2022年4月15日金曜日

20220415 岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学は何処へ』 pp.106‐108より抜粋

岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学は何処へ』
pp.106‐108より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4004318742
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4004318743

戦後日本の新制大学は、戦争末期に爆発的に拡張した理工医系の専門機関を衣替えするだけで引継ぎ、そのような体制を前提に出発した。ここにおいて、旧帝大をはじめとする国立大学での理系優位の構造が条件づけられたわけだが、そうした体制は高度経済成長期に工学系が産業的な必要性からさらに拡張を重ねたことで決定的となった。旧帝大と他の国立大学、あるいは国立と私立という必ずしも対等とは言えない関係のなかで、そうした応用的な知に対置されるべきリベラルな知の概念は未発達だった。その結果、戦後日本の学問と教育の体制全体が、理工医系の応用的な知を優位に置き、文系、それもとりわけ人文学系の基礎的な知を下位に置く方向で構造化されていったのである。これが、第一のボタンの掛け違いである。

 しかし、大学教育という観点からするならば、より重大なボタンの掛け違いが、旧制帝国大学が国立総合大学となり、旧制高校が廃止されていく際に生じていた。新制大学発足に際し、それまでの複線的な高等教育の体制は、六・三・三・四制という一元的な教育体制のなかに組み込まれ、多くの専門学校や師範学校が大学に統合されていくことになったが、そのようなタテ型の専門教育が大学に統合されれいくに際し、旧制高校が担ってきたようなヨコ型のリベラルアーツの新しい大学教育のなかでの位置づけについての合意はなされなかった。東京大学では南原繁総長のリーダーシップがあり、そのまで旧制一高のキャンパスだった駒場に後期課程までを含む教養学部が誕生したが、そのような例は稀で、多くの旧制高校の教師たちは、大学教授となった後も教養部として専門学部に対して周縁的な位置に留め置かれるか、あるいは文理学部のような仕方でタテ型の教育体制の一部として位置づけられていった。戦後日本では、旧制高校と新制高校の根本的な違いも十分には認識されてこなかったし、その旧制高校に内包されていたリベラルアールが、高等教育にとっていかに根本的かも認識されてこなかった。これが、戦後日本の大学にとっての、最も根本的なボタンの掛け違いである。

 それらのボタンの掛け違いは、1990年以降の「上からの改革」で、さらに複雑骨折化し、深刻な袋小路に陥っていくことになる。旧制高校廃止や新制大学における一般教育=リベラルアーツの位置づけの問題が、大綱化以降の教養教育の空洞化と不可分の関係であることは明白である。大学院重点化がもたらした困難も、もともとは新制大学発足の際、旧帝大が大学院大学への転換をせず、旧制高校を吸収しながら大学をカレッジとして再定義しなかったことと関係がある。90年代に実際に行われた大学院重点化よりも、政策として優れていたと思われる改革案は、すでに30年代、阿部重孝らによって提案されていたのだ。つまり、大学=ユニバーシティにおけるリベラルアーツ・カレッジと専門知の教育機関との関係を長い視野から構造化できない限り、新しい時代の大学と大学院、そして社会の関係をデザインし直すことはできない。さらに加えて、国立大学法人化により拡大した文系と理系の貧富の格差は、そもそもは戦争末期にセットされた両者のアンバランスな関係を背景としている。

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