2015年12月4日金曜日

20151204 自身のブログと記憶、創造について【初期の独白形式】

私のブログもこれで150回目の投稿に近くなってきましたが、最近はどうもそのネタを何にしようかと考えてしまうようになってしまいました・・(苦笑)。

これまでこういったものは、その時の思いつきでプラっと書いてしまう方が良いと考えていたのですが・・。

あるいは単にネタがなくなってきた、枯渇してきたと思う様になったのかわかりませんが、とにかくブログのネタについて考えてしまうようになりました・・。

しかし、よく考えてみますと、これはここ最近にはじまったことではなくて、実は内心無意識に行っていたことを徐々に意識化するようになった結果であるのかもしれません。

その様に考えますと、こうした多少の創造的要素を伴うことを行うことは、自分自身が何か新しいことを気付くためにはなかなか良いことであるのかもしれません。

そして、この場合、気付いたというよりも、むしろ、これまで何となく継続して行ってきたことを省みて、そこにどういった軌跡、轍が見えたかということであるのかもしれません。

それは、同時にこれまでの自身の継続してきた行為に何かしらの価値を感じた、見出したということでもあります。

それ故、これを更に継続して行うために、新たなネタを探すということになるのです。

もし、現在このブログに対しある程度明確な意識を持たない、価値を認めないままでいたら、ネタがなくなれば単純に止めればいいと思ってしまうところでしょう。

しかし、そう考えないことには悪くいえば、あきらめが悪い、良くいえば、一種、自助努力の様なものということにもなりましょう。

そして、おそらくこの二つの評価には明確な差異はないのではないかと思います。

それを判断するのは、このブログを読んでくださっている方々か、あるいは後の自分自身ではないかと思います・・。

とはいいましても、実のところ、これまでの主に対話形式のブログでの会話とは、その内容の7~8割方は、かつて実際に私が様々なところで経験したもの構成を色々と変化させているものであり、その意味では、何といいますか創造的要素の部分は案外少ないのではないかとも思います・・(苦笑)。

しかしながら、以前のブログにて述べました通り、実はその会話の記憶こそ、そしてそれを呼び起こす力こそ精神力であり、それがもしかしたら創造的要素というものの異名であり、あるいはそれと類似したものであるのかもしれません。

そして、もしそれがある程度妥当であり、正しいといっても良い考えであるならば、それはそれで全体的には創造的行為と呼んでも差し支えないのかもしれません・・。

また、私はこれまでにそういった機会、時間にある程度恵まれてきたことから、書籍、文献などを割合多く読み、映画などもそれなりに多く観てきたのではないかと思います。

そして、それらに関しての記憶を機に応じて(それが当を得ているか、センスが良いかどうかはわかりませんが)呼び起こすことの出来る精神状態、意識とは、無意識に近い層にまで達しているのではないかと思います。

丁度、大岡昇平の「俘虜記」の冒頭近くにおいて、朦朧とした意識状態の主人公が、あるフランス文学の一節を想起し、そうした自分自身を自嘲気味に描く様なことではないかと思います。

無論、私はそこまでの深度(?)、教養レベルに達しているかどうかは、かなり怪しいと思いますが、しかしモデルとしては類似したものではないかと思われます。

また、そうなると実際の会話であれ、書籍などを読む時に自然に行っている著者との対話であれ、その根本もまた類似したものであるのではないかと思います。

そして、その様に考えてみますと、いかなるものであれ、能動的な知性を駆動させる活動とは全て、その主体が意識したものを再度無意識化してゆく過程そのものではないかと思います。

そうしますと、創造的行為とは、一面において、精神、心の中に予めあるものを機に応じ適宜想起し、それらを主体の流儀、好みにより調整、再構成することではないかとも考えられます。

もちろん、それ一辺倒ではダメであると思いますが・・(案外ここが大事であるかもしれない。特に自分を含めた日本人の場合。)

ともあれ、そうすると、より純粋に近い創造とは、精神、心の中にあるものが少ない幼少期におけるものがそうなのではないかと思います。

その後、様々な知識、技術等を得てきますと、創造的要素は一時的に減少し、さらにその後、それらが主体の中で安定して定着してきますと、それらが咀嚼、消化され、より無意識に近い状態において、それまで得てきた様々な知識、技術を自由自在に使用することが出来るようになるのではないでしょうか?

そして、それこそが、次の創造のための種子となるのだと思います。

また、こうしたことを英語でincarnation(血肉化)と称するのではないかと思います。

かつて、このincarnation(血肉化)とは、学問を行う上で極めて大切であったということは当然であり、また、現在尚同様であると思います。

しかし、その一方において、昨今続々と登場している一連の便利な機器とは、人間が様々な知識、情報そして技術を血肉化させる必然性、必要性を省き、ある意味大変合理化はされたのでしょうが、同時に精神、心を駆動させる機会を奪い取っているようにも思えます。

ともあれ、こういったモデルは私のこれまでのブログにて繰り返す様ですが、特に新しいものでもなく、様々なところで類似したものを見受けることが可能です。

具体例として、マンガ「どらえもん」の様々な便利な道具にまつわる話、映画「2001年宇宙の旅」あるいは多少古典的なところでは人造人間の「フランケンシュタイン」などもそうではないかと思います。

また、そこに怪奇的要素をより濃厚にしたものが西洋怪談の古典であるジェイコブスの「猿の手」がそうではないかと思います。

ともあれ、こうした一連の物語が示すものは、新規の発明、現在の困難な状況を改良、除去すると一見思われるものには、遅効、速効の相異はあるかもしれませんが、案外毒が含まれていることが多いということであると思います。

そして私が分不相応にも危惧することは、こうした便利な機器が、我々が得意な「なあなあ」「なし崩し」により、結果的には創造性、精神の力、活力が損なわれてゆくのではないかということです・・。

そういえば、フランクルの「夜と霧」の中で「人間はどんな状況にも適応できる。しかし、どの様に適応するかは問わないで欲しい。」といった意味の記述がありましたが、こういったことにも、もしかしたら適応することができるのかもしれません。

しかし同時にそれが将来において「事実、ナンセンスな危惧であった。」と評される未来の方が私は望ましいと考えております。

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