、古墳について扱った書籍を読み進めていますと、記述にもよりますが、記述古墳の様子を想像することも出来ていましたが、どうしたわけか、最近はそうした頭の働きもまた、さきと同様、鈍化しているように感じられ、これはおそらく近在に記憶を想起させる元となる古墳の存在がなく、実感として掴めなくなってきているのではないかと思われます・・。
その意味で、自身の初めての西日本在住の経験となった和歌山・南紀在住期では、地域に歴史の積層の様相が自然なカタチで残っており、自然にそれらに対する興味を惹起させ、そして保持するにおいては、大変に良い環境であったと云えます。
あるいは、もっと具体的に書きますと、そうした古墳などの記憶は、それがある自然環境全般や、近在にて祀られている寺社などと近い位置に、書籍での記述があり、評するならば、野趣溢れる、あるいは感性と接続された記憶であると云え、その感性の基礎となる古墳などの存在から長らく離れていると、さきに述べたように、それらについて書かれた書籍も、以前ほど身を入れて読むことが困難になってくると云えるのかもしれません・・。
自身の希望としては、今後、装飾古墳が比較的多く存在する九州地域に、週のうち何日かを滞在出来るようにすれば、またその記憶は新たな要素と結合し、更新されると思われるため、そのようになれば良いと考えています・・。
ともあれ、現在読み進めている書籍上下巻を読了することが出来ましたら、その次は我が国の古代史について書かれたある程度ハードな新たな著作を見つけ、身を入れて読んでみようと思います。
かねてより、何やら面白そうな場面に私を呼んでくださる方々がいらっしゃることは、大変ありがたいことであり、また、その場での経験を通じ「ははあ、世の中は今、こう動いているのか・・。」といったことが体感を通じて理解出来るようになると云えますが、他方で、おそらく私はビジネスセンスといったものはなく、取柄といえば、こうして自身の感覚にて文章として残すことぐらいではないかと思われます・・(苦笑)。
また、呼んでくださる方々は、それも先刻ご承知であるように思われるのですが、それでも呼んでくださっているのは「あるいは他にも深い意味があるのかもしれない・・?」と私としては少し深読みしてみたくもなります・・。いや、実際、深い意味はないのかもしれませんが・・(苦笑)。
また、私は宮仕えは至極向いていない方であると認識していますが、他面において、何か新しく面白いことを考える、また、それを実現させるような方々は、実際にお目に掛かり、お話しを伺っていると、大体は分かるようにも感じられます・・。
私自身はそうしたイノベーター型の人間ではありませんが、そうした方々が話される内容は、そのビジョンが「ああ、なるほど・・。」といった感じで可視化出来る(腑に落ちやすい)といった共通する特徴があると云えます・・。
それは、コトバの強さや、身振り手振りの派手さといった演技・技巧的なものではなく、ご自身が話される内容の世界観をどれだけ精確に把握しているか、といったことであるように思われます。
つまり、演技でなく「本当に確信がある」ということであると思われますが、それでも、その世界観(ビジョン)が実際に具現化するかどうかは分かりませんが、少なくとも、具現化するビジョンと、その方法についての現実的な筋道を立てておられる方が、そうでないものと比べ、具現化はし易いように思われます。
ともあれ、そのように考えてみますと、自身には何やら「狂言回し」的な「その周囲で何やらコトが進んだり、繋がっていく」といったところがあるようにも思われてきます・・。
また、ここからは多少突飛な意見にはなりますが、諸産業による実社会において、人文社会科学もしくは、そうした教養の持つ重要な意味とは、様々な要素が散らばる中で「何と何が合うか」をまさに「何となく適切に」判断出来ることであり、そうした感覚とは、映画であれ、音楽であれ、あるいは哲学などの思想であっても、その基層には「共通するマトリックスのような感覚」があり、それが所謂「教養」と称されるものであるのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?
そして、また、こうした「教養」とは、我が国古来からの「巫女的予言」と本質的に対立するものであることから、なかなか社会において認められないのかもしれません・・(笑)。