2015年10月19日月曜日

20151002 迦微、神、カミについて・・

A「最近何か新しいことはありましたか?」

B「ええ、今のところ、特に新しい動きはありませんね、一方で、つい先日ブログの一日の閲覧者数が200を越えたのは少し嬉しかったですね(笑)。」

A「はあ、200越えはちょっとすごいですね・・。
読んでくれている方が増えているのでしょうかね?
あと応募されている職種の勤務地はやはり首都圏が多いのですか?」

B
「ええ、首都圏での応募職種もいくつかありますが、大体はそれ以外ですね。私は概ね首都圏にて育ちましたが、その後様々な地域にてある程度の期間住んでおりましたので、今となっては別に首都圏でなくとも一向に構わないのです・・。
ただ、それと同時に思いますのは、自分が適応し易い地域と、そうでない地域があるのではないかということですね。」

A「ああ、そういうのは確かにあると思います。
一般的に若い頃は適応力や柔軟性があって、様々な地域にある程度容易に溶け込めると思うのですが、多分30歳くらいあたりから、徐々にそういった能力が喪失、衰えてゆき硬化していくのではないでしょうか?
物質にたとえるとおかしいかもしれませんが、骨や歯みたいな感じではないでしょうかね?
ですから私も正直なところ今となっては、あまり他の地域には移り住みたくはないです・・。」

B
「ああ、そういう感覚はよくわかります。
ですから、現在応募中の職種も大体これまで住んだ場所に近いところのものが多いです。
しかし事情も事情ですのであまりゼイタクもいってられないのですが・・(苦笑)。
ただ、何でしょうかね、古くから他の地方、地域に行く時に「水に気をつけろ」などと云われますが、ああいうのは個人によってその反応が異なるために普遍的な一定の見解は見出しにくいのでしょうが、多分、地方、地域の水、大気、土壌などの中に人の心身に影響を与える何かが存在することを示しているのではないかと思います。」

A
「ええ、確かにそういうのは一つの地域にずっと住んでいたのではわからないと思います。
ですから、そういう「実感」とは、ある程度年齢を重ね、他の地域に住んでみないとわからない相対的な感覚であるのかもしれませんね。」B「それは仰る通りであると思いますが、同時にその「実感」というものが科学的な視点から見た場合、案外間違いであったり、単なる思い込みであったりするらしいのです(笑)。しかしそれでも「実感」とは科学的な認識のために必要不可欠な第一歩目でもあるとも思いますが・・。」

A「ええ、それは以前のBさんのブログ、たしか20150804で書かれていた文系、理系そして儒家、墨家との関係の前段階に近いものではないでしょうかね?あとは少し前に投稿されたベルクソンの「哲学的直観」からの抜粋文章にも似た様なニュアンスがあるのではないかと思います。」

B「確かに仰る通りです。
そこまで考えておりませんでしたが・・。
ともあれ、科学的な方法、つまり実験、観察等により得られたある程度普遍的な方法による見解とは、こと神、神々の存在について応用してみますと、ややこしくなるのではないかと思います。
しかしながら、そこを曲げて敢えて、神々の存在と、これまでの話を重ね合わせてみますと、このようなことが云えると思います。
先日抜粋引用した小泉八雲著の「日本の心」にて「古びた神社などには人の心に聖性、神性を惹起させる何かがある。」といった意味のことが書かれていました。
たしかに私自身はその感覚をよく理解できます。
そして同時にその感覚は、多くの方々が共感されるのではないかと思います。
そして、そこから更に進んで、では、その聖性、神性を人々の心に惹起させる原因の実体とは何であるのかと考えてみますと、
それは、さきほど出ました地方、地域の水、大気、土壌などの中に含まれる人の心身に影響を与える何かではないかと考えるのです。
そして、それら水、大気、土壌に含まれる心身に影響を与える何かとは、当然ながら微細なものであるとは思いますが、それが生物、細菌の様な働きによるものであるのか、あるいはMEMSの様な機械的な働きによるものであるのかは分かりません。
しかし何れにせよ、古くから日本における神々とは、少なくとも一面において、この様な微細ながらも大きな働きをする何かであると認識されていたのではないかと考えます。
これは本居宣長の「古事記伝」においてもカミのことを迦微(かみ)と記されており、その漢字、文字から、その様な意味があるのではないかと考えさせられます。

A
「ははあ、それで思い出しますのは、以前私がどこかで聞いた日本におけるカミの語源とは、酒の醸造などの醸す(かもす)と同一であるという意見ですね・・。
そしてこの醸す(かもす)の醸造も発酵という微細な菌の働きによるものですから、まあ先ほどのBさんの仰った内容とも似ているのではないかなと思います。」

B「ええ、それに日本国内で時折聞かれる地名の加茂(かも)もこれと同じ起源ではないかと思います。
この言葉、音は、多分水稲耕作が始まった弥生時代の社会において何かしら意味するものがあったのかもしれません。
ですから、この加茂という地名を持つ場所では銅鐸が出土したり、日本酒の醸造が古くから行われていたりします。
こういうのは単なる偶然だけでは片付けられない何かがあるのではないかと思います・・。」


A「なるほど・・。
それにしても、そういった小さなものが大きな働きをするという古来からの考えは、その後、物語として「一寸法師」になったのかもしれませんね・・。
そして、そのように考えますと、日本とは山林面積が多く使用可能な国土が狭小なために、何でも多収穫という明確な目的に基づく、小型化、集約化が為される傾向があるというのを会田雄次あとは李御寧の著作で読んだ記憶があります。」

B「ええ、それらの著作は私も以前読んだと思います。ともあれ、日本人のこうした小型化、集約化の傾向、執念はほとんど無意識のレベルにまで達しており、よくよく考えてみますと教育においてもこの様な傾向があるのではないかと思います。
しかし、教育とは、特に高等教育においては、根本的に工業製品を製造するのとはワケが違うのですから、今後何と云いますか背景思想における相変態が為される必要があるのではないかと思いますが、どうなのでしょうか?」

A「うーん、それは大変難しい問題であると思いますが、同時に仰ることの意味もよく分かります・・。
いずれにしても文系がカギであり、また、同時にBさんがコンラッドの「闇の奥」が好きな理由もそこらへんにあるのではないかと思います・・。」







山本七平著「存亡の条件」講談社刊pp.13-16より抜粋

一九七五年は国際婦人年ということで、婦人論とか女性論とかが盛んであった。
そして一般の誤解としては、人類の進歩とともに、近来、婦人の社会的地位は高くなっているが、まだまだ男性に及ばず、従って完全な男女同権とはいえず、「婦人は未だ解放されていない」というのが、通念であろう。
そうでなければ、国際婦人年といった「お祭り」が企画されることはあるまい。
だが婦人の地位と人類の進歩は果たして関係があるのであろうか。
また進歩とは一体、何を意味しているのであろうか。
では、男女の社会的任務が逆転し、女性が男性的役割を演じて男性的となり、男性が女性的役割を演じて女性的になる、という社会が現出したら、それは進歩なのであろうか。
「いや、そういうことは生物学的にあり得ない。従って、性差による「差別」の撤廃と両性の平等化が目的なのだ」という世論は当然に出ることと思う。そこで私は、M・ミードが指摘しているニューギニアのかつてのチャンブリ人の男女を紹介してみたいと思う。
この社会は、ちょうどアメリカ型の逆であって、儀礼的には「レディ・ファースト」ならぬ「ジェントルマン・ファースト」だが、社会の実験はすべて女性が握っている。
社会の経済的支柱は、女性による漁撈と採集と機織で支えられ、彼女らは「財布のひも」をしっかりと握っている。
そのくせ形式的・儀礼的には男性に従属していることになっており、男性の中には数人の妻をもっている者もいる。
一言でいえば、経済的には男性が女性に従属し、形式的・儀礼的には女性が男性に従属している社会なのである。
その結果、男性は文字通り女性的で、われわれの社会でいう「女々しい」という言葉がぴたりとあてはまる。
従ってこの社会では「女々しい」を意味する場合「雄々しい」」といわなければならず、「まことに男らしい男」とわれわれの社会でいわれる性格は「まことに女らしい女」といわなければ意味が通じない。
すなわち男性は、情緒的で嫉妬深く、つまらぬ口論にもくよくよし、陰口、不平、見栄、依頼心といった要素を百%もち、経済的従属を当然のことと考えて、この点には何の疑問ももたない。
一方女性は、六~七歳のころから、経済的自立のための基本的技術を厳格に教え込まれ、自立して、立派に生活して行けるように仕込まれる。
従って女性は、支配的・確信的で、厳格な管理者であるが非常に協調性に富み、情緒的不安定は全くない。
そして堂々と男性の品定めまでする。
しかし夫を働かして経済的に依存しようなどとは、絶対に考えない。共働きなどというものも存在しない。そして男性にはきわめて寛容で、彼らの競技や舞踏などを、喜んで見物に行く。同時に女性は「女だけのクラブ」をもち、「女のつき合い」とでもいうべき公然の社交機関がある。そして「男と男の友情」のような「女と女の友情」があり、公然たる同性愛もあるが、男性はそのクラブには入れてもらえない。従って「女に媚を売ろう」とする男性は、女に変装し、監視の目をくぐってそのグループに入って「気をひく」。
これはこの社会の一種の公然の秘密になっている。
ミードは「(女は男に言い寄らないが)女に変装した男には女も言い寄るさまは、他のいかなる儀式的所作にもまして、チャンブリ人の錯雑とした性の様相を示していると思う。
表面的には男は、家主・家族の長で、数人の妻を持つことさえあるが、実際の権力と指導権は、女の手にある」と記している。
結局「男性的」「女性的」といわれる要素の大部分は、後天的に、社会的任務によって決定されるものであり、「女はつくられる」なら「男もつくられる」のであって、それは決して永久不変のものではない。
一体、彼らの社会は、なぜこうなったのであろうか。歴史のはじまりからそうだったのか。それとも、このチャンブリ人だけ、例外的に生物学的な性が逆転しているのか。
もちろん、そうではない。この社会も、イギリスの植民地となるまでは厳然たる男性中心の社会であった。男は支配者であり、戦士であり、部族を守り、家族の生命と財産を保護する重要な任務があった。しかしイギリスの統治とともに部族間の戦争が禁止されると、一転して彼らは単なる儀礼的任務しかもたない、社会の「装飾品」となってしまった。
そのため実質的逆転が生じたのだが、この転換はおそらく二世代ぐらいの短期間に完了したはずである。男性が戦士以外に社会的任務をもたず、その任務が「イギリス占領政策ニューギニア憲法第九条」で一挙に急激になくなったので社会的な存在理由を失い、「装飾品」として存在するだけになってしまったので装飾品としてしか扱われなくなった、これが以上の状態の簡単な図式化である。これを見ると「日本ほど社会の変化がはげしい国はない」という言葉は、修正しなければならないとともに、将来、これくらいの変化がさらに起こっても不思議ではないようにも思われる。同時に、男女の性格差といった、生物学的宿命のように考えられているものが、意外にそうでないこともわかる。かつての、日本男子と大和撫子といったイメージが、もう一世代で完全に逆転したとしても、またその逆方向にさらに再逆転しても、別に驚くべきことではあるまい。しかしそうなった場合、それが果たして進歩といえるのであろうか、日本がチャンブリ型社会になった場合はもちろん、その逆になった場合も、果たして進歩という概念にあてはまることなのであろうか。
存亡の条件 (講談社学術文庫 394)
存亡の条件 (講談社学術文庫 394)
ISBN-10: 4061583948
ISBN-13: 978-4061583948
山本七平






















山本七平著「存亡の条件」講談社刊pp.35-40より抜粋

山本七平著「存亡の条件」講談社刊pp.13-16より抜粋
とあわせて読んでみてください。

前章の最初に記したように、チャンブリ人の社会は、イギリスの影響を受けて一変した。
だが、いうまでもなくイギリスは、チャンブリ人の社会における男女の役割を一変させようとして、その政治的影響力を行使したのではない。
従ってその変化は、イギリスも予期しない一種の波及的効果だったといえる。
こういった波及的効果は、異なった二文化の接触の際必ず起こるものだが、それらの多くは、社会の機構がチャンブリ人のごとく単純明確でないため、だれにでも明確にわかる表面的現象にならず、逆に、内攻してしまう。

前述のように、戦後の平和憲法の一部は、チャンブリ人への、イギリスによる部族間の戦争禁止と似た面がある。
もちろんアメリカの意図は日本の精神面・物質面における完全な武装解除であり、それ以外に彼らは何も意図していなかったと思われるが、それが、彼らには考えも及ばなかった波及的効果を全日本に与えたところで不思議ではない。
もちろん同じ現象は、もっと複雑な形で明治にもあった。
そしてその波及的効果はさまざまに作用し合って、チャンブリ人の社会に見られるとはまた形の違った一種の倒錯を生んだ。
これは政治的・社会的倒錯と呼ばれるものかも知れない。
その焦点は後述するように「現人神天皇制」があるわけだが、それらに進む前に、二つの文化の接触による二重基準から身動きができなくなって滅亡した一例の、今に残る詳細な記録の一部を紹介しよう。

それは二〇〇〇年前のユダヤ民族の滅亡であり、それを記したのは、フラウティウス・ヨセフスという一ユダヤ人である。

では「民族の滅亡」とは何なのであろうか。
人間が消えることではあるまい。
多くの、滅亡した民族の生物学的子孫は、他の民族の中に今も生きている。
「歴史としての聖書」の著者ケラーは、民族を、全人類という巨大なオーケストラの中の各メンバーと規定し、民族が滅びるとは「有史以来つづいている人類の文化という一大交響曲の中から、その民族という楽器の音が消えること」だという意味のことを言っている。
そう言えるかもしれない。
確かに人間は残るが、民族としては、沈黙して消えてしまうのだから―。

では、民族は、どうして滅びるのであろう。
「敗戦で民族が滅びることはない」という言葉は、今では自明のことであろう。
これは太平洋戦争によって獲得した貴重な認識の一つである。
ではなぜ民族は滅びるのか。
さまざまなケースがあり、いろいろな診断が可能であろう。そこで私はここに、史上稀に見る詳細さをもつ、ある民族の志望診断書を提示し、われわれの自己診断に一助としたいと思う。

「われわれの都はかつて繁栄の極に達したのち、最も深い災いの淵に転落した・・・。私の考えでは世界が始まって以来のいかなる悲運もユダヤ人のそれとは到底比較にならない・・・。しかもその責任をいかなる外国人にも求めるわけにはいかないからこそ、悲しみを押えられないのだ・・。」(ヨセフス「ユダヤ戦記」Ⅰ(3))

自国・自民族の滅亡を、まるで「臨終に立ち会った臨床医」のような態度で書き記したファラウティウス・ヨセフスという不思議な人物は、紀元三七~三八年ごろ―イエスが十字架に架けられた七、八年後?―にエルサレムに生まれ、紀元一〇二~〇三年ごろローマで死んだ。
その生涯自体が一つの「小説」といいたいほど数奇なものだが、その要約は後に回し、彼の残した実に稀有な著作について少し記そう。
なぜ稀有といえるのか。
通常滅ぼされたものは記録を残さない。
歴史はほとんどすべて勝者の手で記される。
確かに勝者が敗者を言及し、また敗者が勝者の不当をなじる悲痛な叫びをあげることはあっても、前述のように臨終に立ち会った臨床医の目」で、自民族いわば自らの死の「死亡診断書」を記したものはいない。
確かに傍観者の記録ではあるであろう。
しかし、傍観者は、その病人を救おうと悪戦苦闘した臨床医ではない。

前述のように、彼は、自民族の滅亡を「その責任をいかなる外国人に求めることもできない滅亡、すなわち一種の民族の自殺乃至は自らの招来した当然の帰結と見ても、不当にローマ軍に蹂躙された一小国の悲劇とは見なかった。
戦争による敗滅は一種の清算もしくは火葬にすぎず、それ以前に、民族はすでに破産し、死屍化していたと彼は見たわけである。

では一体何が一民族を破滅させ、以後二〇〇〇年の流浪と迫害を招来させたのであろうか。
そこには何か「滅亡の原則」のようなものがあって、その原則通りにすれば、いかなる民族も同じような道を歩むのであろうか。
私が彼の著作と同時代の関連史料から探ってみたいのはこの臨床医が見たその「滅亡の原則」であり、同時に、彼の「診断書」を正しいとすれば、われわれもその「原則」通りに同じ道程を歩んでいるのではないか、という問題である。

ヨセフスには、「ユダヤ戦記」「ユダヤ古代誌」「自伝」「アビオン反乱」の著作がある。このうち、最も貴重なものは「戦記」だが、これはいわば略称で彼自身は「ユダヤ人の戦について」と呼んだのだが、同時代はこれを「ペリ・ハローセオース」と呼んでいる。
「ハローセオース」という語は、ヨセフスの用語では、敗戦・破滅・滅亡の意味であり、従ってこの呼び名を字義通りに訳せば「滅亡について」になる。
これが同時代の読者の受け取り方だが、こういう受け取り方をされたのは、ヨセフスの心底に「なぜ、一民族が滅亡するのか」という問題意識が常にあり、それをしらずしらずのうちにも読者が看取したからであろう。
そしてそれを看取した者には、この書の奥には確かに「滅亡の原則」が意識されており、本書はそれの論証のように見えてくる。
それが、著者の表向きの意向とは別に「滅亡について」という書名を、読者がつけてしまった理由であろう。

その点、本書は、その民族に生き残る意志があるなら、最高の警告書であり、そこに表れた事例は、典型的な「反面教師像」である。
そしてこの書が、実に長い間、西欧の教養人の必読書であったことは忘れてはなるまい。
もちろん彼らは、この書を新約聖書の最も信頼できる同時代史として読んだのであろうが―しかし同時にそれは二〇〇〇年近く「こうすれば滅びる、こうすれば滅びる」と彼らに囁きつづけて来たはずである。

だが奇妙なことに、西欧化が口にされつづけた日本で、この伝統的な著作は、明治以来完全に無視されてきた。
無理もない。
というのは、明治のはじめから現代まで、日本において圧倒的なのは「興国史談」と「経国美談」だったからである。
明治のはじめにはその範は専ら西欧であり、やがてアジアに移り、戦後アメリカからソヴィエトに移って、またアジアにもどったという変化はあっても、それは筋と登場人物と舞台の設定は違っても内容は実質的には常に同じという「講談本」「通俗小説」の如くに、同じであった。
いろいろ問題になった中国報道やベトナム報道も、これを「興国史談」「経国美談」に書きかえられた通俗実話小説、すなわち明治以来の延長線上にあるものと見れば少しも不思議ではない。
ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は確かに古典として翻訳出版されたが、これはあくまでも、はるか後代の一知識人の分析であっても、その滅亡の渦中にあったものの生々しい臨床医的記録ではない。
しかしそれですら、日本の読者には歓迎されなかった。
そしてこの「興国史談」「経国美談」の一世紀にわたる伝統は、ジャーナリズムまでその型にはめてしまい「さあ、興国側のまねをしよう」「その側に立とう」という形になり、さらに、次の「興国」を先取りしようという形にさえなっている。―そしてそのことも、実は「滅亡の定理」の一つだということも気づかずに。





  • ISBN-10: 4061583948
  • ISBN-13: 978-4061583948

  • 山本七平


    ニコ生トークセッション「愚民社会」大塚英志×宮台真司

    2015年10月14日水曜日

    加藤周一著「日本人とは何か」講談社刊pp.19-22より抜粋

    われわれは何を望むか。それはまだ形をなしていないと私はいった。これは事実の問題であって、それ以上何をつけ加えていうこともない。
    われわれは何を望み得るか。これは可能性の問題であって、私は私なりに意見をいうことができるだろう。
    私の意見はさしあたって二つである。

    第一、過去の日本人は、一方で造形的な感受性と趣味の鋭敏さを実証し、他方で工業技術の発展に能力を示した。
    しかしその二つのものを結び合わせることはできなかった。多分われわれはその結合を望むことができるだろう。
    われわれを勇気づける徴候は、すでに建築の一部にあらわれている。そこでは鉄やコンクリートで建てる技術と、伝統的な美的感受性とが融和している(ただし伝統的な感受性との融和であって、木造建築の形との融和ではない。木造建築の形がコンクリートの材料と融和するはずのないことは、わかりきっている。融和するはずのないものを無理にむすびつくった世にもぶざまな建築の典型的な例は、東京九段のその名も軍人会館という怪物である)。建築の成功は、たとえ小部分での成功のようにみえても、おそらくその意味するところが大きい。なぜなら建築はそこで人間が働き暮らす場所であり、またすべての造形美術の母体でもあるからだ(彫刻はその柱や欄間から、絵画はその壁から、次第に独立して出て来たものにすぎない)。すべての創造的な時代は、何よりもまずその建築に時代精神の形を見出していた。
    たとえば紀元前五世紀のギリシャ、紀元後八世紀の日本、十二世紀のフランス等。
    建築が精神の問題でなくなったのは、現代的な病のいちばん重い症状の一つである。
    建築に調和を発見するということは、おそらく、単に日本の問題であるばかりなく、現代の世界の問題の核心にも触れているのである。
    第二、過去の日本人は開国によって近代的な国家をつくりあげることに成功したが、それは技術的な開国であり、つくりあげた国家は技術的に近代的であったにすぎない。
    十九世紀半ばの技術的(物質的)な開国に対し、現在二十世紀の半ばに、おそらくわれわれは思想的でもなく日本歴史の上ではじめて明瞭に人権を保証した憲法である。
    人権宣言のいまだ嘗てなかった社会で西洋の近代思想を問題にするのは、極端にいえば学者の道楽にすぎなかった。
    ところが思想は他の何であり得るとしても本来道楽の対象ではあり得ないはずのものにはならないだろう。
    現にこの鎖国は、外国思想との交渉の問題になるよりもはるかに手まえで日本人の精神的構造そのものにおける鎖国的特徴としてあらわれていた。
    今はその詳細に立ち入ることはできない。
    しかしとにかく戦前の日本に育った日本人のほとんどすべてには共通のある精神的特徴がある。
    その特徴を簡単にいえば、まず心理的な段階では、閉鎖的であること、思想的な段階では、ものの考え方の普遍的でないことである。
    思想的な段階では話が面倒になる(という意味は、決して問題があいまいだということではないが)。
    心理的な段階では、たとえば外国で何年間か日本人旅行者の反応を観察すると、容易に話がはっきりする。
    一定年齢以上の日本人旅行者の反応と、著しくちがっている。しかもその特殊性は、性別、教養、知能の程度、個人的な性格の差などとは、おどろくべきことに、ほとんど全く関係していない。そうではなくて、ただ精神的鎖国の結末と関係しているのである。
    若い日本人にそういう特殊な反応がほとんどないのは、単に若さの問題ではなく、育ってきた環境の閉鎖性が少なくとも心理的には崩れはじめているからであろう。
    私は精神的鎖国の原則が、すでに憲法で崩れ、その心理的影響が、青年において崩れはじめていると結論したいと思う。
    しかしもちろんその結論から、思想的開国までゆくのは遠い道である。人権宣言にもとづく憲法とおそらくは生活様式の推移から来る心理的な開放性、―この二つの条件だけから、精神的開国にのぞむときに、われわれを勇気づける現実的な根拠にはなり得る。そしてすでに現れはじめているそのような条件を維持し、拡大し、われわれの望みを空想に終わらせないためには、どうしても平和が必要だということになる。
    戦争、戦争の準備、戦争を予定した措置のすべては、人権を冒す最大の理由であり、多かれ少なかれ民主主義をその原理において侵害するものである。
    そのことに疑の余地はない。
    その意味でわれわれは平和を望むことができるだろうし、その理由は単に原爆の被害が忘れられないということばかりではなく、日本の軍国主義的権力の人権に対する加害が忘れられぬということでもあり得るだろう。
    人権に対する加害は同時に精神的鎖国を導く。ところが開国の必要は、外国の思想の輸入などということとは全く無関係に、偉大な地方的文化にして普遍的な価値の世界へ引き入れるかという望み以外のものではない。
    日本人とは何か―さしあたって何であるかわからぬ。
    しかしやがて技術文明のなかに人間的な感覚の「形」を導き入れるという重大で決定的な仕事に熱心なあまり、平和をねがわずにはいられない一国民になり得るでもあろう国民である。われわれはそのような歴史を負い、今も活気にみち、自分の能力のほんとうの使いみちを探しているのだ。

    (「現代倫理講座」筑摩書房1958)
    日本人とは何か (講談社学術文庫)
    ISBN-10: 4061580515
    ISBN-13: 978-4061580510

    加藤周一著「日本人とは何か」講談社刊pp.113-117より抜粋20151012

    私は過去五六年の間、なかば西ヨーロッパで、なかば東京でくらし、彼我の知識階級の関心の対象には、目立った違いがほとんどないという印象をうけた(同じ対象を扱い方には、むろん多少の違いがあるが、それもヨーロッパ諸国相互の間での違いが、日本との違いよりも常に大きいとは限らない)。しかし唯一の例外は、宗教とそれに関連した問題に対する態度である。
    日本では知識階級の無関心が著しい。
    ということはあらゆる個人的接触の機会に経験したし、また日刊新聞を含む一般ジャーナリズムの上でも、容易に指摘することができる。
    一方外国人にとっての日本は―といっても、日本に特殊な関心を持つ例外的な少数にとってということになるが―伝統的な仏教文化と「天皇制という軍国主義的な宗教」によって知られる国である。
    そのことと、日本の知識階級の宗教問題に対する無関心とは、著しい対照をなしている。
    しかも宗教的問題に対する関心が西欧の知識階級にくらべて、日本の知識階級には少ないというだけでなく、宗教的感情または信仰そのものについても日本の大衆は宗教の影響をうけることが少ない、ということが日本人の観察者のほとんどすべてによって強調されてきたのである。
    観察の大部分は統計によらず、観察者自身の個人的経験により、たとえば文部省の「宗教年鑑」に見られる各教団届出信徒教の示すものとは、まったく別の微妙な問題を語っている。信徒総数は、その大部分が習慣による純粋に形式的所属を表しているに過ぎない。同様に仏壇の有無、葬式の仏式か否かは、仏教の信仰と殆どまったく関係がないだろう。
    神前結婚は、大部分の男女にとって神道との何等の精神的関係をも意味しない。
    そういう条件のもとで、宗教の儀礼的な面を統計的に扱っても、その結果は大衆の宗教感情、その政治・道徳・文化等への影響について、殆ど何ものも教えない、従って日本側の信頼すべき個人的な観察者が、現在の日本人は信仰が薄い、宗教から何等の重大な精神的影響を受けていない、と考える点で誰も一致しているということは、注目すべき事実なのである。一方外国人の側には、今の日本人の心理について、少なくとも宗教に関する限り、殆どすべて一致した誤解がある。
    すなわち、日本人は今も宗教的感情に豊かで、宗教の影響が日本人の文化や生活に少いはずはないと考えているのだ。
    彼我の意見の相違が、日本に関してこれ程確然と分かれている例はおそらく他にないだろう。問題が微妙で、長い生活を通してでなければ容易に捉え難いからかもしれない。
    たとえば宮沢俊義氏は、カトリック教徒田中耕太郎氏の最高裁判所長就任が、日本で殆ど問題にされなかったということにレモン・アロン氏がおどろいたということ、またキリスト教徒の片山哲氏が総理大臣になった時、そのことに注目したのが占領軍司令部だけで日本側では誰も注意しなかったということなど二三の例を挙げて、大臣や「最高裁判所長官が神道であろうと仏教であろうと回教であろうと、キリスト教であろうと・・大部分の日本人はその点に何の関心も持たない」といっている(「日本文化通信」一九五六年四月)。
    また桑原武夫氏は中谷宇吉郎氏との対談で、「日本の自由過剰」を制限するために、宗教を持ち出すということについて、「しかし日本人はもとから宗教心がないんですからね。
    これを復活さそうなんといっても、無理だと思います」といっている。「日本人はもとから宗教心がない」という言葉は、大衆との広い接触を持ち、多くの問題について判断の正確な桑原氏の口から、全く気軽に、特別の検討を必要としないで意見として、自然に出てくることのできるものなのである(「文藝春秋」一九五六年八月号)。

    また殊に仏教国日本の「坊主ども」について、三好達治氏は「もうとっくの昔に無意味な存在となりきっている」と断定する。金龍山浅草寺が堂宇を新築し、「仏教浄土さながらの象徴的聖域とやら何やら」といっても、「法主以下誰もそれを信じていないのがまるまる見とおしである」。
    しかも、誰も信じていないのは金龍山浅草寺だけではなく、「全国津々浦々百万の実例がおよそ大同小異である」というのだ(「文學界」一九五六年八月号)。仏教の知識階級への影響に至っては、零に等しい。アーノルド・トインビー、吉川幸次郎両氏の対談には次のような問答がある。トインビー氏「・・・学生が仏教を信じないというのでしたが、仏教の教えによる無意識的な影響も受けてはいないということでしょうか」吉川氏「無意識的にも日本の大学の学生は仏教の影響を受けていないと思います」(「中央公論」一九五六年十二月号)。法律学者も詩人も仏文学の専門家も中国文学者もこの点においては、おそらく日本に関する他の問題について大いに意見を異にするであろうにもかかわらず、まったく一致している。
    田舎ではどうか。
    きだみのる氏は「部落には宗教はない。宗教の屍があるだけだ」と断定し、次のような注目すべき観察をした。
    それは村のお彼岸会であり、檀家たちがお経を聞き、読経料二百円ずつ出した後で、きだみのる氏が住職や総代たちと酒を飲んだ時に考えたことである。
    「彼岸の今日の儀式、費用、それらはすべて今日の部落の生活の現実に対して何の意味も持ってはいない。
    住職も部落の連中も懲罪の場としての地獄も亡霊の存在も信じていはしない。
    住職は生活のためにそれを信じている振りをしているかも知れない。しかも他のものは全く意味をもたない伝統の歯車のまにまにこのような儀式を行っているのだ」と(「群像」一九五六年十一月号)。
    田舎では、仏教も天皇崇拝も、まだほんとうに生きているという考えは、日本人の観察者の中にも少なくない。
    しかし、そういう観察者の大部分は都会の住人であって、部落の人々にとってはよそ者である。
    部落の事情をほんとうに理解することがむずかしいのは、外国人にとって日本の事情を理解することが困難なのと似ているかもしれない。
    外からの観察者にとっては、田舎に宗教がみえ、内からの観察者にとっては宗教の屍がみえる。
    ということは、田舎には都会よりも、宗教殊にその信仰ではなく、その儀式的な面がよく保存されているということなのであろう。「住職は生活のためにそれを信じている振りをしているかもしれない。」―ときだみのる氏はいう。
    それを見破るためには、氏のように長い間部落に住みこむ必要があるだろう。
    調査票を配布して、回答を集めるやり方で、それを見破るのは、むづかしい。

    ところが政治・社会・文化現象の全体にとって、宗教が何らかの影響をもつか、もたぬか、もつとすればどういう影響であるかは、信じているのか、信じているふりをしているのかということによって、決定的に左右されるはずである。しかもそれだけではなく、この信じるのでもない、信じないでもない、「信じるふりをする」という態度のうちには、宗教と関連しての日本的なものの典型があらわれているかもしれないのである。

    「日本人とは何か」
    「日本人とは何か」
    ISBN-10: 4061580515
    ISBN-13: 978-4061580510
    加藤周一






    2015年10月13日火曜日

    20151013 谷川健一著「日本の神々」岩波書店刊(セヂ(霊威)についての記述)pp.30-32より抜粋

    谷川健一著「魔の系譜」講談社学術文庫刊 (巫女についての記述) pp.136-138より抜粋と併せて読んでみてください。

    南島で顕著に見られるのはセヂと呼ばれる霊威である。
    奄美や沖縄ではよく、「女は男よりもセヂが高い」という。
    それは女は男よりも神に近いという意味である。
    また「あの娘はサー高か生まりだ。」ともいう。
    サーはセヂのことで、霊威の高い娘で、将来、神女(ノロ)になったり、神占いをする素質がある、という意味である。
    こうした例から見ると、霊威は本来、その人に備わっているように見られがちであるが、そうではない。

    小さい時、よく予言の的中していた娘が、長ずるにしたがって、当らなくなることが多いが、それはセヂが去ったのである。つまりセヂは固有の霊威ではなく、外部から付着する霊威である。

    琉球王国の最高位の神女である聞得大君(きこえおおきみ)の就任式である御新下り(あらおり)は、斎場御嶽(せいふぁうたき)で行われる。

    その儀式では、外間(ほかま)ノロが、聞得大君の頭に王冠をのせて「聞得大君の御セヂ」(チフィジンミウシヂ)と唱え、神前に供えた洗米三粒を、聞得大君の頭にのせて、神名をたてまつる。

    このときからニルヤセヂ(ニライカナイの神の霊威)が聞得大君に宿ることになり、大君は地上の神となる。
    これが聞得大君の就任式のセヂつけの行事である。これは天皇霊が付着してはじめて天皇の資格を得るというのと同じ意味を持っている。

    仲原善忠は「おもろそうし」に登場するセヂという語を分析している(「セヂ(霊力)の信仰について」)。
    それによると、セヂを謡った「おもろ」は八十首もあり、つぎがカミ六十首、テダ五十首、テルカワ三十首の順序となっている。

    このうちカミという語の大部分は巫女を指す。
    またテダはもともと太陽のことであるが、国王、地方の領主、貴人などの比喩である。
    テルカワは太陽を指し、人間を呼ぶことはないと仲原は言う。そこでとりわけセヂの信仰がずば抜けていることがわかる。

    霊剣を「セヂまつるぎ」、神泊を「セヂあら神泊」、霊門を「セヂまさる門口」、霊社を「セヂ高杜」などと呼んでいる。
    セヂがつくことで、剣も港も門も杜も違った存在に変化する。

    セヂは人の媒介によるものだけではない。
    それ自体の働きによって特定の場所にとどまる。
    沖縄のウタキや拝所はセヂがついてはじめて神聖なものになる。

    このようにセジはそれが付着したものを神聖化する霊力を持っているが、「その本質に於いて何等合理性を持たず、人格的規範を伴はぬために倫理的道徳的色彩を帯びず、特に低級な迷信の巣となるかと思へば、高級宗教とも結合する可能性がある」ということを仲原は力説する。

    この言葉はタマ、サチ、イツなどの外来魂の性格を知る上で参考になる。

    仲原によると「おもろさうし」の中で、セヂと同義語と見られる言葉に、セまたはケがある。聞得大君の別名であるセダカコは「セヂ高い人」の意であり、「気高き人」であるという。後者は日本全土でも使われている言葉である。
    「おもろさうし」には、「セヂ勝て ケオ添て」とか「セやろ ケある」など、セヂまたはその略である「セ」が「ケ」と対句になっている例が見られる。とすれば、セヂと対応するケもマナ(メラネシア語で、非人格的、超自然的な力の観念。あらゆるものに付着し、伝移する)の一種と見なすべきである。
    折口信夫はセヂ、スヂ、シヂなどはマナ信仰に見られるような守護霊であると述べている。(沖縄方言ではセジもスヂもシヂと発音している。)

    さきに述べたように、本土では食物をケというが、これはケという外来魂が付着した食物を身体に入れることで活力や威力をつけることに由来する。

    それに引きかえて物に付着したケの活力が破裂して、むき出しになることがハレである。

    そうなることからハレには日頃許されない狼藉も許される。

    祭りや一揆の打ちこわしなどはハレの日の行動である。

    ハレとケとは異なる倫理と価値に支配される。

    晴着に対する褻着(けぎ)というように、地味で目立たない服装が普段着とされたが、ケは物に活力を与える外来の霊威であるからだ。ケに常(ふだん)という意味が強調されるのは、ハレと対応する形でなされるからで、本来の意味ではない。

    このケを物に内在するエネルギーと解し、それが枯れるからケガレ(気枯れ)であるとするのは不当である。

    ケが付着すると物は活力をおび、そのケが離れることがケガレ(気離れ)であり、エネルギーがなくなる。その極点は死である。


    20151013 谷川健一著「魔の系譜」講談社学術文庫刊 (巫女についての記述) pp.136-138より抜粋

    谷川健一著「日本の神々」岩波書店刊(セヂ(霊威)についての記述)pp.30-32より抜粋 と併せて読んでみてください。

    玉と魂が同音同義であることはことわるまでもない。私がこんど石垣市で会った、「火の神」という神人(かみんちゅ)は89歳の高齢とはみえない若々しさを保っていた。和服姿の老婆は、首に真珠の首飾りと金色のネックレスをかけていて、それが少しも不自然ではなかった。首や手足に玉を纒くということは悪霊を除けて、自分の魂を強くまもることにほかならぬ。竹富島で見せてもらったツカサ(巫女)の七つ道具の中にも勾玉があった。



    こうして神人(かみんちゅ)の身につける玉は、悪霊を除けると同時に、高い霊威を他人につける役割を果たした。さきに述べたユタが私に語った「ふつうの人よりセジが高い」という、そのセジが霊威である。このセジは巫女の権威でもあり能力でもあるのだが、それを身につけるために、蚊や糠子にさされ、さいなまれて3ヶ月もつづく山ごもりの苦行をしなければならない苦しみが、「おもろそうし」に散見して謡われる。


    それにつけても思い出されるのは、私がこんど会った「八重山の大阿母」と呼ばれる巫女である。大阿母は枢要な土地の女神官に与えられたものであり、久米島には君南風(きみはえ)アムシラレ、宮古には宮古島大阿母があった。

    八重山大阿母は八重山の巫女組織の頂点に立つということになろう。



    彼女は石垣島の中央にそびえる於茂登岳で山ごもりを繰り返し、そのために今はひどい神経痛に悩まされていた。苦行によって心身を痛めつけ、そのあげく巫女は高いセジを身に着け、それを他人に頒ち与えることができるまでにいたるのだ。


    折口信夫によると、魂をしずめるには二通りあって、遊離した自分の魂をもとの身体にしずめるのと、外来魂のセジ(霊威)を身につけるのとがある。遊離した魂をしずめるにはまじないでも済むが、外来魂を身に付けるには、霊威をもった巫女をとおす他ない。

    そこで折口の文章には「みたまのふゆ」という語がしきりにあらわれてくる。これは、折口学でももっとも重要なものの一つであると私は考える。(くわしくは折口信夫全集第三巻「大嘗祭の本義」をみよ)

    要するに折口は、「マナ」にあたる「セジ」を他人につくことをみとめているのである。そしてそれを司るものが巫女であった。巫女が霊威を王にささげることもできたが、そのセジをもって悪用することもないではなかった。たとえば、後宮の神女たちが神託と称して、尚宣威を廃し、尚真王を位につけたのがそれである。尚真の母が、セジの力にかこつけた策だったとされている。


    また島津侵入に対して巫女たちが謡っている呪詛が「おもろそうし」に出ているが、それは呪詛の烈しさをおもわせずにはおかないきびしい叙事詩である。

    つまり外来魂は他人の身体に著いて、その人間の魂をつよめもすれば、またその魂を害し、くさらせることもできるのである。


    かぐや姫の物語 「天人の音楽」



    折口信夫

    尚宣威

    尚真王

    魔の系譜 (講談社学術文庫)

    ノロ