2017年12月19日火曜日

夏目漱石著「三四郎」岩波書店刊PP.169-170より抜粋

『広田さんは髭の下から歯を出して笑った。割合に綺麗な歯を持っている。三四郎はその時急になつかしい気持がした。けれどもそのなつかしさは美禰子を離れている。野々宮を離れている。三四郎眼前の利害には超越したなつかしさであった。三四郎はこれで、野々宮などの事を聞くのが恥ずかしい気がし出して、質問をやめてしまった。すると広田先生がまた話し出した。―

「お母さんのいう事はなるべく聞いて上げるがよい。近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それをひと口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り出せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展してしまった。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。―君、露悪家という言葉を聞いた事がありますか」

「いいえ」

「今僕が即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人―だかどうだか、まあ多分そうだろう。与次郎の如きに至るとその最たるものだ。
あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれもまた、あれなりに露悪家だから面白い。
昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各々同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切っている。形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。甚だ痛快である。天醜爛漫(てんしゅうらんまん)としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じて来る。その不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らして行くものと思えば差し支えない。そうして行くうちに進歩する。
英国を見給え。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって、化石しかかっている。・・』
三四郎 (岩波文庫)
ISBN-10: 4003101065
ISBN-13: 978-4003101063



Natsume-Soseki 1908-9 Sanshiro translated by Jay-Rubin 
Penguin classics pp.130-131 
 
『Hirota’s teeth appeared below his mustache in a broad smile. They were rather nice teeth. Sanshiro suddenly felt very close to Hirota. The feeling had nothing to do with Mineko, nothing to do with Nonomiya. It was a closeness that transcended any immediate advantage to him and made him ashamed to go on asking these questions.

‘‘ You ought listen to your mother, ’’ professor Hirota began. ‘‘ Young men nowadays are too self-aware, their egos are too strong-unlike the young men of my own day. When I was a student, there wasn’t a thing we did that was unrelated to others. It was all for the Emperor, or parents, or the country, or society. Everything was other-centered, which means that all educated men were hypocrites.
When society changed, hypocrisy stopped working, as a result of which we started importing self-centeredness into thought and action, and egoism, now all we have are hyper villains. Have you ever heard the word ‘hyper villains’ before?’’

‘‘No, I haven’t.’’

‘‘That’s because I just made it up. Even you are-maybe not-yes, you probably are a hyper villain. Yojiro, of course, is an extreme example. And you know Satomi Mineko. She’s a kind of hyper villain. Then there’s Nonomiya’s sister, an interesting variation in her own way.
The only hyper villains we needed in the old days were feudal lords and fathers. Now, with equal rights, everybody wants to be one. Not that it’s a bad thing, of course. We all-take the lid off something that stinks and you find a manure bucket. Tear away the pretty formalities and the bad is out in the open. Formalities are just a bother, so everyone economizes and makes do with the plain stuff. It’s actually quite exhilarating-natural ugliness in all its glory.
Of course, when there’s too much glory, the hyper villains get a little annoyed with each other. When their discomfort reaches a peak, altruism is resurrected. And when that becomes a mere formality and turns sour, egoism comes back. And so on, ad infinitum.
That’s how we go on living, you might say. That’s how we progress. Look at England. Egoism and altruism have been in perfect balance there for centuries. That’s why she doesn’t move. That’s why she doesn’t progress.
The English are pitiful lot-they have no Ibsen, no Nietzsche. They’re all puffed up like that, but look at them the outside and you can see them hardening, turning into fossils.  』

Sanshiro (Penguin Classics)

ISBN-10: 0140455620
ISBN-13: 978-0140455625


夏目漱石 現代日本の開化1~5 






Yukio Mishima Speaking In English




    

2017年12月18日月曜日

20171218 『言語の限界が世界の限界であるとすれば、その他は一体何なのか?』

本日の首都圏は日中も気温があまり上がらず、足の方から冷え込むような寒い一日でした。

またブログ記事に関しては、これまでの総投稿記事数が843記事であり、あと7記事の投稿により年内の達成目標である850記事に到達することが出来ます。

一方、年内余すところ12日程度であり既に2週間を切り、そして残りの7記事もまた出来るだけ早めに作成・投稿したいと考えていますので、今後も出来るだけ記事を作成出来る時は作成・投稿していきます。

また、そうしたいわば粗製乱造的とも見做し得るスタンスではあっても、どうした原因によるものか、多くの方々に読んで頂ける記事とは時折は作成されるようであり、そこから、こうした状況もまたそこまで悪くないとも思われる次第です・・(苦笑)。

さて、本日明け方の暗い頃に一度目が覚めた際、何やら面白い歴史についての大きな意見・仮説が脳裏をよぎったのですが、こうしたワクワクするような仮説とはここ最近ご無沙汰であり、昨今はどちらかというと電車内・就寝前に書籍を読みつつ既知の知見から少しずつ新たな知見を加えていくといった、どちらかというと地味な作業に近いものが多いと云えます。

それ故、本日朝に一瞬脳裏をよぎった意見・仮説とは多少惜しく思われ『その場にて即座に録音できるような機器さえあれば・・』とすら思われました。

とはいえ、そうしたものは往々にして『逃した魚は大きい』とも捉えられがちではありますが、本日早朝のそれに関しては、再度それが脳裏をよぎったならば、その尻尾を捉え、そしてその姿を言語にて著すことが出来ると何故であるか分かりませんが確信出来るのです・・(笑)。

おそらく、こうしたところにある程度の期間ブログ記事を作成してきたことが精神の内奥にまで達していることが示されているのかもしれません・・(本当か?)。

そしてそこでヴィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』にて述べた『言語の限界とは世界の限界である。』といった意味合いのコトバが想起されるわけですが、言語を洗練させる・鍛錬するといった行為とは、おそらく人により多少の偏差があるのかもしれませんが、あまり早急に知覚・認識出来るようなものではなく、概してかなり緩慢なる発育過程を辿るのではないかと思われるのです。

それ故、あまり個々人の性質・特性に基づいた能動性に裏打ちされているとは云えず、単に社会における功利性・有用性に基づいたとも見做し得るネガティブ・ケイパビリティー(処理能力)の促成的な発達のみを企図する傾向があると云える我が国の教育とは、ゼロからの出発といった状況である場合(敗戦後のような)は都合が良いのかもしれませんが、そうした社会基盤・制度に基づく社会とは一度繁栄に至った後の経時的な劣化が著しく、あるいは発展持続性が乏しいのかもしれません【社会主義に基づく社会にもまたそうした性質があるのかもしれません・・】。

加えて我が国の場合、古来よりの普遍的な道徳観念などもまたありませんので・・。

それらに関してはまさしく見かけ倒し(ハロウィーンにしろクリスマスにしろオリジナルの国々から見れば結局そうであるように思われる。外国の方々が神社らしきものを即席に拵え参拝するような様子を見たとしても、彼らが神道に帰依しているとは到底思えないのと同じ。)であり、また我が国においては、実のところ見掛け倒しであることの方が諸事都合が良く好まれるのかもしれない・・(苦笑)。
【そうした背景にある重い思想・観念などは絶対にイラナイ!理解したフリでただ楽しければそれで充分!といったところが本音ではないでしょうか?】

そして、その意味からも我が国の特性とも云える即物性・此岸的性質を(抽象的・彼岸的方向へ多少なりとも)昇華させるためにも先ず当初においては言語とその指し示す実体的対象が明瞭である諸学問分野への更なる注力・人員の再配分等が為されるのが適当ではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。























2017年12月17日日曜日

20171217 創造性・進化発展に寄与する要素とは【脱抑制・リラックスした状態】

本日は休日ということもあってか、当ブログの閲覧者数も比較的多く、また昨日投稿分の「『無双感』と『脱抑制』について・・」は投稿翌日にしては比較的多くの方々(70程度)に読んで頂けました。

そしてまた、そこで述べた主張とは端的に『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』といったところでした。

あるいは、このことをさらに考えていきますと、我が国の性質のかなり深いところにまで達する何かがあるようにも思われます。

また、こうしたことは、特に我が国の場合、昨今のコンピューター技術の進化発展によって以前と比べて明瞭に認識され得るようになったのかもしれません。

これを異言すると、コンピューターの能力向上により、機械的な要素にて為し得る要素と本質的に人間の精神によってのみ為し得る要素との相違点が明らかになりつつあるといったことであると云えます【それは今後もコンピューターが精神を持つに至るまで継続するのかもしれない・・】。

その意味において我々日本人とは、これまで人間が行ってきた各種労働を機械に担当させるさまざまな仕組みの開発、洗練によって、その経済的優位性を獲得してきたと云い得ます。

無論、こうした開発・洗練への努力もまた我が国の場合、特有のある種ストイックな性質に基づくものであったと考えますが、しかし本質的にそうした方向(人間が行う労働の軽減→無化)への進化発展とは、既存のそうした労働・作業が成立以来よりおそらく長い時間をかけて獲得・保持してきたさまざまな精神性・文化を根底から覆すようなものでもあり、また同時にそれは奇しくも19世紀半ば過ぎより科学・技術をも含む各種西欧文化の理解・吸収・実装に明け暮れていた我が国のいわば習い性的な行動様式・傾向と一致するものであるとも云い得ます。

そして、こうした我が国にて各種西欧文化の理解・吸収・実装が為される過程において、実用の見地からのいくらかの改良が加えられることがいわば我が国能力の真骨頂であるようにも思われます。

しかしながら、それは本質的な創造であるよりも付加的な要素、あるいはオリジナルを真似する際の一種の追加的な工夫といったものであるように思われるのです。

そのように考えますと、ハナシは記事冒頭に戻り『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』と、あるいは何らかの関連性があるのではないかと考えさせられます・・。

コンピューターの能力向上により、人間的な要素と機械的な要素の判別が比較的明瞭に為し得るようになり、人間の精神によってのみ駆動する要素すなわち『本質的な創造とは何か?』といったことがある程度客観的に認識され得るようになると、おそらく国毎、地域毎のそうした傾向といったものも同様に認識され得るようになると思われます。

そうした場合、我が国日本及び日本人とは一体どのような評価を得ることになるのでしょうか・・?


今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被害を被った諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今から再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。




















20171216 『無双感』と『脱抑制』について・・

議論や学術会議などの質疑応答の場にて、質問に対してかなり鮮やかな受け答え、先の先を読んだような見事な返答をたて続けにされている様子を時折見受けることがあります。

こうした状況は文章にて書いてもあまり伝わらないと思われますが、実際にそうした状況に遭遇してみますと、自然と身体が前のめりになったり、あるいは目が見開いていくような感覚を得るのではないでしょうか?

また自身の場合、そうした場において見事な受け答えをされている方に対して最近の若者コトバでもありますが『無双』といったコトバが不図浮かんできます・・(笑)。

とはいえ、実際そうした場面に遭遇することは多くはなく、それ故、あくまでも感覚的ではありますが、そうした場面・人とは、ある程度(精確に)判断することが出来るのではないかと思われるのです。

あるいは『ヒトは見かけによらない』といわれ、またそれは事実であると考えますが、しかし、その語るところを、ヒトと話しているところを、あまり意識はしないでも、しばらく見ていますと、やはりそうした方々には、さきに書いたような動物的な感覚を通じ感知され得る『何か』があるのではないかとも思われます。

しかし、その感知される『何か』とは具体的には分からず、現段階においてはあくまでも感覚的なものであるため視点を変え、そういった方々が共通して持つ特徴について以降少し述べます。

さて、自身がこれまでに見受けた、さきほどのいわゆる『無双感』のある方々の共通する大きな特徴として『脱抑制』のスタンスが挙げられます。

つまり態度、話し言葉が特に硬くなく、専門用語なども必要に応じて話され、おそらくあまり意識されていないのかもしれませんが聞き手に分かり易く話され、さらには多少早口気味のやや高音であり、また英語にて話される場合においても、同様に早口気味である割には聞き取り易くコトバが明瞭であるといった傾向が共通してあると思われます。

とはいえ、これら全ては表層的な傾向であり、その本質にある真髄とは、あくまでもその方御自身が話される内容にあると云えますが・・。

それ故、こうした傾向・性質とは、おそらく真似・演技をすることが困難ではないかと思われるのです・・。

また、昨今テレビ番組の視聴率が概してあまり芳しくない一つの要因とは、さきに述べたことがインターネットの普及により、ある程度社会において自明のことになりつつあるからではないかとも考えられます。

また、この脱抑制に関連して思い出されたことはやはり自身の師匠であり、おそらくこれらの方々もまた、少なからずこの共通する特徴である『脱抑制』が当て嵌まるのではないかと思われます。

くわえて、さらに思い出されるのはトーマス・マン著の長編小説『魔の山』の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏であり、この人物にもある種の『無双感』があると思われます・・(笑)。

ともあれ、そうしますと、さきに述べたように、こうした人物像とは、ある程度の最大公約数的な何かしらの傾向といったものがあるのかもしれないと思い至るのですが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年から現在に至るまで列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された
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2017年12月16日土曜日

20171215 840記事到達 人生万事塞翁が馬?

直近に投稿した記事により総投稿記事数が840に到達しました。

そうしますと、あと10記事の投稿にて年内の達成目標である850記事に到達することが出来るわけですが、また自身としては年内出来るだけ早めの到達を望んでおります。

それ故、また新たに記事作成を開始した次第であるのですが、面白いことに記事内容が異なると、その文体もまた、どうしたものか変わってくるようです・・(笑)。

また、あくまでも自身の感覚に基づくことではありますが、自身がこれまである程度長く取り組んできた文系学問のいくつかの分野での記事に関しては、硬軟何れの文体においても、どうにかその述べたいことを述べることが以前に比べて出来るようになってきているようにも思われます。

以前はこうしたことが出来なかったと記憶しておりますので、これも継続的なブログ記事作成による一つの効果と云って良いのかもしれません。

とはいえ、それでも自身の文体を確立・獲得したといった実感はありませんので、今後もそうしたことをある程度明瞭に実感そして認識することが出来る程度までは記事作成を継続していきたいと考えています。

そして、おそらく1000記事程度まで継続してみますと何かしら見えてくるものがあるのではないかと思われます。

しかし、このブログ記事の作成に関しては、意見を伺える先達・師匠といった方の存在が周囲にないため、時折インターネットにてそうした情報を検索することがありますが、そこで書かれている見解がある程度普遍的に正しいのか、あるいは普遍的に正しい見解であったとしても、逆に自身がその見解に適応するかが分からないため『よく分からないけれどもとりあえず継続している・・』といった状態のままであると云えます(苦笑)。

くわえてブログ記事作成当初は周囲より時折中傷めいたことを云われることもありましたが、現在に至っては特にそうしたこともなく、おそらくあきらめたのではないかと思われます・・(笑)。

そういえば、何故であるかよく分かりませんが、私は幼い頃からそうした中傷めいた、悪意的とも取れることを云われることが多かったようにも思われます。

それは一種の教育・精神の鍛え方であったのかもしれませんが、同時にそうした行為・言動が云われた人間の負けじ魂の発育にのみ寄与するとは限らないことも(もう少し)念頭に置かれた方が良かったとは思うところですが、しかしながら、それに関しては『時既に遅し』といったところであると云えます・・(苦笑)。

一方で巡り合った師匠の方々についてはかなり運が良かったのではないかと思われ、また、こうした師匠との出会いがなければ、おそらく私は良い意味においても、悪い意味においても現在とは違ったものになっていたと云えます(当然と云えば当然ですが・・)。

そして、現在どうにか継続して作成することが出来ている当ブログもまた、これらの出会いに大きく因っていると云えるのです。

また同時に、それ故に現在のようなあまり良いとは云えない状況においても、どうにか、心が折れず、さまざまな活動を継続することが出来ているとも云えます。

おそらくこうしたことは以前の私ではさまざまな意味から出来なかったと考えます。

あるいは、さきの師匠との出会いとともに、現在のあまり良くない逆境とも云える状況もまた継続的なブログ記事の作成を為さしめている一つの要因であるのかもしれません・・。

そうした意味からも人生万事塞翁が馬と云えるのかもしれませんが、これに関しては、今しばらく記事作成を継続したのちに再度検討してみようと思います。


ともあれ今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


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2017年12月15日金曜日

20171215 ロストワックス鋳造法・鋳造収縮などについて

歯科医療において多く用いられる鋳造方法はロストワックス法と呼ばれるものであり、これは鋳造体原型模型をワックス等の成形・加工が容易な樹脂系材料を用いて作成し、これを耐火性質を持つ鋳型材(埋没材)内部に包埋し、乾燥した後、包埋された樹脂による鋳造体原型模型を炉内にて熱して焼去、焼き飛ばし、それにより生じた空隙部に溶湯状態の合金を鋳込むことにより樹脂製鋳造体模型が合金による鋳造体に置き換わるといった手法である。

このロストワックス鋳造法とは歯科医療のような精密な寸法精度が要求される鋳造体の作成に適した手法であり、その歯科医療への応用の公的な起源は20世紀初頭(1907年)米国の歯科医師タガートによるニューヨーク市での歯科医学会における講演であるとされている。

とはいえ、ロストワックス鋳造法自体は歯科医療以外の分野においては相当古くから用いられた手法でもあり、我が国においては奈良時代に朝鮮半島・大陸よりもたらされたと考えられており、この手法により当時の仏像、銅鏡などが多く制作されている。【当時のワックスとは蜜蝋であった。】

さて、歯科医療における鋳造とは一般的な工業界における鋳造とは異なり金・銀・銅の三元合金さらに高カラット合金を早くから多用していたことから、当初は得られた鋳造体の化学的・機械的性質については合金そのものが優れていたことからあまり問題とされなかった。

しかし、この鋳造法にてインレーを作製する場合においては、その窩洞への適合性に対してはかなり厳しく、その精度についての議論とはかなり鋭いものであった。

鋳造体の精度について、はじめてその理論を公表したのは米国の国立標準技術研究所のコールマンでありコールマンは合金の鋳造収縮に着目し、それが鋳造体が不適合となる要因であると述べた。

当時(1928年)この鋳造収縮の理論とは画期的なものでありコールマンはそのなかで純金の鋳造収縮を約1.25%であると発表していた。

後年、我が国の歯科理工学研究者の始祖の一人とされる金竹哲也が公表した値は1.7%であり、現在においてはこの値が妥当とされている。

ともあれ、この鋳造時に生じる収縮を何らかの方法により克服することが出来なければ、鋳造精度の向上ひいては精密な歯科補綴物の製作は為し得ない。

他方、1913年にフェンナーにより石英の高温結晶であるクリストバライトの熱膨張の性質が解明された。

そこで歯科界はこのクリストバライトの熱膨張の性質を鋳造に用いる鋳型材(埋没材)として利用し、さきに述べた合金の鋳造収縮を補う・相殺することを試みた。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

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2017年12月14日木曜日

20171214 IT化により生じる歯科医療・技工業界における変化について

近年、さまざまな機器がコンピューターに接続され、そこで得られた情報がデータ化され、それらがインターネットを介し相互に送受信することが可能となった。

現在作成しているこの文章がインターネットウェブ上にてブログ記事として何処でも閲覧可能になることは現在においては当然であるが数十年前においては考えられないことであった。

こうしたコンピューター技術に基づく所謂技術革新とは、さきの記事においても少し触れたが医療、歯科医療に対してもまた少なからぬ影響を及ぼしており、なかでも画像診断に用いるCT、MRIなどの機器は、まさしくこれまでの伝統的なX線画像による診断を過去のものにしたと云える。

さらには、これらCT、MRI機器にて得られたデータを3Dプリンターなどを用いて三次元的に模型化・実体化することが可能であることは、まさしく、さきのコンピューターによる技術革新が具現化されたものの一つであると評し得る。

こうした新たな機器とは医療スタッフの治療技術の更なる向上、患者さんへ提供する医療の質の向上、そして医療スタッフの作業の軽減あるいは質を担保した効率化・簡便化を企図したものであるとも云える。

そして精密な手技により巧拙が多く決せられる歯科医療分野においてもまた、この技術革新による影響とは著しいものであり、とりわけ各種被せもの、義歯の作成などを行う歯科技工分野においては既存業界の在り方自体に変革が迫られているとも云える。

これを具体的に述べると、これまで印象材を用いて口腔内様相の印象採得を行い、得られた印象に石膏を注ぎ、口腔内様相の石膏模型を得て、そこから各種補綴物の設計、作成が為されていたものが、コンピューターに接続した光学印象機器により口腔内様相が即座にデータ・画像化され、それに基づいて各種補綴物の設計がCAD機器を用いコンピューター上にて為され、そこで設計された補綴物データを用いCAM機器にてバルクから削り出し作成されるようになるといった変化である。

これに伴い従来の
技工作業とは、ほぼ最終段階にある色彩の調整、マージンの微調整、仕上げ研磨などといったごくごくわずかな一部分のみとなってしまう可能性もないとは言い切れなくなる。

また、他の補綴物においても用いる材料の更なる進化発展により、この傾向とは今後さらに進行するものと思われる。

しかしながら、さきにも少し触れたが歯科技工をも含めた歯科医療機関とは、その大半が中小あるいは零細企業であり、彼らがどのようにして、このある程度大きな設備投資を要し、さらには事業主、従業員共に既存の知識、意識、技術の大きな変革が要求されるこの技術革新の波に対し果たして適切な対応をとることが可能であるのかとは未だ疑問のままであると云える。

くわえて
単なる杞憂であるのかもしれないが行政・国の方々とは、どの程度まで、あるいはどのように、こうした歯科医療、歯科技工業界にて生じている事態(技術革新の波)を把握されておられるのだろうか?


今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年から現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等といった大規模自然災害により被害を受けた諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今から再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。