2018年4月12日木曜日

20180412 中央公論社刊 岸田秀著「ものぐさ精神分析」pp.255-257より抜粋引用

中央公論社刊 岸田秀著「ものぐさ精神分析」pp.255-257より抜粋引用
ISBN-10: 4122025184
ISBN-13: 978-4122025189
『エリクソンがさかんにアイデンティティの確立ということを説いているが、このアイデンティティなるものも、たとえば自分の土地に自分の家を建てるような具合に、自分の人格のなかに一つの実態的存在として構築できるわけのものではない。わたしがほかならぬこのわたしであるということの根拠は、わたしのうちにはない。わたしがわたしであることを支えているのは、わたしが属する集団の共同幻想であり、わたしがわたしであることを、わたしの性質、考え、身分、地位、能力などがかくかくであることを他の人びとが認めてくれているからにほかならない。この支えが崩れれば、わたしのアイデンティティは一瞬にして瓦解する。
 さきにわたしは、幼児は多形妄想的であると言ったが、実をいえば、おとなだって大して変ってはいないのである。いわゆる正常なおとなとしての人格は、その多形妄想、その私的幻想の一部分の共同化によってかろうじて支えられているに過ぎない。いわば、大きな紙を数個のピンで壁にとめているようなもので、そのピンが外れれば、たちまち紙は落っこちてしまう。わたしの見解によれば、精神分裂病と呼ばれているところのものは、多い形妄想の再現または再現の途中の状態である。あるいは、その再現を防止しようとする必死の努力である。我々は誰でも、我々の超自我および自我、アイデンティティまたはセル・フイメージが、われわれの属する集団の共同幻想による支えを失えばたちまち精神分裂病となるであろう。

 したがって、ある個人の属する集団のメンバーが全員一致して、当の個人を精神分裂病者にしようと思えば、理論的にはそれは可能であろう。彼が彼自身について、世界について抱いているさまざまなイメージ、感情、観念などを、単に間違っているとか、不道徳だと非難するのではなく、どうしてそう思えるのか見当もつかない、とんでもないたわごとと見なし、そのレベルでの彼とのコミュニケーションをいっさい断ち、そしてかつ、彼には本当と思えない架空のイメージ、感情、観念のレベルでなら、コミュニケーションに応じるのである。このレベルでなら、彼に対してどれほどやさしく献身的につくしてやってもよい。つまり、集団の共同幻想と彼の私的幻想とを切り離す、いいかえれば、彼の私的幻想の共同化を阻止し、それが共同化されたものでないところの共同幻想を押し付けるのである。彼の人格は二重構造を持つようになるだろう。つまり、集団に受け容れられるために押し付けられることに甘んじた共同幻想と、共同化を目指して挫折し続ける私的幻想との二重構造である。レインの用語を借りれば、前者が外的自己、後者が内的自己である。この二重構造ができれば、精神分裂病の発病の条件は整ったわけで、そのうち彼は押し付けられた共同幻想をかなぐり捨てて、その私的幻想を噴出させるだろう。

 実際問題としては、おとなの個人に対してこのような企てが成功するのは、非常に難しいであろう。おとなは一般に、一つの限られた集団だけに属しているのではないから、彼の属する集団のメンバーが全員一致してそんな芝居を打つなんてことはなかなか起こり得ないであろう。また、こういうことは意識的に芝居を打つつもりでやったのでは、うまくゆかない、少なくとも意識的には、そうすることが正しいのだと思い込んでいる必要がある。したがって、実際にこういうことが可能なのは、個人がまだ幼児期にあって家族という狭い集団しか知らないときだけであろう。

 精神分裂病の治療の場合は、これと逆のことをやればよいわけである。病者の私的幻想を共同化(病者と治療者との関係において)した形の擬似現実を提供し、その擬似現実を、一般社会で現実とされているところの擬似現実にだんだんと近づいてゆけばよい。そして、病者の私的幻想を社会の共同幻想に共同化するところまでもってゆけばよい。』