A「本日、九月初日の首都圏は未だ『残暑』といっても良いこの時季であるにもかかわらず、いささか早急に秋が訪れたような陽気でした。
さて、先日より読み進めている著作は残り50頁程度となりました。おそらく明日には読了に至るのではないかと思われます。
ともあれ、久々に通史的な著作を読んでいるためであるのか、昨今、能動的にブログ記事を作成することへの困難さをおぼえるのです・・(苦笑)。
やはり書籍を読む行為、そしてその時期とは主に『受容』の態勢にあると云えますので、それが何かしらブログ記事作成といった能動的な行為に対して影響を及ぼしているとは十分に考え得ることです。
いや、もう少しこのことを【読書とブログ記事作成】考えてみますと、それは精確には自身にとって身近な、慣れ親しんだ、血肉化された言語・著者・分野における書籍の読書であるならば、さきに書いたように読書という行為が本質的に『受容的』なものであるとしても、それとは逆に能動的な(ブログ記事をも含めた)文章作成に対して促進的な役割を果たすことの方が多いのではないかと思われるのです・・。
このあたりには如何なる精神のメカニズムが関与しているのか分かりませんが、何れであれ、これまで一応ブログ記事を作成してきた実感として、以上のようなことが認識し得るのです。
しかし、そのように考えてみますと『では、文章作成行為を励起させる、自身のより基層に近い部分にある(一連の)書籍とは何か?』と考えてみますと、それは端的に『その著作を読むと比較的文章がスムーズに書くことが出来る。』と分類、認識し得るものであり、当然ながらそうした著作とは個人により異なると云えます。
また、そうした著作を未だ見出していない方もいるのではないかと思われます。
【もちろん見出す必要性などまったくないのですが・・(笑)。】
さらに、もちろんそこには表層的な文体の【読書の影響による】真似もいくらかは含まれるのでしょうが、おそらく、そこには無意識にも至るさらに深い何かがあるのではないかと思われるのです・・。
つまり、その程度(無意識にも至る)まで深く読み込んだ書籍があるということが、その反面にある文章作成という能動的な活動に対しても影響を及ぼしているのではないかと思われるのです・・。
そして、書籍の乏しかった時代における読書とは、そうしたものであったのではないかと思われます・・。
また、現代の我々もまた、そうした経験を教育の何処かの段階で経ることは、なかなか重要なことではないかとも思われるのです。
とはいえ、そこで極めて重要であると思うことは、個人にとって、そうした核ともいえる存在となる書籍を選ぶことは、現代の我が国においては、あくまでも個人の裁量に任せられることであり、また、そうした意味においてキリスト教文化圏(特に新教)での信教に必ず付随する『聖書』という(書籍の)存在が極めて意義深いものであることが認識されるのです・・。
一方、我々日本人にはそうした種類の書籍はありません。
(あると主張される方々もいるかもしれませんが、キリスト教文化圏における『聖書』のような存在はないと思われる。)
それ故、もちろん無理強いはしませんが、それに代わり得る書籍(複数でも)を何かしら持つことは、我々先祖の行ってきた伝統的な読書の方法にも適い、少なくとも、文章作成という能動的行為に対しては、あるいは多少の効果を持つのではないかとも思われます・・。
【昨今巷にていわれる『紋切り型社会』とは、おそらくこうした社会での(読書の)傾向がPC・スマホの普及により侵食され、劣化していることを示しているのではないかとも思われます・・。】
他面、私事になりますと、これまでに書いてきたブログ記事とは、そうした核となる存在が自身にとって何であるのか、あるいはそれ以前に、その核となる存在の有無に対する賭けであるようにも思われるのです。
もちろん、まだ勝負はついていませんが・・(笑)。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
2017年9月2日土曜日
2017年9月1日金曜日
20170831 通史ものの書籍を読んでいて思ったこと・・
本日八月最終日の首都圏は断続的に雨が降り、また気温も上がらず、八月としてはかなり冷涼な一日であったのではないかと思われます・・。
さて、先日より読み進めております上下巻より成る通史ものの著作は、残り100頁程度となりましたが、小説、物語などと違い、大団円などといったものはないようであり、このままの調子にて比較や分析に終始するのではないかと思われます・・。
この著作を読みつつ、文中にてこれまでに知らなかった知見に出会うと、その都度、その箇所に横線を書き入れ、あるいは頁に折り目などを入れておりますが、現在になり、これら箇所を振り返りつつ眺めてみますと、やはりそれなりに面白く、自身がその箇所に横線を記入した理由も納得出来ます。また読了の後も、機会を見つけて再読してみようと思います・・。
また、この著作を読んでいる際に内容を思い起こさせる他の著作とは多々ありますが、とりわけ多いと感じたものはフレーザー著『金枝篇』、金関丈夫著『日本民族の起源』、石田英一郎らによる同名著作、あるいは岡正雄論文集『異人その他』といったところではないかと思われます・・。
とはいえ、斯様に思いかえしてみますと、どうも私を含めて我々日本人とは純粋に遺伝子、血液型の分布といった(情動的要素を伴わない)理系的とも云える要素についての自民族への分析、考察とは躊躇なく客観的態度にて行うことが出来るものの、そのさらに上に築かれる文化についての分析、考察とは情動的価値感が惹起せられることにより躊躇するのか、あるいはあまりにも日常的過ぎて、対自的な存在として認識することが困難になってしまうというような傾向があるのではないかと思われるのです・・。
そして、何といいますか、それに対してツジツマを合わせるようにどちらかというと(扱い易い)比較的皮相的な歴史ネタを散りばめた種々アイコン、文化事物を生みだすといった事態になるのでしょうが、とりわけ昨今の我が国社会にて広く見受けられるタイム・スリップ、タイム・リープものとは、あるいは興味へのきっかけにはなるのかもしれませんが、しかし、こうした『分かり易さを核として急激に凝集する』ことは、いつもの我が国の流行ものの伝で、結局のところ、早晩のうちに忘れてしまうのではないかといった危惧をおぼえるのです・・(苦笑)。
しかし、こうした傾向とは見方を変えてますと、勘が良い、察しが良い(空気を読む)ということにもなると思われますので、そうしたことからも、何と云いますか、自身をも含めて我が国のなかなか変えることの難しい根の深い習性らしきものを感じてしまうのです・・(苦笑)。
それ故、私見としては社会全体として生活の資になり易い理系学問分野に注力するのは大変結構ではあると思うのですが、その一方で、もう少し、こうした(観念的な)ことを嗤わずに考える習性を自然と身に着けていくような工夫が為されたら良いのではないかと思うのです・・。
しかし、そうしますと、そうした工夫が本職であるはずの文系研究者の方々の多くとは、自身がようやく手にすることが出来た正規の研究者という地位に安住、惑溺してしまい、こうした、いわば泥臭いことをスッカリ忘れ、心身ともに爽やかな存在になってしまうことが多いのではないかとも思われます・・。
いや、たしかにその方が(我が国の場合)女性はハナシを聞いてくれるのでしょうが・・しかし同時に、その内容や実効性については当人自身も余程自己欺瞞をしていなければ『至極あやしいものである』と気付いているのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・(苦笑)?
他方、反対のキャラクターを押し通すと洗礼者ヨハネのようになってしまうように思います・・(笑)。
(また、少なくとも近代以降の我が国に本格的な哲学、思想などが生まれ得ない大きな原因は、このあたりにあるのではないかとも思われます・・。)
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
さて、先日より読み進めております上下巻より成る通史ものの著作は、残り100頁程度となりましたが、小説、物語などと違い、大団円などといったものはないようであり、このままの調子にて比較や分析に終始するのではないかと思われます・・。
この著作を読みつつ、文中にてこれまでに知らなかった知見に出会うと、その都度、その箇所に横線を書き入れ、あるいは頁に折り目などを入れておりますが、現在になり、これら箇所を振り返りつつ眺めてみますと、やはりそれなりに面白く、自身がその箇所に横線を記入した理由も納得出来ます。また読了の後も、機会を見つけて再読してみようと思います・・。
また、この著作を読んでいる際に内容を思い起こさせる他の著作とは多々ありますが、とりわけ多いと感じたものはフレーザー著『金枝篇』、金関丈夫著『日本民族の起源』、石田英一郎らによる同名著作、あるいは岡正雄論文集『異人その他』といったところではないかと思われます・・。
とはいえ、斯様に思いかえしてみますと、どうも私を含めて我々日本人とは純粋に遺伝子、血液型の分布といった(情動的要素を伴わない)理系的とも云える要素についての自民族への分析、考察とは躊躇なく客観的態度にて行うことが出来るものの、そのさらに上に築かれる文化についての分析、考察とは情動的価値感が惹起せられることにより躊躇するのか、あるいはあまりにも日常的過ぎて、対自的な存在として認識することが困難になってしまうというような傾向があるのではないかと思われるのです・・。
そして、何といいますか、それに対してツジツマを合わせるようにどちらかというと(扱い易い)比較的皮相的な歴史ネタを散りばめた種々アイコン、文化事物を生みだすといった事態になるのでしょうが、とりわけ昨今の我が国社会にて広く見受けられるタイム・スリップ、タイム・リープものとは、あるいは興味へのきっかけにはなるのかもしれませんが、しかし、こうした『分かり易さを核として急激に凝集する』ことは、いつもの我が国の流行ものの伝で、結局のところ、早晩のうちに忘れてしまうのではないかといった危惧をおぼえるのです・・(苦笑)。
しかし、こうした傾向とは見方を変えてますと、勘が良い、察しが良い(空気を読む)ということにもなると思われますので、そうしたことからも、何と云いますか、自身をも含めて我が国のなかなか変えることの難しい根の深い習性らしきものを感じてしまうのです・・(苦笑)。
それ故、私見としては社会全体として生活の資になり易い理系学問分野に注力するのは大変結構ではあると思うのですが、その一方で、もう少し、こうした(観念的な)ことを嗤わずに考える習性を自然と身に着けていくような工夫が為されたら良いのではないかと思うのです・・。
しかし、そうしますと、そうした工夫が本職であるはずの文系研究者の方々の多くとは、自身がようやく手にすることが出来た正規の研究者という地位に安住、惑溺してしまい、こうした、いわば泥臭いことをスッカリ忘れ、心身ともに爽やかな存在になってしまうことが多いのではないかとも思われます・・。
いや、たしかにその方が(我が国の場合)女性はハナシを聞いてくれるのでしょうが・・しかし同時に、その内容や実効性については当人自身も余程自己欺瞞をしていなければ『至極あやしいものである』と気付いているのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・(苦笑)?
他方、反対のキャラクターを押し通すと洗礼者ヨハネのようになってしまうように思います・・(笑)。
(また、少なくとも近代以降の我が国に本格的な哲学、思想などが生まれ得ない大きな原因は、このあたりにあるのではないかとも思われます・・。)
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
2017年8月30日水曜日
20170830 書き続けることにより強迫観念から単なる観念へ・・文体の獲得?
A「対話の中にて自身のことを振り返り話す際、思い出されるように、かつての自身の状態が明瞭になることがあります・・。
これまでに何度か当ブログ記事にて書いたことではありますが2009年冬から2010年秋に掛けては自身にとってはいささか重過ぎる耐出来事が連続して生じました・・。
これら期間の私とは、対外的、表面的には【ある程度】まともには振る舞っているつもりでしたが、週末の散歩の際などは、視線を落とし、そうした状況を忘れるためかMP3プレーヤーにて音楽を聴きながら無心で鹿児島市街を歩いていたことが思い出されます・・。
それでも2013年の春頃には多少おかしくもなりましたが、しかしそれは、この週末の長い散歩が無ければ、それ以上にひどいことになっていたのではないかと思われるのです・・。
また同時に現在であれば、そうした(精神的に)危険な状態から完全に脱し、安全圏にいるというわけでもなく、現在は現在で『何かしら文章を書いていないとおかしくなってしまう』といった強迫観念にも近いものに支配されつつ、こうしてブログ記事の作成を継続しているとも表し得るのです・・(苦笑)。
しかし同時に、現在になり思うことは、こうして強迫観念らしきものに促されブログ記事を作成し続ける自身に対し慣れつつあるということであり、またそれを決しておぞましいものであるとは感じないということです・・。
そして、こうした感覚に完全に慣れ、そしてそれが自己同一化が為された時に、あるいは自身の文体といったものが得られるのではないかとも思われるのです・・。
あまり科学的、理路整然とした内容ではありませんが、整理、認識のための後付けの理論を考え得ない、持ち得ない内的な現象に対しては、斯様に、とりあえずのところは感覚に基づいた言語を以って書いてみても良いのではないかと考えます。
また、おそらく詩と理論の間にある認識の層とは、多くの場合、そのようなものではないかとも考えられます。
そして、そのように考え得ることにより、さきに書いた強迫観念らしきものは、そうであることを止めて、単なるニュートラルな観念へと変態・収束するのです【とはいえその収束のためにはある程度継続しなかれば安定化しないようです・・】。
さらに同時にその収束点あるいはその近いところに『文体の獲得』があるのではないかと考えることは特に不自然なことではないと考えますが、さて、如何でしょうか・・?
昨年より現在までに生じた地震・大雨・水害といった一連の大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
これまでに何度か当ブログ記事にて書いたことではありますが2009年冬から2010年秋に掛けては自身にとってはいささか重過ぎる耐出来事が連続して生じました・・。
これら期間の私とは、対外的、表面的には【ある程度】まともには振る舞っているつもりでしたが、週末の散歩の際などは、視線を落とし、そうした状況を忘れるためかMP3プレーヤーにて音楽を聴きながら無心で鹿児島市街を歩いていたことが思い出されます・・。
それでも2013年の春頃には多少おかしくもなりましたが、しかしそれは、この週末の長い散歩が無ければ、それ以上にひどいことになっていたのではないかと思われるのです・・。
また同時に現在であれば、そうした(精神的に)危険な状態から完全に脱し、安全圏にいるというわけでもなく、現在は現在で『何かしら文章を書いていないとおかしくなってしまう』といった強迫観念にも近いものに支配されつつ、こうしてブログ記事の作成を継続しているとも表し得るのです・・(苦笑)。
しかし同時に、現在になり思うことは、こうして強迫観念らしきものに促されブログ記事を作成し続ける自身に対し慣れつつあるということであり、またそれを決しておぞましいものであるとは感じないということです・・。
そして、こうした感覚に完全に慣れ、そしてそれが自己同一化が為された時に、あるいは自身の文体といったものが得られるのではないかとも思われるのです・・。
あまり科学的、理路整然とした内容ではありませんが、整理、認識のための後付けの理論を考え得ない、持ち得ない内的な現象に対しては、斯様に、とりあえずのところは感覚に基づいた言語を以って書いてみても良いのではないかと考えます。
また、おそらく詩と理論の間にある認識の層とは、多くの場合、そのようなものではないかとも考えられます。
そして、そのように考え得ることにより、さきに書いた強迫観念らしきものは、そうであることを止めて、単なるニュートラルな観念へと変態・収束するのです【とはいえその収束のためにはある程度継続しなかれば安定化しないようです・・】。
さらに同時にその収束点あるいはその近いところに『文体の獲得』があるのではないかと考えることは特に不自然なことではないと考えますが、さて、如何でしょうか・・?
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに生じた地震・大雨・水害といった一連の大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
2017年8月29日火曜日
20170829 組織および人を見る上での一つの視座について思ったこと・・昨日の続き
本日は複数の著名とされている先生からお電話を頂き、かなり驚きました。
こうした種類の対人での緊張感とは昨今なかなか経験することがなかったため、あるいは電話での応対の際、かなり『あやしげ』であったのではないかと思われます・・(苦笑)。
メールでのやりとりであれば、概ね大丈夫であると思われるのですが、やはり実際の対人応接能力に関しては慣れておくことが重要であることを再認識しました・・。
その意味において、昨日投稿のブログ記事にて書いた『医局・講座』は、始終何かしらの人がいる環境であることから、たとえ臨床を含まない基礎講座においても、ある程度、多岐にわたる対人応対能力は自然に修練そして保持されるのではないかと思われます・・。
またそれは他の理系の研究室とも微妙に異なり、さらに文系の研究室とも大きく異なるといえます・・。
(医療系においてもバラつきは少なくないかもしれないが)
ともあれ、自身としては、最も居心地が良かったと思われるのは、自由度が極めて大きかった文系院の研究室であり、また、おそらくこれが自身の学問に関しての原風景・刷り込みであったのではないかと考えます。
それ故、のちに歯系院の講座に所属することになった当初の自身とは、かなり浮いた変な存在であったのではないかと察せられます・・(苦笑)。
そしてまた、そのことから周囲の方々に対して色々とご迷惑をおかけすることもあったのではないかとも思います・・。
しかし、そこで大変偉いと思うのは周囲の先生方であり、そうした(異様な存在である)私に対し特に頭ごなしに型に填めようとするのではなく、何となく、自然に講座に馴染むような接し方をしてくださったように思われるのです
(あるいはこれも一種の地域性の発露であるのかもしれません)・・。
とはいえ、もう少しこれを考えてみますと、自身が属した講座とは、一般的な見地から何らかの意味で『変わった人』が多く、そのことから当時のこの講座とは、そうした方々が集まってくる『何か』があったのではないかとも思われるのです・・(笑)。
そして、そこまで書いておりますと不図思い起こされるコトバは大分以前に文系の師匠が仰った『教育者の本当の力量というものが如実にあらわれるのは、時折いる良くも悪くもの規格外の学生等に対する伸び代へのアプローチとその後でしょう・・』というコトバであり、そして今になり振り返ってみますと、たしかに、この師匠のもとにも、どうしたわけか、多少変わった方々が多く集まっておりました・・。
また、同様に文系院においても、よく議論を交わした方々と連れ立って質問を携え度々訪問した先生もまた、現在に至るまで、時折いるこうした種類の(変わった)院生に慕われているとのことです・・。
私はこうしたことを的確に認識出来るような感覚およびその感覚の洗練とは、きわめて重要ではないかと考えるのですが、さて如何でしょうか・・?
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
こうした種類の対人での緊張感とは昨今なかなか経験することがなかったため、あるいは電話での応対の際、かなり『あやしげ』であったのではないかと思われます・・(苦笑)。
メールでのやりとりであれば、概ね大丈夫であると思われるのですが、やはり実際の対人応接能力に関しては慣れておくことが重要であることを再認識しました・・。
その意味において、昨日投稿のブログ記事にて書いた『医局・講座』は、始終何かしらの人がいる環境であることから、たとえ臨床を含まない基礎講座においても、ある程度、多岐にわたる対人応対能力は自然に修練そして保持されるのではないかと思われます・・。
またそれは他の理系の研究室とも微妙に異なり、さらに文系の研究室とも大きく異なるといえます・・。
(医療系においてもバラつきは少なくないかもしれないが)
ともあれ、自身としては、最も居心地が良かったと思われるのは、自由度が極めて大きかった文系院の研究室であり、また、おそらくこれが自身の学問に関しての原風景・刷り込みであったのではないかと考えます。
それ故、のちに歯系院の講座に所属することになった当初の自身とは、かなり浮いた変な存在であったのではないかと察せられます・・(苦笑)。
そしてまた、そのことから周囲の方々に対して色々とご迷惑をおかけすることもあったのではないかとも思います・・。
しかし、そこで大変偉いと思うのは周囲の先生方であり、そうした(異様な存在である)私に対し特に頭ごなしに型に填めようとするのではなく、何となく、自然に講座に馴染むような接し方をしてくださったように思われるのです
(あるいはこれも一種の地域性の発露であるのかもしれません)・・。
とはいえ、もう少しこれを考えてみますと、自身が属した講座とは、一般的な見地から何らかの意味で『変わった人』が多く、そのことから当時のこの講座とは、そうした方々が集まってくる『何か』があったのではないかとも思われるのです・・(笑)。
そして、そこまで書いておりますと不図思い起こされるコトバは大分以前に文系の師匠が仰った『教育者の本当の力量というものが如実にあらわれるのは、時折いる良くも悪くもの規格外の学生等に対する伸び代へのアプローチとその後でしょう・・』というコトバであり、そして今になり振り返ってみますと、たしかに、この師匠のもとにも、どうしたわけか、多少変わった方々が多く集まっておりました・・。
また、同様に文系院においても、よく議論を交わした方々と連れ立って質問を携え度々訪問した先生もまた、現在に至るまで、時折いるこうした種類の(変わった)院生に慕われているとのことです・・。
私はこうしたことを的確に認識出来るような感覚およびその感覚の洗練とは、きわめて重要ではないかと考えるのですが、さて如何でしょうか・・?
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
20170828 医局・講座制の今後の持続(発展)可能性について思ったこと・・
本日のブログ記事投稿により総投稿記事数が730となります。
これも、あまり区切りの良い数字ではありませんが、これにより、とりあえずの目標としている800記事まで残り70程度となり、さらに現在のペースにて記事作成を継続することにより2カ月以上3カ月未満にて、この目標に到達することが出来ます。
そのように考えてみますと、先は長いようですが、同時に、このようにして書き続ける以外に良い方法があるとは思われないことから、おそらく今後もしばらくは書き続けることになると思われます・・(苦笑)。
さて、以前に投稿したブログ記事において大学の学部・研究科により、その単位となるグループ組織の名称およびその背景文化が大きく異なると述べましたが、その中でも特に医療系(医科・歯科)にて古くから存在する医局・講座制とは、かなり独特な組織ではないかと思われます・・。
これに類似しているものを挙げるとすれば、それはあくまでも想像ですがヤクザの世界ではないかと思います・・(笑)。
また、我が国では以前より医局・講座を舞台とした小説、ドラマ、マンガなどが少なからず存在しておりますので、もしかするとヤクザの抗争ものの映画と同様、男性を主とする組織の権力闘争とは、観客として見る分においては、少なくとも、つまらないものではないのかもしれません・・(苦笑)。
・・とはいえ、であるからといって自身は医局・講座が悪いものであるとは決して考えません。
むしろ、ある程度専攻する研究分野が決まっているのであれば、その研究分野に最も近いことを主として研究してる医局・講座に属するということは、研究の効率的な進展のために望ましく、またその際に否応なく生じる上下関係などは、仕方がないというよりも当然のことではないかと思われるのです・・。
しかし、その点において文系学問での博士課程においては、全般的にもう少しフラットな自由競争に近いものであり、自身の努力・才覚如何によっては(面倒な)上下関係など飛び越え、早々に学位を取得し、研究者として就職することも可能であるとのことです・・。
以上の見識から(ある程度確からしい)結論を出すことなどは到底できませんが、それでも大きな傾向として思うことは以下のとおりです。
医療系をはじめとする(臨床)技術を基礎に置く理系学問分野においては、特に古くからの徒弟制度的な機能が(ある程度)組織にて担保・保持されていないと、その機能を媒介として更新継承され続けてきた(臨床)技術にくわえ、その機能が文化としての役割を果たし為されてきた医療倫理あるいは哲学などの更新継承が絶えてしまう(形骸化してしまう)のではないかと思われるのです・・。
私見としては、今後、医療介護などを包括するような大学外の講座(学外講座)といったものが実質を伴い増加することにより、大学および外部医療機関双方の持続(発展)可能性が強化されるのではないかと思われます。
そしてまた、そうした環境に何らかのカタチで文系の人間を合金、セラミックスの成分設計における微量元素の添加にように少数放り込んでおくと時折面白いことが生じる(こともある)のではないかと思われます・・(笑)。
そして、逆もまた同様であるかもしれません・・(笑)。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した地震・大雨・水害といった一連の大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧そして回復および、その後の復興を祈念します。」
2017年8月28日月曜日
20170827 『抽象化・解釈の仕方の傾向から我が国のことを考えてみると・・』
本日の首都圏は日中、夏らしい暑さではありましたが、日が暮れてきますと、日中の暑さは和らぎ、夜半においては幾分秋の気配らしきものをも感じさせました。
さて、ここ数日来ブログ記事題材において『抽象化』を扱っておりますが、抽象化とは換言してみますと『解釈の仕方』ではないかと思われます。
たとえば数人にてある実体としての動物を見た場合、その生物としての分類、かわいいかどうか、そして食用になるかなど、さまざまな解釈の仕方が存在するといえます。
そして、それぞれの解釈の仕方から、さらに深化したカタチにて考察、議論が為されていくのでしょうが、これにもまた各々の『解釈の仕方』が存在し、そしてそれに伴いまた抽象度が高くなっていくものといえます。
具体的な例を挙げますと『蛇』は生物的には爬虫類に分類(解釈の仕方)され、また他方、世界各地の信仰、宗教などにおいては、それぞれ地母神、豊穣、精力、死、悪魔といった多様な意味合い(解釈の仕方)を持っています。
さて、以上のことを踏まえ、特に普遍性をその学問的基礎に置く理系学問分野においては
さきの『蛇』の場合、その起点においては概ね生物学的な分類があり、そこから派生し、各々分野における特有の抽象化が為されるといえます。
とはいえ、こうした方向での考察、議論とは、その起点にあるものが(国際的な意味においても)普遍性を礎とするものであることから、たとえ言語が異なっていようが、その意味・内容を理解することが可能であるならば、多くの場合、既に為されている最先端の考察、議論に追いつく、キャッチアップすることは(比較的容易に)可能であるといえます。
そして我が国の国際間での理系学問分野における優秀さの基礎となるものとは、おそらく19世紀中葉頃において強く悟った西欧諸国の優秀な科学技術(理系学問の具現化されたもの)への効果的な対応の方法に拠るものであり、またそれ以前より古くから外来異文化の吸収を習い性としてきた我が国特有の一種のTraitにあるのではないかと考えます。
そうした(解釈の仕方の)結果として思うことは、我が国社会とは明治維新以降、断続的ではあるものの、同時に視野を少し大きく【倍率を低く】すれば継続的に、現在に至るまで、それまでも我が国社会において基調として存在していた即物、此岸的傾向を更に増強しつつ、また、まさにその一方で国際的視野において決して普遍的とはいえない固有の文化、伝統といったものを忘れ、捨て去りここに至っているようにも思われるということです・・。
【あるいは我が国の妖怪とはその象徴であるのかもしれないが、その妖怪すら現代的な解釈の仕方によって本来、古来からの意味合いを失いつつある、結句それは各時代時代において商売の道具、メシのタネにさえなれば、何でも良いのかもしれない・・(笑)】
もちろんこれも解釈の仕方の一つにすぎませんが・・。
しかしその一方において(たとえ断片的ではあったとしても)事実・真実とされるものもまた、このご時世においては解釈の一つなのです・・(苦笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。
さて、ここ数日来ブログ記事題材において『抽象化』を扱っておりますが、抽象化とは換言してみますと『解釈の仕方』ではないかと思われます。
たとえば数人にてある実体としての動物を見た場合、その生物としての分類、かわいいかどうか、そして食用になるかなど、さまざまな解釈の仕方が存在するといえます。
そして、それぞれの解釈の仕方から、さらに深化したカタチにて考察、議論が為されていくのでしょうが、これにもまた各々の『解釈の仕方』が存在し、そしてそれに伴いまた抽象度が高くなっていくものといえます。
具体的な例を挙げますと『蛇』は生物的には爬虫類に分類(解釈の仕方)され、また他方、世界各地の信仰、宗教などにおいては、それぞれ地母神、豊穣、精力、死、悪魔といった多様な意味合い(解釈の仕方)を持っています。
さて、以上のことを踏まえ、特に普遍性をその学問的基礎に置く理系学問分野においては
さきの『蛇』の場合、その起点においては概ね生物学的な分類があり、そこから派生し、各々分野における特有の抽象化が為されるといえます。
とはいえ、こうした方向での考察、議論とは、その起点にあるものが(国際的な意味においても)普遍性を礎とするものであることから、たとえ言語が異なっていようが、その意味・内容を理解することが可能であるならば、多くの場合、既に為されている最先端の考察、議論に追いつく、キャッチアップすることは(比較的容易に)可能であるといえます。
そして我が国の国際間での理系学問分野における優秀さの基礎となるものとは、おそらく19世紀中葉頃において強く悟った西欧諸国の優秀な科学技術(理系学問の具現化されたもの)への効果的な対応の方法に拠るものであり、またそれ以前より古くから外来異文化の吸収を習い性としてきた我が国特有の一種のTraitにあるのではないかと考えます。
そうした(解釈の仕方の)結果として思うことは、我が国社会とは明治維新以降、断続的ではあるものの、同時に視野を少し大きく【倍率を低く】すれば継続的に、現在に至るまで、それまでも我が国社会において基調として存在していた即物、此岸的傾向を更に増強しつつ、また、まさにその一方で国際的視野において決して普遍的とはいえない固有の文化、伝統といったものを忘れ、捨て去りここに至っているようにも思われるということです・・。
【あるいは我が国の妖怪とはその象徴であるのかもしれないが、その妖怪すら現代的な解釈の仕方によって本来、古来からの意味合いを失いつつある、結句それは各時代時代において商売の道具、メシのタネにさえなれば、何でも良いのかもしれない・・(笑)】
もちろんこれも解釈の仕方の一つにすぎませんが・・。
しかしその一方において(たとえ断片的ではあったとしても)事実・真実とされるものもまた、このご時世においては解釈の一つなのです・・(苦笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。
2017年8月27日日曜日
20170826 次に読む書籍に関して思ったこと【文体に慣れる】☜これが大事かもしれない
先日下巻を購入した著作はこれまでで半分程度にまで至りました・・。
下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。
ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。
また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。
またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。
ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。
それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。
また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。
しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。
時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。
とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。
さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。
ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。
また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。
またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。
ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。
それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。
また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。
しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。
時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。
とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。
さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
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