2017年11月6日月曜日

20171106 言語・文章とは本来抽象的なものであるからこそ・・

ここ直近十以上の投稿記事は我が国古代史を主題とするものにしました。

また、これを主題とするのであれば、もうしばらくは書き続けることが出来るのではないかと思われましたが、敢えてここで一旦止め、これまでのような散文的な記事に戻ろうと思います。
十日以上、割合硬質な文体にて記事を作成してきましたが、喜んで良いものか、閲覧してくださる方々の数は、それ以前とのあまり大きな変化は見受けられませんでした・・。

しかし一方、古代史に関連する主題にて記事を作成していますと、書いている最中に何かしら新たな文章の着想が湧いてくるといった感覚が度々生じ、また、この感覚とは、ここ久しく味わったことがないものであったことから、今後はより多く機会を見つけて、こうした主題にて記事を作成していきたいと思います。
また、それに加えて白いと感じたことは、これまでのブログ記事作成においては、いくつかの理由から、記事作成当日に生じた具体的な出来事などは題材とせず、あるいはそうした出来事を書く場合においても、出来るだけ抽象化して書くことを心がけていました。

このことをもう少し詳しく書きますと、それは、外界の事象を視覚に基づいて言語にて説明するというよりも、あくまでも自身の思考・思想といった抽象的なことがらを言語を用いて出来るだけ精確に伝えることを主眼とする試みであったとも云えます。
その意味で、おそらく今現在書き連ねている文章もまた、同様であると云えます。
ともあれ、その文体にて、いくらかの期間、文章を書き続けていますと、文章作成能力が向上したといった明瞭な認識は伴いませんが、昨日までのように、ある固定された主題にて文章(ブログ記事)を継続し記す場合、また、その主題がある程度自身にとって馴染みのある分野である場合は、比較的容易に、その主題に基づく文章の作成が出来るようになったのではないかと思われます。
そこから、おそらく抽象的ともいえる思考・思想を文章にて書き連ねるという行為は、そこに視覚性、具体性らしきものを感じることが困難であるという理由から、書き手、読み手の双方にとって退屈な文章となり易いものではあるのでしょうが、しかしながら、そうであるからこそ(本来抽象性の極みである)言語、文章における練達、上達とは、抽象性の中で為されていくのではないかとも思われるのです。

また、そのように考えてみますと、改めて、文系学問、就中思想、哲学関連の学問が、いくつかの文明圏においては重要視される理由が分かってくるようにも思われます。

そして同時に、何故我が国が一般的に実学と評される学問分野に偏重した文化背景(此岸的)を持っているように見える(実際もそうであるかもしれないが)理由に関しても多少の理解を得られるのではないかとも思われます。

さらにここまで書いており、先日和訳本を読了し、現在原書にてどうにか読み進めているユヴァル・ノア・ハラリ著『Sapiens: A Brief History of Humankind』の一節が思い起こされましたが、その部分につきましては次のブログ記事にて書いてみようと思います。

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。



      












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