2016年6月27日月曜日

加藤周一著「夕陽妄語Ⅰ」筑摩書房刊 pp.249‐252より抜粋 20160626

「広島の原爆は、今から四十三年前の八月の事である。日本人がその事を忘れず、毎年の八月に世界へ向かって核兵器の廃絶を訴えるのは、まことに当然である。広島では日本人自身が犠牲者であった。しかしその立場からの訴えは、みずからが加害者で、他国の非戦闘老若男女の多数を犠牲にした場合にも、その事を忘れず、その責任の自覚を失わないことによって、説得力を増すだろう。逆に犠牲者としての自分自身のみを強調し、加害者としての自己を不問に付すれば、説得力は減じる。故に「ヒロシマ」と「南京虐殺」とは絡む。


しかしそれだけではない。中国との関係が、「南京」を日本側が忘れたり、ごまかしたりすることで、うまくゆかぬだろうことは、周知の通りであり。加害者が忘れても、被害者は忘れない。またいうまでもなく、倫理的にみれば、無抵抗の市民を殺すことが罪悪であるのは、その市民の国籍とは関係がない。「ヒロシマ」の子供も、南京の子供も、ドゥレスデンやマニラやアウシュヴィッツの子供と同じように、子供である。

しかし「南京」のまえには、「旅順虐殺」があった。今日の日本人が四十三年後も「ヒロシマ」を忘れないように、「南京虐殺」当時(一九三七)の中国人は、その四十三年まえの「旅順」を覚えていたはずである―ということに、無知な私の注意を喚起してくれたのは、畏友内藤佼子さんである。私は内藤さんから貸与された資料を読んだ。旅順での事件の詳細には、不明の点もあるが、その要領はおよそ次のようになるだろう。


日清戦争で、黄海の海戦に勝ち、制海権を握った日本軍は、朝鮮半島から北上する第一軍とは別に、大山巌大将の率いる第二軍を遼東半島に上陸させ、まず金州・大連を抜き、次いで旅順を陥落させた。その陥落は一八九四年十一月二十一日である。当日旅順市街に入った日本軍は、進撃の途中、先発の日本軍戦死者の屍体が残虐に斬りきざまれているのを見て激怒し、市中の「兵民男女老弱ヲ別タズ」、四日間にわたって、中国人を殺害した。一人の兵士の従軍日記は、「支那兵ト見タラ粉ニセント欲シ、旅順市中ノ人ト見テモ皆討殺シタリ、・・人家ニ居ルモ皆殺シ、大抵ノ人家二三人ヨリ五六人死者ノナキ家ハナシ」という(窪田仲蔵「一兵士の見た日清戦争」。宇野俊一「日本の歴史26、日清・日露」小学館、一九七六、六二ページ、の引用による)。


事件を目撃したのは、当事者ばかりでなく、また欧米の従軍記者や従軍した武官たちでもあった。一八九四年十一月の欧米の新聞には、「旅順口の虐殺」の記事があらわれる。十二月一日には、「タイムズ通信者の一人」が、旅順からの帰りに広島(戦争の司令部は広島にあった)の外相陸奥宗光を訪ね、日本軍が捕虜を「縛リタル儘ニテ殺害シ」、「平民特ニ婦人マデヲ殺シタルコト」は、「欧米各新聞ガ目撃」したばかりでなく、「各国艦隊ノ士官特ニ英国海軍中将ナドモ実地ヲ見タ」ことであるといい、日本史政府の善後策を訊いている(外務省記録、五―二―二、電受第七一五号、明治二十七年十二月一日、広島陸奥宗光外務大臣より林外務次官宛、外務省外交史料館)。


十二月二十五日には、新聞ばかりでなく、米国やロシアの行使が外相に説明をもとめはじめた。この時点での陸奥は、「事実は到底取消シ能ハサルコト」と考え、「旅順口一件ハ今日ニ在テハ唯タ日本政府及ビ日本ノ輿論ハ決シテ其暴行ヲ正当ト認メズトノ一事ガ僅ニ世界に対スル申訳ケナリ」として、「時事新報」や「日本新聞」の社説のその暴行を正当とするかのような議論を鋭く批判していた(外務省記録、五―二―二、電送第六六三号、明治二十七年十二月十五日、陸奥外務大臣より鍋島外務書記官を通じて伊藤総理大臣への伝言、外務省外交史料館)。


政府は結局、責任者を追及せず、その意味での善後策をとらず、欧米各国には弁解をつづけ、日本国民には何らの真相も知らせなかった。そして世界が、殊に日本国内の人々が、その事件を忘れるのを待ったのであろう。もちろん犠牲者のことは考えていない。だから四十三年後の一九三七年に、南京での虐殺事件が起こったのである。「南京」の加害者は「旅順」を覚えていなかった。「南京」の犠牲者は「旅順」を覚えていたし、今でも覚えている(たとえば薫志正編著「旅大史話」、遼寧人民出版社、一九八四)。


今日、日本国民のすべてが、「旅順虐殺」事件を忘れ去ったとは必ずしもいえないだろう。たしかに専門家は事件を知っているし、何人かの歴史家は事件を叙述している(たとえば宇野俊一、前掲書、または藤村道生「日清戦争」、岩波新書、一九七三、など)。しかし国民の圧倒的多数は、「南京」は覚えていても、「旅順」に思い至ったのである。そうして二つの事件を比較することが、日本の近代史を、沈黙による歪曲から救い出して客観的に理解するために、役立つだろうと考えた。


二つの事件は、国際的反響の大きな出来事を日本政府が国民に報らせようとしなかったという点で似ている。そのために、世界中で知っていることを日本人だけが知らないという状態が生じた。また責任の所在をあきらかにして、しかるべき処置をとろうとしなかった点でも、酷似している。すなわち犠牲者に対しての無責任が、共通の特徴である。


しかし大きなちがいもある。「旅順」の場合には、政府内部、殊に陸奥宗光を中心とした外務省の内部で、欧米諸国の世論を問題にし、それを考慮しながら政策を決めようとする努力が際だっていたのに対し、「南京」の場合には、もはや国際世論を問題にせず―たとえ外務省がそれを問題にしたとしても、外務省には政策決定についての力はなく―、「帝国不動の方針」を貫こうとした。一九三七年の日本政府の国際世論に対する態度は、一八九四年のそれと全くちがって、基本的な政策を動かし得るものではなかった。


なぜそのようなちがいが生じたか。「日清戦争」当時の日本は、軍事小国であり、少なくとも政府はそのことを意識していたが、その後軍備を増大させた「日支事変」当時の日本は、みずからを軍事大国と空想するようになったからである。かくして軍事力の増強は、常に必ずしも国の安全を保障しないということが、よくわかる。強大な軍事力は、実にしばしば、一国の政府と国民の国際世論に対する感受性を弱め、さらには国際情勢一般の理解力を極度に低下させる。それがどれほど多くの犠牲を自他に強いるかは、日本の場合にかぎらず、今さらいうまでもないだろう。」


  • ISBN-10: 4480433384
  • ISBN-13: 978-4480433381








2016年6月26日日曜日

20160625 「Erdgeist」

A「おかげさまで6月25日(土)も1日の閲覧者数が1000人に到達しました。
どうもありがとうございます。

また、最近は欧米からの閲覧者の方々が増加してきました・・。
一連の記事がどのように読まれているのかわかりませんが、とりあえず今後も記事を書き続けようと考えておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。

さて6月25日(土)も東京に行き、書店(複数)に立ち寄り、面白い書籍をいくつか見つけました。

ここ最近、我が国の古代史に関しての書籍をあまり読んでおらず、そのため、この方面での知識を想起させる機会もあまりなく、実際困ったものであると思います・・(苦笑)。

また、そうであるからといって、そうした書籍を意識的に読み込む、詰め込むのもあまり良いものではないようで、丁度それは旬の食材を食べるのが最も健康的で良いとされることに似ているのではないかとも思います・・(笑)。

では「私にとって古代史関連の書籍を読むのに最も適した時期とは何時であろうか?」と考えた場合、それは九州を含む西日本に在住していた時期であったのではないかと思われます。

当時、少し足を延ばせば、そうした遺跡、旧跡が(自然なかたちで)割合多くあり、また、その気候風土がそうしたことを受容、考えさせるのに適していたのであったと思います。

また、私が我が国の古代史についての知識を得たのは、ことごとく、西日本在住の時期であったため、少なくとも関東で育った私にとって周囲の気候風土、環境とは、何かしら少なからず心身に対し影響を与える要素であったのではないかと考えております・・。

そして、このことを異言しますと、外に出ず、知らずの関東在住の頃の私とは、多少言い訳じみてしまいますが、母国の古代史についての具体的な関心を持つきっかけを持つことが日常生活において困難であり、その代わりに欧米の歴史文化について興味を抱き、それに関しての知識見識を持つことに捉われていたようにも思えます・・。

こうしたことをマクロの視点から極言しますと、首都圏特に東京とは、あくまでも欧米文化の影響を強く受けた近代(明治時代)以降の我が国の文化の最先端であり、それ以前の時代においては、覇権勢力(徳川幕閣)の本拠が存在したかもしれませんが、同時にそのことが必ずしも日本全土の様々な文化の最先端であったということにはならないということです。

このことは特に近畿、関西方面に住んでみますと実感、納得することが出来ると思いますし、また、さらにそれ以前の時代においては、九州に住んでみますと考えがさらに変わるのではないかとも思います。

ともあれ、私の場合、西日本のいくつかの地域に各々数年在住する機会を得たことにより、それぞれの地域の歴史文化について能動的な興味を抱くに至り、自分なりにそれらを学び、調べていった結果、どうにか自身の国の古代史(あるいはその他時代)について、ある程度まとまった学識、見識(研究者レベルではないにしても)を得ることが出来たのではないかと思います・・。

また、当然といえば当然ですが、こうしたことは学ぶ主体(自身)が実際にその土地、地域に赴きそして(数年程度は)住んでみなくては本当の意味で「理解できた!」という感覚を得ることが困難なのではないかと思います。

また、そうすることが各々土地、地域の歴史文化に対する尊敬、尊重の態度なのではないかと思いますが如何でしょうか?

そして、そうであればこそ、はじめて、ある程度自由に自信を持って、その土地、地域の歴史文化についての見解を(自然に)表出することが出来るようになるのではないでしょうか?

また、そのように考えてみますと、それは何も国内地域間に関してのみならず国家間、国際的な場合においても同様であるのかもしれません・・。

このことに関しては特に残念であるとは考えておりませんが、私は海外留学をする機会がありませんでした。

しかし、それに代わるもの、いや、それ以上に大事な何かを得ることが出来たのではないかと考えております・・。

それが世間一般の客観的な評価に耐え得るものであるかどうかは別として・・(笑)。

とはいえ、少なくとも今後の我が国においては、近年のインターネットによる情報網の普及そしてその定着により、何もかも全て首都圏、東京が最先端、一番であると考えるのはどうも違うと思うのですが、これを読んで頂いた方々はどのようにお考えになるでしょうか?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

そして、さる4月の九州・熊本での大地震により被災された地域の諸インフラの早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年6月25日土曜日

野上彌生子著「迷路」下巻 岩波書店刊 pp.55‐58より抜粋 20160625 

「ねえ、」 呼びかけて、あとをつぐまでの数秒に、多津枝はその廃墟の、半分引き裂かれた二階家で「ハンガリアン・ラプソディ」を弾いていたのは、彼女自身であるかのように感じたのである。
「アメリカの爆撃機がどんどん飛んで来るようになっても、日本が勝つと思う。」
「はじめる連中は、勝つ気なのだろう。」
「あんたのこと、訊いているのよ。」
「わからないね。誰だって一応そういうほかはない。」 返事といっしょに、省三は紺のスエタの腕を組んだ。
「しかし、僕は不当な暴力は認めたくないし、暴力のうちに勝つことも信じたくない。シナの戦争がつねに成功を報じられながら、日本の手に入れているのは点と線に過ぎないといわれるのも、暴力にほんとうの征服のない証拠だからね。ナチやファシズムに対する否定も同じ理由だ。」
「でもドイツは勝ってるのよ。」
「勝っていることと、最後まで勝ちつづけるかどうかは、別だぜ。第一次のヨーロッパ戦争でも、はじめはドイツが勝ったのだからね。それに日本とアメリカの場合は、条件も全然違う。僕のは単に原理的な考えに過ぎないが、経済学者やエンジニアたちがひそかに抱いている悲観説は、アメリカの富と、無限の生産と、機械力の基礎づけによるものだ。多津ちゃんの恐怖だって同じ意味だろう。きみは最近まであすこにいて、アメリカと称する、石油と、石炭と、鉄と、銅との、あらゆる戦争工業物資から組み立てられて、胴っ原にはドルがざくざく詰まっている、たとえば、巨大な機械人間といった怪物を三カ月のあいだ眺めて来た。帰ったらさっそく遁げこみ場所だ、と脅えあがったのも無理ないよ。」
「ばかにしてる。」幽霊と子供の比喩にも似たそのいい方に、多津枝はちょっと反抗的な親しいほほ笑みを見せてから、左右のいびつな眼の瞬きですぐそれを消した。
「でもほんとうの意味では、私アメリカを怖がることないと思うの。金持ち喧嘩せずですもの、仕掛けなければ、爆撃機だって飛んで来はしないわ。それよか、勝とうが負けようが、アメリカと戦争さえすればよい。しなければならないみたいに思いこんでいる方が、ずっと怖い。」
「軍人となれば戦争が職業で、生活じゃないか。それにドイツとしては、新しい戦線をつくらせる意味で突つくだろうし、軍需屋は軍需屋で、いっそう儲けるためにおだてるだろうし―」
「そこまで、ほんとうのこというものじゃないわ。」
「なんだって。」
「私、誰の奥さんなの。」
「―失敬。」
多津枝はもう一度親しげにほほ笑もうとし、急に片輪のはずれた車のように大きい方の眼が吊れ、小さい方と斜っかいに眼窩の中で停止した、ぴりっと眉根だけが動いた。が、もう二週間まえになるけれど、と話しだした声はいともおだやかであった。
「国彦が来た時、会社のひとが二人いっしょに乗って来たの。晩御飯のあいだヨーロッパの戦争話がはずんでね。といったってクルップがどうの、スコダがこうのって儲け話だったのが、英米に凍結された在外資金のことから、とうとチャーチルのこのあいだの日本攻撃の演説になり、さて、今後の見通しはどうか、明るいか、暗らいかという議論がはじまったのよ。ねえ、明るいってば、平和解決だし、暗らいってば、戦争でしょう。」
「わかりきった話だ。」
「ですから、その積りになってたら、どうもおかしいの。よくよく聞いて見ると、あべこべなんですもの。明るいというのは、日米戦争までたしかにもって行けるというのだし、そのまえに外交の折衝でかたがつくのが、あのひとたちには暗らいってことになるのよ。」
多津枝は長椅子の凭れから腕をはなし、なにか蛇が鎌首をもたげたふうに、上半身をしゃっきりと立てた。膝におかれた手は、組みあわされているより、上になった五本の指が、下側の指を暴力的に捻じ伏せているように、また感情的になにか迸りでようとするものを、じっと食いとめている錘りのようにも見えた。今度はほほ笑みのかげさえ浮かべなかった。かえってよそよそしく蒼ずんだ顔に、唇をすこし尖らせ、張りつけたように瞠ったいびつな眼で、なにかほんとうに怒っているように省三を見つめた。子供の時から彼よりはずっときかぬ気の多津枝は、小言のでそうなことをしでかすと、逆に突っかかって来た。娘になり、人妻になってからもそれが変らず、わけても、結婚によって否応なく身につけている彼女の生活圏の内側にあるもので、彼の非難を受けても仕方のない話になると、この挑戦があらわれるのであった。
省三はあたらしく煙草に火をつけ、これも彼のきまった報い方で、無視的に煙を吹いた。ほんとうをいえば、多津枝に対してつねには決してもたない暖かい憐みを感ずるのも、彼女なりのよさを思うのもこの時に限っていた。蜘蛛がその糸で小さい羽虫を包むように、捕らえられた網の目のなかで、彼女がどんな有り方を、またどんなもがき方をしているかを、この場合ほど隠さず示すことはなかった。
「浅間の山だって、ここと向側の小諸とでは方向が違うだろう。」
わずかな労わりを、その言葉に見せながら「彼らの明るいも、暗らいも、位置と見方で生ずるいわば物理的な相違だよ。だが、予想通り明るくなろうが、反対に暗らくなろうが、すくなくとも、僕自身には直接には関係ないな。どちらにしたって、今日明日とは行かないだろうし、その頃には南シナあたりの柔らかい泥が、いっそ気らくに眠らしてくれてるだろうから。」
「そんないやな話、いまからすることないわ。」
多津枝は急にほぐれた優しい顔で、組み合わせた手を解き、薄桃いろの掌をすりあわせた。」
「迷路」
 ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927
野上彌生子


20160624 東京での流行から考えてみたこと・・

本日も帰宅が若干遅くなり、日を越えてからの記事作成、投稿となります。

さて、ブログ記事の方は335記事を超え、あと30記事程度で365記事に到達します。

また一連の記事で最も古い記事の日付を見てみますと昨年の6月20日頃でしたので、丁度1年間で330記事作成したことにありますので、まあ10日のうち9日は記事を作成し、投稿してきたということになります・・。

また、以前も数度記しましたが、このブログとは、当初あまり多くの閲覧者を企図したものではありませんでした。

しかし、その割には、閲覧者数も伸び、またそこから、ブログ記事の更新も現在まで継続して為されたのではないかと思います。

これも読んでくださっている皆様のお蔭であり、今後、投稿した記事が365あるいは閲覧者数が10万人を越えても、できるだけペースを落とさずに記事を作成、投稿し続けようと考えております。

さて、ハナシは変わりますが、ここ最近、電車の中あるいは町のなかで、男女を問わず(しかし女性の方が多い)、特に若い世代にてジャケットやカーディガンの袖を通さずマントのように羽織っている格好が多く見受けられます。

この格好とは、おそらくここ1カ月程度で急激に首都圏にて増加してきたように思います。
そして、その原因、根源とは、おそらく雑誌か何かではないかと思われます。

また、他の地方都市などにおいても同じような格好とは、現在多く見られますでしょうか?
さらに、こうした格好、ファッションの火付け役の方々とは「一体どのような意図をもってそのような発信をするのであろうか?」と少し疑問、不思議に思いました・・。

ともあれ、地方都市に関しては観察していないのでわかりませんが、こうした格好、ファッションなどが急速に浸透する都市、社会とは、他の要素については一体、どのような傾向、特徴を持つことになるのでしょうか・・?

また、このことをもう少し考えてみますと、こうした流行ものとは、各々要素において「取り入れ易さ」といったものがあり「恰好、ファッション」といったものは、どちらかというと「取り入れ易い」ものであり、それに対し、概念、思想などといった抽象的なものとは、なかなかその元のまま(オリジナル)の状態にて他の地域が取り入れることが難しいのではないかと思われます・・。

そして、さらにこのことを考えてみますと、欧米を中心とした海外にて、我が国の特徴、傾向として述べられている、外部文化の取り入れ、物真似の巧みさ、および、その改変、時には改善の能力とは、さきに述べた流行現象の内部においても類似した要素により形成、作動しているのではないかとも考えさせられます・・。

さらに小説のテーマ、主題などで考えてみますと、それは、太平洋戦争での実体験に基づいた大岡昇平著の「俘虜記」そして江戸時代初期のキリスト教弾圧期を舞台とした遠藤周作著の「沈黙」などが挙げられ、また、さらに小説ではありませんが、海外において我が国の歴史、社会の研究において多く用いられているのが丸山眞男の一連の著作であることは、特に現在の我が国においては、なかなか重要なことなのではないかと考えますが如何でしょうか?

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、九州、熊本で被災された地域の今後の早急な諸インフラの復旧そして復興を祈念しております。








2016年6月24日金曜日

20160623 実験とブログ記事作成

ブログ記事の作成も300を超えしばらく経ちましたが、書きたいことは相変わらず、あるようなないような感じで本日も書きはじめました・・(苦笑)。

また、記事の作成期間も1年間を越えましたが「さて、私の文章作成能力とは多少なりとも向上したのだろうか・・?」とも考える日々です・・(苦笑)。

とはいえ、ブログについてのインターネット上での情報を閲覧すると、大体(半数以上)は数カ月程度にて中断、休止するということですので、書籍からの抜粋引用も多く含みますが、ここまで記事作成を継続出来たことは、誇る程度のことではありませんが、とりあえず「今のトコロこんなものではないでしょうか・・?」といった感じです・・。

また、この先、どの程度まで継続することが出来るか分かりませんが、とりあえずキリのいいところまでは継続してゆこうと考えております・・。

それ故、これまで興味を持って一連の記事を読んでくださっている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。

そういえば、以前の研究分野の実験においても、当初はそうでなかったのですが、実験にのめり込んでゆくにつれ、試料のNが増えていったことを思い出しました・・(苦笑)。

では何故、のめり込んでゆくにしたがい試料のNが増えていったかと考えてみますと、それは試料を用いた実験から抽出されるデータのブレ、標準偏差、SDが大きいことに不満をおぼえ「Nを増やしてゆけば(標準偏差が)小さくなり、より実験条件に基づいた事実に近いデータを抽出することが出来るのではないだろうか?」と考え、如上のような事態(Nが増えていった)になったと記憶しております・・(苦笑)。

このような多少乱暴な考えの下で実験を続けてゆくと、試料作製に慣れたことからか、変に試料作製のウデが上達して全体的な値(接着強さ)が向上してしまい、ある意味困ったことになりました・・(苦笑)。

とはいえ、その値とは、当時の国内外における同一、類似した目的を持つ実験に基づいた論文、学会発表等で述べられていた値と近似しており「まあ、この方が諸事都合が良かろう・・。」ということになり、以後、ある程度安定して自分なりの標準的な値(接着強さ)が確立?されました・・。

最終的には試料作製段階(実験の前)において、目視にて「この試料の値はこの程度!」と分かるようになるのではないかと不図考えたこともありましたが、これも今考えてみますと一種のビョーキではなかろうかと思います(笑)。

とはいえ、実験を続けてゆくと、何故だかよくわかりませんが、こうしたことを半ば本気で「出来るようになるのでは・・?」と思うことが度々あったのです・・(笑)。

そして、このようなメカニズムから様々なカルト的な考えもまた生じてくるのかもしれません・・(笑)。

しかし同時にそうした(決して正常、冷静とはいえない)思い・情念によって試料が作製され、実験が為され、科学的事実の探求が為されていたということは、一体どういうことなのでしょうか(笑)。

無論当時、データ改ざんをするようなマネはしておりませんでしたが、それは「正直さ」からというよりも、ただ実験が楽しかったからではないかと思います・・(笑)。

さて、ここまで記していてハナシをこれまで作成したブログ記事について戻し、このN300以上とは何かの目安になるのでしょうか?

そして、さらにこれを分類しますと書籍からの抜粋引用がおそらく120程度、自身の記したものが210程度ではないかと思います・・。

また、ブログ作成当初は書籍からの抜粋引用が高い割合を占め、その後、記事作成期間が延長するに伴い、対話形式のものにはじまり、徐々に自身の記事の数が増加していきました。

このことから、これまでの私のブログに関していえば、当初書籍からの抜粋引用にて文章力を練り、その後、対話形式を用いて自身の文章を書くクセを定着させ、そして独白的な散文形式に徐々に移行していったと考えることが出来るのかもしれませんが、これを別の視点を持つ私から云わせれば以下のような感じとなります・・。

「コトはそう単純なものではなく、そうした方法論的なものによって「のみ」記事作成を継続することが出来るのであるならば、多くのブログは数カ月程度で中断、休止することはないであろう。

また、こうした方法論も如上のやうに後知恵で述べられれば簡単と思われるかもしれないが、実際のところそれは(継続的作成のための)苦肉の策の(連続の)結果であったのです・・。」

とはいえ、今後どの程度の期間、ブログ記事の作成が継続して為されるかわかりませんが区切りのいいところで閲覧者10万人あるいは365記事程度になるまでは継続してみたいと考えております。

また、ここまで書いていて不図思いましたが、以前実験をしていた時と同様、現在の私とは多少オカシクなっているのでしょうか(笑)?

いや、そのようなことはないと思います。

オカシクなっているのではあれば、ここまで記事作成を継続して行うことは出来なかったのではないでしょうか?

いや、オカシクなっていればこそ、ここまで記事作成を継続してこれたのではないか?

通常であれば、そこまで継続的に文章を書くということはないのではないか?

そして、このせめぎ合いに果たして科学的な結論、見解とは存在するのでしょうか(笑)?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる4月の熊本での大地震によって被災された地域における諸インフラの速やかな復旧そしてその後の復興を祈念いたします。」






2016年6月22日水曜日

20160622 コンラッド著「闇の奥」とM2病・・

昨日のブログ記事において「コンラッドの小説」から抜粋引用しましたが、私がコンラッドの著作をはじめて読んだの和歌山在住の頃でした。

当時住んでいた場所の近くに24時間営業の大型商業施設があり、その中に入っている書店は時間に関係なく本を探せ、読めるため、重宝し、よく出入りしておりました。

そうした時、岩波文庫の書棚にて立ち読みしている際、偶然手に取ったのがコンラッド著の「闇の奥」でした。

その後、他のコンラッドの著作に大分ハマったようで、長編を含む数作品を比較的短期間で読んだ記憶があります。

しかし、そうであっても、やはり最初に読んだ「闇の奥」に一番感銘を受け、また、この著作がフランシス・フォード・コッポラ監督作品の「地獄の黙示録」(1979)の原作、ベースであることを知り、何度かこの作品を観返したりもしました・・。

ちなみに当時の私が取り組んでいたテーマは紀州、和歌山で行われていた雨乞い祭祀についてであり、その包括的な理解、把握のための方法論の一環としてフレーザーの「金枝篇」などにも手を伸ばしておりました。

現在考えてみますと、こうしたことは、扱う題材が我が国古来の民俗、風習であるのに対し、その用いる方法、依拠する書籍が(自然と)欧米的であったことに気が付かされます・・。

しかし、こうした題材(我が国古来の民俗、風習)を社会科学分野の研究としての体裁を整えるためには、そうした方法が(明治以来現在に至るまで)最も適切であるのかもしれません・・。

また、こうしたことは理系学問分野においては概ね当然のことであるのでしょうが、人文社会科学系の我が国の事物を扱う研究の場合、おかしな感じを受けなくもないと思います・・。

ともあれ、当時はそうしたことを殆ど考えず、単に自身の取り組んでいる対象の理解、把握に対し(大いに)効果的であると考え、それら著作に対し(自分なりに)「内容」を見出していたのではないだろうかとも思います・・(内容とは何でしょう・・?)。

また、そうはいうものの、あの時期に「闇の奥」に出会ったことは、なかなか不思議で面白く、その後しばらくの間、周囲の方々にこの著作のことを吹聴して回っていたような気がします・・(苦笑)。

さらに面白いことは、この著作(「闇の奥」)を原作、ベースとした、さきに挙げた映画「地獄の黙示録」内で登場人物の一人(カーツ大佐)が手に持っていた書籍が「金枝篇」であったことです・・。

もちろん当時の私はこうしたことを知らず、単に参考文献の一つとして「金枝篇」を読んでいたのですが、これを知った時はかなり不思議に思いました・・。

もちろん当時の私はさきと同様、このことを周囲の方々に吹聴して回ったことはいうまでもありません・・(苦笑)。

そして、こうした一連の現象(偶然による類似性の発見およびその吹聴)をも含みM2病と呼ぶのではないかと思います(笑)。

・・意外と、こうした経験が大事であるのかもしれません・・。

こうしたことは、私の経験から理系学問分野においても同様に生じていると思いますが、今もって理解できないのは、その作用機序、メカニズムです・・。

とはいえ、その作用機序、メカニズムは置いておいても、そうした現象が各地で同時多発的に生じたり、それらの相互作用などが為されることにより、様々な学問研究とは進化発展し、また同時に学問的潮流なども生じるのではなかろうかと思いますが、これを読んだ皆様は如何お考えになるでしょうか?

また、そうしたことと関連があるかどうかわかりませんが、私は時折手紙を書く際に、この著作(「闇の奥」)から時宜に適い且つ印象的であると思った部分を抜粋引用を行うことがありますが、この記事の場合においては以下のものが(もしかしたら)適切ではないかと思いますが如何でしょうか?

「・・No, it is impossible; it is impossible to convey the life-sensation of any given epoch of one’s existence-that which makes its truth, its meaning-its subtle and penetrating essence.

It is impossible. We live, as we dream-alone…」

「Heart of Darkness」 Collins Classic Joseph・Conrad  p.32



「・・そう,それは無理だよ.自分の存在の忘れ難い一時点で覚えた生の感覚というものを,他人に伝えるのは不可能なんだよ.その感覚こそが人生の真実,その意味―その微妙で深く浸透する本質なのだが.無理だな.ちょうど夢を見るのと同じように,僕らは生きているんだ―ただひとりぼっちでね・・」



「闇の奥」三交社 藤永茂訳 pp.74-75

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震により被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして復興を祈念します。」








2016年6月21日火曜日

照屋佳男著「コンラッドの小説」早稲田大学出版部刊 pp.26‐28より抜粋  20160621

昨日記した記事「納豆、照葉樹林文化・・銅鐸?」とは最近記した記事の中では珍しく、出だしから閲覧者数がそこそこ伸びました・・。

なぜこの記事が最近書かれた記事の中で比較的多くの閲覧者数を得られたのかは未だ不明ではありますが、単に、それら記事の中では比較的面白かったということになるのでしょうか・・?

これまでに300程度の記事を作成してはきましたが、正直なところ「これはウケるぞ・・。」と確信をもって作成した記事はただの一つもありません・・(苦笑)。

実際にそういった記事が一つでもあれば、それはそれで面白いかもしれませんが・・。
しかし、そうはいっても、あまりウケを狙い過ぎるのも、後々のことを考えてみますと、あまり良くないのではないかとも考えさせられます・・。

また、こうした考えとは、一連のブログ記事作成をはじめた当初よりボンヤリとは持っておりました。
しかし、それ以上に閲覧者の方々からの閲覧記事の傾向などを見て「何となく気づかされた」部分がより大きいのではないかと思います・・。
もとより私はあまりこうした特に思想、信条、(歴史的)事実の認識にかかわるような、そしてブログ記事のような公開を前提にするような文章を書く上でのバランス感覚に長けている方ではなく、むしろ反対であると考えておりますが、上に記したような反応を見ておりますと、そうしたことを、まさに「何とくなく気づかされた」といった感じがあります・・。
このような感覚もなかなか不思議で面白いものであると思います・・(笑)。
(どのようにしてそうした感性が精神内部に生じるのであろうか・・? そのメカニズムとは?)
そういえば、少し前に投稿記事数が300に到達しましたが、その後、現在においても未だ「新しい視野、視点」などは開けてきません・・(苦笑)。
ブログ記事の作成などとは一般的にこういったものなのでしょうか?
しかしながら、以前から繰り返すようではありますが、一応ここまで記事作成を継続することが出来た主要な原因とは、閲覧者の方々からの様々な面白い反応であったとはいうことが出来ます。
それ故、これは決して私一人の手によって為されているのではなく、閲覧してくださっている方々の合計としては甚大なるご協力により、どうにか継続することが出来ているといって良いです。

さて、ここまで書いていて不図思い起こした文章があるので以下に抜粋引用します。」


「照屋佳男著 「コンラッドの小説」早稲田大学出版部刊
pp.26-28より抜粋」

「「ナーシサス号の黒人」には有名な序文が付せられてゐる。一見難解なこの序文の中心には伝統の問題が据ゑられている、尤もコンラッドは伝統という語をただの一度も使ってはゐないが。

「彼(芸術家=小説家)の訴へは(思想家や科学者のやうに)声高にはなされないが、より深い所に達する。(思想家や科学者のやうに)明晰ではないが、より深く人の心を動かす―さうしてそれはじきに忘れられる。
それでもその影響はいつまでも残るのである」。

コンラッドに言はせると、芸術家は使ひ捨ての利くやうな思想や事実や理論を相手にしてゐるのではない、「芸術家が訴への対象にしてゐるのは、知恵に依存しない我々の存在のあの部分、即ち我々内部の、習得された部分ではなくて天与の部分である」。

これは格別新しい文学論ではない、寧ろ陳腐とさへ評したくなるやうな文学論なのだが、ただ「知恵」(wisdom)といふ語の使い方は、そのやうな陳腐さを消し去る程の重みを有してゐる。

右の一句には過去の力、伝統や思ひ出の力を無視して、「知恵」を獲得したつもりになってゐる世の「賢者」への痛烈な批判が感じ取られるのである。

「我々内部に宿る生きとし生けるものに対する連帯の感情―無数の孤独な魂を結合する微妙にして堅固な確然とした連帯の感情、夢、喜び、渇望、幻想、希望そして恐怖を通じての連帯の感情、人間を相互に結び合せ、全人類を結合する連帯の感情―死者を生者に、生者を未生の者に結び合せる連帯の感情」とコンラッドは言ふ。

「連帯」(solidarity)といふ語が「知恵」に対置されてゐると我々は理解することが出来るが、列挙されてゐるさまざまな「連帯」の性質の中で際立って読者の注意を引くのは「死者を生者に、生者を未生の者に結び合せる」といふ性質であらう。

死者と生者と未生の者との結合という観念を通じて、コンラッドは「連帯」に伝統を含意させてゐる、すると「賢者」の振り翳す思想や事実や理論に伝統が対置されてゐる事になる。

芸術家にとって重要なのは知恵ではない、伝統の意識である、とコンラッドは言ひたいのだ。

しかし伝統の意識の獲得が途方もなく大きな労力を要する事をコンラッドは承知してゐる。

第一、伝統は、船乗りにとっても作家にとっても、仕事への献身を通じてしか感得され得ない。

仕事への献身といふ一事は船乗りから作家への移り行きを可能にした当のものであった、小説家としての仕事への献身を、コンラッドは「形式と美質の完璧な融合をめざして脇目もふらぬ献身」といふ風に表現し、かう述べる、「さういふ創作上の課題を成し遂げようと誠実に努力すること、力の及ぶ限りこの道をどこまでも辿らうと努力する事、躓いても、疲れても、非難されてもひるまずにこの道を辿らうと努力する事、これだけが芸術家の存在を正当化し、それに確実な根拠を与へるのである」


このような不撓不屈の専心的な努力を通じて伝統が生き生きと感得される時、芸術家は思ひ出の力を借りて経験に輪郭を与へ得るやうになる。

「思い出の力を借りて」と言ったのは、伝統は一面から言ふと、思い出の集積、或は上手に思ひ出された過去の集積に他ならないからである。

そして作品において明瞭な輪郭を与へられた経験とは、「仮借なき時間の奔流」から掴み取られた、或は救ひ出された「過ぎ去り行く生の局面」「生の断片」に他ならない。別言すると、それはさういふ「局面」や「断片」の「震動、色彩、形式」或は「説得力ある一瞬一瞬の核に存する緊張と情熱を明示する事に他ならない。

「コンラッドの小説」

照屋佳男

ISBN-10: 4657909312
ISBN-13: 978-4657909312

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

大雨が降った九州の皆様の御無事および、さきの大地震にて被災された熊本県地域での被害がなく、今後の復旧、復興が速やかに為されることを祈念します。