2023年10月1日日曜日

20231001 中央公論新社刊 三島由紀夫著「文章読本」pp.17‐20より抜粋

中央公論新社刊 三島由紀夫著「文章読本」pp.17‐20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122024889
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122024885

 しかし日本語の特質に帰ると、日本人は奇妙なことに男性的特質、論理および理知の特質をすべて外来の思想にまったのであります。平安朝時代の漢語および支那文学の教養は、武家時代になると、禅宗の影響下に、また儒教の影響下につぎつぎと新たに入ってくる外来文化の影響にすり替えられました。日本の男性的文化はほとんどすべて外から来たものであり、まだ外来文化に浴さないうちの日本の男性は、「古事記」時代のような原始的男性の素朴さを持ち、まだ感情を発見することなくひたすらに素朴な官能に生きていました。男性が感情を発見する前に、女性が感情を発見したのであります。そして男性はますます自分の感情を発見することよりも、古代の外来文化のもたらした諸概念に身を縛ることの方に、むしろ積極的な喜びを見出しました。男性はまずます頑なに感情から離反し、種々の哲学概念や宗教的概念でもって感情を殺そうと試みました。儒教の影響下にあった武士道のあの頑なさについては、皆さんはよくご存じであります。

 この影響は明治維新以後にもあいかわらず払拭されませんでした。ドイツ観念論哲学の用語が嵐のごとく日本の知識階級の用語になって流入し、あらゆる抽象概念はドイツ観念論の用語で代用されました。そうした日本には、日本独特の抽象概念というものがなかったので、平安朝の昔から男性は抽象概念を、すべて外来語によって処理してしまう習慣になっていました。そして日本語独特の抽象概念にあたるものは、いつも情緒の霧にまといつかれ、感情の湿度に浸潤されて、決して抽象概念すら自立性、独立性、明晰性を持つことはできませんでした。むしろこのような言葉の曖昧さへの性質は、男女の別なしに民衆のなかに浸透して、民衆の文学が生れる素地を作ることにはなったが、これはまたあとの問題であります。

 このように考えてくると日本の文学はというよりも、日本の根生(ねおい)の文学は、抽象概念の欠如からはじまったと言っていいのであります。そこで日本文学には抽象概念の有効な作用である構成力だとか、登場人物の精神的な形成とか、そういうものに対する配慮が長らく見失われていました。男性的な世界、つまり男性独特の理知と論理と抽象概念との精神的世界は、長らく見捨てられて来たのであります。平安朝がすぎて戦記物に時代になりますと、そこでは叙事詩的な語りものの文学、「平家物語」とか「太平記」が生れましたが、そこで描写される男性は、まったくただ行動的な戦士、人を斬ったり斬られたり、馬に乗って疾駆したり、敵陣におどり込んだり、扇の的を矢で射たりするような、ただ行動的な男性の一面が伝えられるにすぎませんでした。

 一方、平安朝の女流作家が開拓した男性描写、それはいわば女性の感情と情念から見た男性の姿であります。男性はひたすら恋愛のみに献身し、男性の関心はすべて女性を愛することに向けられました。そこでは男性すらが女性的理念に犯されて、すべて男女の情念の世界に生き、光源氏のような、絶妙な美男子ではあるが、ただ女から女へと渡って行く官能的人間を、理想的な姿として描いています。これはまた戦記物の行動的な男子と同様、男子の一面を描写するにすぎません。しかしこのほうの男性描写の伝統こそ、日本文学の最も長い最も深い伝統をなしもので、元禄時代の西鶴の「好色一代男」も「源氏物語」の影響を受けたものでありますが、これにもまた好色一辺倒に生きた男の生涯が語られて、それが武士道徳に対する民衆的理念を代表するものであったとしても、やはり男性の精神的世界は閑却され、この伝統はわれわれの意識しないところで、明治以後の近代文学にまで続いているのであります。

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