本日の首都圏は日中、夏らしい暑さではありましたが、日が暮れてきますと、日中の暑さは和らぎ、夜半においては幾分秋の気配らしきものをも感じさせました。
さて、ここ数日来ブログ記事題材において『抽象化』を扱っておりますが、抽象化とは換言してみますと『解釈の仕方』ではないかと思われます。
たとえば数人にてある実体としての動物を見た場合、その生物としての分類、かわいいかどうか、そして食用になるかなど、さまざまな解釈の仕方が存在するといえます。
そして、それぞれの解釈の仕方から、さらに深化したカタチにて考察、議論が為されていくのでしょうが、これにもまた各々の『解釈の仕方』が存在し、そしてそれに伴いまた抽象度が高くなっていくものといえます。
具体的な例を挙げますと『蛇』は生物的には爬虫類に分類(解釈の仕方)され、また他方、世界各地の信仰、宗教などにおいては、それぞれ地母神、豊穣、精力、死、悪魔といった多様な意味合い(解釈の仕方)を持っています。
さて、以上のことを踏まえ、特に普遍性をその学問的基礎に置く理系学問分野においては
さきの『蛇』の場合、その起点においては概ね生物学的な分類があり、そこから派生し、各々分野における特有の抽象化が為されるといえます。
とはいえ、こうした方向での考察、議論とは、その起点にあるものが(国際的な意味においても)普遍性を礎とするものであることから、たとえ言語が異なっていようが、その意味・内容を理解することが可能であるならば、多くの場合、既に為されている最先端の考察、議論に追いつく、キャッチアップすることは(比較的容易に)可能であるといえます。
そして我が国の国際間での理系学問分野における優秀さの基礎となるものとは、おそらく19世紀中葉頃において強く悟った西欧諸国の優秀な科学技術(理系学問の具現化されたもの)への効果的な対応の方法に拠るものであり、またそれ以前より古くから外来異文化の吸収を習い性としてきた我が国特有の一種のTraitにあるのではないかと考えます。
そうした(解釈の仕方の)結果として思うことは、我が国社会とは明治維新以降、断続的ではあるものの、同時に視野を少し大きく【倍率を低く】すれば継続的に、現在に至るまで、それまでも我が国社会において基調として存在していた即物、此岸的傾向を更に増強しつつ、また、まさにその一方で国際的視野において決して普遍的とはいえない固有の文化、伝統といったものを忘れ、捨て去りここに至っているようにも思われるということです・・。
【あるいは我が国の妖怪とはその象徴であるのかもしれないが、その妖怪すら現代的な解釈の仕方によって本来、古来からの意味合いを失いつつある、結句それは各時代時代において商売の道具、メシのタネにさえなれば、何でも良いのかもしれない・・(笑)】
もちろんこれも解釈の仕方の一つにすぎませんが・・。
しかしその一方において(たとえ断片的ではあったとしても)事実・真実とされるものもまた、このご時世においては解釈の一つなのです・・(苦笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。
2017年8月28日月曜日
2017年8月27日日曜日
20170826 次に読む書籍に関して思ったこと【文体に慣れる】☜これが大事かもしれない
先日下巻を購入した著作はこれまでで半分程度にまで至りました・・。
下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。
ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。
また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。
またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。
ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。
それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。
また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。
しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。
時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。
とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。
さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。
ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。
また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。
またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。
ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。
それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。
また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。
しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。
時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。
とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。
さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
2017年8月26日土曜日
20170825 昨日の続き 【事物の抽象化の傾向・癖】【社会全体の創造性】について思ったこと
本日の首都圏はまた昨日同様に気温が上昇し、夏らしく蒸し暑い一日となりました。
また、昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの方々(35)に読んで頂けたようです。
さて、この記事の主題であった『事物の抽象化』とは、昨今興味深く思っていることのひとつであり『各個人それぞれが持つ事物に対しての抽象化の際に見受けられるある種の傾向・癖とは一体どのようにして成り立っているのか?どのような背景を持っているのか?』とは、なかなか奥が深いことではないかと考えます。
さらにまた、こうした視座とは、個人のみならず、地域・国家などの歴史に対しても応用可能であると考えられることから、あるいはさまざまな議論、話し合いなどの際における有効な視座となり得るのではないかとも思われます。
しかしながら、おそらく議論、話し合いでの『当初から』その視座が決められているのであれば、それはそれで、平和な議論、話し合い、そして予定調和的な結論が得易くはなるのでしょうが、そうした状況が常態化し進行しますと、それは議論、話し合いというよりも『演劇』として分類されるようなものになると思われるのです・・(苦笑)。
また、それは本当の議論を(ある程度)経験されたことのある方でしたら、それこそ当記事冒頭で述べたような『事物の抽象化』を通じ、ある程度明瞭に判ぜられるのではないかと思われます。
加えて、それとほぼ同様の理由から、昨今の『テレビ番組全般があまり面白くない』といった意見にもつながるのではないかと思われます。
インターネットが普及した今日においては、本物に似せた演劇・お芝居(映画、ドラマなど)よりも本物を手軽に視聴することが出来てしまうのですから・・。
そうしますと、創造の世界を描き、魅せる(観せる)という意味でアニメ・マンガなどに以後増々頼ることになるのでしょうが、しかし、それも続けざまで行いますと食傷気味になるでしょうし、それより何よりそれは本質的には創造とは異なるものであるように思われるのです・・(原作のアニメ・マンガは創造であると考えますが)。
また、こうしたことは映像文化のみならず昨今の活字文化においても同様の傾向があるのではないかといった意見を聞くことがありますが、私見として、その抽象化の仕方には少なからず同意出来ます。
しかし、そうした批判的な抽象化ばかりに同意出来るといったこの傾向とは、当然ながら自身としてはあまり嬉しいものではなく、また、一応そのように考えていることから、自身の行い得ることとして、一連のこれまでのブログ記事作成に取り組んでいるのではないかとも思える次第です・・(いささか言い訳じみますが)。
しかし、社会全体の創造力を増進する効果的な方法とは一体いかなるものがあるのでしょうか?
【決して悪いことばかりではないですが、昨今よく聞く男性の女性化・女性の男性化が招来するあまり好ましくないと思われる一つの点とは、おそらく社会全体の創造力の劣化・低下ではないかと思われます。】
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
また、昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの方々(35)に読んで頂けたようです。
さて、この記事の主題であった『事物の抽象化』とは、昨今興味深く思っていることのひとつであり『各個人それぞれが持つ事物に対しての抽象化の際に見受けられるある種の傾向・癖とは一体どのようにして成り立っているのか?どのような背景を持っているのか?』とは、なかなか奥が深いことではないかと考えます。
さらにまた、こうした視座とは、個人のみならず、地域・国家などの歴史に対しても応用可能であると考えられることから、あるいはさまざまな議論、話し合いなどの際における有効な視座となり得るのではないかとも思われます。
しかしながら、おそらく議論、話し合いでの『当初から』その視座が決められているのであれば、それはそれで、平和な議論、話し合い、そして予定調和的な結論が得易くはなるのでしょうが、そうした状況が常態化し進行しますと、それは議論、話し合いというよりも『演劇』として分類されるようなものになると思われるのです・・(苦笑)。
また、それは本当の議論を(ある程度)経験されたことのある方でしたら、それこそ当記事冒頭で述べたような『事物の抽象化』を通じ、ある程度明瞭に判ぜられるのではないかと思われます。
加えて、それとほぼ同様の理由から、昨今の『テレビ番組全般があまり面白くない』といった意見にもつながるのではないかと思われます。
インターネットが普及した今日においては、本物に似せた演劇・お芝居(映画、ドラマなど)よりも本物を手軽に視聴することが出来てしまうのですから・・。
そうしますと、創造の世界を描き、魅せる(観せる)という意味でアニメ・マンガなどに以後増々頼ることになるのでしょうが、しかし、それも続けざまで行いますと食傷気味になるでしょうし、それより何よりそれは本質的には創造とは異なるものであるように思われるのです・・(原作のアニメ・マンガは創造であると考えますが)。
また、こうしたことは映像文化のみならず昨今の活字文化においても同様の傾向があるのではないかといった意見を聞くことがありますが、私見として、その抽象化の仕方には少なからず同意出来ます。
しかし、そうした批判的な抽象化ばかりに同意出来るといったこの傾向とは、当然ながら自身としてはあまり嬉しいものではなく、また、一応そのように考えていることから、自身の行い得ることとして、一連のこれまでのブログ記事作成に取り組んでいるのではないかとも思える次第です・・(いささか言い訳じみますが)。
しかし、社会全体の創造力を増進する効果的な方法とは一体いかなるものがあるのでしょうか?
【決して悪いことばかりではないですが、昨今よく聞く男性の女性化・女性の男性化が招来するあまり好ましくないと思われる一つの点とは、おそらく社会全体の創造力の劣化・低下ではないかと思われます。】
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
2017年8月24日木曜日
20170824 日常の会話から・・事物の抽象化能力の重要性について
大分前に投稿したブログ記事を何かの折にあらためて読んでみますと、そこに書かれている内容にてワザとらしく難解と思われるコトバを【あえて】用いているのではないかと感じられることが多々ありました。
昨今投稿された記事においても、時折はそうした傾向が看取されることもあるかもしれませんが、冒頭に書いた時期の投稿記事に比べますと、その傾向は収まりつつあるのではないかと思われます。
そして、それに関連して思い出されることは、世代が上の理系・文系の研究者の方々とアカデミックな場でなく、日常会話が為されるような場にて、ある種学問・研究に関連するようなハナシをしておりますと、何といいますか難解と思われるコトバを敢えて使わずに、たとえ話、もしくは何やらよく分からない抽象的なハナシになるといった傾向が往々にしてあるということです・・。
とはいえ、これはこれで大変面白く、そうしたものを記憶に留めておくと、後にある程度の量の書籍・文献を読んだ結果『ああ、あの時**先生が云っていた意味はこういうことだったのだな・・』と分かる(と感じる)こともしばしばあるのです・・(笑)。
また、そうした経験が比較的多いのは、私見としては文系学問分野ではないかと思われます。
おそらく(私の知る)理系学問とは、その学問としての性質上、具体性・論拠の明示(再現可能性の基礎となるもの)が強く要求されることから、文系学問ほどに抽象的に語る、あるいは考える必然性に乏しいのではないかとも思われます。
しかし、一口に理系といいましても、たとえば原理的な理論・現象を主として扱う分野になりますと、やはり高度な事物に対する抽象化能力が要求されるようであり、そこで為される会話とは、たとえアカデミックな場を離れていても、時として、ある種の高度な抽象性を見出せることが多々あるようにも思われます・・。
そして、何れの学問分野においても自身が驚き、そして到底敵わないと感じさせる対象が持つ特質とは、概ねこうした(事物の高度にして洗練された抽象化能力)ものであり、その意味において私は老若男女問わずさまざまなタイプの優れた方々を見ることが出来たのではないかと思われます。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
昨今投稿された記事においても、時折はそうした傾向が看取されることもあるかもしれませんが、冒頭に書いた時期の投稿記事に比べますと、その傾向は収まりつつあるのではないかと思われます。
そして、それに関連して思い出されることは、世代が上の理系・文系の研究者の方々とアカデミックな場でなく、日常会話が為されるような場にて、ある種学問・研究に関連するようなハナシをしておりますと、何といいますか難解と思われるコトバを敢えて使わずに、たとえ話、もしくは何やらよく分からない抽象的なハナシになるといった傾向が往々にしてあるということです・・。
とはいえ、これはこれで大変面白く、そうしたものを記憶に留めておくと、後にある程度の量の書籍・文献を読んだ結果『ああ、あの時**先生が云っていた意味はこういうことだったのだな・・』と分かる(と感じる)こともしばしばあるのです・・(笑)。
また、そうした経験が比較的多いのは、私見としては文系学問分野ではないかと思われます。
おそらく(私の知る)理系学問とは、その学問としての性質上、具体性・論拠の明示(再現可能性の基礎となるもの)が強く要求されることから、文系学問ほどに抽象的に語る、あるいは考える必然性に乏しいのではないかとも思われます。
しかし、一口に理系といいましても、たとえば原理的な理論・現象を主として扱う分野になりますと、やはり高度な事物に対する抽象化能力が要求されるようであり、そこで為される会話とは、たとえアカデミックな場を離れていても、時として、ある種の高度な抽象性を見出せることが多々あるようにも思われます・・。
そして、何れの学問分野においても自身が驚き、そして到底敵わないと感じさせる対象が持つ特質とは、概ねこうした(事物の高度にして洗練された抽象化能力)ものであり、その意味において私は老若男女問わずさまざまなタイプの優れた方々を見ることが出来たのではないかと思われます。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
20170823 食育と夏場の体臭について首都圏から思ったこと
A「つい先日上巻を読了し、下巻を読みはじめた書籍も今日までに100頁以上にまで至りました(下巻全体の四分一)。
まだまだ先は大分長いですが、同時に思いのほか面白く読み進めることが出来ていますので、この調子にて読了に至ることが出来ればと思います。
さて、本日の首都圏は昨日と同様、日中気温が上昇し、本格的に夏らしい一日となったのではないかと思われます。
さて、以前にもブログ記事に何度か書いたことではありますが、こうした時季にしばらく街中を歩いておりますと、どうも九州在住時の記憶が想起されるようです・・(笑)。
また、それに関連して、つい先日気が付いたことは、さきに書いたような蒸し暑い環境にくわえ、周辺の自然の薫りが濃厚に感じられますと、私の場合、紀伊・和歌山での何処かの記憶が連想、想起されることです。
そして、このようなことをあらためて気が付いてみますと、目で見る視覚と同様、薫りといった嗅覚による環境の認識もまた身体レベルでの(包括的)認識という意味において、かなり重要ではないかと思われるのです・・。
また、この嗅覚による認識とは、近年その重要性が指摘されている『食育』とも、かなり密接な関連があるといえます。
しかしそれと同時に、ここで大変面白く思うことは、特に首都圏において(発汗の多い)夏場の男性の体臭をかなり忌諱するという傾向です。
そのため、男性用の制汗剤、香水などが多く開発、販売そして消費されているのでしょうが、そうした状況の下、この時候の満員電車に乗りますと、さきの体臭よりも男性用の制汗剤、香水あるいはその他香料などの香りの方が強く感じられ、それはそれであまり快適とはいえない環境であるとも云えるのです・・(笑)。
そして、一方において前述の近年その重要性が指摘されている『食育』とは、どうも(夏場の男性の体臭を忌諱する傾向と)本質的あるいは根源的に相矛盾するのではないかと思われるのです・・。
しかし、その反面において、衛生観念および、それに関連する技術の進化発展とは喜ばしいことではあるのでしょうが、どうも我々日本人の場合、そうしたモノあるいは観念を原初の姿から把握しないままで実用性に基づく応用に次ぐ応用を重ねるといった傾向があることからか、多くの場合、どうも変な方向に行ってしまうような傾向があるようにも思われるのです・・(苦笑)。
結句、現在の首都圏における夏場の体臭を忌諱する傾向とは、同じく電車内にて多く見受けられるスマートフォンでのゲームと同様、何やら人間の生来の感覚から逃げだそうとする傾向があるのではないかと思われ、あまり良いものであるとは考えることが出来ないのです・・。
まあ『程度の問題』ではあるのかもしれませんが・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
まだまだ先は大分長いですが、同時に思いのほか面白く読み進めることが出来ていますので、この調子にて読了に至ることが出来ればと思います。
さて、本日の首都圏は昨日と同様、日中気温が上昇し、本格的に夏らしい一日となったのではないかと思われます。
さて、以前にもブログ記事に何度か書いたことではありますが、こうした時季にしばらく街中を歩いておりますと、どうも九州在住時の記憶が想起されるようです・・(笑)。
また、それに関連して、つい先日気が付いたことは、さきに書いたような蒸し暑い環境にくわえ、周辺の自然の薫りが濃厚に感じられますと、私の場合、紀伊・和歌山での何処かの記憶が連想、想起されることです。
そして、このようなことをあらためて気が付いてみますと、目で見る視覚と同様、薫りといった嗅覚による環境の認識もまた身体レベルでの(包括的)認識という意味において、かなり重要ではないかと思われるのです・・。
また、この嗅覚による認識とは、近年その重要性が指摘されている『食育』とも、かなり密接な関連があるといえます。
しかしそれと同時に、ここで大変面白く思うことは、特に首都圏において(発汗の多い)夏場の男性の体臭をかなり忌諱するという傾向です。
そのため、男性用の制汗剤、香水などが多く開発、販売そして消費されているのでしょうが、そうした状況の下、この時候の満員電車に乗りますと、さきの体臭よりも男性用の制汗剤、香水あるいはその他香料などの香りの方が強く感じられ、それはそれであまり快適とはいえない環境であるとも云えるのです・・(笑)。
そして、一方において前述の近年その重要性が指摘されている『食育』とは、どうも(夏場の男性の体臭を忌諱する傾向と)本質的あるいは根源的に相矛盾するのではないかと思われるのです・・。
しかし、その反面において、衛生観念および、それに関連する技術の進化発展とは喜ばしいことではあるのでしょうが、どうも我々日本人の場合、そうしたモノあるいは観念を原初の姿から把握しないままで実用性に基づく応用に次ぐ応用を重ねるといった傾向があることからか、多くの場合、どうも変な方向に行ってしまうような傾向があるようにも思われるのです・・(苦笑)。
結句、現在の首都圏における夏場の体臭を忌諱する傾向とは、同じく電車内にて多く見受けられるスマートフォンでのゲームと同様、何やら人間の生来の感覚から逃げだそうとする傾向があるのではないかと思われ、あまり良いものであるとは考えることが出来ないのです・・。
まあ『程度の問題』ではあるのかもしれませんが・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
2017年8月23日水曜日
20170822 再びスランプから思ったこと・・視点を変えてみると・・
A「本日の首都圏は日中気温も上昇し、夏らしい陽気であったのではないかと思われます。
さて、先日投稿のブログ記事に挙げた書籍は、つい昨日より下巻を読み始めました。
この下巻もまた冒頭より面白いのですが、それと同時に思うことは、こうしたいわば自身にとって新たな知見に富んだ(ある程度)専門的な書籍とは、それを読んだあとは、頭脳が疲労するためか、しばらくの間、能動的な文章の作成などといった創造的活動が困難、億劫、面倒になるということです・・。
そして、もしも、この仮説がある程度妥当なものであるとすれば、一昨日投稿分の記事に書いた、昨今より感じているこのスランプとは、現在読んでいる著作(の負荷)に大きく因るものであり、あるいは今後この著作を読了することにより、スランプから脱することも出来るのではないかとも思われるのです。
まあ、それも一山越えてみないと分からないハナシではありますが・・(笑)。
また、そうしたことを題材としてここまで記事を書くことが出来ましたのでスランプであれ、現在の読書であれ、書きようによれば、あまり文章が進まないにしても、とりあえずは何かを書くことが出来るようです・・(笑)。
くわえて、そのことと多少関連があるのかもしれませんが、現在読んでいる書籍(上巻を含めて)を読みながら時折思うことは『この書かれている内容を人に説明する場合、どのようにしようか?』といったことであり、これを勝手に頭の中で考えている時は、頁は進みませんが、それはそれで面白く、あるいは書かれている内容に関連すると思しき考えが想起される場合もなかなか面白く、その考えを忘れないうちに赤ペンにて文中に書き込むわけです・・。
現在になり、そうした箇所の頁を開いてみますと『なるほど、そういった考えか・・』と、ある程度素早くその文章箇所の説明内容を想起、理解することが出来るのです・・。
こういった芸当は、おそらく以前にはあまり出来なかったように思われますので、そのことから、少し視点を変えてみますと、現在のスランプもまた、あるいはそうした類いのものであるのかもしれません・・。
つまり、文章をスムーズに書くことが出来ない時期(スランプ)とは、他方の自身が認識し得ないところにて何かが成長しているのかもしれないということであり、また、こうした現象を無意識下の自身をも含めて肯定し、信じようという精神的態度が文字通りの意味で『自信』であるようにも思われた次第です・・。
自身としては、上記のような考えはあまり好きではないのですが、実際に書いてみますと不思議なことに一理はあるようにも思えてくるものです・・(笑)。
そして今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
さて、先日投稿のブログ記事に挙げた書籍は、つい昨日より下巻を読み始めました。
この下巻もまた冒頭より面白いのですが、それと同時に思うことは、こうしたいわば自身にとって新たな知見に富んだ(ある程度)専門的な書籍とは、それを読んだあとは、頭脳が疲労するためか、しばらくの間、能動的な文章の作成などといった創造的活動が困難、億劫、面倒になるということです・・。
そして、もしも、この仮説がある程度妥当なものであるとすれば、一昨日投稿分の記事に書いた、昨今より感じているこのスランプとは、現在読んでいる著作(の負荷)に大きく因るものであり、あるいは今後この著作を読了することにより、スランプから脱することも出来るのではないかとも思われるのです。
まあ、それも一山越えてみないと分からないハナシではありますが・・(笑)。
また、そうしたことを題材としてここまで記事を書くことが出来ましたのでスランプであれ、現在の読書であれ、書きようによれば、あまり文章が進まないにしても、とりあえずは何かを書くことが出来るようです・・(笑)。
くわえて、そのことと多少関連があるのかもしれませんが、現在読んでいる書籍(上巻を含めて)を読みながら時折思うことは『この書かれている内容を人に説明する場合、どのようにしようか?』といったことであり、これを勝手に頭の中で考えている時は、頁は進みませんが、それはそれで面白く、あるいは書かれている内容に関連すると思しき考えが想起される場合もなかなか面白く、その考えを忘れないうちに赤ペンにて文中に書き込むわけです・・。
現在になり、そうした箇所の頁を開いてみますと『なるほど、そういった考えか・・』と、ある程度素早くその文章箇所の説明内容を想起、理解することが出来るのです・・。
こういった芸当は、おそらく以前にはあまり出来なかったように思われますので、そのことから、少し視点を変えてみますと、現在のスランプもまた、あるいはそうした類いのものであるのかもしれません・・。
つまり、文章をスムーズに書くことが出来ない時期(スランプ)とは、他方の自身が認識し得ないところにて何かが成長しているのかもしれないということであり、また、こうした現象を無意識下の自身をも含めて肯定し、信じようという精神的態度が文字通りの意味で『自信』であるようにも思われた次第です・・。
自身としては、上記のような考えはあまり好きではないのですが、実際に書いてみますと不思議なことに一理はあるようにも思えてくるものです・・(笑)。
そして今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
2017年8月22日火曜日
20170821 読書とブログ記事作成の違い【能動性の多寡】
A「まだまだ先のハナシにはなりますが、現在のペースにて記事を作成投稿し続けることにより、おそらく年内11月中に800記事までどうにか到達することが出来るのではないかと思われます。
とはいえ、これまでどうにか記事作成を継続してはきましたが、その間に何かが大きく変わったと実感するようなこともなく、また、たとえ、この先無事に800記事まで到達することが出来たとしても、おそらくその時もまた、これまで通り大きな感慨もなく、何となく到達するのではないかと察せられます・・。
そして、そうした感慨などの自身を励起・鼓舞するような要素がないにもかかわらず記事を作成し続ける行為とは習慣あるいは意地悪く云えば惰性のようなものであるのかもしれません・・(苦笑)。
また実際にそれを否定出来るような理屈を自身は保持しておりません。
しかし、実際の行動として記事を書き続けるのであれば、そうした批判を否定するいわば防御的な理屈とは特に必要ないのではないかとも思われます・・(笑)。
そうしますと、それはもう一つの自身がこれまで継続している『読書』についても同様であるのではないかと考えが及ぶのです。
先日投稿したブログ記事においても書きましたが、読書に関しては当ブログよりはるかに長く継続していますが、これに関しては、さきに書いたブログ記事作成に対するような防御的な理屈とは、大分以前より考えることもなく、何といいますか、自身の自然な行為の一つとなっているのではないかと思われます・・。
そして、その意味において、さきに書いた感慨などがなくとも記事を作成し続けるようになりつつあることは、それもまた読書と同様、自身の自然な行為へと変化しつつあることを示しているのかもしれません・・。
しかし、読書とブログ記事作成にて大きく異なることは、それら行為の基層にある能動性の多寡であるといえます。
能動性に関しては、読書と比べ、ブログ記事作成の方がより多く必要であるとこれまでの経験より考えます。
そして、その理由から現在に至るまで、ある程度の期間にわたる継続的な文章(ブログ記事)の作成とは為されなかったのではないかと思われるのです。
これを多少詳しく言い換えますと、能動性を発揮し、他者から非難の対象とならず、なおかつ何かしら主張する文章を継続的に作成することは自身にとってはかなり難しいことであり、今現在の段階において(本当に)どうにかそれを行うことが出来ているということです・・。
また、その作成する文章とは客観的な科学的知見を述べるような性質のものではないことから、それ特有の難しさ(表現のバランス)があるのではないかとも思われます。
もちろん、今現在の自身は、そうしたことをただ漠然と感じ、思う程度であり、この先に為されるであろう記事作成を通じ、そのあたりの微妙とも云える感覚を自分なりに開拓あるいは進化発展させることが出来れば良いと考えています・・。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
とはいえ、これまでどうにか記事作成を継続してはきましたが、その間に何かが大きく変わったと実感するようなこともなく、また、たとえ、この先無事に800記事まで到達することが出来たとしても、おそらくその時もまた、これまで通り大きな感慨もなく、何となく到達するのではないかと察せられます・・。
そして、そうした感慨などの自身を励起・鼓舞するような要素がないにもかかわらず記事を作成し続ける行為とは習慣あるいは意地悪く云えば惰性のようなものであるのかもしれません・・(苦笑)。
また実際にそれを否定出来るような理屈を自身は保持しておりません。
しかし、実際の行動として記事を書き続けるのであれば、そうした批判を否定するいわば防御的な理屈とは特に必要ないのではないかとも思われます・・(笑)。
そうしますと、それはもう一つの自身がこれまで継続している『読書』についても同様であるのではないかと考えが及ぶのです。
先日投稿したブログ記事においても書きましたが、読書に関しては当ブログよりはるかに長く継続していますが、これに関しては、さきに書いたブログ記事作成に対するような防御的な理屈とは、大分以前より考えることもなく、何といいますか、自身の自然な行為の一つとなっているのではないかと思われます・・。
そして、その意味において、さきに書いた感慨などがなくとも記事を作成し続けるようになりつつあることは、それもまた読書と同様、自身の自然な行為へと変化しつつあることを示しているのかもしれません・・。
しかし、読書とブログ記事作成にて大きく異なることは、それら行為の基層にある能動性の多寡であるといえます。
能動性に関しては、読書と比べ、ブログ記事作成の方がより多く必要であるとこれまでの経験より考えます。
そして、その理由から現在に至るまで、ある程度の期間にわたる継続的な文章(ブログ記事)の作成とは為されなかったのではないかと思われるのです。
これを多少詳しく言い換えますと、能動性を発揮し、他者から非難の対象とならず、なおかつ何かしら主張する文章を継続的に作成することは自身にとってはかなり難しいことであり、今現在の段階において(本当に)どうにかそれを行うことが出来ているということです・・。
また、その作成する文章とは客観的な科学的知見を述べるような性質のものではないことから、それ特有の難しさ(表現のバランス)があるのではないかとも思われます。
もちろん、今現在の自身は、そうしたことをただ漠然と感じ、思う程度であり、この先に為されるであろう記事作成を通じ、そのあたりの微妙とも云える感覚を自分なりに開拓あるいは進化発展させることが出来れば良いと考えています・・。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
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