2022年2月17日木曜日

20220216【架空の話】・其の83 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇③】

D先生は、これから我々が訪問する歯科医院の院長宛てに名刺裏に紹介状を認めてから、おもむろに傍らに置いてあったスマートフォンを手に取り電話をかけた。そして、しばらく待ってから繋がると・・

「ああ、先日はどうもりがとうございます。ええ、それで、今回は前に少し話したK医療専門職大学の口腔保健工学科の件だけれども・・いいや、歯科衛生士の口腔保健学科じゃなくて、歯科技工士の口腔保健工学科の方だけども・・そうそう、今日、その学科の先生と、もう一人、K大歯科理工学講座の院生がR先生の医院見学を希望しているのだけれど大丈夫ですか?・・・ああ!本当ですか、それは良かった・・。じゃあ、今日の昼過ぎ14:00くらいに、二人が私からの紹介状を持参してそちらに伺うようにしますので、よろしくお願いします。・・いや、今回もまたどうもありがとうございます・・。ああ、それと、今日はK医専大OGで歯科衛生士のCさんが、そちらでのバイトの日であったと思いますので、時間に都合がつくようでしたら彼等と会わせてあげてください・・。」とのことであった。

そこで我々はD先生が認めた紹介状を受け取り、また後日訪問させて頂く旨を伝えて挨拶をしてから医院を辞した。時刻は正午少し前であり、ここからR先生の医院までは、1時間以上はかかるであろうとのことから、先に医院近隣まで移動をして、その付近にある飲食店にて昼食を摂るのが良いだろうということになり、取り急ぎ、電車にて移動することにした。

R先生の医院は東京東部のどちらかと云うと千葉県に近いところに立地しており、それは、今回の出張でのE先生の宿泊先ホテルがある千葉県I市とも、電車にて数駅ほどのところであった。

そうした事情や時間帯もあってか、空(す)いていた移動中の電車内でE先生は、御自身の学生時代の話をよくされた。そしてD先生とR先生の医院の丁度中間点とも云えそうな御茶ノ水駅に到着した時、E先生は神田川側の窓の外を控えめに指差しつつ「明日はここの大学に行こうと思っているけれども、ここはどちらかと云うと、ガチの研究大学だから、専門職大学の実務家教員とはチョット違うんだよなあ・・。まあ、それでもいい情報を入手することは出来るかもしれないからなあ・・。」と周囲の環境から、何となくコトバ使いが学生時代に戻っているようにも感じられたが、E先生の方は全く構う様子はなく、さらに話を続けられ、学生時代によく通っておられたという、御茶ノ水仲通りと甲賀通りが交差する場所にある*トールコーヒーにて遭遇されたという出来事を幾つか話されたが、いずれも、それなりに興味深いものであった・・。ともあれ、あの界隈では歯科大学や歯学部が複数存在するために、そうしたことも自然と見聞きされるのであろうと思われたが、同時にその環境は、当時の私にとっては、何やらとても縁遠いものであると感じられた・・。しかし、元来、首都圏出身である私は、そうしたことを感じることはなかったのだが、これまで5年以上、あまり外に出ることもなくKで生活していたためか、首都圏、東京での、さまざまな環境がどうも「違う世界のもの」のように感じられるのであった・・。他方、E先生の方は、普段よりも少し陽気に、そして多弁になっておられた。やがて、我々が乗った電車は隅田川を渡り、さらに東の千葉方面へと走り、R先生の医院に近づきつつあったが、こちらの地域に関しては、私の方が全く不案内であり、E先生の方が、かつての通い慣れたる通学路であったことから、上記のような感じであったのかもしれない・・。やがて電車が最寄り駅に着いて、下車すると、これまでに知らなかったような風情の街並みが広がり、また、駅南口のロータリーを突っ切った先からはじまる商店街も、正午過ぎという時間帯であったことからか、かなりの賑わいを見せていた。

R先生の医院は、この商店街を最後まで行き、そこから左手に曲がり、さらに南に進んだ先にあるとのことで、また、我々としては、ある種の観光気分もあったことから、この商店街の中を歩いて行こうということになった・・。

そして、商店街に入ってすぐにE先生が「おお!」と少し驚かれた様子を見せたため、そちらの方を眺めやると、果たして、その先には、これまでに何度かE先生との会話にて話題ともなった天丼で知られる「て*や」があった。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2022年2月14日月曜日

20220114 しばらくオリジナルの記事作成を休止していて思ったこと

しばらく、書籍からの引用にて記事を作成してきて、また、この進め方であれば、今後もさら無理なく続けることが可能であるように思われましたが、このあたりにてオリジナルの記事を作成しておこうと思い立ち、つい先ほどから記事作成を始めた次第です・・。

しばらく、自身文章による記事作成を行わなかったものの、この休息期間によるものか、特に苦痛を感じることなく、この程度まで作成出来ています。そこから、これまでオリジナルの記事を作成する際は、その作成に費やした時間でなく、ある程度、文章としてまとまり、読めるものにすることを主眼としてきましたが、ここでは少し趣向を変え、費やす時間を定めて、記事作成を切り上げようと思います。

具体的には、今後30分間までとします。しかし、これまでとは異なり、予め作成に充てる時間を決めてかかりますと、不思議なことに、書籍を読んだり、ニュース動画などを視聴して、作成記事の主題を検討することよりも「とりあえず何かしら文章を作成してみよう。」と、キーボード上の手を動かすことに重点を置くようになります・・(笑)。

端的には「習うより慣れよ」といったところであるかもしれませんが、そのようなことを文章として作成していますと、また不思議なことに、かなり以前も、そのようにして記事作成を行っていた時期があったという感覚・記憶が思い出されてきます。

それは、当ブログをはじめて2年目頃であり、当初1年目は、以前にも述べましたが、ノートに実際に手書きにてブログ記事(当時は対話形式のものが主でした)を作成していましたが、この手法に慣れてきますと、次は「手書き」を介さず、直に記事を入力するようになりましたが、当時の(弱っていた)私としては、この程度の変化も、かなり大きく感じられたものでした。また、実際に、この変化がなければ、当ブログが現在に至るまで(どうにか)継続していたかは不明であったとも云えますので、それはそれで重要な契機ではあったのだとは云えます。

その後、直入力での記事作成に慣れてきますと、また面白いもので、新たに記事作成へのスランプといった事態が生じてくるのです。つまり、記事作成手法の変化(手書き→直入力)によっても、スランプ自体は変わりなく生じるということであり、おそらく、これは今後、作成の手法がさらに変化したとしても、変わることはないと思われます・・。

また、あらためて面白いことに、現在作成している当記事においては「スランプ」という自覚は皆無であり、あの記事作成時の重苦しいような感覚はありません。

そして、こうして休息期間の重要性をあらためて認識するのですが、ここにきて、さきに定めた時間に到達しそうであるため、今回はここで記事作成を止めます。また、次は【架空の話】の続編を作成したいと考えています。

また、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

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2022年2月13日日曜日

20220213 作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋

作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861828643
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861828645

我が国は「持たない国」である。

 海で囲まれ、資源を他国に依存している。一部の研究者は、日本は「持たない国」ではなかったと定義している。彼らの主張は、日本が世界平均と比べ、決して貧しい国ではなかったとする。

 しかし、それには同意できない。なぜなら「持つ」または「持たない」を分けるものは、その国の産業構造と主要資源の保有量などが影響する。特に、当時の時代背景や主要産業を考慮すれば、石炭や石油、それに鉄などが大きな資源であった。

 そして、そのどれもが日本には不足していた。特に為政者たちが最も気にしていたのは石油などの液体燃料だった。戦争原因の大きな理由の一つにもなり得るものだった。この問題を見誤ると、結論が全く違うものになってしまう。

 また、ただ単に冨の再配分の問題では終わらない。確かに日本の経済は成長しつつあった。逆に資源があるだけで産業化されていなければ「持つ国」と言えないゆえに、日本が「持たない国」ではない、と言切るのは早計ではないだろうか。その後、「持つ国」である英米と「持たない国」、すなわち日独伊の対立は昭和7年(1932年)のオタワ会議以降、益々拡大していったのである。それがブロック体制の構築を進める結果になったからだ。

 日本はこのような危機的状況から、どのように脱却したか。結論から言うと、唯一の解決策と考えたのは中国への進出と、それに続くブロック経済圏の構築だった。その経緯はどのようなものであったのか。

 これは軍主導による経済領域の視点から日本の行動を見ていくことに他ならない。また、この問題は米国との関係のみではなく、日本の国際的孤立を招いたという点で国際情勢の流れと切り離して考察すべきではない。

 まず大正デモクラシーの終わり、汚職などによる既成政党への不信感、立憲君主制の限界などから、国民は政治の無力さを感じるようになっていた。国民が次に期待をかけたものは何か。それは軍、中でも青年将校だった。

 日本では、軍は国体とともに国民を護る存在であるとされていた。その上、彼らは老獪な政治家や莫大な富を誇る財閥などとの関係が薄いと見られていた。しかも青年将校らはエリート教育を受けていた。旧来の国策の後継者ではなく、新たな国家の創造者を自任する者も多くいたのである。

 また日本の都市には失業者が溢れ、農村の疲弊はひどかった。多くの軍人、特に下士官・兵は農村出身者だった。このため将校も多くの場合、純粋な気持ちで、この状況から抜け出さなくてはならないと感じていた。さらに陸軍は各歩兵連隊へ天皇自ら軍旗を親授し、「天皇の玉体を仰ぎ見る」のと同じ尊崇の念を抱くように国民にも徹底してきた。

 加えて、青年将校らは若い天皇という純粋潔白なイメージと重なった。すなわち、最も大きな視点から見れば、日本の指導者層あるいは指導勢力の新旧交代の時期に入ったとも言えるのである。これは大正時代から見られる傾向だった。

 大正時代には西園寺公望を除いて、元老が相次いで世を去った。その上、大正天皇も病弱で最高調整機能を十分に発揮できなかった。よって大正期の政策決定は次第に混迷の度を深めていった。このような傾向は昭和時代に入ってますます深刻化した。

 国家の政策決定を一元化する道は統治権の総攬者である天皇の裁定を俟つよりほかはなかった。しかし明治憲法に忠実な昭和天皇は立憲君主の分限を厳守し、その埒外に出ることを慎んだ。

 そのため、特に控え目に表明される天皇の意思も、いわゆる「君側の奸が聖明を覆うもの」と解せられ、徹底されなかった。よって調整の方途を見失った日本の政治・外交は、ついに一大破綻の悲劇を見るに至ったのである。だからといって、それ以外の領域、つまり経済、文化、社会などに期待しても恐慌から脱却するのは難しかったであろう。

 そこで軍が恐慌からも国民の生活を守る存在であることを期待されたとしても不思議はない。また軍は武力を用い、現状打破を具現できる専門集団であった。しかも、その目的は国民の望むものだと思われていた。

 そのような意味で日本国民が国家に何か期待する際、真っ先に思い浮かぶのは身近な存在である陸軍だった。また軍人も国内で、あるいは満州で、さらには南洋諸島などで民を護る存在であることを自負していた。

 その後、青年将校による暴発が続くのであるが、それらに対しても国民から絶大な期待が寄せられていた。急進的な青年将校たちは「天皇親政」という名目で天皇個人のリーダーシップを引き出そうとしていたのだった。なす術のない国民の中には袋小路に入った苦境を何とかしてくれる救世主と感じる者もいた。

 政府は五・一五事件では有効な防止策を講じられなかったばかりではなく、事件の首謀者たちの主張を国民に広める結果となった。ただし、二・二六事件という最大のクーデター未遂事件が発生した際には、昭和天皇の時勢に流されない英断で事態は収拾されるのだった。

 ただしクーデターは失敗したが、失ったものも少なくなかった。多くの優秀な人的資源はもちろん、思想や考え方が違えば力づくでも排除できることを示す事例の一つとなったのである。思想の亡失、あるいは良心・良識の喪失である。これ以降、自由な意見を議論する場の消滅が顕著になっていくのだった。

 また下からの改革こそ、真の改革であり、その実例が「明治維新」であった。多くの国民の支持を背景に「昭和維新」の断行を企図した青年将校たちの行き場を失ったエネルギーは二・二六事件以降、北支事変に始まる一連の対外膨張へと吸収されていくのだった。

2022年2月12日土曜日

20220212 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.554-557より抜粋

株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻
pp.554-557より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

「うう、負け戦のことは、もうええ、とにかく、そういつもいつも柳の下に泥鰌はおるめえちゅうことよ。階上班の古年次兵どもが、わがたちもアメリカ遠征軍になったごたぁる気色でしゃべっとるとを聞いてみりゃあ、サン・フランシスコに敵前上陸した暁にや、その足で脇目も振らじにハリウッド目がけて突進して、それこそ「逢うときに笠をぬげ。」じゃ、いっち上物(美人)からやり始めて順繰りに、わが身の破甲榴弾(男根)が続く限り、金髪女優たちを総嘗めにしちゃる、なんち吹きまくっとる。そのうちに貴様たちも思い当たるじゃろうが、これが座興の駄法螺でもあり長い目で見りゃ正真正銘の本心でもあるちゅう所が、軍隊のー戦争の摩訶不思議よ。まあ駄法螺にしろ本心にしろ、どっちみち勝手な熱でも上げとらんことにや、こげな守備地の兵隊もやり切れめえけん、そりゃそれで構わんじゃろう。ばってん、敵もおなじ頭で日本の女子たちを狙うとるちゅうことは、覚えていたほうがええ。」

私は大前田の言いぶりに淫猥軽薄の気を感じなかった。かえって、ある根源的な恐怖をもって、私は謹聴した。大前田が、語り続けながら西むきになって、火砲の北側を砲口のほうへ動き始めると、彼の、それまではいっそ切々として私語のようでもあった語調が、そこいらから嘈嘈たる急雨のおもむきを持った。

「ええか、ハリウッド女優を組み伏せる夢は見放題じゃが、やがて階上班の連中やらお前たちやらが持って行かれる先は、遠い海の向こうは向うでも、サン・フランシスコでもロス・アンジェルスでもありゃせん。」野砲の向こう勝手、車輪の脇に達した大前田が、東にひらりと身をひるがえして、動きを止めた、「南方じゃ、歌の文句で皆さんご承知の「赤道直下なんとか群島」の見当じゃ。おぉ、人事じゃない。おれもおなじよ。日本も、「乗りかかった船」で、今更こっちから止めもなるめえし、なおさら負けるわけにはいくめえ。その熱帯の島島で、新手の大軍を向うにまわして、これから先が本物の大がかりな殺し合いよ。敵も味方もトツケモナイ死人の山じゃろう。この前の大陸じゃ運よういのち拾いをして帰って来られたが、今度はおれもたいがい助からんと覚悟しとる。お前たちもそう心を決めとけ。うう、おたがいさまに、行きとうして行く南方でもなけりゃ、しとうとしてする人殺しでもないぞ。しかし行ったからにゃ、内地じゃ人一人殺した覚えもないこのおれが、敵の毛唐どもをならべといて、榴散弾・曳火信管の零距離射撃、水責め火責め、一寸試し五分刻みに、支那でやった数を上まわるぐらい、思う存分たたき殺してやる。敵と名のつく奴たちにゃどいつにもこいつにも仮借はせん。そうこうしよりゃ、いずれこっちが反対に打ち殺されて、煮つけにされた魚のごたある目を剝いて南方の赤土の上にひっくり返らにゃなるめえばってん、おれも目ん玉の黒いうちは、当たるをさいわいに、ありとあらゆる方法で、殺し散らかしてやるぞ。また国は、軍は、そうさせるつもりでおれたちを行かせるとじゃろうが?殺す相手は、日本人じゃない、毛唐じゃろうが?敵じゃろうが?殺して分捕るが目的の戦争に、余計殺して余計分捕ったほうが勝ちの戦争に、「勝ちゃ官軍、負けりゃ賊軍。」の戦争に、殺し方・分捕り方のええも悪いも上品も下品もあるもんか。そげな高等なこと言うとなら、あられもない戦争なんちゅう大事を初手から仕出かさにゃええ。いまごろそげな高等なことは、大将にも元帥にも誰にも言わせやせんぞ。」

 ゆくりなくも私の心は、「保元物語」における「梟悪頻リニ聞コエ、狼藉尤モ甚ダシキ」鎮西八郎為朝の「武士たるものは殺業なくては叶はず。それに取っては、武の道非分の者を殺さざるなり。依って為朝合戦すること二十余度、人の命を断つ事数を知らず。されども分の敵を討って非分の者を討たず。」という言葉を呼び出していた。たしか「内地じゃ人一人殺した覚えもない」にちがいなかろう大前田文七の「殺す相手は、日本人じゃない、毛唐じゃろうが?敵じゃろうが?」は、「幼少より不敵にして、兄にも所をおかず、傍若無人なりし」八郎御曹司の「分の敵を討って非分の者を討たず。」に相当する言い分ででもあるのか。

 大前田軍曹は、みたび左手で逆につかんだ帯剣の柄を前下に押し下げ、つと横に差し伸べた右手を車輪の上方輪帯に掛けて、凛然と胸を張った。

「この野砲のことが、『操典』になんと書いてあると思うか。「各種活目標ヲ殺傷シ」と書いてある。『各種活目標』ちゅうとは、馬なんかもそうじゃろうが、主に人間のことじゃ、敵国人のことじゃ。火砲の榴散弾は、たくさんの「活目標」を一纏めに吹っ飛ばすために出来とる。毒ガスの使用は国際条約で禁止されとっても、戦争がありよる以上、どこの間抜けな国がそげな条約を守るか。各国が作って持っとって、ここぞというときにゃばら蒔くちゅうことは、公然の秘密ぞ。殺人光線か電気砲か知らんが、相手方の戦争員も非戦闘員も一緒くたにして、いちどきに何万人も何十万人も皆殺しにしてしまうごたぁる新兵器でも早う拵えて、早う使うたほうの国が勝とうちゅう戦争に、殺し方のよし悪しを詮議しとる必要はない。なにがなんでも、『各種活目標ヲ殺傷シ」の一本槍で進むまでよ。」

 それで大前田の長広舌も、ついに終わったとみえた。片手に火砲の車輪をつかみ片手に帯剣の鞘を逆立てた勇壮な姿勢のままで、大前田は、両唇をしっかり結んだ。また静寂がわれわれを訪れた。

 大前田演説の全体は、多くの鮮烈な印象を私に刻み込んだが、この静寂の間、私は、ほかのことを考えなかった。日に照る三八式野砲を片えにした大前田の(いかにも「歴戦の勇士」という評判にふさわしい)屈強な立ち姿を眺めながら、私は、これも「保元物語」の為朝初登場場面を頭の奥で暗誦していた。そこは、「保元物語」の中で、私の好きな箇所の一つである。

 為朝は七尺許りなる男の、目角二つ切れたるが、紺地に色色の糸を以て、獅子丸を縫ったる直垂に、八竜といふ鎧を似せて、白き唐綾を以て縅したる大荒目の鎧、同じき獅子の金物打ったるを著る儘に、三尺五寸の太刀に熊の皮の尻鞘入れ、五人張の弓、長さ七尺五寸にて釻打ったるに、三十六差したる黒羽の矢負ひ、兜をば郎等に持たせて歩み出たる体、樊噲も斯くやと覚えてゆゆしかりき。謀は張良にも劣らざれば、堅き陣を破る事、呉子孫子が難しとする処を得、弓は養由をも恥ぢざれば、天を翔る鳥、地を走る獣、恐れずといふ事なし。上皇を始め進らせて、あらゆる人人、音に聞ゆる為朝見んとて挙り給ふ。

2022年2月11日金曜日

20220211 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.243-246より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.243-246より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

独墺合併が当時のヨーロッパを聳動させたということはいうまでもない。しかし、かつてはその実現を阻止するためには武力干渉を辞しない決意を示したイタリアは、今は終始傍観の態度を持したのであった。イタリアは当時すでにドイツへ著しく接近するにいたっていた上に、対アビシニア戦争のあとをうけてその主たる関心をアビシニアとイタリア本国とを結ぶ連絡路としての地中海へ注ぐにいたっており。しかも、この地中海に関してもまたイギリス・フランスに対抗する関係上ドイツの支持を将来にわたって必要と考えていた、オーストリアの独立保全に対するイタリアの関心は、こうして、もはや著しく冷却するにいたっていた。独墺合併後、ムッソリーニは演説して、「山々の彼方の国民(オーストリア人を指すー著者)は、1934年にわれわれがなしえたことに関してわれわれの注意を喚起するという憂鬱な単純さを依然もっている。けれども、われわれは答える、あの年以来多くの水がテヴェレの、ドナウの、シュプレーの、テームズの、そしてセーヌすらもの橋の下を流れたのである。この時期の間に、イタリアは巨大な、そして血塗れの努力をしながら、われわれの未だに忘れ得ないあの制裁がイタリアの上に課せられるのを経験したのである」と述べた。彼はこのような言葉でオーストリア問題に対するイタリアの態度変化を説明したのであった。他方、イギリスおよびフランスは独墺合併についてドイツのとった手段に対して抗議しながらも、オーストリアの事態に対して戦争を賭して干渉する意志は全くなく、傍観的態度を持したのであった。しかし、このような中でソ連邦はドイツが独墺合併によって東南ヨーロッパへ膨張したのに対して警戒の念をいよいよ深くし、ドイツの今後の侵略を防止すべき方法について四国会議をひらくことをイギリスに提議したが、イギリスはこれを拒否したのであった。チェンバレン首相は議会においてソ連邦のこの提案について述べて、それはヨーロッパが二つのブロックに分裂している現状をさらに悪化させてイギリスを必然的に戦争へ導くものであるとなし、宥和政策の立場を依然堅持する旨を明らかにしたのであった。
 しかし、独墺合併がヨーロッパの政治地図を変えたことの意味は、きわめて大であった。昔から「東南ヨーロッパへの門」と考えられていたウィーンをその掌中に収めることにより、ドイツ軍はハンガリー平野の端を抑え、バルカン半島の入口に立つにいたったのである。また、独伊両国が今や遂に国境を相接するにいたった結果として、フランスが小協商諸国およびポーランドに軍事的援助を提供することは全く困難となった。けれども、当面の最も重大な結果は、チェコスロバキアの版図の約半ばがドイツの領土によって包囲された形となり、しかも、その部分の中にはドイツ人を主要人口とするズデーテン地方が含まれていたことである。そこで、ドイツの膨張計画の次の対象はチェコスロバキアであろうということが、いち早く噂されるにいたった。そして、現に独墺合併の直後からヘンライン(K. Henlein)を党首としたズデーテン・ドイツ党(Die Sudetendeutsche partei)の運動を中心としてズデーテン地方の事態は早くも著しい不穏を呈することになった。このズデーテン・ドイツ党はその創立以来ドイツ外務省から資金的援助を仰ぎ、ドイツ政府の指令にもとづいてその運動を行ってきたのであったが、同党は、独墺合併の翌月にはズデーテン地方に関して高度の自治を要求するにいたった。そして、この前後を通じて同党はこのズデーテン地方のドイツ人とチェコ人との間の衝突を極力挑発することを試み、それによってズデーテン問題を同地方の被抑圧少数民族の問題として世界に強く印象づけることを努めたのである。このような中で、チェコスロバキア政府は同党に対して譲歩的態度をもって折衝し、極力交渉の妥結をはかったのであるが、ドイツは同党を操って解決を常に回避する方針をとらせて事態を紛糾させ、ドイツがチェコスロバキアへ干渉する口実をつくり出すことを企てたのである。そして、遂にヒットラーはズデーテン地方のドイツ人をその迫害の渦中から救い出すためには実力行使をも辞さない態度を示すにいたった(9月)ここに及んで、ヨーロッパ国際政治はズデーテン問題を中心として正に重大段階に到達することになった。
 さて、当時の険悪化した国際情勢の下において、一たびもしドイツとチェコスロバキアとの間に戦火が閃くにいたった場合、その戦争がいかなる規模のものへ拡大するかは到底予測を許さなかった。このような情勢を前にチェンバレンはヒットラーと会談し、事態を平和的に収拾することを企てた。しかし、その間においてヒットラーはベルリンにおけるその演説において述べて、現下の事態はパリ平和会議がその標榜した民族主義の原則を適用しなかったことに由来するとなし、チェコスロバキア政府が国内少数民族に対して無慈悲な抑圧を加えてきたことを述べて、これを痛撃し、またチェコスロバキア、ソ連邦間の相互援助条約に論及して、ボリシェヴィズムはチェコスロバキアを中央ヨーロッパへの進出の拠点として利用していると強調し、しかも、述べて、ズデーテン問題が解決をみた暁にはドイツはもはやヨーロッパに関して何ら領土的要求をもたない旨を断言したのであった。

20220210 株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著「軍閥興亡史」第一巻 日露戦争に勝つまで pp.21-23より抜粋

株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769829795
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769829799

 いわゆる神風が、十万の蒙古軍を博多湾頭に沈めてから、ほとんど六世紀におよぶ長い間、日本は幸いにも外国の侵略から無事であった。渺たる遠海の島国が、西欧列強の視界外に遁れていた形である。

 五百八十何年目かに、外国の砲弾が日本の国内で炸裂した。文久三年(1863年)の薩英戦争がそれであった。生麦事件(島津久光の行列前を馬で横切った英国人を斬る)に対する英国の謝罪および賠償の要求を、薩摩藩が嘲って一蹴し、徳川幕府は無力で相手にならないので、英国は支那艦隊を派して直接談判に赴いたのである。ところが、薩摩の方では、むしろ「待っていました」という肚がまえであった。談判には応じるが「屈するなかれ」という前提で発足した。主君行列の道路先を横切るごとき無礼者は、即座に誅するのが藩の法である。謝罪は先ず横切った側が先にせよ、しかる後に、葬式の費用その他が欲しいと言うなら話に乗ろうーという勢いである。これでは話にならない。

 談判の内容は省略するが、二日間で話がまとまらず、期間が尽きて、実力行使の段階に入った。が、実を言えば、薩摩の法では、初めから戦争になることを予期して、戦備をすまして待ちかまえていたのだ。

 鹿児島湾頭に現れたイギリス艦隊は、旗艦ジューリアスをはじめ、レインボー、アーガス、ハボック、パーサス、ピアール、コクエットの七隻であった。薩摩もつとに海軍を備えてはいた。この藩は国防の先覚者で、四隻の軍艦を持っていたが、(永平、白鳳、青鷹、天祐ー三百トン級)、それらは商船兼用の蒸気船と定義する内容のものであった。文久三年、旗艦永平丸が高風浪のために明石灘で沈没したので、残る三隻だけで英艦隊と対抗する立場にあった。

 「石が流れて木の葉が沈む」という浮世節の俗謡の起こりは「艦が沈んで大砲が浮かぶ」という流行唄であった。そうしてその順逆の皮肉は、薩摩の軍艦が行方不明となり、海上を捜索中に、大砲が漂流しているのを発見して、艦の沈没を確認したという実話から由来したものだ。薩摩の軍艦には、要部に鉄が使ってあったから沈んだが、大砲の方は木製であったから浮いて流れていたというわけだ。

 さすが剛気の島津勢も、弱艦三隻では太刀打ち出来ぬと考えて、もっぱら砲台に拠る作戦であった。天保山を中心に十一個の砲台を連ね、そこにオランダ式山砲八十二門が装備され、それで英艦隊を瞰射する手はずである。もし戦果不充分な場合には、多数の小舟を漕いで敵艦に横着け、乗り移って日本刀を揮い、乗員を皆殺しにして軍艦自体を分捕ろうという作戦計画であった。かつて河野通有らが、蒙古の軍艦に踊り込み、日本刀を揮って敵兵を薙ぎ倒した武勇伝を、五百八十年後の海戦において再演しようというのだ。戦術思想は少しも進歩していなかった。

 児戯笑うべし、とは今日から見た放言に過ぎない。当時の日本の常識はこの程度であり、薩摩のごときは最も進んでいた藩であった(慶応元年に藩費を以て二人の海軍研究生を西欧に派遣したように)。しかしながら鎖国幾百年、西欧の文明と実力についてはほとんど判っていなかったと言っていい。

 くわうるに、薩摩は攘夷の旗頭である。攘夷とは攘夷撃攘、すなわち西洋人の立入禁止の謂である。薩摩はそのリーダーとして三百余藩の中に重きをなしていたのだから、薩英戦争は、実は願ってもない好機会。この一戦において、武力の上で夷敵撃攘の腕前を見せるならば、言行一致満点、全日本は自らこの主義に掃一するであろう。藩士が振い起ったのは当然であった。

 文久三年七月二日、談判は不調に終わった。同時に英艦隊(司令官キューバ中将)は、ただちに薩の三艦を捕獲して錨地に曳航し去った。その前日から台風X号が九州南端を北上中で、湾内は激浪岩を噛み、薩の三艦はすでに行動の自由を失っていたのだ。これを見て、天保山砲台に開戦の火箭が上がり、各砲台一斉に射撃を開始し、英艦ただちに応じて、暴風中の戦闘が始まった。戦記に、「わが勇士中には真っ裸となり、下帯に大刀をさして夷敵撃滅を叫ぶものあり」と書いてあるような不屈の闘魂も、英艦主砲の斉射にたいしては、おそらく、空拳を以て機銃に立ち向かうの類であったろう。

 

2022年2月9日水曜日

20220209 今後1800記事到達までの当ブログの進め方について・・

先月末、目標としていた1700記事に到達したことから、しばらく、記事作成を休止していましたが、その間、特に変わったこともなく、あるいは、このまま、しばらく記事作成を休んでいれば、何かしら感じることも出来たかもしれませんが、本日に至り、半ばこれまでの惰性によるものであるかもしれませんが、記事作成をはじめた次第です・・。

そういえば、この10日あまりの記事作成休止期間では、それ以前と比べ、よく睡眠がとれたと思われましたが、同時に、この睡眠によって、いくらか体調が良くなるかと思いきや、そうでもなく、むしろ、これまで以上に睡眠時間を欲する自分に少し驚いています。

そして、自分の内面にて、そうした欲求の発見をしますと、どうしたものか、それを受容することが何だか怖くなり、ここに来て、それ以前の惰性が残っているうちに、ブログを再開しようと、前述のように記事作成をはじめたわけですが、ここに至るまでには、特に痛痒・苦痛をおぼえることなく作成を続けることが出来ています。

しばらくの休止期間後をはさんだ、久しぶりの記事作成であっても、この程度まで作成出来ていることは、ここに至っては、特に驚くに価すべきことではなく、それよりも、この作成している記事の主題が速やかに決まらないかと、願っています。

そう、当記事は、ここに至るまで主題が決まっておらず、取り急ぎ、これまでの流れとも若干関連があると思しき、当ブログの今後の進め方について述べて、先を進めて行こうと思い立ちました。

冒頭にて述べましたが、先月末、目標としていた1700記事への到達後、さらに数記事の新規投稿を行ったことから、これまでの精確な総投稿記事数は1703となっています。そうしますと、次なる目標として定めた1800記事まで、新規にて97記事の投稿を要することになりますが、これは今後、毎日1記事の投稿で、概ね3カ月ほどにて達成が可能ということになります。

また他方で、来る6月22日には、当ブログをはじめてから丸7年ともなりますので、現在(2/9)から4カ月、もしくは130日ほどの間に97記事の投稿が出来れば、丁度、丸7年を迎えるのと同時に1800記事への到達となります。

この目算によると、今後4カ月としばらくの間は、5日のうち4日は新規にて記事投稿をする必要性があることになりますが、これは現在の私にとっては、少し大変であるように思われます・・。

しかし、どうにかそれを出来るようにするためには、ここから1800記事までは、書籍からの引用記事を主とすることにより、どうにか進めることが出来るように思われ、また引用記事を作成することにより、自分の記事作成にも弾みがつくのではないかとも思われます。

書籍からの引用記事は、そればかりにて行っていますと、自分の文章をスムーズに作成することが困難になってくると思われますが、現在のような、未だ休息が足りないと感じつつも、記事作成を継続する必要があるという状況においては、それなりに適切な選択肢であり、また同時に、この1800記事に至るまでの期間に、これまでに作成した記事を適宜見直し、また必要があると思われた場合には、加筆修正を行うというのも悪くはないように思われました。

そこから、今後しばらくの間、1800記事への到達までは、上述のやり方にて記事作成を進め、また、既投稿記事の手直しなども随時行っていくこととします。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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