2021年6月3日木曜日

20210602 株式会社筑摩書房刊 山本七平著「洪思翊中将の処刑」上巻 pp.195‐200より抜粋

株式会社筑摩書房刊 山本七平著「洪思翊中将の処刑」上巻
pp.195‐200より抜粋

ISBN-10 : 4480422692
ISBN-13 : 978-4480422699

武藤参謀長は八月十五日夜の出来事を次のように記している。

「午後十時半。東京放送で左の件を承知した。停戦の大詔渙発、鈴木総理告示、阿南陸相の自刃。感度不良で大体の意味しか諒解できなかったが、昨日聞いたサンフランシスコ放送を裏書きするものであった・・」。興味深いことは、このときもまた武藤参謀長は、ポツダム宣言受諾を一種の「停戦協定」の成立のように見ているのである。まず停戦、つぎに講和が当時の常識だったからであろう。山下大将と武藤参謀長だけは、十四日夜の放送傍受で敗戦を覚悟し、その基本的な準備についてはすでに相談ずみであったので、以後の処置は、少なくとも司令部内では割合スムーズに行っている。とはいえ、当時の日本の政府・統帥権の分立(統帥権の独立)と、さらに陸海軍の統帥の分立は、最後の最後まで、常識では少々判断しかねるような事態と問題を招来した。そしてこれが武藤参謀長のもう一つの「腹に据えかねる」件であった、日本国政府はポツダム宣言を受領し、確かに日本は降伏したのである。しかし政府が降伏したからといって、軍が自動的に降伏するわけにはいかない―今にしてみればまことに奇妙であろうが、統帥権独立の建前からいえば、それが当然であった。とはいえ政府がポツダム宣言を受諾した以上、現地の軍は、実際には戦闘を続けるわけに行かず、建前は「別命あるまで戦闘続行」、実際は「降服準備」という奇妙な形にならざるを得なかった。

 軍の行動は、奉勅命令に依らねば発動できないが、夜半、宇都宮参謀副長と久米川参謀を私の部屋に招致して、奉勅命令受領後採るべき処置の大綱を示して準備を命じた。大綱は次の通りである。(一)全比島にある日本軍に命令を徹底せしむること、(二)軍紀、風紀を厳正にして皇軍最後の面目を発揮すること、(三)患者・一般邦人を洩れなく山岳地帯より救出すること、(四)兵器・弾薬・機密文書の処置、(五)停戦期間中に於ける食糧(の確保・補給)の措置。

 まことに奇妙な話だが、この日から降伏調印まで実に半月以上が空費され、そのうち最後の十日間は参謀たちまで野草しか食えないという状態におかれ、さらに洪中将たちが実際にアメリカ軍に収容されたときには、一カ月が経過していたのである。その間に力つきて死んだ者も多かったであろう。これはルソン北辺にした私も同じであり、八月二十七日に停船命令を受け取り、十五日にすでに戦争が終わっていたことを知ったとき、何をグズグズしてたんだ、なぜもっと早く伝達してくれなかったのだ」という気持ちになったことを憶えている。だがいま調べてみるとこれは軍司令部の責任でも怠慢でもなく、最後には、命令の到着を待たずに山下大将が独断で降伏文書に調印してこの有様だったのである。武藤参謀長もしばしば嘆声を発している。日本の官僚機構なるものの、救いがたい非能率性と形式主義のためだろう。

 翌朝(十六日朝)山下大将は参謀一同に集合を命じて、次の要旨の訓示を与えられた。「未だ大命に接せざるも、ラジオの報ずるところは恐らく真実であって局面は急転した。この際諸士は悠久なる皇国の生命を信じて、区々たる眼前の事象や感情に眩惑され、事を誤ってはならない。皇国再生のため全力を傾倒せねばならぬ。当面する仕事は繁忙だ。最善を尽くすことを望む」。山下大将が心配されたのは、血気の将兵中には、降伏を嫌って何かしでかす者がありはしないかということであった。私は全力をつくして御趣旨を実現する旨を答えた。午後は各部隊長を集めて、大命到着後になすべき事項を説明した、それぞれ準備するように命じた。

 洪中将のところへ連絡が来たのはもう夕方近かった。参謀長帯同で軍司令部へ出頭せよとの連絡であり、斉藤副官は留守番として残った。すっかり暗くなってから、洪中将は自分の小屋に帰ってきた。帰りが遅くなったのは、前に記したように武藤参謀長と二人だけで懇談し、日本人兵士と韓国系軍人軍属との間にトラブルが起らぬよう努力してほしいと特に依頼されたためであろう。ジャングルの中には灯火はない。私たちのところだけでもローソクややし油、しまいには携帯していた軟膏まで灯火につかったが、それらは所詮、ぼんやりとその周辺を照らすだけであった。従って、終戦を聞き、前記の会談を終えて帰ってきた洪中将がどんな表情をしていたか、斉藤副官もわからなかったという。ただいつもと全く変わらない態度・雰囲気の語調で「ポツダム宣言受諾にきまったぞ」と言っただけであった。ポツダム宣言といわれても斉藤副官には何のことかわからない。そしてその内容は山下大将も武藤参謀長も知らなかったのだから、洪中将も知るわけがなかった。だが、それが何やら戦争の終わりを意味するらしいことは斉藤副官にもわかったので「停戦ですか」と聞いた。洪中将は、「無条件降伏だ、だが大本営から命令が来るまでだれにも言うな」と言っただけであった。

 斉藤副官は「そういわれても、それが何か、何が起こるのか、どうなるのか、どうすればよいのか、全くわからなかった。しかし一応、わかったような顔をして質問を打ち切った」そうである。人間は慣習の動物である。翌日斉藤副官は、洪中将の小屋の前に、防空壕を一つ掘った。降伏は、秘密にしていても意味はなかった。アメリカ軍はすぐさま前線一帯にビラをまいたからである。穴掘り作業は逆に心を静めてくれた。それを見、またビラをまく米軍機を眺めつつ洪中将は、何か懐古しているようであった。そして不意に、ひとり言のようなまた斉藤副官に話しかけるような調子で言った。「戦争が終わってわしも故郷に帰ることになるだろうが、何をするかなあ。そうだ数学の先生をやるか。小学校の先生でもいいが、中将にまでなったんだから、小学校ではちょっとかわいそうかな。中学校の先生がちょうどいいかな・・」

 この言葉を斉藤副官は、三十年後もなお、昨日のことのように憶えている。氏は驚いてその顔を見た。洪中将はそういう個人的感慨が決して口にせず、家族のことも故郷すなわち韓国のことも絶対に言わない人だったからである。その顔は文字通り晴れ晴れとし、何の緊張感もなく、一切の桎梏がとれたような、安堵感に満ち満ちた何の屈託もない顔であった。そこには何やら洪中将らしからぬうきうきした調子さえ見られたという。生涯、自分を圧していたものが急に消えて、長い長い緊張から解放されたのであろう。

斉藤氏は、そのときの洪中将の素顔を忘れ得ないという。

「中学校の先生」という言葉をちょっと奇異に感ずる人もいるかもしれない。しかし洪中将の軍歴を見ると必ずしもそれは不思議ではない。千葉の歩兵学校の教官、公主嶺の教導学校の教官等、軍隊内のいわば教育畑で活動した時期は相当に長かった。性格的には軍人よりも教師に向いていたのかもしれない。後に米軍人から「ジェネラル洪はプロフェッサー(教授)だったそうだが・・」と言われた人がいるが、何となくそういった印象をもっていた人が多かったらしい。そして洪中将自身も「自分は教育者向き」と感じていたのではないかと思われる。

 終戦と同時に洪中将は韓国軍の創設を考えていたという記述もあるが、これはおそらく、一部の人の想像であり、また後に韓国系日本軍軍人の多くが韓国軍の幹部になったことから「洪中将が生きていたらおそらく最高幹部になったであろう」という推定から生まれたのであって、洪中将にその野心があったとは思えない。だがたとえ無事に故国に帰っても、朝鮮戦争は、洪中将を中学校の先生にしておかなかったであろう。

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