2017年8月27日日曜日

20170826 次に読む書籍に関して思ったこと【文体に慣れる】☜これが大事かもしれない

先日下巻を購入した著作はこれまでで半分程度にまで至りました・・。

下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。

ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。

また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。

またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。

ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。

それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。

また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。

しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。

時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。

とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。

さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。

そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」











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