2023年4月23日日曜日

20230423 中央公論新社刊 小川原正道著「小泉信三―天皇の師として、自由主義者として」 pp.66-69より抜粋

中央公論新社刊 小川原正道著「小泉信三―天皇の師として、自由主義者として」
pp.66-69より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025156
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025159

小泉は留学から帰国後、鎌倉に住居を構え、その後関東大震災を契機に東京に引きあげ、麻布の高台に住んだ。引っ越し後に学生たちが家へ遊びにくる機会が多くなってきた。小泉は毎月第一木曜の晩を空けて彼らを迎えることになる。それは木曜会と呼ばれた。 

 1925年に北品川の御殿山に引っ越し、木曜会の開催のため増築したが、1933年に塾長になると人数が増加し、毎月60名に及んだという。会では自然と肩の凝らない話をして笑うことが多かったという。

 木曜会は長男・信吉が戦死する1942年に解散してしまったという。

 戦後になるが、1946年にはかつての研究会(経済学部のサークル)の面々によって白水会という集まりもはじまり、各方面の専門家が招かれた。

 小泉の塾長在任時に体育会は二三あったが、それぞれ対早稲田の試合になると必ず塾長を招待した。小泉も面白がって観に行く。「当時の日本の大学総長で、私ほど運動場に姿を現すものはなかったであろう」(「大学と私」)と自負する。スリルという点では、野球とアイス・ホッケーは格別、美しさという点では、水泳競技、ボートや山岳も好きであった。小泉は、学業や運動のコンテストで頭角を現した者が出るたびに、彼らを交詢社の午餐に招いて話を聞くのを常とした。

 運動競技の利益はどこにあるか。学生生活の大きな部分を占め、対校競技の勝敗が当時のもっとも大きい喜憂の一であったと小泉はいう。かつては学問も運動も官学が席捲していたが、いまでは私学の学問も発達し、運動競技も官学の独占物ではなくなった。

「兎に角一校の学問と運動とが相背馳しないで寧ろ平行することは間違いない事実である」(「学問とスポオツ」「鐡塔」1932年12月)と小泉は確信していた。

 晩年になっても、小泉はスポーツの重要性を語った。

スポーツには三つの宝があるという。

第一に、練習、また練磨の体験。不可能を可能にするのが練習であるという体験を持つこと。

第二に、フェアプレーの精神。正しく、潔く、礼節をもって勝負を争うこと。

第三に、友。我が信ずる友、我を信じてくれる友、何でも語ることのできる友、何をいっても誤解しない友、これらを持った者は、人生のもっとも大きい幸福を得た者だという。(「スポーツが与える三つの宝」「産経新聞」1962年7月2日)。

木曜会以外の集まりとして、テニス選手たちによる泉会があった。小泉が慶應の庭球部長をしていた1922年から32までの選手による集まりだったが、のちに庭球部の卒業生が順次入るようになる。

 中学から大学予科まで、テニスが得意だった小泉は、全国各地で教えて回り、テニスばかりしているように思い出されるという。大学本科に入って学問に熱心になると、テニスの実力は低下し、惰性で続けるようになっていた。

 ところが、庭球部長になってテニス熱が再燃する。特に対早稲田戦には勝つ気満々であったという。小泉は、「私はテニスの練習によって、すべて練習というものが、不可能を可能にするという体験を得た」(「大学と私」)という。部長として部員を率いているとき、自分に教育的傾向のあることを発見するなど、テニスを抜きにしては自分の過去は語れないと小泉は回顧している。

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