2017年7月1日土曜日

20170630 創造の基層にある自己に対する(非合理的な)態度について【深夜に作成】

A「本日もまた、帰宅後一旦休み、深夜となってから記事作成を開始し、また昨日投稿分記事との関連においては、本日も必要により地下鉄数駅分程度を歩きました。

また、その際、首都圏は午前中少し雨が降ったことにより、多少蒸し暑く感じられました。

さて、こうした徒歩での移動とは、行く先、目的地が明確であれば、割合早く着く感覚を覚えるのですが、一方、それが明確でない場合、どうも途中で飽き、そして疲れてくるといった傾向があるのではないかと思われます・・。

しかし、そうであるからといって、行く先、目的地を定めない徒歩が『全くの無意味』であるかと云えば、決してそうでもなく、おそらく、こうした『一見無目的、無意味な行為によって精神などは鍛えられる』といった側面もまた多少はあるのではないでしょうか・・?

しかしながらその一方で、この考えとは、本質的に非合理的(目的合理性を欠く)であり、且つ一歩間違うと様々なレベルでの圧制者側が自己正当化を行う際の常套論理ともなることから、その扱いが大変難しく、おそらく現今の社会においては『少なくとも『他者』に対して、そうした態度を公然ととることは控えよう・・』といった風潮になりつつあるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?
(もしかしたら、そこにもまた別種の悪徳の胚胎があるのかもしれないが・・。)

それ故、他者ではなく、自身に対して、そうした態度で臨むことは、特に問題はないのかもしれませんが、そのように考えてみますと現在自身が作成している一連のブログ記事とは少なくとも、その『当初の期間』においては、まさしく自己に対して行っている非合理的な行為、蛮勇もしくはある種の露出狂とも評し得るものであり、正直なところ自身でもよく意味が分からずに記事を作成していたと云い得ます・・(苦笑)。

また、よく分からないことから、その当初の期間においては書籍からの抜粋引用の形式が多く為され、そして、それにも疑問を覚えた時期から、まずは対話形式の文体を以って自己オリジナルの記事作成と為し、次いで徐々に現在多く用いている独白形式へと移行していったと、その流れを物語ることが出来ます・・。

とはいえ、この流れとは、あくまでも記事作成の形式、手法の流れについてであり、その作成の基層にある『自己の持つ思い、考えの表白、文章化』については現在においてもまた特に分かっているとは云えず、自覚され得ず、ただ単純に、ある程度の量の文章作成に『慣れてきた』だけであるのかもしれません・・(苦笑)。

それでも、この自身が何かに対して『ある程度慣れた』と自覚し得るに段階に至るまでは、やはりどうしても、さきに書いた自己に対してある程度非合理的な態度で臨む必要性があるのではないかと思われるのです・・。

そして、そうしたいわば『創造の基層にある(自己に対する)態度』には、おそらく各人なりの何らかの秘密(万人に対して啓蒙的な要素を持つとされるものとは相反する・逆行する、さきに書いた非合理的なもの)らしきものがあるのではないかと思われます・・。

また、多少ハナシは変わるかもしれませんが、現在作成している、このブログ記事となる文章とは、概ね特定の誰かに対して書いているというわけではありませんが、同時に、特にどうでもいいことではないものの、誰に読まれていても構わないものであることをどこかで自覚しながら書いていると云い得ますが、おそらく、こうした『表出可能な層』を自己の内部に見出し、それを明瞭化、拡大化していくことに、さきの『創造の基層にある態度』とは大きく関与しているのかもしれません・・。

・・ともあれ、自身の場合、深夜にて記事作成を開始すると、どうもこのような(観念的)ことを書く傾向があるのかもしれませんが(苦笑)、それでも、その内容が、何かの、誰かにとって、わずかでも有益であれば、それは現在の自身にとっては有益であり意味があることなのです・・(笑)。

それ故、今回もここまで興味をもって読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部、福島周辺地域にて発生した地震によって被災された諸地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧に加え、その後の速やかな復興を祈念します。」








0 件のコメント:

コメントを投稿