2017年5月29日月曜日

20170529 エピソード記憶と意味記憶、音声言語と文字言語などについて・・

A「直近ここ二回の投稿記事は思いのほかに多くの方々に読んで頂けました・・。

また自身としても、かつての記憶に基づいた記事を作成している方が、あまりハナシの展開などを気にせずに書くことが出来ることから、そうした記憶が何らかの契機、刺激によって励起されている状態であれば、かなり書き易いと云えます・・(笑)。

また、こうした記憶とは、先日聞いたハナシによりますとエピソード記憶というものに分類され、それは情動を伴う、かなり具体的な記憶であるとのことです・・。

それに対し、意味記憶というものもまた存在するとのことですが、これは意識して憶えた事柄、つまり学習などによって培うといった性質が強いものであるとのことです・・。

その意味において、冒頭にて述べた直近二回の投稿記事とは、たしかにエピソード記憶に基づく傾向が強いといえますが、自身の場合、おそらくそれ以前に、根本においてエピソード記憶優位といった性質を持っているのではないかと思われます・・(笑)。

そして、このことから多少敷衍して考えてみますと、少なくとも個人レベルにおいて、あるいは一般的な見地からにおいても、エピソード記憶とは、音声言語あるいは口語と親和性があり、意味記憶とは文字言語あるいは文語と親和性があるのではないかと考えられますが、如何でしょうか・・?

さらに文系学問でのさまざまな領域において、ある程度まとまった歴史(思想史、軍事史、文学史など・・)を扱う分野においては、基本的に、エピソード、意味双方の記憶(知識)を持つことが重要ではあるのですが、それをまとめ上げ、モノガタリと為す場合について考えてみますと、されはやはり音声言語、口語、エピソード記憶的な要素の方がより重要であるのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

そして、そのように考えてみますと、歴史とはいくら洗練、抽象化し、公式のような普遍性を持った図式にて展開することを説明することが可能になった場合においても、その根本、基層にあるものが、さきに述べたような情動を伴うような記憶であることから、国内地域間、国際間にて共有、認識され得る通史的なもの、モノガタリとは成立が困難ではないかと思われるのです・・。

とはいえ、そうしたこと(国内地域間、国際間における通史の編纂)を実際に試みることによって、さまざまな地域、国レベルでの歴史認識の相違といったものが明瞭化され、それによってはじめて、明瞭化された相違点を包括し説明し得る歴史像の編纂が可能になるとも思われますので、とりあえず専門家、研究者レベルにおいて、そうした試みを為すことは有意義ではないかと考えます・・。

また、そのような経緯を経て、はじめて国レベルでのエピソード記憶とも云えたものが地域、国際間にて通じる意識化された、意味記憶に転化することが出来るのではないかと思われるのです。

さらに、そうしたことから、ある意味我々とは、日常生活におけるさまざまな刺激からも半ば無意識的にではあるかもしれませんが、エピソード記憶を意味記憶に転化する作業を行っているのかもしれません・・・。

今回はとりとめのないハナシではありましたが、以降また、記憶が励起される契機を得次第、これまでの記事の続きを書いてみようと考えています・・。

口承から、それを筆記、そして筆記されたものを更に洗練し、簡潔な文章にする作業』

また、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」









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