2023年4月29日土曜日

20230429 いくつかの種類の認識を互関連させて継続することについて

先日の投稿記事で、同じ視覚による認識であっても「文字による文章を目で読み認識する」ものと「マンガなどの画像を見て感覚的に認識する」ものとでは性質が異なるのではないか?といった見解を述べましたが、後になり、もう少し考えてみたところ、これら視覚に基づく認識は、たしかに各々性質が異なるものの、どちらか一辺倒になるということはなく、多くの人々は、日常的な場面に応じて使い分けているものと思われます。そしてまた、日常的にそれぞれの認識を用いることにより経験を積み、それぞれの認識の精度を上げていくのだと思われますが、これもまた、どちらか一辺倒になってしまっても、あまり宜しくないのだと思われます。

また、こうした視点で他国・他地域の文化などを眺めてみるのも、それなりに興味深いと思われます。たとえば、ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」やロバート・グレイヴスの「この私クラウディウス」やトム・ホランド著「ルビコン 共和政ローマ崩壊への物語」あるいは塩野七生のローマ人の物語のⅣ・Ⅴ巻(ユリウス・カエサル ルビコン以前・以後)やウィリアム・シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」などを読み、文章から、その時代の感覚のようなものをある程度認識してから、HBOとBBCによる共同制作の歴史ドラマ「ローマ」や、これまでに何度か映画化された「ベン・ハ―」などの、それなりに良い作品を視聴しますと、さらに、当時の時代感覚の精度が向上するのではないかと思われます。

こうして、文字情報からの視覚による認識と、画像・動画などからの視覚による認識を交互に繰り返すことによって徐々に、たとえ遠い過去の時代ではあっても、その時代の感覚や雰囲気といったものを、全体的なものとして、ある程度、認識することが出来るようになると思われるのです。

そしてまた、私見としては、歴史を学ぶ大きな意味とは、前述した交互の繰り返しの継続を通じて、新たな見解や知見を獲得して、それらをさらに他の時代、あるいは他分野への応用を試みるところにあると考えています。しかし同時に、この見解は後知恵的なものでもあり、そうした読書や映画の視聴は、あくまでも、さきのことを意識して行われたものではなく、やはり、その始点には「そういうことに興味があった。好きであった。」という感覚が継続的にあったからであると云えます。

そのように考えてみますと「では何故、そうした事に興味があったのか?」と云う疑問が生じてきますが、これについては、自らの経験から考えてみますと、やはり文系の師匠の存在が大きかったように思われます。そしてまた、ここまで述べてきました「文字情報による認識と画像・動画などによる認識を交互に行いつつ時代感覚の向上をはかる。」といった内容は、期せずしてか、以前に投稿した文系の師匠について述べたブログ記事の内容とも、通底するものが、少なからずあるように思われてきます。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
過日の投稿記事で、視覚認識は、文章を読んでいるか、画像を認識しているかによって、異なる性質を持つ可能性があると述べました。しかし、ほとんどの人は日常生活にて、両方のタイプの認識を用いており、これは継続することにより認識の精度が向上すると云えます。また歴史や様々な異文化についても、さきの文字認識と画像認識を交互に行うことにより、その時代感覚を、徐々に全体的なものとして理解することが出来るようになると云えます。そして、このような視点で歴史や異文化を考察することは面白く、また、歴史を学ぶことの一つの意味は、継続的な活動を通じて、新たな見解や認識を獲得し、それを他の分野に応用することにあると云えます。そして、私について、その活動の起源を思い起こしてみると、文系の師匠の存在があると云えます。


今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


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