2022年7月22日金曜日

20220721 経験した出来事から記憶が想起される過程について・・

昨日投稿のブログ記事にて「南紀での在住経験が私にとっては大事であった。」と述べましたが、それは、より具体的には「南紀在住期間にて内面に生じた変化」と云えますが、しかし、その変化の経緯は、以前にも当ブログにて少し述べた記憶がありますが、おそらくは一般的に遅々としたものであり、そしてまた、後になり振り返って「ああ、そうだったのか・・。」と感覚的に理解出来るようになることが多いのではないかと思われます。

そうしますと「その「後になって振り返る」とは、具体的にどのような時であるのか?」と思われるかもしれませんが、その(振り返る)契機となるものは、これまた一般的であるとは思われますが、さまざまな実体験であると云えます。

我々は日常で経験する出来事から、それと何らかの関連があると思われる記憶が想起されるのだと思いますが、この自分の内面にある想起のメカニズムは、以前と比べますと、多少は分かるようになってきた感じはありますが、それでも、未だに全体的には、よく分からないものであると云い得ます。

しかし、そうしたことは、むしろ「分かるようようになってきた感覚」の方をさらに用いることによって、またさきにある、未だ分からない部分も、徐々に理解出来るようになっていくといった性質があるのではないかと思われるのです・・。

そして、こうした感覚をさらに用い続けることにより、何と云いますか、その人なりの歴史観、あるいは、ある程度巨視的な視座からの世界観といったものが生じるのではないかと思われます。ここで「生じる」というコトバ用いましたが、たしかに、この個人に属する歴史観や世界観といったものは「生き物」とも云える性質があり、エサをあげないと衰弱していってしまいます。そこで我々は、この生きている感覚にエサをあげるために、新聞や雑誌や論文あるいは小説などを読むのではないかと思われるのです。

また、面白いもので、いくつかの分野や種類の文章を、ある程度の期間読み続けていますと、次第に読むことに対し困難さを覚えるようになり、そこからさらに読み続けるためには、今度は、自分の方が何か著さなければならなくなるのではないかと思われるのです・・。これは、あまり一般化出来ることではないと思われますが、私の場合は、まさに、2015年の当ブログ開始に至るまでの経緯がこのような感じであったと云えます・・。この経験は、現在このように記していても、その記憶が思い出されて苦しく感じられてくるのですが、しかし、この「苦しさ」があったから、それを克服するためにも、これまでの期間、どうにかブログ記事の作成を継続することが出来たのだとも思われるのです・・。

そして、ここまで述べてきたこととも関連すると思われるのですが、一カ月近くのブログ休止期間を経てから再開して、新たに感じられ、そして思ったこととして「文章の作成を継続している時の方が、文章を読む際の感覚も(自分なりにではあれ)研ぎ澄まされる」といったものがありましたが、はたしてこちらは、ある程度まで一般化出来る「現象」であるのでしょうか・・?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


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