2023年11月23日木曜日

20231122 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から ー「現代政治の思想と行動」追補ー pp.120‐123より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補」 pp.120‐123より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

これに関連して戦後に造語され、今日まで流通している「進歩的文化人」という言葉について注釈しておく必要があるのかもしれません。というのは、革命的知識人という言葉は世界中にありますが、「進歩的文化人」という呼称は日本独特だからです。本稿のはじめに「文化人」という範疇の登場にことに触れましたが、「進歩的」という形容詞は「文化人」のなかの小分けを示すものではないのです。その証拠に、「反動的文化人」とか「中道的文化人」という表現は一般に流通しないで、「進歩的文化人」という単一の呼称だけが存在するからです。「進歩的文化人」はもっぱら他称であり、しかも必ず罵倒や嘲笑の調子と結びついております。そこで対象とされているのは、主として護憲運動・反戦平和運動・アメリカ軍の基地問題・被差別部落問題、そうして最近は企業公害問題などで活潑に発言し、歴代の保守党政府を批判する論調を展開している知識人たちです。けれどもそれほどはっきりした特定グループを指示する言葉ではなくて、むしろヨリ大きく、彼等を攻撃する側のイメージの問題のように思われます。ここではただ、そうした「進歩的文化人」なるものへの攻撃ーそれはほとんどステロタイプ化しているのですがーにまつわる皮肉に言及するにとどめます。

 第一に進歩的文化人は、事実上そうであると否とにかかわりなく、社会党・共産党・総評等の現実の政治勢力と結びつき、こうした政府反対勢力をイデオロギー的に支援している者とみなされています。ところが現実の日本は、とくに1955年の保守合同の成立以来、引き続いて保守的(その一部は明確に反動的な)勢力が、政界・実業界・官界、そうして教育界にまで支配的位置を占め、その政治配置はほとんど固定しております。にもかかわらず、進歩的文化人は「時代の支配的潮流」に調子を合せ阿っている、といって告発されてきました。これは現実の政治的社会的な支配勢力が時代に逆行しているのか、そうでなければ、その告発がまったく実状から遊離しているか、どちらかでなければ辻褄の合わぬ論理です。

 第二の皮肉は、進歩的文化人に対する嘲弄が、ほとんどの場合、彼等の民主主義・平和主義についての言説が空虚な観念を弄んでいるだけで、現実を動かすのにまったく無力だということに向けられている点です。滑稽なことは、そうした嘲弄業者ー実際にそれはある種のテレビ番組や新聞雑誌で「職業化」しておりますーは、革新的知識人がヨリ有力になり、ヨリ現実への影響力を増すことを何より恐れているにもかかわらず、まさにその無力性と空虚性をあざけっているのです。それほど「進歩的文化人」に言説が無力なら放置しておいたらよさそうなものなのに、これら批判業者はまるで日本社会にはほかに批判の対象がないかのように、飽きもしないで今日まで「進歩的文化人」の攻撃をつづけております。ですから「進歩的文化人」の側はそうした攻撃をあまり気にせず、むしろ攻撃のヒステリックな激しさ自体が、攻撃者の論拠と反対のことーつまり自分たちが現実の状況になにがしかの影響を与えていることの証拠と受けとってもよいでしょう。

 第三に、「進歩的文化人」への非難は、戦時中は軍部・右翼勢力に迎合し、敗戦後にわかに「民主主義者」に鞍がえした、信用のおけないオポチュニストだというイメージと多かれ少かれ結びついております。もし「悔恨」をいうのなら、彼等の悔恨はにせものであり、自分の時局便乗を隠蔽するジェスチュアだ、ということになります。こういう非難や告発に値する知識人が、社会主義者やリベラルのなかに実際に存在することは、到底否定できません。私がここにも皮肉がある、というのは次の理由なのです。果してそういう思想的一貫性について非難されるに値するのは、いわゆる「進歩的文化人」だけでしょうか。そうでないことは、戦時中の記録を一べつしただけで分ります。戦後アメリカや「自由陣営」を守護神と仰ぐ政治家・実業家はいうに及ばず、反共主義者や保守的知識人のなかには、かつて大東亜共栄圏を祝福し、「鬼畜米英」を呼号した顔触れを見出すのに事欠きません。また現在「進歩的文化人」攻撃の斉唱に和している自称民主社会主義者のなかにも、かつてナチズムの組織力に讃嘆し、アングロサクソン的自由主義から訣別して全体主義への途を歩むのが、世界史的な必然を代表する我我の道程だとーいくらかマルクス主義的口調でー力説した知識人もおります。それなのに、どうして反戦平和運動や護憲運動に熱心な知識人だけが戦中の経歴を暴露されるのでしょうか。この点でも「進歩的文化人」たちは、自分たちへの非難の不正なことをこぼすよりむしろ、「中道的文化人」や「反動的文化人」―現実存在があるのにそういう言葉がないこと自体が象徴的なのですがーの場合よりは、自分たちに、思想的知的な整合性について、ヨリ道徳的に高い基準が適用さてていることを誇って然るべきではないでしょうか。

 イデオロギーの一貫性についての議論は、「一貫性」と「馬鹿の一つ覚え」との間に明瞭なけじめをつけることが困難であるかぎり、不毛な論争に堕しやすい。それよりは敗戦直後の悔恨や自己批判の原点を精神の内部に持続させている人々と、それを見事に忘却して変貌する今日の状況に適応している人々とを区別した方が、知識人の生き方の分岐としては、一層リアルな認識に導くように思われます。もちろん、まったく敗戦経験を持たない純粋に戦後派の知識人の場合は、また別の問題として論ずべき事柄です。

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