昭和十八年二月十二日の日記
『機械というものはふしぎである。
およそ人間の生んだ偉大なものの極致は機械であろう。
機械によって人は火を駆使し、水を使用し、空を飛び、地を走る。
文明とは機械化のことだといってさしつかえないほどである。
しかし人は機械によって幸福を得たか。火薬は数百人の生命を奪う。
空を飛ぶのは小鳥の快を味わわんがためではなく爆弾を以て都会を粉砕するためであり、水を潜るのは魚の神秘を探らんがためではなく魚雷を以て船を沈めるためではないか。
人間は自分で機械を生み、心血をそそいでその発達をはかり、その結果機械に苦悶している。
今の世界を見るのに、どの民族も、或いは自ら進んで、或いは国家の強権によって自由を捨て、人間を殺戮する船や航空機や大砲の製造に狂気のごとく使役されている。機械というものの典型はあのギロチンであるという印象を深めざるを得ない。
それは機械の罪ではない。戦争の罪である。機械は平和的に利用すべきものであり、それによる大量生産がなければ、人類はどうして文明生活を営むことができようかという人があるかも知れない。
しかし、平和時代といえども労働者は機械の蹂躙に喘ぎ苦しむものである。
大量生産のない時代にも人類は生存し得たのである。
昔は現代より幸福であったとはいわない。
しかし、昔は現代より幸福であったということもできない。
機械は人間の生きんがための必要から生まれたものではなく、単なる脳髄の遊戯的作用によって生じたのがその初めであると自分は断言する。
人間は機械を使用せず、機械に使用されるという自分の印象は、現在自分が働いている軍需工場の日々から、理屈を超えて感得できるものである。
轟轟と回転する車輪、奔流する巨大なベルト、噴きあがり流れる重油、塵埃と煤煙の黒く渦巻く工場の底に、たがいに一語も交わさず黙々と動き続ける工員の群れ。-機械はいわゆる機械的な動きを繰り返す。
空は晴れても鳥は鳴いても、機械は傲然索然冷然としておのれの機能をつくす。
労働者はその前に首をたれて、時たま油を与え、材料たる金属を挿入し、製品を運搬するに過ぎない。-これを以て人間は機械を使用するというのか?
この人々の姿を産業戦士の崇高なものというのか?
或いはそうかもしれない。
しかし自分の、巨大な機械に対する恐怖と小さな人間に対する同情を如何せん。
人間は、自然と芸術の中に呼吸しているのが本来の姿であるとはいわない。
機械に全身の愛情を覚えている人も多いであろう。
しかし機械と人間との間の恐るべき単調な日々は、この二者がとうてい花と人間との間に見るような柔らかで平和な光景とは映らないのである。
自分に関する限り、もし自分が一生、あの人々のように機械と相対しなければならぬ運命となったら、確実に発狂せざるを得ないであろう。
〇機械の前に甘んじて生活を捧げている人々に、一種異様の不思議の念を抱く自分は、神を信じる人々に対しても、一種異様の不思議の念を抱かないわけにはいかない。
神は果たしてあるか?
ない、と高言して心底何やら不安をおぼえるのは、自分の人間としての本性のゆえか、或いは現在に至るまでの教育のせいか知らない。しかし、ほんとうに自分の心を偽らないならば、自分の心は無神論に傾くであろう。
むろん、深夜蒼茫の銀河を仰ぐとき、過去未来、永劫に流れる時間を思うとき、またいずこよりか生れて来て、いずこへか去る人間を眺めるとき、何やら神々しきものの手を感じる。
しかしこんな大きな思想は、もとより現在の胸中に絶えず蹲っているわけにはゆかない。
自分は日常生活に於いて殆ど無信仰であると告白する。
まして世間のいわゆる怪奇な「神」に於いておやである。
人間の姿に象徴された「神」に於いておやである。
自分の周囲を見ると老若男女ーとくに若い人々は、たいてい無信仰である。
しかもこの無信仰者たちが死期迫る落日の年齢に達すると、しきりにお経を唱え、鐘をたたく愚は滑稽千万である。
それもまあ一つの善行なのだからという寛容を、自分の狭量は認めることはできない。
神を信じるならば、彼らの日常はことごとく神の影の下になければならないのに、彼らの日常はほとんど嗤うべき我利我利の狂奔である。
暮色仄かに漂い来たる一瞬時に於いて、口をぬぐって神や仏に対するだけである。
人間が神を信じるのは、俗物に関するかぎり、彼ら自身も意識しないいい気な欲望の一種である。
そして人類の九分九厘までは俗物なのである。』
ASIN: B00ETNHZMA
『維新の風雲に乗じて功を成した薩摩派の顕官を父とする後嗣の宮内官は、生みの母の前身を軽蔑して、息子らしい情愛はみじんも示さなかった。
丹羽家においては、麻の葉模様がタブウであった。
着物でも、器具でも、手拭のようなものに至るまで、麻の葉模様をつけたものは厳禁された。
正夫人に直らないまでの母が、薄紫の麻の葉絞りの半襟を好んでかけていたのが、当主の宮内官に屈辱的な思いでをとめているためである。
祖母自らの極端なお上品ぶりも、似たような細心な警戒から来ていた。そうして美しさと悧巧さで、まことに名門の出にひけを取らぬ自然な品格を拵えあげたとともに、五つで母を失った時からその手に引きとった孫娘をも、自分の教育法で訓練した。
その意味から三保子には祖母が母親であり、艶麗さもそっくり受けついだ。彼女は祖母と別邸に住まった。
吉良は勉強を見に来てくれた、同じさつまっぽうながら、祖父が十年戦争に西郷方について以来の不運が祟っている、遠縁の貧しい大学生であった。
祖母が彼に優しかったのは、本邸の冷淡にそれとも凛々しく頼もしげな青年が自分でも気に入っていたのか、両方であったに違ない。
どちらから引いたとも、引かれたともわからず。相寄る若いこころに水を注そうとしなかったのみか、夏休には、箱根の別邸に吉良を内緒で呼んでくれたりもした。
祖母の好意のみが恋人たちには頼みの綱であった。父や継母の反対はわかりきっていたが、祖母だけはきっと二人の味方になってくれるであろう。
しかし阿藤家との縁談に際して、もっとも無慈悲に振舞ったのは祖母であった。
色恋はべつとして、結婚となれば目標を変えなければならいのを、誰よりも厳しく判断したのである。
それは自分が根引きされた時からの信条であり、今日までの生涯で実証されたことであり、すべての女が、愛する男とのみ眠るものではないのを知っているからであり、それ故にこそ死にたがって泣く孫娘に対して、幼い彼女が、なにかお腹にわるい食べものでの欲しがってむずかるのを、宥めすかす調子であの説得をしたのである。
決して染めないで、毎朝、卵の白味で輝くばかりに洗い手入れされた切り下げの白髪で、かえって清麗に匂やかな祖母の顔が、その瞬間、なにか悪鬼じみた気味わるさで打ち守られた。
しかし三保子の怖ろしいのは、祖母の囁いたものが毒草のこぼれ種子のように、また刺青のように心とからだの二つながらに浸みつき、根をおろしたのに気がついたことであった、その罪の深さ、汚らしさが、はじめは彼女を身震いさせた。
どうかしてその呪文から逃げだそうとすればするほど、執拗に枕につけた耳もとに甦り、阿片患者めいた幻想に誘いこまれた。
卒業するとセレベスのゴム会社に行ったとかの噂もたしかでない吉良が、夜とともに戻って来た。
暗さはその呼吸と、体臭と、重さを感じさせ、四肢に触れさせ、愛撫を愉しませた。
三保子は彼に甘えた通りに甘えた。
愛しあったものの結婚は遂げられ、二年目には忠文が生まれた。彼が誰の子供であるかは、普通の母親がもつ特権とはまた別な秘密で彼女のみが知っていた。
同時に昼の夫なる眉目秀麗で、愚かで、金持で、それでいて絶えず小遣いの金額で会計主任と喧嘩する、ゴルフと、麻雀と、食べることのほかには考えない男に対しては、ますます従順な、優しい申分のない妻になって行った。」
「迷路」上巻
ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927
野上彌生子
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。
A「これまでに投稿したブログ記事もこれで440を越え、とりあえず目標とする450記事まであともう一息といったところです・・。
本日も特に投稿記事の主題を定めずに記しはじめた次第ですが、本日は思いのほか長距離を移動したと思われます・・。
ほぼ電車を乗り継いでの移動ではありましたが、途中地下鉄の駅二駅分程度は徒歩にて移動したのではないかと思われます・・。
しかし、この程度の徒歩での移動とは特に珍しいことではありません。
とはいえ、それと関連して思うことは靴の重要性です。
私はこれまでに部活動にはじまり、基本的に足を用いる移動を多く行ってきたといえます。
その際、疲労の軽減などにおいて極めて重要であるが靴の選択であるといえます。
これは自身の体験に基づくものであるので、おそらく間違いないと考えます。
この靴とは、それがどんなに高価であっても、それ以前に自身の足との相性といったものがあると思います。
そうした要素を加味して靴を選択することは、簡単なようでありながら、なかなか難しく、これまで靴の選択において何度も失敗してきました・・(苦笑)。
そして、現在において用いている靴とは、一応、そうした失敗の上に立つものであるので、いくつか種類がありますが、どれも私にとっては相対的に疲労を軽減させ、歩き易いものであるといえます。
また、見栄えに関しても個人的な意見ではありますが、特に問題はない程度であると思います・・。
そして、先日不図気付いたのですが、現在私が用いている靴の一つと兄弟の用いているものが期せずして同じであったことは、なかなか面白く思われました。
この靴に関しては兄弟の方が多少、年季が入っているようですが、あるいは以前に私が無意識でそれを見て、おぼえていたのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、私がその靴を靴店で購入したいきさつ(こうしたことは具体的に文章にて表現することが実に困難です・・(笑)。)から、おそらくさきに記したような無意識での記憶とは関係ないと思われますので、やはり面白いことであると思います・・。
さて、またもう一つのタイプとは、かれこれ10年程度使用しており、これまでに幾度かソールを交換しております。
このようにしてソールを交換した靴は、当たり前であるのかもしれませんが交換前後では、その履き心地が大分異なり、交換直後のそれは、どちらかというと違和感として感じるほどです。
とはいえ、以前からの使用により足が慣れているためか、あるいは徐徐にソールがアッパーの形状に順うためか、そうした靴はしばらく(一週間程度であろうか)履いているうちに、ソールを交換したことを忘れてしまうほどに早急に日常化していきます。
そして、そうした感覚を持ちうる靴が、靴本来の機能として良いものではなかろうかと思います。
しかし、そこまで記していて不図思うことは、おそらく、こうした観点において、性差による見解の相違といったものが顕著に表れるのではないだろうか・・?ということですが、これを読まれた皆様はどのようにお考えになるでしょうか・・?
そういえば、ハナシは変わりますが先日久しぶりに洋書(小説)を購入しました。
これは頁数少なくなく多少不安ではありますが、少しずつ読んでいこうと思います・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早急な復旧および、その後の復興を祈念しております。」
A「本日投稿するブログ記事により投稿記事数が440に到達します。
そして、このままのペースにてブログ記事を投稿し続けますと450記事まではどうにか到達することも出来るのではないかと思われます。
また、昨日投稿した記事内の書籍からの抜粋引用部分とは、なかなか面白いことが書いてあったのではないでしょうか・・(笑)?
・・個人的な感想を押し付けるようであり、多少恐縮ではありますが・・(苦笑)。
しかしながら、これまで作成、投稿したすべてのブログ記事も見方によれば(いや、よらなくとも)多分に「個人的な考え、感想の押し付け」といった要素が強いと思われます・・(苦笑)。
そうしますと、ブログに限らず大方の世に出回っている文章、出版物等とは、おそらく同程度にそうした要素(個人的な考え、感想の押し付け)を有しているものと思われます・・。
そして、それを記した人間がそれらの文章を(ある程度の時間が経過の後)焼き捨てたり、削除しないでおくことには、何と言いますか一種のナルシシズム、自己愛による作用が(少なからず)あるのではないかと思われます・・。
つまり、自身としてはあまり「良い出来」と思われる文章でなくとも、読んで頂いたどなたかが、それにより、何かを気付いたり、発見する可能性があるのではないかという、いわば他力本願の「甘え」のような要素が(少なからず)あるのではないかと思われます・・(苦笑)。
そして私の場合は多分にあると断言できます・・(苦笑)。
とはいえ一方において自他何れであれ、作成された文章をも含む事物全般に対する評価とは、必ずしも精確(こうした場合、何をもって精確とするのか・・?)であるとはいえません・・。
また、世間にて良い評価を受けたものがすべて良いとも一概にはいえないようですし・・。
しかし一方に、そうした評価を絶対的に決める権威を有した組織、機関などがもしも存在しましたら、それはそれでかなりギスギスした居心地の悪い社会にはなりそうです・・(苦笑)。
そしてハナシを戻しますと、様々な事物に対する評価とは、その評価する人数が多くなるほど、多くの場合、相対的あるいは「蓼食う虫も好き好き」といったものになると思われます・・。
そして、こうしたことを記していると不思議に気分が落ち着いてくる自分がおります・・(苦笑)。
また、このようなことを記したついでに記しますと、数カ月前にはじめて、ここ最近は更新(とはいってもここでのブログのコピペですが)を行っていなかった「はてなブログ」を再開してみようと思います。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に熊本を中心に襲った大地震により被災された地域における出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
A「以前からたびたび感じていたことであり、また、そのことをブログ記事として記すのは様々な意味で「如何なものか?」と考えておりましたが、今回、その感じたことを記してみようと思います・・。
さて、以前投稿したブログ記事にて、面白いと思われた著作を挙げ、その内容を今後抜粋引用したいと述べたことが幾度かありました・・。
そして、先日、そのうちの一冊の内容を抜粋引用しようと考え、もう一度、その時に何かしらの意味でタイムリーで面白いと思われる記述部分を見つけようと、目を通していた丁度その時、当該著作を面白く、抜粋引用したいと記したブログ記事に対する閲覧者数が、これといった原因が見受けられないにもかかわらず有意(計算はしておりませんが、してみても(何れのP値であれ)おそらくそうであると思われます。)に増加しました・・。
そして、このようないわば、私の考えを先取り、読まれていると感じたことは、当ブログ記事冒頭にて述べました通り、たびたび生じていることであり、これまでは「単なる偶然であろう。」と考えておりましたが、先日受けた感じにより「とりあえず、このことをブログ記事として記しておこう・・」と思い立ち、現在、それを文章として著している次第です・・(笑)。
このようなことを記しますと「果たしてこの人は大丈夫であろうか?」と考える方々も(少なからず)いらっしゃるのではないかと思われますが、その場合は、どうぞこれを一つのフィクションであると考えて頂きたく思います・・(笑)。
また、今現在の私としても半ば「いわば、これは偶然(あるいは自意識過剰(笑))から生じたフィクションではなかろうか・・?」とも考えておりますので・・(苦笑)。
しかしながら、このような実際に自身が感じたことに対する懐疑的な観察、考察をしておりますと、今度は何だか、自身がこれまでにある程度の自明性、実在性をもって感じていた(と信じる)様々なことに対してもまた同様に、その自明性、実在性に対する疑問が生じてきます・・(笑)。
そして、そのような疑問から様々な哲学観念などが生じてくるのではないかと思われます・・。
とはいえ、今現在の私の場合、こうした根源的なところから物事を考える、問いを発するには、年齢的に多少無理があるのではないかと思われます・・(苦笑)。
「年を取ると頭が固くなる」とは、要するに、上記のようなことを指すのではないかと思われます・・(苦笑)。
しかし、さきほど記したような「先取り、読まれている」と感じたことが、実際に誰か(複数かもしれない・この点も不明)の意図により為されていたのであれば、その誰かとは、私からしますと「天才」ではないだろうか?と正直に思います・・(笑)。
それは「そこまで深く一連の記事を読んで頂きどうもありがとうございます。」といった感謝の念よりも、むしろ驚嘆(文字通りの意味で)の念を惹起させるような類です・・。
そして、そこから「では私とは、これまでに実際そうした(天才的)人物に出会ったことがあるのか?」と自問してみますと「おそらく何人か出会ったことはあるとは思われるが、その特定は困難であろう・・」といったあまり面白くない答えとなるのではないかと思われます・・(笑)。
しかし、もしかすると、こうした才能も世の中に様々ある才能の一つであり、いわば「試験などのヤマ当て」と似てないこともないのかもしれない・・とも考えさせられます・・(笑)。
いずれにせよ、私を含め我々とは一般的に、未知の分野での才能を垣間見せられるとかなり驚くものですから・・(笑)。
そして、ここまで記して本日のブログ記事といたします。
明日は当記事冒頭部にて述べた書籍からの抜粋引用を行う予定です。
本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を襲った大地震によって被災された地域の諸インフラの出来る限り早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
また、同時に新たに沖縄、九州地方に近づきつつある台風による被害もまた出来るだけ軽微であることを祈念します。」
A「おかげさまで昨日(20161001)のブログ閲覧者数も1000人に到達しました。
読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
また、読んで頂いた反応を見ますと、それもまた大変興味深いものがあり、同時にその反応の秀逸さ、鋭さに慄然とさせられることも度々あります・・(苦笑)。
一体どのような方(方々)が、こうした反応をなされているのか未だ分かりませんが、いずれにしましても、こうした反応により、その都度何と言いますか身が引締まる思いがし、同時に次のブログもまた、その影響の下に記すことが出来ているといって良いと思われます・・。
さて、本日は半分仕事で都心部に出向きました。
気温はそこまで高くならず、そこそこ快適であったと思われます。
とはいえ、日曜日ですと都内の繁華街はやはり大変な混雑であり、首都圏に戻り一年以上経ちますが、やはり時折困惑することがあります・・(苦笑)。
また、私がかつて在住した都市には、それぞれ何といいますかアジ、風情のようなものがありましたが、東京においては、そうした都市に相当する規模を持つ繁華街がいくつも衛星都市的に存在するため、どうも未だにそれら各々のアジ、風情といったものがよく分かっておりません・・(苦笑)。
しかし、繁華街ではありませんが、靖国通り沿いの市ヶ谷~岩本町周辺に関しては、あまり大きく変わらず、現在においても、以前と同様、すぐに慣れることが出来たと思われます・・。
これはやはりかつてと同様、古本屋街が存在することが大きいのではないかと思われます・・(笑)。
また、それに加え、この地域(市ヶ谷~岩本町)とは、日本の近代歯科医学揺籃、発展の地であるといっても良いと思われます。
それは、現在においてもなお、この地域に特に集中し歯科大学、歯学部が存在することから理解できるのではないかと思われます・・(4校が現在なお、この地域内に存在しています)。
もっとも、こうした事情とは何も歯科医学の教育機関においてのみいえることではなく、同様に、数多くの老舗私立大学、医科大学の発祥の地がこの周辺であることから、かねてよりこの地域とは、教育機関が集中するような「何か」があったのではないかと思われます・・。
そして、その「何か」とは、かつてこの地域に存在した江戸幕府の学問所であったり、剣術の道場といったものではないかと思われます・・。
こうした土地に付随する文化、傾向とは、時代の覇権政権が変化しても大きく変化せず、そのまま引き継がれることが多いのではないかと思われます・・。
そして、そうした視点にて様々な遺跡およびその出土物などの意味合いについて考えてみますと、それはそれでなかなか面白い発見もまた、あるのではないでしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心に発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
加えて、現在接近中の台風による九州、奄美、沖縄での被害が出来るだけ軽微であることを同様に祈念します。」
おかげさまで9月の閲覧者数も20000人に到達しました。
これは7・8月そして今月と継続して3カ月の20000人到達となりますので、このことから一連のブログ記事を閲覧してくださっている方々が徐々にではありますが増加していることが示唆されるのではないかと思われます・・。
しかし、今後1月(ひとつき)に30000人に到達するまでが、なかなか困難な道のりではないかと思われます。
1月に30000人ということは、平均して1日に大体1000人以上の方々が閲覧しているということになりますので、これは現状(1日におおよそ400~700人、多い日で1000人以上)から考えてみますと、多少難しいのではないかと思われます・・(苦笑)。
とはいえ、とりあえず記事を記し続けることにより、閲覧してくださる方々が増加すると一般的にいわれており、また、このことは私の実体験とも合致しておりますので、まあ、そうしたことはあまり考えず記事を作成し続けようと思います。
また一方で、こうした経験則・法則らしきものとは、その有効範囲があると云えますので、こうしたこともまた頭の片隅に留めておきます・・(笑)。
そして、これまで閲覧してくださっている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。
さて、以前もブログ記事に記しましたが、ここ最近仕事にて主に都内・首都圏の歯科医院に行くことが多いです。
そこで院長である歯科医師の先生からお話しを伺うと不思議なことに、その内容に関して共通していると思われることが多いのです・・。
こうしたことは一体何故生じるのか、その理由とはわかりません。あるいは私が先生方にそうした共通性を引出す何かしらの因子を持っているのであろうか・・?とも考えてみましたが、おそらくそれは自意識過剰であると思われます・・(苦笑)。
また、それと同時にこうした共通性を認識しますと、私はどうも北杜夫著の長編小説「楡家のひとびと」あるいはその構想のもととなったトーマス・マン著の同じく長編小説「ブッテンブローグ家の人々」といった著作を連想します・・。(後者は未だ読んでいないが・・)。
おそらく、こうしたお話しを首都圏のみならず、各地方の歯科医院にて数十件程度伺い、その記録を採り、それらを適宜合成、調整し物語と為すことにより、日本の(近代)歯科医療の歴史といったものを集約・抽象化した物語を作ることが出来るのではないかと思われました・・(こうした手法とは、あとになり考えてみますと、我が国に古くからあるのではないかと思われました。(例:ヤマトタケル))。
無論、現在の私にはその任が重すぎるとは思いますが・・・(苦笑)。
とはいえ、そうした考えが不図頭をよぎる程に、これらの伺ったお話しは含蓄および自然な歴史感覚に富むものであると私は考えます・・。
しかしながら、考えてみますと、おそらく、こうしたことは何もさきに挙げた歯科医療職種に限定されるものでもなく、たとえば、村上兵衛著の「桜と剣」あるいは比留間弘著の一連の著作などからは、近代日本陸軍(帝国陸軍)に対する現在の一般的な認識とはまた異なった認識、評価が得られるのではないかとも思われます・・。
また一方において、丸山眞男、会田雄次、山本七平、大西巨人、大岡昇平、司馬遼太郎等の近代日本陸軍(帝国陸軍)に対する視点も極めて重要であるとは思いますが・・。
そして、現代の我が国において歴史認識、歴史感覚(あるいは単に偏狭な国粋主義かもしれない)を高揚させることを意図したとも見ることができる様々な著作、映画、ドラマにおいて決定的に欠けているのは、高揚(あるいは煽情的)とは縁がない・目的としない、その時代、その職業における「日常性を活写した要素」「生きた歴史認識、感覚」といったものではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の今後出来るだけ早期の復旧と、その後の復興を祈念しております。」