2023年11月15日水曜日

20231114 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」 pp.438-441より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」
pp.438-441より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

イギリスは可能な範囲内で最良の意図と動機をもって、第一次世界大戦中に一連の約束をした。しかし戦争が終わってみると、これらの約束は互いに矛盾し、現実と折り合いをつけることが困難であることが露呈した。約束した当時、イギリスは極端な苦難のなかにあり、ドイツの潜水艦作戦によって国民を飢餓に陥れるリスクさえあった、と言えば多少は大目に見てもらえるだろうか。

 イギリスの約束は三つあった。第一は1915年のマクマホン=フセイン書簡のかたちをとった、アラブ人に対するものだ。これはイギリスの在エジプト高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンからのハシミテ家のフセイン王へのかなり迎合的な一連の書簡である。フセインは、預言者ムハンマドの直系を自任する家柄に属する、あごひげを生やした老いた名士だった。両者間の書簡の内容の大筋は、イギリス政府は、パレスチナからイラク、そしてペルシャとの境界までを擁する新しい大アラブ国家を全面的に支持する。そしてその国の王座にはフセインと彼の一族が就くというものだった。イギリスの望みは、この約束によってアラブ人に、当時ドイツと同盟関係にあったトルコへの反抗をけしかけることだった。実際に反トルコ暴動が起こったという意味では、これらの書簡には効果があった。映画「アラビアのロレンス」で伝説化され、その重要性がむやみに誇張された出来事だが、戦略的としては無意味に等しかった。

 第二の約束は、西部戦線でおびただしい数の犠牲者に苦しんでいたフランスに対するものだった。これは、戦争が終わった暁にフランスが手にするであろう栄光の土地をニンジンとしてぶらさげるという作戦だった。こうして1916年の密約、サイクス・ピコ協定に基づき、フランスはシリアからイラク北部まで伸び、バグダッドを含む地域を勢力圏として得ることになった。ついでながら、この細長い地域は2014年、イラクとシリアのイスラム国(ISIS)の狂信者が宣言したカリフが統治する帝国とも多少重なるところがある。フランスに対するこの秘密の約束がアラブ人に対するより公の約束とどうやって折り合いをつけたのかはまったくはっきりしない。率直に言えば、そもそも折り合いがついたのかどうかもわからない。

 第三の、そして最も悲喜劇的で支離滅裂な約束が、いわゆるバルフォア宣言である。これは実際には、外相A・J・バルフォアからのユダヤ系貴族院議員ロスチャイルド卿宛ての1917年11月2日付の書簡で、次のような官僚的技巧を駆使した傑作ともいえるくだりを含んでいる。
 
 イギリス政府は、パレスチナに現存する非ユダヤ人の市民的、宗教的権利、あるいはパレスチナ以外の国に暮らすユダヤ人が享受する権利や政治的地位が侵害されないことを明確に了解したうえで、パレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の設立について好意的見解を有し、その目的の実現を促進するために最大限の努力をする。

 別の言い方をすれば、イギリス政府はユダヤ人が一つのケーキを食べることを好意的に眺めるが、それは非ユダヤ人がその同じケーキを同時に食べる権利を損なわないことえお条件としてということだった。

 この奇怪な宣言の後押しをしたのは何だったのだろうか? 一つには理想主義だった。19世紀のロシアにおける卑劣なユダヤ人虐殺以来、ユダヤ人に安住の地を与えようという運動が起りつつあった。イギリス政府は、ウガンダに土地を見つけることさえ考えたこともあったが、最も有力な候補地は旧約聖書の地であるパレスチナだった。パレスチナはまだ比較的に人口が希薄だった。バルフォアは「人のいない土地を土地の無い人に与えよう」という合唱にイギリスの公式のお墨付きを与えただけの話なのである。

 バルフォアはより実利的な考えに動かされていたのかもしれない。第一次世界大戦中、ユダヤ人の心情はドイツに傾きかねないという不安が強かった。戦争前のロシアにおける反ユダヤ主義に報復するにはそれが一番効果的だったからだ。チャーチルがのちに認めたように、バルフォア宣言には部分的にはユダヤ人、とくにアメリカのユダヤ人の支援を得ようとする意図もあった。その一方で、イギリス帝国部隊が大きく依存していた数百万人のイスラム教徒(とくにインドの)をつなぎとめておくという、矛盾した狙いがあり、この宣言の明白な混乱はそこから引き起こされたのである。
 これら三つの約束を同時に目てみると明らかなことがある。イギリスは一頭のラクダを三度売ったのだ。
 これこそチャーチルが処理しなければならない混乱だった。そして1921年3月、彼は重要な関係者全員をカイロの豪華ホテル、セミラミスに呼び寄せた。ここももちろん当時の大英帝国の非公式な一部だった。

2023年11月13日月曜日

20231113 中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.220-223より抜粋

中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.220-223より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120039153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120039157

リデルハートの大きな功績の一つは、核兵器を用いたアメリカとソ連の冷戦構造の下で、誰よりも早く非通常戦争、そしてゲリラ戦争の可能性に気付いていた事実である。これは、彼が第一次世界大戦でのイギリスの国民的ヒーロー、「アラビアのロレンス」と親交が深かったこととも関係している。リデルハートは、「戦略論」のなかでゲリラ戦争について次のように述べている。

 戦争とは組織化された行為であり、混乱状態のなかで継続することは不可能である。しかしながら、核抑止力は巧妙なタイプの侵略に対して抑止力として機能し得ないし、それゆえ、抑止力を発揮できない。核抑止力がこのような目的に対して不適切であるため、巧妙なタイプの侵略の生起を刺激し、助長する傾向にある。筆者の金言「平和を欲すれば戦争に備えよ」のリデルハート自身の修正である「平和を欲すれば戦争を理解せよ」に必要な敷衍を加えると、「平和を欲すれば戦争を理解せよ。とりわけゲリラ方式と内部攪乱方式の戦争を理解せよ」となろう。

 この問題をさらに広範かつ深遠に取り扱った著作が、クラウゼヴィッツより一世紀後に登場したが、それがT・E・ロレンスの「知恵の七柱」である。同書は、ゲリラ戦理論に関する名著であるが、ゲリラ戦の攻防上の価値に焦点を当てたものである。

「アラビアのロレンス」として知られるトマス・エドワード・ロレンスは、オクスフォード大学で考古学や中世の十字軍史を学んだ後、大英博物館の中東遺跡発掘調査に参加したが、第一次世界大戦が勃発するとイギリス陸軍情報将校、そして同外務省「アラブ局」の一員として、ドイツの同盟国であるトルコの後方を攪乱する目的で、トルコの支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に献身した人物である。

 第一次世界大戦におけるロレンスの活動については、当時、イギリス国民の士気を高めるためのヒーローの存在を求めていたイギリス政府の思惑のため、そして、その後のロレンスに対するリデルハートの過度な思い入れのため、過大に評価されているのが実情であろう。周知のように、ロレンスを主人公としる映画「アラビアのロレンス」は今日にいたるまで戦争映画の傑作の一つとして高く評価されている。実際、2007年末にイギリスで放映されたテレビ番組「アメリカ映画の名選100点」では第7位にランクされていた。また、ロレンスの著書「知恵の七柱」やその要約版ともいえる「砂漠の反乱」は邦訳されており、そのほかにも彼の評伝が日本語で多数出版されている。著者は個人的に戦車の発展や機甲戦理論に興味があるため、イギリス南部の町ボーヴィントンをしばしば訪問する。ここには「戦車博物館」があるからであるが、この博物館の近郊にロレンスのコテージ「クラウズ・ヒル」があり、ここには今日でも多くの観光客が訪れている。

「アラビアのロレンス」
ロレンスはその著「砂漠の反乱」のなかで、「アラブ人たちがなぜファイサルとともに戦いを続けているかと考えてみれば、彼らの目的はただ一つ、アラビア語を話す人間の住む土地からトルコ人を立ち去らせることにあるのだ。平和な自由を求める理想を彼らをして銃をとらせているのだ。トルコ軍が穏やかにアラビアから立ち去れば、戦いは終わり、血を見る必要もない。立ち去らなければさらに説得の試み、それが無駄なら戦わねばならぬ。その時において初めて、血を見ることになるのだが、人命の損失は最小限に留めねばならぬ。なぜなら、アラブ人は自由を得るために戦うのであり、死んでしまったのではせっかく得た自由を楽しむことができないからだ」と述べている。

 またゲリラ戦争の戦略としてロレンスは、例えば「メディナをおとしいれてはならぬ。あそこをあのままにしておいてやること、本当にかろうじてという程度にである」と述べているが、こうした記述から、なぜリデルハートがロレンスの示した戦略概念に共感を抱いたかが理解できるはずである。 
 リデルハートが高く評価したロレンスの活動であるが、そもそも「アラブの反乱」の目的は、当時のオスマン・トルコ帝国内のアラビア語地域と呼ばれていたところからトルコ人を追い出すことであり、彼らの殺害そのものはまったく無意味なことであった。ロレンスにとっては、犠牲は小さければ小さいほど都合がよいのである。そして、こうしたゲリラ戦争では「重心」を作らないことが重要となってくる。ロレンスが的確に表現したように、砂漠におけるゲリラ戦争はあたかも海上での戦いに類似したものであり、そこでは兵力の温存で損害の最小化が重要とされ、いわゆる「ヒット・エンド・ラン」といった方策が用いられたのである。

2023年11月7日火曜日

20231107 中央公論新社刊 池内恵著「アラブ政治の今を読む」pp.151‐153より抜粋

中央公論新社刊 池内恵著「アラブ政治の今を読む」pp.151‐153より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120034917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120034916

陰謀論の背景は錯綜しているのだが、ここで大まかな整理を試みてみたい。まず、アラブ世界の場合には固有の歴史的経緯からもたらされた一つのパターンがある。重要なのはアラブ近現代史において情報の発信地として有力なエジプトでの展開である。エジプトがナセル大統領の指導のもと、民族主義を旗印にアラブ世界全体をイデオロギー的に主導した時代(1950~60年代)、しばしば政権の失政を外部勢力の陰謀に帰する形で責任を外部に転嫁する議論が国家の側から流された。このことが現在に至る陰謀論による国際政治解釈の一つの根源となっていると見られる。陰謀説が有効に機能する背景には、実際にある種の「陰謀」による脅威をアラブ世界が受けてきたことがある。1956年の第二次中東戦争でイギリス・フランス・イスラエルが共謀してエジプトを侵略した。これは「外部の陰謀勢力に迫害されるエジプト」という心境を醸成し定着させた(しかしその時、侵略行為を激しく非難して撤退に追い込んだのはアメリカだった)。

 現在のムバーラク政権(1981年ー)になってからはプラグマティックな政治手法が重視され、国家の側が積極的に陰謀論を主張することは少ない。むしろ社会から自発的に陰謀論が産出される場合が多い。陰謀論が宗教的な終末論やオカルト思想と合体するのも、この時期から始まった現象である。

 しかし社会の側からの陰謀論の発生は、国家によるメディア統制によって間接的に支えられているともいえよう。エジプトを含め大部分のアラブ諸国では新聞やテレビは検閲や厳しい規制の対象となり、国民に伝えられる政治情報は限定されている。そこから情報の伝達は透明なものではなく、なんらかの意図がその背後にある、と考える心性が国民に根強く定着している。「嘘の情報の背後から真実を読み取る」ことがごく当たり前の習慣になっているのである。しかし限られた情報を限られた視野から解釈してその裏を探る以上、常に真実に到達できるとは限らない。むしろ願望や固定観念によって一面的な解釈をしてしまいがちである、

 そして、自国の批判が許されないがゆえに、「外部」勢力を「敵」として特定する類の陰謀慧遠のみが表出を許されることになる。陰謀論が外部勢力に責を帰している限りにおいて、国家の側は意に介さない。国家によって用意された情報環境の中で、特定の種類の陰謀論が野放しにされて増殖を果たすというメカニズムがある。

しかし陰謀論はアラブ世界に限られたものではない。アメリカのポピュラー・カルチャーは多くの陰謀論の発祥の地であり、西欧は反ユダヤ主義的陰謀論を生み出しただけでなく、最近では反米的な陰謀論も現れている。

 アメリカの場合、冷戦状況が陰謀論の流布を促進したと見られよう。ソ連との間の軍拡競争、特に核・ミサイル開発や航空宇宙技術の競争は、常に敵と味方の双方に対する疑心暗鬼を生んだ。冷戦期の軍拡競争というのは、兵器の実際の使用ではなく、兵器の性能と配備状況に関する情報によって一進一退を繰り返す神経戦である。「相手はより進んでいるのでは」という恐怖は常に拭い去ることができず、「少なくとも同等以上の開発を」という焦りがつきまとう。

 開発の進み具合を誇示して相手を威嚇する一方で、開発していながら隠匿することも、敵に先んじるための有効な手段となる。すると「相手は隠している」ことを前提として、よりいっそうの開発が急がれるだけでなく、自分の側も隠す必要が感じられてくる。アメリカ国民にとってソ連の脅威だけでなく、自国政府に対しても不信感を抱く素地がここにある。また肥大化した官僚機構への不信、近代的国家機構に対するカフカ的な恐怖心が軍・諜報機関に向けられるという事情もある。

 ここから「CIA」や「軍中枢部」の「陰謀」を措定する心性が胚胎したといえよう。「自国政府は何かを隠しているのではないか」という発想は、極端な例では「UFO」「宇宙人」が到来したにもかかわらず「軍がそれを隠蔽している」というオカルト的陰謀論に結実している。

2023年11月6日月曜日

20231106 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.303-306より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.303-306より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

 西欧における政治革命と相並んでの産業革命こそは、ヨーロッパの世界覇権を確立せしめる決定的要素となった。西欧の侵略に対し、辛うじて自ら支持し来った、東亜の清朝、西亜のトルコ二大国も幾度かの反抗の後、ついに戟を投じて敵の軍門に投降せざるを得なくなったのである。オスマン・トルコの衰頽とともに西アジアの没落が始まった。西アジア社会の没落は、それが最古の文明を有し、最も進み過ぎたる社会の没落であるが故に、必然の結果としてその苦悶が最も深刻であった。オスマン帝国領土の分割は、まず北方におけるバルカン半島小民族、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャの独立に始まり、次いで南方におけるエジプトの独立で、一段落となった。

 エジプトは先に十字軍の勇将大サラジンを開祖とするアユビド王朝衰えて、奴隷的傭兵の有力者代る代る立ちてマメルウク王朝と称せられ、やがてオスマン・トルコの領土となったが、傭兵軍閥の勢力盛んにして、トルコ皇帝は総督を派遣したるも政令始めより徹底し能わなかった。その後ナポレオンのエジプト遠征あり、フランス軍の撤退に乗じてエジプトを実力をもって征服統一したのが、バルカン生れの傭兵出身マホメット・アリその人である。当時先住の傭兵軍閥の勢いなお盛んにて、アリも最初はこれを利用して自己の勢力伸長に資したが、ようやくにしてその制御し難きを思い、強豪480名をカイロ城内に招いて饗宴の後、一網打尽にこれを誅殺した。アリ王朝の基礎ここにおいて確立し、オスマン・トルコ朝廷より世襲の総督たることを認められたのであるが、その土地の重要性はやがて英国の食指を動かさずにはおかなかった。スエズ運河の工事は最初フランス人の手によって着手成功したのであるが、英人は国王イスマイルの財政困難に乗じて運河会社を買取し、さらに金銭を国王に貸しつけて、エジプト国家を破産に導いたのである。国家の破産、そは本質上乞食の破産以上にむつかしいことであるが、破産を宣告し得る敵国があって始めて可能である。エジプトは破産の結果国家を競売に付す代りに、英仏の保護下に準禁治産者の宣告を受けることになった。エジプト人はかかる謀略の進行に対して不満やる方なく、ついに「エジプト人のエジプト」なるスローガンを掲げて暴動を起こしたが、英国軍隊によって鎮圧され、この時以来英国のエジプト占領は第一次世界大戦の勃発まで引き続き、大戦中に英国は完全にこれを保護国と化して現在に至っているのである。

 スエズ運河の開鑿は、東西洋間の歴史的交通路を一変せしめ、インド洋、紅海、地中海を経由する航路が世界最大の交通動脈幹線となった。エジプトは英国にとって本国とインドを連結する連鎖の最も重要なる一環となっている。この南方海上交通路に対して北方にはロシアが建設したる北方シベリア鉄道があって、東西洋の一連絡路となっている。ただしこの鉄道の敷設せられたのは既に過去の時代に属する。新時代の要求する交通路は、やはり古代のいわゆる「絹の路」すなわち中国の開封、中国より蘭州、敦煌を経て天山南路に入り、パミール高原を越えてロシア領トルキスタンの河間地方、サマルカンドの付近に出で、これより裏海、黒海の南岸もしくは北岸を通過して地中海に到達する路線ではあるまいか。はたして然らば、シリア地方は再び東西交通の孔道を扼して昔日のごとく世界を動かす支点となり得る望みがある。

 シリア地方はオスマン朝トルコの支配下において、帝国内交通の重心であり、アレッポに駐在するトルコ総督の支配を受けた。第一次世界大戦に際して、英仏連合軍の占領するところとなり、戦後北方シリア本部はフランスの委任統治に、南方パレスチナは英国の委任統治となった。シリアは後に土着民の反抗あって叛乱起り、ダマスカスの包囲という大事件も起ったが、結局フランスは名目上の独立を与うるに決し、シリア、レバノン両共和国の成立を見た。が、ただし実権は言うまでもなくベイルート駐在のフランス総督の手中にある。パレスチナは英国の斡旋により、全世界に散在するユダヤ人をここに集めて、流浪の民に故郷を与えんとし、ユダヤ人の移住続々開始せられたるところ、先住のアラビア人は既得の権利を失わんことを虞れて反抗運動を始め、幾度か両民族の間に流血の惨事を引き起した。英国は両者の調停につとめ、トランスヨルダンを分離して純然たるアラビア地域とし、海岸に近きパレスチナをもって両民族共住の地域と定めんとしたが、アラビア人の不満はこれによって緩和されず、英国にとりては両民族の衝突、敵愾心の激化は思う壺なれど、それがやがて反英運動に転向することも容易に起り得べきをもって、自らの謀略のためにかえって痛し痒しで困しみつつある。

 メソポタミア、すなわちチグリス、ユーフラテス両河の灌漑する平野には現今イラク王国をある。この地方は第一次世界大戦中に、英将モードが主としてインド兵を率いてバスラに上陸し、トルコ兵を取り、北上して平定したる地方であって、戦後英国の委任統治となったが、間もなく反英暴動の蜂起を見、英国も已むなく実力者現王朝の始祖ファイサル一世を迎えてその主権を承認し、ただ財政上の実権を掌握して政治外交を指導するにて満足せねばならなかった。

2023年11月5日日曜日

20231105 東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.13-17より抜粋

東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.13-17より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488010512
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488010515

ユダヤ人について私が知っているのは、祖父が教えてくれたことだけだ。「奴らはとびきりの無神論者だ」というのがその教えだった。「奴らがまっさきに考えるのは、幸福はあの世じゃなくこの世で実現するべきだということだ。だからこの世界を征服することだけを考えて行動するんだ」

 ユダヤ人の亡霊のせいで、私の子供時代は暗かった。祖父が語ってくれたのは、人を欺こうとこちらをうかがうぞっとするような彼らの目つきだとか、媚びるようなにやにや笑い、ハイエナのように歯をむき出しにした唇、ねちっこく腐りきった醜い視線、鼻と唇とのあいだの皺は憎しみが刻み込まれていつも落ち着かないとか、南国の鳥の奇怪な嘴のような鼻とかだった・・・そして、彼らの目、その目は・・。興奮すると、焦げたパンののような色の虹彩をぎょろつかせるが、その目は、18世紀にわたる憎悪による分泌物で肝臓が腐っている病状を示し、歳とともに深く刻まれるたくさんの細い皺の上でゆがんでいる。ユダヤ人は20歳ですでに老人のように衰弱して見える。微笑むと目は腫れぼったい瞼でふさがって細い線になってしまうが、それは抜け目なさのしるしとも、好色のしるしとも言われると祖父は詳しく説明した。話がわかるくらいに私が大きくなると、祖父は教えてくれた。ユダヤ人はスペイン人のようにうぬぼれが強く、クロアチア人のように無知蒙昧、レバント人のように強欲で、マルタ人のように恩知らず、ジプシーのように図々しく、イギリス人のように不潔で、カルムイク族のように脂ぎっていて、プロイセン人のように傲慢で、アスティ人のように口が悪い。おまけに、抑えがたい情欲に駆られて不義密通に走るのだと。その原因は割礼にある。一部切除された突起物の海綿体と矮小な体型との釣り合いが取れなくなって、勃起しやすくなる。

 何年も何年も毎晩のように私はユダヤ人を夢に見てきた。
幸運にも彼らに出会ったことはない。子供の時にトリノのゲットーで出会った売女(しかし、二言三言、言葉を交わしたにすぎない)と、あのオーストリアの医師(あるいはドイツの医師、だがそれは同じことだ)を別にすれば。

 私はドイツ人をよく知っているし、彼らのために働いたことさえある。思いつくかぎり、最低の人種だ。平均してドイツ人はフランス人の二倍の糞をひり出す。腸が脳髄の分まで過剰に活動しているからで、彼らの肉体の劣等ぶりを表している。蛮族侵入の時代、ゲルマンの諸部族が進んだ道には、考えられぬほど大量の人糞があちこちに残っていた。何世紀ものあいだ、フランス人旅行者は、道端に残された異様に大きな糞を見ると自分がアルザス国境を超えたのだとすぐに察しがついた。それだけではない。臭汗症つまり汗の嫌なにおいはドイツ人特有のものであり、ほかの人種の尿には15パーセントしか含まれていない窒素がドイツ人の尿には20パーセント含まれていることが証明されている。

 ドイツ人はビールとあの豚肉ソーセージをがつがつ飲み食いするせいで、いつも腸を詰まらせて生活している。ある晩私は、一度だけ行ったミュンヘンに滞在中、かつては大聖堂だったらしい場所でイギリスの港のように煙が充満し、脂身とラードの悪臭が漂う光景を目撃した。男女のカップルさえ、一杯で象の群れの渇きを癒せるほど巨大なビール・ジョッキを両手で握りしめていた。鼻を突き合わせて獣じみた愛の言葉を交わす様子はにおいを嗅ぎ合う二頭の犬のようで、けたたましく下品に笑い、濁っただみ声で大はしゃぎをし、
体に油を塗っていた古代の円形闘技場の格闘家のように顔と四肢はいつも脂で光っていた。

 奴らはいわゆる「ガイスト」をがぶ飲みする。それは酒のことだが、この麦の酒のせいで、若い頃から頭が鈍ってしまう。だからライン川の向う側では、ぞっとするほど凶悪な人相を描いた絵画と死ぬほど退屈な詩しか芸術作品が生れなかったのだ。音楽については言うまでもない。今ではフランス人まで夢中になっている騒々しくて陰気なあのワグナーの話ではない。少し聴いただけだが、バッハの作品にはまったくハーモニーがなくて冬の夜のように冷たいし、ベートーベンの交響曲は無作法な馬鹿騒ぎだ。
 ビールを暴飲するせいで、奴らは自分の柄の悪さにまったく気がつかないのだが、その極みはドイツ人であることを恥じていない点だ。ルターのような大食漢で好色な修道士(修道女と結婚するだと?)を、聖書を母語に翻訳して台無しにしたというだけで真面目に受け止めたのだ。誰が言ったのか、ドイツ人はヨーロッパの二大麻薬、アルコールとキリスト教を濫用している。

20231104 当初に対話形式記事を多く作成した背景について

本日もまたこの時季としては陽気が良くなり、日中は上着はいらず、半袖でも十分でした。とはいえ世界に目を転じますと、さる10月7日イスラム教スンニ派の民族・原理主義組織ハマースが実効支配するガザ地区と隣接したイスラエル側への奇襲攻撃を契機としてはじまった新たなパレスチナ・イスラエル戦争、そして昨年2月24日から今なお続く宇露戦争も、その帰趨が明らかにならないままであり、さらに、その他にも世界各地で、いや端的に、世界規模で暗雲が立ち込めているのが現状であると思われます。

そしてまた、この先も予断を許さない状況であると云え、わたしとしては自分なりに現在の国際情勢を精確に理解したいと考え、また偶然にも神田古本まつりが開催されたこともあり、出来るだけ関連書籍を読むことに努めてはいますが、理解が深まり、そして次の進展についての自分なりの見解といったものはまだ出て来ません・・。とはいえ、こうしたことは知識が乏しい方が、色々な想像が出来るためであるのか、さまざまな考えが浮かんではくるようですが、その分野に関する新書や専門書を読んでみますと、そう簡単には、ある程度、精確と云い得る知見・見解を述べることは出来ないことが分かってきます・・。しかしそれでもなお読み進めて行きますと、次第に、それまで培ってきた異なった分野での知見や学識の全てと化合して、ようやく、満たされた容器の縁から滴が垂れるようにして自らの知見・見解と云えるものが、わずかながら生じてくるのではないかと思われるのです。

その視座から、さきに挙げた中東・東欧地域双方共に私は専門分野としたことがないため、先述のように、いまだに精確な理解に基づく自らの見解や知見を述べることは出来ませんが、それでも以前と比べますと、それぞれの背景は理解出来るようになってきたとも云えます。

そういえば、2015年7月に亡くなった親戚(伯父)は中東地域を専門の一つとしていましたが、日常的な会話で、それが話題に挙がったことは、あまりありませんでした。それでも、この親戚は好物であったお酒を飲むと時折、イスラエル在住の頃の思い出話をされ、それはそれで面白く興味深いものでした・・。

また、この親戚は「学者や研究者で酔っ払った時に自分の専門分野に関連した面白いことを云えるのはホンモノである可能性が高い」といった主旨のことも、まさにご自身が酔った状態の時に話されていましたが、これはその時には半ば眉唾モノとして聞いていましたが「これは案外本当であるのかもしれない・・」と最近思うようになりました。

さらに、この親戚は私が和歌山在住の折にも関西方面での学会出席の機会を利用して訪ねて来てくださり、その後、修士号を取得してご自宅まで報告に行きますと、近くの飲み屋に連れ出て祝ってくださり、そしてまた、その後もどうしたわけか機会がある毎に呼んでくださるようになりました。

そうした機会で大変印象に残っているのは2007年頃、主であった祖父母が亡くなり、無人となっていた伊豆の家に休日を利用して掃除や手入れに行っていたこの親戚から、庭掃除の手助けとして呼ばれて電車で訪問した時のことです。この時は丁度盛夏であり、日中は汗だくになり、あまり食事も摂らないままで雑草の刈取りや枝の伐採などを行い、その後夕方になり、近くのスーパーまで夕食や飲み物を買い出しに出かけ、戻ってきますと冷房をきかせた室内で夕食(ほぼ刺身)を摂りつつお酒を飲みながら、色々な話をされるのですが、あれは現在になって考えてみますと興味深く面白いものであり、そこから、当ブログ初期での対話形式記事の題材となっているものも複数あります。

また、そのように考えてみますと、私が当ブログ初期の頃に対話形式を多用したことは、それなりに理に適っており、それまでの、この親戚を含めた、さまざまな方々との対話の記憶がなければ、あるいは異言しますと、書籍などによる知識や見識、たとえそれらが身体化(インカーネーション)されていても、それだけでは私の場合、当ブログを8年以上継続することは出来なかったと云い得ます。

しかし面白いもので、ではまた初心に返って対話形式のブログ記事を作成してみようかと思うことは今のところありません、しかし今後またしばらく継続していますと、何かしらの内面での変化が生じてくるようにも思われますので、今しばらく、具体的には2100記事程度までは継続してみようと考えています。

*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

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どうぞよろしくお願い申し上げます。







2023年11月3日金曜日

20231102 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.28-30より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.28-30より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

前近代のすべての文明のなかで最も進んでおり、優位を誇っていたのが中国である。15世紀の人口は1億から1億3000万人で、ヨーロッパの5000万から5500万人にくらべて圧倒的に多く、すぐれた文化をもち、灌漑のほどこされた豊かな耕地はすでに11世紀からりっぱな運河で結ばれており、教育程度の高い儒者の役人が職階制度の整備された行政機構を動かしていた。その洗練された統一国家ぶりに、訪れる外国人は羨望の目を見張ったのである。たしかに、中国文化はモンゴル部族の激しい攻撃にさらされた経験があり、フビライ・ハーンに侵略されてその支配下にあったこともある。だが中国は、征服者によって変化するよりも。征服者のほうを変えてきた実績をもつ。1368年に明王朝が成立してモンゴルを追い払い、中国の統一をはたしたとき、かつての秩序や学問の多くは温存されていたのである。「西欧」の科学を尊重する教育を受けてきた読者がいちばん驚くのは、中国文明における技術水準の高さであろう。中国えは昔から大きな図書館が存在した。可動活字による印刷は早くも11世紀に登場しており、まもなく大量の書物が印刷されている。運河建設と人口の増加に触発されて、貿易や産業も発展した。中国の都市は、同時代の中世ヨーロッパの都市よりもずっと大きく、交易路も遠くまで延びていた。早くから紙幣が利用されて、商業の発展と市場の成長に大きな役割をはたしている。11世紀末には、中国北部には巨大な製鉄産業が起こり、主として軍事用および支配者の用に供するため、毎年12万5000トンの鉄を産出していた。たとえば、100万人を超える軍隊だけでも巨大な鉄製品市場を形成していたのである。この産出量が産業革命期のイギリスのそれよりもはるかに多いことに注目すべきであろう。産業革命はなんと7世紀もあとのことなのだ。さらに中国人は最初に火薬を発明したともいわれ、明が14世紀末にはモンゴルの支配者を打倒したときには大砲が使われている。

 こうした文化的・技術的水準の高さを考えれば、中国が海外遠征や貿易に乗り出したのも当然であろう。磁気羅針盤も中国人の発明品の一つで、中国の平底帆船(ジャンク)は、スペインのガレー船に匹敵する大きさがあり、インドや太平洋の島々との交易で、陸路を行く隊商と同じくらいの利益をあげていたと思われる。それより何十年も前から揚子江流域では海戦が繰り広げられー1260年代に宋を制圧するため、フビライ・ハーンがやむなくつくりあげた大艦隊には弾丸発射装置が備えつけられていたーその流域では14世紀初めに穀物取引が栄えている。1420年に明の海軍は1350隻の軍艦を保有し、そのうち400隻は巨大な海上要塞で、250隻は長距離航海のために設計されていたという記録がある。この艦隊にはくらべるべくもないが、ほかにも民間の船団があって、すぐ朝鮮、日本、東南アジア、さらには遠く東アジアまで航海して、海上貿易に課税した中国に巨大な収入をもたらしていた。

 最も有名な公式の海外遠征は、三保(宝)太監として知られる宦官の提督、鄭和が1405年から1433年にかけて七回にわたって行なった航海である。その船団はときには何百隻もの船と何万人もの乗組員を擁し、マラッカからセイロンを経て紅海の入口、さらにはザンジバルまで航行した。そして、各地の支配者に贈り物をする一方で、意に従わない相手には北京の力を誇示している。ある船は東アフリカからキリンを持ちかえって皇帝に献上したし、またある船は中国の天子の威光を認めなかったセイロンの愚かな地方領主を連れかえった。(念のために指摘しておけば、中国はポルトガルやオランダをはじめ、インド洋を侵略したヨーロッパ諸国とちがって、掠奪したり住民を殺戮したりはしなかったらしい。)歴史学者や考古学者が明らかにしている鄭和の船団の規模や力量、航海能力ーなかでも最大級の船は長さ600フィート、排水量1500トンにおよんだーからして、エンリケ航海王子がセウタの南へ遠征する数十年前に、彼らはアフリカを回航してポルトガルを「発見」することもできただろう。

 だが、中国の遠征は1433年の航海が最後となり、3年後には皇帝の勅令で遠洋航海用の船舶の建造が禁止された。さらにその後、2本以上のマストをもつ船そのものを禁止する特別命令が出される。以後、船乗りは天津と杭州を結ぶ大運河を往来する小さな船に傭われるしかなくなり、鄭和が使った巨船は陸に引き上げられて朽ち果てた。海の向こうにはさまざまな機会がひろがっていたにもかかわらず、中国は世界に背を向けるほうを選んだのである。