2015年9月15日火曜日

エルンスト・ユンガー著 「労働者・支配と形態」 月曜社刊 pp.149-151より抜粋 

「同時代人が技術について為しうる証言は、貧弱なものでしかない。特に人目を引くことは、技術者自身が、人生をその広がり全体において把握する一つの形象の中に自らの使命を描きこむことができない、ということである。
 
その理由は、技術者が、なるほど個別的労働性格を代表するにせよ、全体的労働性格との直接的関係を全く持たない、という点にある。この関係を欠く場合には、いくらその個別的性能が優れていても、結合力のある、内的に矛盾のない秩序について語ることは到底できない。全体性の欠如は、自らの特殊な問題設定を決定的な地位にまで持ち上げようとする無規律な専門家主義の台頭に見て取れる。しかし、たとえ世界が技術者によって完全に設計され尽くしたとしても、重要な問題のどれ一つとして決着を見ることはできないであろう。
 
技術と本当の関係を保つためには、技術者以上の者になることが必要である。人生と技術との関係を考察しようとする場合に、否定的な結論に至るか、肯定的な結論に至るかに関わりなく、常に計算を合わせなくさせる誤りは、実は同一である。この根本的誤謬は、人間を技術の創造者と見るか、それらの犠牲者と見るか、いずれにせよ、人間を技術と直接的に関係付けしてしまう点にある。この場合、人間は自分が制御できない力を呼び出してしまった魔法使いの弟子として現れるか、あるいは人工の楽園への道を突き進む絶え間ない進歩の創造者として現れるか、いずれかになる。
 
しかしながら、人間が技術と直接的でなく間接的に結び付けられていることを認識するならば、ひとは、これと全く異なる判断に到達する。つまり技術とは、労働者の形態が世界を動員する方法なのである。人間が決定的に技術との関係を取り結ぶ程度、人間が技術によって破壊されるのではなく支援される程度は、労働空間において通用する言語に熟達することにほかならない。この言語は、文法のみならず形而上学をも有するがゆえに、他のどんな言語よりも重要で深遠である。この関連において、機械は、人間同様、二次的な役割を演じる。機械は、この言語が語られる発声器官の一つにすぎないのである。
 
さて、技術を、労働者の形態が世界を動員する方法として理解すべきであるとするならば、まず、技術がこの形態の代表者、すなわち労働者に特に適合しており、その意のままになる、ということが証明されなければならない。しかし次に、労働空間の外部にある絆の代表者たち、たとえば市民やキリスト教徒や国民主義者はいずれも、技術とこうした適合関係に立たない、ということが示されなければならない。むしろ技術には、そのような絆に対するあからさまな攻撃や秘められた攻撃が含まれているにちがいない。
 
 これらは実際にともに事実であり、我々は以下において幾つかの事例を手掛かりにそれを確認することにしよう。曖昧さ、とくに、技術に関する発言のほとんどが帯びるロマン主義的曖昧さは、確固たる視点の欠如に起因する。ひとが非常に多様な出来事の不動の中心として労働者の形態を認識するやいなや、曖昧さはすぐに消滅する。この形態は、総動員を促進する一方で、この動員に抵抗するもの全てを破壊する。それゆえ技術的な変化という表面的出来事の背後に、包括的な破壊と世界の別種の構成とが生じていることが証明されなければならない。これら二つのいずれにも全く特定の方向性が存在する。」

労働者―支配と形態

労働者・支配と形態






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